All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

診断書を一通印刷し、ウォーターフロント・コートの自宅に戻った柚葉は、一人満足げな笑みを浮かべた。これで解決ね。自分と智也の間にあった問題はこのことでなんとかなるだろう。子どもは母親だけでなく、父親を縛ることもできる。男が非情でない限りは……だが、智也はそんな男ではない。もし彼が非情な人間であれば、自分と凛の間でずっと揺れていたはずがないのだから。男に一途さなんて期待できない。ただ最後は、どちらの存在のほうが重いかを秤にかけるだけ。自分は今、このお腹に智也の子どもを宿している。これでもなお、谷口家は自分から金を取り戻そうと考えるだろうか?いいや、これからは谷口家が金も労力も惜しまず、自分と子どもを支えることになる。結局、凛は自分に及ばない。生まれも育ちも良く、智也が先に愛したのも自分だ。それに、智也との子どもだって、凛より先に宿した。このことは隠し通すのではなく、誰かに知っておいてもらってこそ力を持つ。それも、口が堅い人物に。柚葉の頭に真っ先に浮かんだ人物は、智也の長年の友人である正人だった。【正人さん、智也のことを分かってるあなたに、ちょっと聞きたいことがあるの。もしもの話なんだけど……もし私が妊娠したら、凛さんがいる智也は、私に子どもを堕ろせって言うと思う?】そして、自分の両親にもこのことは伝えよう。両親だからこそできることもある。例えば、智也に結婚を迫ること。智也からは家で大人しく待っているようにと言われていた柚葉だったが、彼の言うことなんて聞かず、帽子とサングラスとマスクを身につけると実家に向かった。柚葉の両親は、英樹や柚葉の一件で休暇を取り、まだ家に残っていたのだ。だが、実家を松田家よりも見劣りする場所だと思い滅多に戻らない柚葉が、急に現れたので両親は少し驚いた。さらに、芸能人のように顔を隠した姿を見て、両親はさらに怪訝な視線を柚葉に向ける。「どうしたの?」と百合は柚葉に駆け寄り、帽子とマスクを取った。一目見ただけでは特に問題がなさそうだったが、よく見ると耳の後ろや首、さらには手の甲や手首まで、あざだらけになっていた。「転んだのか?」隆平が尋ねる。「違う」柚葉はソファに座り、両親に向かって喉が渇いたと言った。百合が水を持ってきてくれたが、その柚葉のわがまま
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第322話

谷口社長の奥さんは谷口博士でしょ?彼女が自分から離婚を切り出さない限り、谷口社長は離婚なんてしないはず。だって、そうじゃなかったら、とっくに離婚してると思わない?不倫の結果としてできた、父親のいない子になんてなれば、世間もあまりいい顔はしない。でも、お腹の子はまだ2か月なんだから、お母さんと一緒に堕ろしに行こう。身体が回復したら、私たちの勤める大学の事務職を紹介するから。それが不満なら、まずは教務課職員から始めて、それから少しずつプロジェクトに参加して、実績を作るのもいいわね……」百合がそう話していると、柚葉は鼻で笑った。「だからお爺様にお母さんたちは駄目だって言われるんだよ。少しずつプロジェクトに参加?そんな悠長なこと言ってていつ結果が出るの?私にも二人みたいになれって?私は本来ならプロジェクトの責任者になれる人間なのに、教務課職員から始めろって言うわけ?そんなの、絶対に嫌だから」「柚葉……」百合はいたたまれない様子で問いかけた。「じゃあ、あなたと谷口社長が結婚するとしても、あなたの将来にとって何かいいことがあるの?」「智也には社会的地位も、お金もある。何より、私たちはずっとお互いを想いあってるの」柚葉は臆せず言い放つ。「今回の騒動が落ち着いたら、また私を研究の道に戻してくれるって、お爺様が言ってた。そうなれば、私と智也はお似合いの夫婦になれるんだから」百合は自身の親である英樹が、コネで柚葉を引き立ててくれるのだと悟り、何かを言おうとしたが、結局はため息をついただけだった。