All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 81 - Chapter 90

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第82話 帰る場所

屋敷の扉を開けた瞬間、玲司は花の香りに包まれた。 普段は静まり返っているはずの九条家の屋敷が、その日だけはどこか柔らかな空気をまとっている。外の空気をまとって帰ってきたはずなのに、胸いっぱいに広がった甘やかな香りに、思わず足が止まった。 玄関ホールの中央には、存在感を主張するように置かれた大きな花束があり、その脇には、上質な革張りの宝飾品の箱がいくつも重ねられていた。白い百合、淡いピンクの薔薇、季節の小花が幾重にも重なり、まるで祝福のように空間を彩っている。 自分では買いに行けなかったため、秘書に「綾乃に花と宝石をいくつか送ってくれ」そう頼んだのだった。 仕事の合間に簡潔に伝えただけだったが、秘書はいつも以上に気を利かせたらしい。 “いくつか”の解釈が、どうやら豪快すぎたようだ。「……やりすぎだろう………」 思わず漏れた独り言は、苦笑まじりだった。 そう言いながら、彼は照れたように綾乃を見る。視線を合わせた瞬間、胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。 失いかけて、初めてわかった。 当たり前のようにそこにいる存在が、どれほど自分の心を支えていたのか。 この屋敷は広い。 だが、綾乃がいなければ、ただの箱にすぎない。 今では玲司も、自然に綾乃を抱き寄せ、「綾乃、愛している」 そう言えるようになった。 不器用で、少し遅すぎた言葉。 これまで、何度も飲み込んできた感情だった。それでも今は、言葉にしなければならないと思えた。言葉にして、伝えて、確かめなければ、もう二度と同じ過ちは繰り返したくなかった。 それでも綾乃は、静かに微笑んだ。「玲司、私も愛してる」 その声は穏やかで、けれど確かだった。 初めて会った時、お互いに嫌味のような言葉しか出てこなかった。 探り合い、距離を測り、心を見せることを避けていた日々。視線を交わしながらも、決して踏み込まなかった時間。 だが、今では、綾乃も、玲司の深い愛を知ってしまった。 この冷静で、会社のことしか頭になさそうな男は、結果的に、会社も綾乃も守った。 祖父や祖母のように、どちらか一つを、選ばなければならない家柄に生れながら、それでも、玲司は、どちらも選ばなかった。というよりも、どちらも守って見せたのだ。これほど頼りになる男がいるだろうか。 綾乃は玲司の照れた顔を見て、玲司の頬に軽くキ
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第83話

夜。玲司と綾乃は、同じ寝室で、同じ夜を迎えるようになった。それは特別な宣言をしたわけでも、改めて話し合ったわけでもない。けれど、ごく自然に、気づけばそうなっていた。どちらからともなく足が向き、同じ部屋で灯りを落とし、同じ時間に横になる。扉を隔てて眠る理由が、もうどこにも見当たらなかったのだ。広い寝室に並ぶ二人の影は、以前よりもずっと近い。触れることに、ためらいはなくなっていく。以前は無意識に距離を取っていた指先も、今では迷いなく重なり合う。小さな体温の重なりが、確かな安心へと変わっていた。玲司は毎晩、綾乃を抱いた。確かめるように。失わないように。それは欲望というより、祈りに近い行為だった。互いの存在を、夜の静けさの中で何度も確かめ合うように。胸に耳を寄せれば鼓動が聞こえ、指先に触れればぬくもりがある。その当たり前を、二人はもう二度と疑わないと誓うかのようだった。綾乃も、もう疑わなかった。言葉ではなく、態度で示される玲司の想いを、今度こそ信じられた。彼の腕の中で、ようやく“九条夫人”ではなく、一人の女として眠れるようになった。肩書きも責任も外し、ただ安心して目を閉じられる場所が、そこにはあった。屋敷の外では多くの視線と役割が待っている。それでも、この部屋の中だけは違う。ここではただ、玲司と綾乃でいられた。戦いは終わったのだ。もう玲司を奪われることも、自分を誘惑する者もいない。心をすり減らす日々は、確かに過去になっていた。世間はまだ、『九条夫妻の不仲説』を疑っているようだった。インターネットで流れた記事は、デジタルタトゥーだ。消えることはない。しかし、玲司も綾乃も、そのことに対処するつもりはなかった。真実は、記事の中ではなく、二人の時間の中にあると知っていたからだ。静かな夜に交わす言葉や、何気ない笑顔こそが、何より確かな証だった。やがて綾乃の誕生日がやってくる。玲司は綾乃の誕生日パーティーを、盛大に開こうと考えていた。そこへは財界人や芸能人など、たくさんの人が現れる。そこで夫婦仲が良いことを知れば、その方が、インターネットの記事の火消しをするよりも、簡単に噂を払拭できる。否定するより、示すほうが早い。玲司らしい、静かで確実な選択だった。綾乃の誕生日は、もう来週に迫っていた。それは、過去を終わらせ、未来を示すための夜
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第84話 証明

