進学校の裏手に続く坂道は、夜になると別の顔を見せる。 昼間は生徒で賑わう道も、十時を過ぎれば静まり返り、街灯の光だけが等間隔に地面を照らしていた。 ノースリーブのワンピース姿の女が、男の腕に絡みつく。「大島センセ、泊まりたかったなぁ」「無理無理。独身寮だから」「冗談だって。先生って、ほんと真面目だよね」「正直者って言え」 男……大島は苦笑して、そっと腕を外す。 筋肉質な体に、くたびれたジャージとサンダル。色気も風情もないが、妙に人を安心させる雰囲気があった。 駅前で別れ、女が改札を抜けるのを見届ける。「じゃ、また明日」「ああ」 名残惜しさはない。明日も会える関係だ。 鼻歌混じりに坂を上る。 剣道部顧問。四十歳。体力にはまだ自信がある。「夜は涼しくなったな」 そう呟いたときだった。 坂の途中の路地に、光が揺れているのが見えた。 数人の住人がスマホのライトを向け、何かを囲んでいる。「どうしました?」「あ、大島先生!」 川本だった。近所の世話好きな元公務員だ。「排水口の下から猫の声がするんだ。蓋が重くて開かなくてな」 耳を澄ますと、確かにか細い鳴き声がする。「市役所もこの時間じゃな……」 面倒だな、と一瞬思う。 だが期待の目が刺さる。「分かりました。照らしてください」 ライトが一斉に彼を照らす。「俺じゃない、排水口」 小さな笑いが起きる。 鉄の蓋は想像以上に重い。 両手をかけ、腰を落とす。「……っ、ぬおおお!」 鈍い音を立てて、わずかに浮いた。「開いた!」 歓声。 すぐに「静かに」と誰かが囁く。 暗闇に手を伸ばす。 柔らかい毛並み。震えている。「大丈夫だ。怖くない」 だが猫は奥へ奥へと逃げる。 考える時間はなかった。 腕を深く突っ込み、力任せに掴む。「うりゃあ!」「にゃーーッ!」 悲鳴と同時に、ずるりと引き上げた。 砂まみれの大きな雌猫。腹はふくらんでいる。「母猫だわ」 房江がタオルで包む。「先生がいなかったら死んでましたよ」 拍手。 大島は照れ笑いを浮かべた。「大げさですよ」 だが胸の奥に、わずかな違和感が残る。 猫の体は、妙に冷たかった。 解散し、人影が消える。 坂道は再び静寂を取り戻す。「……やっと帰れる」 その瞬間だった。 キキィィィィッ!
Last Updated : 2026-03-01 Read more