それに、隆平にとっても英樹は義理の父であり、科学界の権威でもある。だからこそ、隆平も柚葉に対して何と言ったらいいのか分からなかった。柚葉は話を続ける。「私は二人の娘なんだよ。これまで仕事が忙しいって会いに来てくれることもなかったし、何かを助けてくれることも無かった。今回せっかく戻ってきたんだから、これくらい助けてくれてもいいんじゃない?」柚葉は、彼らの親としての負い目を巧みに突いた。どんなに理知的な人間であっても、血の繋がりというものは断ち切れない。それに、子どもを愛していない親などどこにいるというのか。押し切られた二人は、力になると約束するしかなかった。しかし、百合は付け加える。「もし駄目でも、あなたがその子を産みたいっていうなら、産んで
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第323話

智也は、これまで家庭のことで頭を悩ませたことはなかった。谷口家の息子は智也だけ、そして父親が家庭を支えていたので、幼い頃何か問題が起これば、皆健吾の決断に従ってきた。結婚してからは仕事に没頭し、家庭内の細かいことは全て凛が片付けていたため、どんな面倒ごとも彼の耳に入ることはなかった。だが最近は、家庭の些細な問題ばかりが耳に入ってくる。このことは、仕事よりも智也を疲れさせた。凛がいてくれた日々は、一番気楽だった。自分はただ仕事に打ち込めばよかっただけだから。智也は凛に会いたくなった。すぐさま立ち上がり、南山ヒルズ9号棟へ向かい、建物の前までくると、犬を連れたボディーガード二人が門の前にいるのが見えた。智也の足が止まる。ボディーガードたちも動きを止め、相手が智也だと確認すると、即座に犬を連れて智也を牽制した。「ワン!」「ワン!ワン!」犬の鳴き声が静寂を破る。智也は眉間にしわを寄せた。彼が一歩近づくと、ボディーガードたちも一歩距離を詰め、犬がさらに激しく吠え立てる。完全に自分に対して配置されたものだろう。誰の考えだ?海斗か?日和か?それとも、凛なのか?誰であろうと、智也の苛立ちは募るばかり。智也が「凛……」と言いかけたその時、ボディーガードが犬を放した。智也は踵を返してその場を去るしかなかった。外の物音に気づいた美穂子はドアを開けたが、特に問題もなさそうだったので、再びアイロン掛けに戻る。アイロンをかけ終わった頃、窓のそばに座り、背伸びをしている凛が目に入った。「凛さん、明日の洋服のアイロンがけ、終わりましたよ」「ありがとうございます、美穂子さん」凛は立ち上がり、早めの床についた。凛にはやるべき重要なことがあったので、智也との離縁で揉めている暇などなかった。竹内グループが入札の時に提唱した、国が主に力を入れている分野である農業・産業・国防にマイクロチップを活用するという構想は「トライドメイン・プロジェクト」と名付けられていた。通称「トライドメイン」そして、今日はこのトライドメインの始動日だった。このプロジェクトチームは、総勢300人あまりで、農業・産業・国防の三つのプロジェクトに分かれている。克哉が産業を、梓が農業を担当する。凛は国防担当だったが、あくまでサポー
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第324話

だけどお兄ちゃんは分かっている。だから、お兄ちゃんはわざわざ秘書に凛さんから送ってもらったお茶と最中を持たせ、わざわざ凛さんがいるところで食べ始めたんだ。しかも、凛さんに気づいてほしくて、何度もちらちらと凛さんに目線を送っている。なんて情けないお兄ちゃんなの!とっとと告白しちゃえばいいのに!お兄ちゃんが駄目なら、自分がやってあげよう。日和は凛を部屋の隅に引っ張っていき、小声で切り出した。「凛さん、あんなくずみたいな谷口社長とは離婚できて、あとは裁判でお金を取り戻すだけじゃないですか。そうしたら、あの男とも完全に関係が切れるし、プロジェクトも落ち着いた今、新しい人を探そうとか思わないんですか?」