綾乃の誕生日パーティーは、噂になるほど盛大だった。会場に選ばれたのは、都内屈指の格式を誇るホテルの大宴会場。赤い絨毯が長く敷き詰められ、壁面には繊細な装飾が施され、天井から吊るされた幾重ものシャンデリアが、まるで星空のように光を放っている。生花で彩られたアーチや、専属の楽団が奏でる優雅な弦楽の音色が、空間全体を祝福の雰囲気で包み込んでいた。財界、政界、芸能界――名だたる顔ぶれが一堂に会し、その場にいるだけで時代の中心に立っているかのような錯覚を覚えるほどだった。誰もが思う。――この愛され方を見て、疑う余地はない。開宴の合図とともに、視線が一斉に入口へ集まった。ゆっくりと開かれる扉。九条玲司の腕に自分の腕を預け、綾乃が現れた。誰よりも豪華なドレスを身にまとい、いったい、いくらするのかわからない宝飾品を身に着け、満面の笑顔で現れた、九条夫妻。ドレスは光を受けるたびに繊細に色を変え、首元の宝石は静かな炎のようにきらめいている。その隣で、玲司は一切の隙のないタキシード姿で立ち、綾乃を支える腕には一片の迷いもなかった。その姿は、噂や憶測を寄せつけないほど、堂々としていた。過去の不正、不倫の噂は、自然と消えていった。否定の言葉も、弁明も必要なかった。真実よりも、現実がすべてを証明していたのだ。玲司の視線は、常に綾乃に向けられている。人に囲まれても、乾杯のグラスを掲げても、彼の指先はさりげなく綾乃の腰を支え、歩幅を合わせ、ヒールの高さに気を配る。その仕草は習慣ではなく、意識して守ろうとする強い意志そのものだった。周りに人が集まり出す。グラスを手にした経営者たちが、次々と声をかけてくる。「九条さん。今日の奥様は本当に美しい。羨ましいかぎりですよ」「不仲だなんて、誰が言い出したんだか。とても仲睦まじくて、見ていてこちらも幸せな気分になりますよ」そんな言葉が、途切れることなく飛び交っていた。半分は社交辞令だろうが、玲司と綾乃は素直に受け取り、二人で顔を見合わせて笑い合った。その目は自然に合い、指先が触れ、微笑みが重なる。その仕草ひとつひとつが、作られたものではないことは、誰の目にも明らかだった。綾乃は、ふと人目を気にするように一歩近づき、「今が、人生で一番幸せかも」と、玲司の耳元に顔を寄せて言った。玲司の瞳が、わずかに細められる。そこに
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エピローグ

