All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 751 - Chapter 760

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第751話

凛はなかなか寝つけず、何度も寝返りを打っていた。どうしても眠れそうにない。日和を起こさないようそっと布団を抜け出し、彼女の掛け布団をかけ直してから、枕元の携帯を手に部屋を出た。リビングへ行くと、昨夜海斗が寝ていた場所に腰を下ろし、そのまま身体を横たえて頬を押しつける。眠気は相変わらず訪れなかったが、不思議と胸の空虚さは少しだけ薄れた。指が携帯に触れて画面が明るくなり、そのまま海斗とのメッセージを開く。最後に交わした言葉は【おやすみ】だった。時刻は午前3時。さすがに海斗も眠っているはずだから、こんな時間に連絡するべきではないと思いながらも、結局我慢できなかった。【海斗】名前だけ送る。返事を期待していたわけではない。凛は携帯を置き、画面の淡い光をぼんやり眺めていた。ところが3分ほど経ったころ、携帯が小さく震えた。【眠れないのか?】凛は驚いて身体を起こした。姿勢を正してソファに座り直す。【起こしちゃった?】【トイレに起きただけ】【お水、飲みすぎた?それともお腹の調子が悪い?】【水飲みすぎた。凛は?】【なんだか眠れないの】【ベッド?それともトイレ?】夜中に携帯を触るとしたら、大体そのどちらかだと思ったのだろう。【ソファ】既読がついた後、しばらく沈黙が続く。【暖房、ちゃんと効いてる?】【うん】【そうか。無理に寝ようとしなくていい】【うん】それきり返事が途絶えたので、海斗はまた眠ったのだろうと凛は思った。智也なら、こんな夜中に返事をくれることなどなかった。昼間でさえ2、3日放っておかれることも珍しくなかったのだから、それを思えば海斗は十分すぎるほど優しい。凛は携帯を置き、もう一度ソファに横になった。それから30分ほど経ったころ、静かになっていた携帯の画面が再び明るくなる。海斗からだった。【コートじゃなくて、一番厚いダウン着て。マフラーと手袋も忘れずに】【下りてきて】【日の出を見に行こう】胸が大きく跳ねた。さっきまで沈んでいた気持ちが嘘のように晴れ、凛は勢いよく起き上がった。開いたままリビングに置いてあったスーツケースから白いダウンと青いマフラー、青い手袋を引っ張り出し、慌ただしく身につける。携帯をポケットに入れ、そのまま玄関へ向かった。ところが扉を
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第752話

「いいのか?」凛は小さく頷いた。海斗は言われたとおり両手をポケットに入れ、そのまま後ろから凛をすっぽり抱き込んだ。顎を彼女の額に乗せる。周りにはたくさんの人がいた。凛は落ち着かない様子で辺りを見回したが、誰もこちらを気にしていないと分かると、ようやく力を抜いて海斗に身を預けた。やがて東の空が明るみ始め、2人は言葉もなく、ゆっくり昇っていく朝日を見つめた。その光を浴びているうちに、凛の中にも少しずつ力が戻ってくる。恩師が生きていたころ、気持ちが弱ったときは、日の光を浴びに行くといいと言われたことがある。日の出を見に来たのはこれが初めてではないが、それでも、こんなにも心が満たされていくのは初めてだった。目の前には昇る朝日があり、背中には海斗のぬくもりがある。それだけで、もう十分だった。人が少しずつ帰り始めると、凛は海斗の腕の中で振り返った。そのまましばらく離れずにいてから、顔を上げる。「今日、帰る?仕事もいっぱいあるし、もうすぐ2月だから。製品のテストも早く進めないと」「凛が帰りたいときに帰ろう」凛は彼の胸元で頷くと、ようやく腕の中から抜け出した。それでも海斗の手は離さず、また自分のダウンのポケットへ押し込んで、2人でゆっくり歩き出す。近くの賑やかな通りで朝食を済ませ、日和の分も忘れずに買って帰った。てっきりまだ寝ていると思っていたのに、部屋の扉を開けると、髪をぼさぼさにした日和が恨めしそうな顔で待ち構えていた。「2人でデートしてきたの?日の出見に行くなら、私も誘ってくれたっていいじゃん」「混ざろうとするな」ふんと鼻を鳴らした日和は、海斗を無視し、凛から朝食を受け取った。凛はその様子がおかしくて笑いながら尋ねる。「でも、どうして日の出を見に行ったって分かったの?」「2人を見かけた人がいて、見間違いかと思って写真を靖さんに送ったんだって。そうしたら、靖さんがそのまま家族のグループに流してた。『海斗くん、こんないい景色が見られるくらいなんだから、目は悪くなかったみたいだな』って褒めてたよ」海斗は押し黙った。そして、凛に視線を向ける。「真に受けなくていい」日和はすでに朝食を食べ始めていた。しかも海斗と凛が今日帰ると知り、大喜びをする。帰ったほうがいい。ここは神谷家の影響が強い土地だが、向こうに戻れ
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第753話