「思わないよ」凛はあっさりと答えた。日和は驚いて目を丸くする。「まだ佐野先生と梓に話しておきたいことがあるから、私は先に行くね」そう言って、凛はその場を離れた。海斗の視線に気づき、軽く会釈をする。凛が立ち去ると、海斗は日和のそばに近づき、ふっと鼻で笑いながら、そのまま罵った。「何も考えてないんだな。あんな直球で聞くなんて」日和は驚いた。「お兄ちゃん、聞こえてたの!?」近いのだから、聞こえてくるのは当然だった。海斗は、日和に第一研究室に戻るように指示を出す。日和は慌てて走り去った。研究所と竹内グループは大々的に宣伝こそしなかったものの、勘のいい人たちは今日がプロジェクトの初日だと察していた。その知らせが智也の耳にも届き、仕事の手を止めると、浩に聞いた。「報道はあったのか?」「竹内グループの公式サイトに写真が一枚と、短い記事が載っただけです」そう言うと浩は、タブレットで竹内グループの公式ホームページを開き、智也に見せる。大勢の人がひしめき合っていたが、智也は第一列の真ん中に凛を見つけた。その凛の横には、当然のように海斗が立っている。またこの男か。智也は歯軋りをした。このプロジェクトを手にするのも、凛の隣にいるはずだったのも自分だったのに。すべてこの卑劣な男にぶち壊された……智也は苛立たしげにタブレットを放り出し、視界から海斗を消した。智也は立ち上がって言った。「スノウ・セミコンダクターの担当者と会う時間だから、悠真さんを呼んでくれ」浩が隣の執務室のドアを叩く。友達申請は通っている
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第325話

取引先を送り出した後、悠真の顔からは太陽のような笑顔が消え、彼は智也を一瞥すると、足早に去っていった。しかし、智也は表情を崩さない。浩が少し呆気に取られ、問いかけた。「社長、悠真様は一体どうしたんですか?」他に何があるというのだ。自分の妻が凛だと知って腹を立てたに決まっている。悠真は入札会場で凛に一目惚れし、その後には自分に連絡先を尋ねてきていた。それに、毎日凛にどんなメッセージを送ったのかということも、悠真は智也に報告していたのだ。いい機会だ。凛には夫がいることを思い知らせてやろう。自分と凛、そして柚葉の件をスノウ・セミコンダクターに言わなければ、悠真が怒ることなんて特に問題ではない。悠真は少々わがままなところはあるが、物事の分別がつかない人間ではない。景山グループの将来がかかっている以上、余計なことは口にしないだろう。「少し不貞腐れてるだけだ。放っておけ」28歳の智也は23歳の少年の相手をするのが面倒になり、浩が持つ契約書を見て密かに微笑んだ。「このプロジェクトと茅野さんの特許を合わせれば、役員会ももうマイクロチップ開発プロジェクトについて文句は言わないはずだろう」浩も頷いた。「しかし、茅野先生からはなかなか連絡がありません。でも、こちらから動くわけにもいきませんよね」智也は少し眉をひそめた。これ以上先延ばしにすれば、年内に解決することは難しくなる。「まずは茅野さんの最近の予定を調べてから、日を改めて直接会いに行こう」「承知しました」「茅野さんの好みは調べがついたか?」「聞いたところによると、茅野先生は古風な家具がお好きなようです。具体的な日にちはまだ分かっていませんが、近日開かれるオークションで、黒檀の肘掛け椅子が出品されます」智也は浩に情報を逃さないよう命じた。当然対応はするが、浩には一つだけ懸念があった。「社長、来月のクレジットカードの支払額がかなり膨らんでいて、すでに自由に使える手元資金の八割を大きく超えている状況です。このまま支出を抑えなければ、黒檀の肘掛け椅子を落札するのは難しくなります。それに、年末は取引先への贈答や各方面とのお付き合いで、まとまった出費も控えていますので……」浩は言葉を選びながら慎重に伝える。智也も流動資金が逼迫していることは理解していた。ここ2ヶ月の
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第326話