体調の変化に気づいたのは、綾乃だった。朝の目覚めが違う。いつもなら平然としていられる匂いに、胸の奥がざわつく。疲れやすさも、わずかな吐き気も、抗えないほどの眠気も、最初は気のせいだと流そうとした。だが、心のどこかで、確信めいたものが芽生えていた。医師の言葉を聞いた瞬間、息を呑む。診察室の静けさの中で、はっきりと告げられた。「……おめでとうございます」玲司は、言葉を失ったまま、ただ彼女を抱きしめた。何かを言おうとして、喉が詰まる。これまで、どんな局面でも冷静に判断してきた男が、その瞬間だけは思考を手放していた。守るものが、また一つ増えた。それだけで、世界の見え方が変わった。月日は流れ、屋敷に新しい命の気配が満ちていく。生まれたのは、男女の双子だった。泣き声が重なり、屋敷に響く。その音は、かつて争いと不安に満ちていたこの場所を、まるで洗い流すかのようだった。鷹宮正隆は、珍しく声を上げて笑った。年齢も立場も忘れたような、屈託のない笑顔だった。「男の子は――叶翔(かなと)、女の子は――心春(こはる)だ」力強く、誇らしげに。正隆は双子を抱き上げ、満面の笑みで言う。「叶翔は、鷹宮の跡取りだ。心春は、パパと同じくらい強い男を婿にもらって、九条を継ぐんだぞ」未来を託すその声には、揺るぎない確信があった。その姿を、玲司と綾乃は静かに見守っていた。争いの果てに、ようやく辿り着いた光景だった。失うことの恐怖を知り、選び続けた末に、ようやく手にした平穏。子どもたちの笑い声の陰で、玲司と綾乃は、そっと口づけを交わす。言葉はいらなかった。失ったものも多い。だが、選び直した未来が、ここにある。すべては終わった。だが、物語は続いていく。――愛する者と共に。
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第86話  ちょっと先の話

 二十数年後――。 九条 叶翔(くじょう かなと)は、条ホールディングスのCOOになっていた。 COO。 CEOが立てた経営戦略に基づき、日々の業務運営を統括する実務の最高責任者。 その肩書きは若すぎる、と何度も言われた。 だが彼は、結果で黙らせてきた。 父、九条玲司は今もCEOとして頂点に立つ。 その父から、出発前夜に言われた言葉がある。 ――「絶対にモノにしてこい」 短く、それだけだった。 けれどその一言の重さを、叶翔は知っている。  今回の舞台はヨーロッパ。 宇宙資源探査や衛星通信関連のスタートアップが集まる、世界有数の宇宙ビジネス国家。 ロケットの製造から打ち上げまでを含む国家規模のプロジェクト。 そのうち、ロケットのフェアリング製造を担うのが一ノ瀬重工。 そして、その構造部品分野に九条ホールディングスが参入したい――というのが、今回の交渉だった。 開発期間は数年から十年以上。 予算は数百億から数千億円規模。 機械工学、電子工学、物理学、プログラミング。 そして、打ち上げにこぎつければ―― 一回百億から二百億。 売上は、数百億から数千億円。 父が「モノにしてこい」と言うだけの、大仕事だった。  だが、航空宇宙分野については、叶翔は素人同然だ。 だからこそ。 空港のラウンジで、ノートPCを開きながら呟いた。「……頼りにしてるぞ、瑛士」 向かいに座る一ノ瀬瑛士は、無造作にコーヒーをかき混ぜながら肩をすくめる。「今さら? お前、宇宙工学の資料、三日で読破してただろ」「読んだだけだ。理解したとは言ってない」「まあ、そこは俺がいる」 軽い口調。 だが、その言葉は事実だった。 一ノ瀬瑛士(いちのせえいじ)。 一ノ瀬重工グループ御曹司。 インフラ・宇宙・防衛を握る理系財閥の天才肌。 財閥の跡取りらしくない自由人。 空気を読まないが、本質は一番見抜いている男。 彼は会議中でも平然と言う。「それ、潰れるよ。三年後に」 空気が凍る。 だが続ける。「あ、でも九条なら立て直せるか」 爆弾を投げるタイプ。 だが、その爆弾はいつも核心を突いている。 「お前ら、もう仕事モードか」 低く落ち着いた声が割り込んだ。 南條颯真(なんじょうそうま)が現れる。 南條財閥、次期当主。 あの南條沙
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第87話