正人もさらに詳しく聞き出すのに必死で、周りのことなど気にしていない。「柚葉が妊娠したんだろ?じゃあ、どうするんだよ?まさか一生隠し通せるわけじゃあるまいし」正人は、沈黙を守りながらひたすら酒をあおる彼を見て、柚葉が以前言っていた中絶という言葉を思い出し、驚愕した。「まさか、堕ろさせるつもりか?」その問いに答えなかった智也だったが、ただ「一つの命だ。それに、俺の子でもある」とだけ呟いた。正人は一瞬安心したが、すぐに顔を曇らせる。「じゃあ、奥さんはどうするんだ?なあ、智也。奥さんのことなんて好きじゃないんだったら、いっそ離婚して柚葉さんと再婚したらどうだ?初恋の人と子ども、どっちも手に入るんだからさ」すると、智也が間髪入れずに言った。「俺が好きなのは凛だ」正人は呆気に取られた。「え?今なんて言った?俺が奥さんのこと好きなのかって聞いても全然認めなかったくせに、心変わり早すぎないか?」智也が正人を見つめる。「前は自分の気持ちに気づいていなかっただけ。この4年間、俺は凛と幸せに過ごしてきただろ?」正人は言った。「まあ、お前は幸せだったな」だが、凛が幸せだったかどうかは分からない。智也はその言葉の裏を感じ取ったのか、すぐに認めた。「凛にずっと辛い思いをさせてきたのは分かってる。だから、埋め合わせは必ずするさ。両親や日和にも厳しく言い聞かせるし、俺の金だって凛に全部預ける。それに、子どもも一人か、二人……」「じゃあ、柚葉さんの腹の子はどうするんだ?」正人は彼が語る理想を遮った。「なあ、智也。俺はお前がよく分からないよ」「子どもは事故だったんだ!」智也は少し声を荒らげ、眉を寄せる。「あの時は酔ってて、何があったのか自分でも分からないんだ……」正人が小さく溜息をついた。「好きなのが奥さんだって自覚して、離婚しないと決めたなら、柚葉さんと子どものことにはけじめをつけろよ。中途半端にしたら、何にもいいことないと思うぞ。俺は本気で言ってるからな、智也」智也は少し考え込んだ。「柚葉との子供を隠し通すか、もしくは堕ろすか……」「まだ決断できないのかよ」正人は堪らず溜息をついた。自分は今まで散々女遊びをしておきながら、本気になる相手は作らずに済ませてきた最低な人間だと思っていた。だが今になって気づいたが、智也も大概ろくでもない
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第327話

凛の今の生活は、三つのことを中心に回っていた。一つはトライドメイン、一つは家のリフォーム、そしてもう一つは、夫婦の共有財産の返還請求について謙介と打ち合わせを重ねること。毎日が充実していて、余計なことを考える暇もない。だから、海斗に南山ヒルズまで送ろうかと言われたときも、「ありがとうございます」と軽く頭を下げて車に乗り込んだ。日和も続いて車内に滑り込む。海斗は冷ややかな目で日和を見た。「家に帰れ」「あと数日だけだから!」日和に兄の恋路を邪魔する気はなかったが、3月に論文の締め切りを控えているため、どうしても凛の助言が欲しかったのだ。三人はそのまま車に揺られた。道中、凛はタブレットで自宅の写真に画像を貼り付け、憧れの建材や家具のイメージを作っていた。かなり乱雑だ。「設計士に頼んでないのか?」と海斗が尋ねる。凛は顔も上げずに答えた。「自分で一通りレイアウトを作っておけば、専門家と相談するときに自分の要望が伝わりやすいかなと思ったんです」海斗は短く「そうか」と答え、彼女が集中しているのを邪魔せず眺めていたが、ふと彼女のポケットにある携帯が光ったことに気づいた。「電話だ」と海斗は教える。それでも凛には聞こえていないようだったので、少し顔を近づけて「電話が鳴ってるぞ」と繰り返した。凛が顔をあげ、二人の視線が一瞬だけ重なる。男は深みのある瞳を、彼女の顔から唇へと移し、すぐに視線を逸らした。「携帯」凛は携帯を取り出した。未登録の番号だったが、相手が誰だかは分かった。以前は身分を隠す必要があったため、かつての研究所関係者や先生たちに関連する番号は全て頭に叩き込んであったのだ。凛は背筋を伸ばすと、タブレットを裏返し、かしこまった表情で応答する。「茅野先生」電話の相手は翼――史哉の親友であり、とてもよくしてくれた理解者の一人だった。「凛、金曜の夜は空いてるよな?」「はい、大丈夫です。ちゃんと覚えていますので」「うん、それじゃ」「はい、失礼します」通話を終えると、すぐさま日和が食いついてきた。「茅野先生?それって、私が知ってる茅野先生ですか?二宮教授と同じくらい偉い方ですね?」凛が静かにうなずくと、海斗の瞳が揺れた。「谷口社長が茅野さんと会えたのは、君が口を利いたからなのか?」凛は
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第328話

しかし凛は、誕生祝いのプレゼントに悩んでいた。史哉が生きていた頃は史哉に言われたものを用意していたが、今はもういない。それに、機密プロジェクトを抱えていた時は、私的なパーティーや会合には参加できなかったから、結局、杏に挨拶を伝言することしかできなかった。凛の様子を見ていた海斗は、凛が何を贈るかで悩んでいるのだと察した。「森田が調べたところによると、茅野さんは古風な家具が好きだそうだ。明後日の夜のオークションで出品されるものの中に、良さそうなのがあるらしいぞ」オークションの詳細を日和がいくら聞いても、海斗は答えなかったので、日和は彼が嘘をついているのではないかと疑った。海斗は日和をちらりと見た。彼には情報を仕入れる独自のルートがある。「凛さん、お兄ちゃんと一緒に行ってきてくださいね。私はその日行けないので」日和はそう言った。さもないと、このままでは兄が独身を貫くことになり、自分のせいにされてしまうだろう。つくづくお兄ちゃんには困らされる……恋愛下手な兄の恋を応援するために、家族全員がこんなに気を遣わないといけないなんて。凛も少しなら蓄えがあるが、散財するわけにはいかない。だが、覗いてみるだけならいいだろう。凛は頷いた。南山ヒルズ9号棟に戻り、車から降りた途端、二頭のジャーマン・シェパードが尻尾を振って凛に駆け寄ってきた。凛が手を伸ばして、「ダイト、コマキ」と呼ぶ。海斗はその名前を聞くたびに、見ていられないといった顔で目を閉じるのだった。凛が家に入ると、シェパードたちが吠えるとともに、玄関先で馴染みのある声がした。「いつからあんな大きな犬を飼い始めたんだ?誰かを警戒してか?」策は二人のボディーガードを見てそう呟いた。面識はないが、この家の者を守るためなのは明白だ。「凛さんは戻ってきたでしょ?竹内社長もいるよね?」しかし、ボディーガードたちは策を知らなかったため、何も答えない。「車だって見ているんだからな」策が電話をかけようとすると、中から凛と、その後ろから氷のような冷たさを湛えた海斗が現れた。海斗は彼を見つめ、犬よりも鋭い視線を策に投げかける。凛の後ろに立つ姿は、玄関のシェパードよりも忠実な番犬のようだった。「策先生、どうぞ」策が部屋に入ってくるときのふらついた足取りを見て、海斗は彼が二日酔いだとす
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第329話

日和がはっとしたように言った。「そういうことね!」日和は素早く頭を切り替える。「じゃあ、どうやって証拠を手に入れるの?策さん、どうして昨晩録音しなかったのよ?」策は日和を見て、呆れたように答えた。「ああいう録音は証拠として認められないどころか、逆に名誉毀損でこっちが訴えられかねない。小林さんの妊娠診断書のみが証拠になるんだ」日和は不服そうに口を尖らせた。「確かに」凛が溜め息混じりに言う。「智也と小林さんは簡単に証拠を掴ませてくれないと思う。それに、智也は小林さんを隠して、何としてでもその子だけは手放さないはず」「なぜ?」海斗はなぜ凛がここまで言い切れるのかと、疑問に思った。智也が馬鹿なわけがない。