四人並んで、搭乗口へ向かう。 スーツケースを引く音が、静かなラウンジの床に規則正しく響く。周囲の視線が自然と集まるのは、彼らが放つ空気のせいか、それとも“名前”のせいか。 財閥御曹司四人組。 世間が見れば、絵に描いたような勝者たち。 生まれながらにして約束された地位と、揺るがぬ後ろ盾。 何一つ不自由など知らない男たち。 だが叶翔は知っている。 この世界は、少しの綻びで崩れる。 父の世代が経験した裏切りも、失墜も、再建も。 盤石に見える財閥も、一歩踏み外せば音を立てて傾く。「今回の国家プロジェクト、向こうはお前を試してくるぞ」 颯真が低く言う。その横顔は、いつもの冷静さを保っている。「わかってる」 叶翔は短く答える。「父親の看板で来たのか、自分で取りに来たのか」 その言葉に、叶翔は一瞬だけ笑う。「看板で来たら、こんな面倒な案件任されないだろ」 玲司は甘くない。 息子だからこそ、失敗は許されない。 成功すれば当然、失敗すれば実力不足――それが九条のやり方だ。 瑛士が立ち上がる。「とりあえず、技術的には問題ない。フェアリングはこっちで完璧にやる。構造部品の軽量化と耐熱素材の調達が鍵だな」「九条は資金と供給網で入る」 叶翔が即答する。「打ち上げまで行けば、百億から二百億。売上は数百億から数千億」 悠臣が穏やかに付け足す。「そして、失敗すれば――信用は一瞬で消える」 静かな指摘。 事実を柔らかく包んで差し出すのが、悠臣のやり方だ。 それでも、叶翔は迷わない。「だから取る」 三人が視線を向ける。「宇宙資源も、衛星通信も、次のインフラだ。九条が入らない理由はない」 情熱型。 父とは違う。 理ではなく、未来を掴みに行く。 搭乗案内が流れる。 ヨーロッパへ。 世界有数の宇宙ビジネス国家へ。 飛行機の窓越しに、夜景が遠ざかる。都市の光が小さくなり、やがて闇に溶けていく。 叶翔は、胸ポケットに忍ばせた父の言葉を思い出す。 ――絶対にモノにしてこい。 その意味は、利益だけではない。 次の時代を、掴め。 そういうことだ。 だが彼はまだ知らない。 このヨーロッパで。 宇宙でも、財閥でもない。 もっと個人的で、もっと抗えないものに出会うことを。 恋は、交渉よりも厄介だ。 そして、宇宙よりも予測不
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第88話

 二十四年前。 九条家に、ふたりの産声が同時に響いた。 玲司と綾乃の間に生まれた双子――叶翔と心春。 九条と鷹宮。二つの名家の血を引く子どもたちの誕生は、財界にとっても大きなニュースだった。 その頃、まだ健在だった鷹宮の当主、綾乃の実父・正隆は、揺りかごを覗き込みながら豪快に笑った。「叶翔を鷹宮の跡取り、心春には立派な男と結婚させて九条を継がせる」 冗談とも本気ともつかぬ口調だったが、その目は本気だった。 九条玲司はそのとき、グラスを傾けながら笑って受け流した。 だが内心では、はっきりと線を引いていた。 やはり自分の実子、しかも長男が、妻にもらった綾乃の実家を継ぐのは許せない。 そして叶翔が二十歳になった年。 玲司は公の場で宣言する。 ――九条家は、叶翔に継がせる。 それは事実上の確定だった。 対する正隆も、老いてなお鋭い眼差しで言い放つ。「あのときはそう言ったが、私には心春が居る」 そして重ねた。「心春が結婚したら、その男に鷹宮家を譲る」 互いに一歩も引かない宣言。 双子は、知らぬ間に二つの家の未来を背負わされていた。 その一年後。 心春が恋をした相手が…… なんと、神崎家の和真だった。 歳の差は三十三歳。 神崎和真。 かつて綾乃を愛し、忘れられずに独身を通してきた男。 玲司も綾乃も、そんな和真の胸の内など知らない。 ましてや、かつて南條沙耶と共に綾乃を嵌めようとした過去があることもあり、社交の場では挨拶を交わす程度の距離だった。 それが――三年前。 心春が満面の笑みで言ったのだ。「今日、彼を紹介するね」 そして九条家に現れたのは、神崎和真。 玲司も綾乃も呆然とし、しばらくは口が利けなかった。 時が止まったかのような沈黙。 我に返った玲司は、顔を真っ赤にして叫ぶ。「絶対に許さん!!」 和真を追い返し、心春を半ば軟禁状態にした。 だが、九条の血は伊達ではない。 心春は負けなかった。 玲司の目を盗み、自室二階の窓を開ける。 雨どいを伝い、躊躇なく階下へ降り立つ。 その姿は、若き日の綾乃そのものだった。 もぬけの殻となった部屋を前に、玲司は立ち尽くす。 その背に、綾乃がそっと声を掛けた。「玲司……さすがはあなたの娘だわ。私たちが反対したところで、聞く耳は持ってないわね」 玲司は振
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第89話

 ヨーロッパに到着した叶翔たち御曹司一行は、空港に降り立った瞬間から空気の違いを感じていた。 石畳の街並み。歴史ある建造物の合間に、最先端の宇宙関連企業のロゴが並ぶ近未来的なビル群。 伝統と革新が混在するこの国は、まさに“宇宙ビジネス国家”の名にふさわしかった。 だが観光気分に浸っている余裕はない。 会議が始まるまでの二日間。 叶翔と一ノ瀬英士は、ホテルのスイートルームを簡易オフィスに変え、プレゼン資料の最終確認に追われていた。 各国の政府関係者、巨大ファンド、宇宙関連企業のトップが集う場だ。 失敗は許されない。 そんな中でも、このロケットプロジェクトには何ら関係のない、南條颯真と神楽坂悠臣は、ヨーロッパの街へと散策に出かけていた。 特に悠臣の目当ては、国内に待たせてある、最愛の女性へのプレゼントを探すことだった。 高級ブティックが並ぶ通りで、悠臣は足を止める。 ショーウィンドウには、繊細なフレグランスボトルや、光を受けて輝くアクセサリーが整然と並んでいる。 颯真は腕を組み、半歩後ろからその様子を見ていた。 フレグランスやアクセサリーを飽きもせずに吟味している悠臣に、半ば呆れ気味に付き合っている。「お前、ホントに飽きないな」 あきれ顔の颯真が言う。 悠臣は、ダイヤモンドの嵌った指輪を手に取りながら、颯真を見た。「キミたち、二十四にもなって、アクセサリーの一つも送りたい相手がいないなんて、そっちの方がどうかと思うけど」 その声音は穏やかだが、どこか挑発的だ。 悠臣の哀れむような顔に、蒼真はムッとして言い返した。「俺にだって………」「居るの?」 悠臣の鋭い突っ込みに、蒼真はグッと詰まる。 数秒の沈黙。「まぁ、そのうちにな」 そう言い、頭を掻いたのだった。 悠臣はくすりと笑い、指輪をケースに戻す。 だがその瞳は本気だ。贈る相手を思い浮かべているときの男の目をしていた。  その頃。 ホテルの一室では、叶翔と一ノ瀬英士がプレゼンの最後のあいさつ文を考えていた。 机の上には資料の山。 宇宙機構との提携案、収支予測、技術的優位性、リスク分散案。 だが最後の締めの一言が決まらない。 英士は真剣に文章を考えている叶翔を見ていたが、ふと声をかけた。「叶翔。お前ってさ、言うことは正しいんだけど、下手なんだよな」 唐
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第90話