だから、普通であれば浮気していた何よりの証拠になる子供を残すなど、わざわざ爆弾を抱えておくようなことはしないはずだ。しかし、そう聞かれた凛が目を伏せたのを見て、海斗はすぐに彼女の心の古傷に触れてしまったことに気づいた。凛と智也は結婚して4年も一緒にいたのに、子どもは一人もいない。なのに、柚葉が帰国してわずか1か月で、もう彼の子どもを身ごもったのだ。海斗は視線を戻す。「言いたくなければ言わなくていい」「いえ、別に言えないことはありません」凛は自分を気遣ってくれる皆を見て、淡々と言った。「智也は小林さんとの子どもだけを欲しがっていました。だから、私との間に子供を作らなかったんです」凛がそう言い終わるや否や、大広間に、ガラスの割れる乾いた音が響いた。海斗がガラスのグラスを手で握りしめ、割った音だった。一同は唖然とした。日和、策、美穂子は彼の手の中にある破片と、手の甲に浮かび上がった青筋を見て、すぐに口を閉ざす。息をするのさえ恐れた。部屋の気温も一気に下がった気がした。凛は海斗の指から滴り落ちる真っ赤な血を見て、小さく眉をひそめる。「竹内社長?」我に返った美穂子が、すぐさま口を開いた。「もう、私ったらそんなにすぐ割れてしまうようなグラスを買ってしまったみたいです。すぐ片付けますね。策先生、早く手当をお願いできますか?」海斗も我に返り、少し驚いている凛を見て、落ち着いた声で言う。「安物だったみたいだ」それでも、凛はなおも眉間にしわを寄せたまま、彼の冷淡で整った顔をじっと見つめていた。策が救急箱を持
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第330話

「A市の病院、大小あらゆる病院に見張りをつけて、小林と谷口社長を見かけたら、即座に報告しろ」「承知いたしました。それと森田さんが海外でいくつか情報を掴んだそうですよ」海斗は頷く。「引き続き調査を続けさせろ」電話が切れた。海斗の腕に包帯を巻き終えた凛は言った。「一巻きだけにしておきました。動かしにくくなるとあれなので」「ああ」海斗は、蝶の羽ばたきのように震える彼女のまつげを見つめる。すると、凛がふと顔を上げ、海斗に向かって微笑んだ。「竹内社長、そんなに私を手伝ってくれるなんて、何か欲しいんですか?」周囲の者たちは息を呑み、海斗の返答を見守る。海斗は凛の澄んだ瞳を見て、瑶子から言われた言葉を思い出した。【まずは彼女が水辺に近づくのを怖がる気持ちを、尊重してあげなさい】「君には、トライドメインに全力を注いでほしい。そして、国防や農業システムの構築、さらには工業ロボット開発を一刻も早く実用化してもらいたいんだ」海斗は落ち着いた口調でそう言った。その低くよく通る声には不思議な魅力があり、凛を見つめるまなざしにも揺るぎない意志が宿っていた。「必ず期間内に成果を出します」凛もそう約束する。「ああ」海斗は自分の手を見つめてから立ち上がり、策に視線で合図を送った。二人は南山ヒルズ9号棟を後にする。策がすぐさま声をひそめて言った。「そんなに急いでどうしたんだ?あまり長居して、ボロが出ることを心配したのか?」さきほどの堅苦しい言動も、全ては凛にプレッシャーを与えないための配慮だった。海斗は無言を貫いたが、実際には深く溜息をついていた。あぶなかった。凛がこうなったのも、すべてはあの智也というくずのせいだ。海斗は気持ちを落ち着かせると、策に聞いた。「この前、冷水に浸かると体を壊すって言ってたけど、彼女の体に何か影響は出ていないか??」誰の目にも明らかなように、凛は子ども好きだ。彼女は日和に対しても、まるで自分の子のように接する。策が答えた。「多少の影響はあるさ。ただ、今の凛さんの健康を損なっている最大の原因はあれじゃない。痩せすぎで明らかに栄養不足なことだよ。これ以上体重が減れば免疫力も落ちて、いろんなアレルギーを発症してもおかしくない。髪には健康が現れるっていうんだけど、凛さんの髪にはあんまり艶がないね
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