 翌日。 各国の要人や企業関係者が集う巨大なコンベンションホールは、朝から張り詰めた空気に包まれていた。 壁面には各企業のロゴが並び、中央のステージには洗練された照明が落とされている。 その壇上に立っているのは、一ノ瀬英士だった。 その日のプレゼンテーションを行う、一ノ瀬英士の口調は、見事なものだった。 流暢な英語。無駄のないスライド操作。 聞き手の視線を的確に捉えながら、言葉を積み上げていく。 宇宙機構との提携案。 収支予測。 技術的優位性。 リスク分散案。 どれもが簡潔でありながら、説得力に満ちていた。 単なる技術説明ではない。 このプロジェクトが持つ未来、その可能性までもを描き出すようなプレゼンだった。 英士の発表がひと段落すると、各テーブルから、自然な拍手が起こった。 控えめだが確かな評価。 場の空気が一段、こちらに傾いたのを誰もが感じていた。 会場の後方では、南條蒼真と神楽坂悠臣も、その光景を見ていた。 ふたりは遠くの方で拍手を送っている。 英士は壇上で一度呼吸を整えると、客席の中にいる叶翔を見つける。 視線が交差する。 「お前の番だぞ」と言う代わりに、英士は叶翔に頷いて見せる。 短く、それだけ。 だが十分だった。 叶翔も頷き、ゆっくりと席を立つ。 そして、壇上へと上がって行った。  その頃。 衛星中継にてこの会議を見守っていた、九条玲司と綾乃は、自宅の書斎のソファで、並んでコーヒーを飲んでいた。 重厚な書棚に囲まれた空間。 大型モニターには、リアルタイムで会場の様子が映し出されている。 英士の発表が終わり、画面が切り替わる。 叶翔が壇上へ向かう姿が映ると、綾乃は身を乗り出した。「あ、叶翔の番よ!」 その声は、どこか嬉しそうだった。 玲司は自分の息子を心配はしていたが、表面上は平静を装っている。 コーヒーのカップを持ったまま、画面をチラッと見ただけだった。 だが、その指先はわずかに力が入っている。  一方、叶翔は……。 壇上に上がると、足取りを止めず、そのままステージの真ん中まで進む。 無数の視線が一斉に向けられる。 その重圧を、正面から受け止める。 客席の方へ体を向けると、若者らしく、丁寧なのか緊張しているのかわからぬしぐさでお辞儀をした。 一瞬、静寂が落ちる。 
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第91話

「ゴホッゴホッ!!」 静まり返った書斎に、突然むせる音が響いた。 玲司が飲みかけたコーヒーにむせたのだ。 カップを持つ手がわずかに震え、テーブルに数滴のコーヒーがこぼれる。 綾乃はその様子を見て、くすりと笑いながら玲司の背中をさすった。 そして一言。「やっぱり、玲司の息子だけのことはあるわ」 どこか誇らしげで、そして楽しんでいるような声音。 玲司はむせながらも、綾乃の顔を睨みつけた。 だがその視線には、本気の怒りよりも、どこか諦めにも似た色が混じっている。 画面の中では、壇上で堂々と笑顔を見せる叶翔の姿。(あいつは……) 言葉にならない思いを、玲司は飲み込んだ。  一方会場では。 壇上の横、照明の影に立つ一ノ瀬英士が、呆れたような顔で叶翔を見ていた。「か、叶……と……」 何か言おうとして、言葉が続かない。 それほどまでに、予想外のスピーチだった。 遠くの席では南條颯真もあきれ顔で見ている。 腕を組み、片眉をわずかに上げて、信じられないものを見るような視線。 神楽坂悠臣だけが、手を叩いて笑いながら、時々叶翔を指さし、大爆笑しているのだった。 周囲の空気とは明らかに違う反応。 だがその笑いは、どこか楽しんでいるようでもあった。  国際会議が終わり、その夜。 会場は姿を変え、すべての参加者を招いた豪華なパーティーが行われていた。 高い天井にシャンデリアが輝き、グラスの触れ合う音と多言語の会話が入り混じる。 各国のエリートたちが、笑顔の裏で次の一手を探り合う空間。 叶翔たち四人も、パーティー会場の真ん中で、他の参加者たちと、今日のスピーチについて談笑していた。「お前が言い切って満足そうにお辞儀したとき、俺、吐きそうになったわ」 一ノ瀬瑛士が叶翔を睨んで言った。 その口調は辛辣だが、どこか呆れを含んでいる。 南條颯真も、大きく頷きながら言う。「お前の親父も中継で見てたんじゃないのか?帰ったらまた説教食らうぞ」 そう言い、呆れたように会場の中を見回していた。 周囲の人間関係や配置を、無意識に把握しているのだ。 神楽坂悠臣だけは爆笑し、「叶翔らしくて笑ったよ」 そう言って、叶翔の肩をバンバン叩く。 叶翔は苦虫をかみつぶしたような顔をして苦笑すると、颯真と同じように会場を見回した。 視線は自然と、他
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