将希は、凛が一瞬迷ったのを見逃さなかった。これなら半分は脈があるが、まだ足りない。それは、海斗がそばにいるから。絶大な権力を持つ者がそばにいるだけで、言葉はなくともこれ以上ない安心感が生まれるのだ。ならば、まず海斗から引き離せばいい。「今すぐ神谷家に来いとは言わない。ただ、君と2人だけで話したいことがある。それを聞いてから考えてくれればいい」海斗は眉を寄せ、凛の手をそっと握った。凛は顔を上げ、大丈夫だと伝えるように彼を見る。「外は寒い。車の中で話そう」凛が将希とともに後部座席へ乗り込むと、車内は2人きりになった。扉も窓も閉ざされ、外から中の様子は見えないが、車の中からは外がよく見える。冷たい風の中、海斗はその場を動かず、鋭い眼差しを車の中へ向けていた。凛はそんな彼に小さく笑ってみせる。しかし将希へ向き直ったときには、いつもの静かな表情に戻っていた。「お話を伺う前に、2つだけ聞かせてください」「ああ。何だ?」当然、28年前のことを聞かれると思っていたし、将希は答えならすでに用意してある。だが、凛が口にしたのは、その筋書きを根底から崩す二つの問いだった。「どうして私を捨てたんですか?」「私を捨てたのは、誰ですか?」将希の瞳が大きく揺れる。用意した弁解は一切役に立たない。彼はそれでもなんとか続ける。「捨てただなんて……」「捨てられたことは知っています」あまりにも静かで、あまりにも確信に満ちた声だった。将希は改めて凛を見る。これほど冷静に核心を突いてくるとは思わなかった。もし男に生まれていたなら、神谷家を任せてもいいとさえ思えただろう。だが、彰菜が2人目に産んだのは娘だった。いずれ嫁いで家を出る女だ。惜しい。実に惜しい。将希は質問には答えず、条件を出した。「神谷家に戻るなら、すべて話そう。ただし、聞いたことは決して外に漏らさない。それが条件だ」「私を捨てた事実が知られたら、神谷家にとってよほど都合が悪いんですね」「君だって神谷家の人間だ」「戻るつもりはありません」「話を最後まで聞いてから決めればいい」当初は、赤ん坊を取り違えたことにして話を収めるつもりだった。だが、凛はそんな作り話で納得する相手ではない。何より、この落ち着きようを見れば、何も知らない子供を言いくるめる
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第754話

「神谷家のために戻れとは言わないし、自分のためでなくてもいい。だが、海斗くんのことは考えたほうがいいんじゃないか?二人の問題をいつも海斗くんに片づけさせて、自分は彼に守られているだけ……君は、そんな人間ではないだろう?会ったのはまだ二度目だが、それくらいは分かる」凛の指先がわずかに震えた。「海斗くんは確かに、誰にも簡単に口を出させない立場にいる。だが、どれほど力を持っていようと、人である以上、家族や周囲との関係から完全に自由にはなれない。好きに生きようとすれば、それなりの代償が伴うんだ。草壁家の祖父母も高齢だ。海斗くんと大喧嘩をするようなことはないだろうし、露骨に揉めることもないだろう。だが、この結婚に対するわだかまりは残る。それが原因で2人の体調にまで影響したら、海斗くんは本当に何とも思わずにいられるのだろうか?君が優秀な研究者であることは誰も否定しない。天才研究者と大企業の御曹司の結婚となれば、世間から見ても華やかな話だろう。だが一方で、君には離婚歴があり、後ろ盾のない環境からここまで来た過去もある。そこだけを取り上げて、海斗くんを批判する人間は必ず出てくるはずだ。君は、それでもいいのか?」その言葉が、凛の胸の一番痛いところを突いた。「海斗くんは君が少しでも傷つくことを嫌がって、竹内家や草壁家、神谷家を相手に一人で君を守ろうとしている。二人のことでこれ以上あの子に心を砕かせてもいいのか?本来なら何の障害もなく歩めたはずの人生を、君のために変えさせても?」そんなこと、できるはずがなかった。耐えられるわけがない。海斗はいつだって、自分を何より大切にしてくれる。冬はまだ始まったばかり。外では冷たい風が吹き荒れ、頬を刺すような寒さの中、海斗は少し離れた場所に立ったまま、ずっとこの車を見つめていた。窓越しなのに、凛はその視線が自分に注がれているのが分かる気がした。「海斗くんが君のために99歩進んでくれるなら、君だってあの子のために1歩くらい進んでもいいんじゃないか?」将希も凛の視線を追い、海斗を見る。「君が本当に茂の娘で、神谷家の血を引いているのなら、それだけですべて丸く収まる」将希は再び凛へ向き直った。「お互いに少しずつ譲れば、誰も困らずに済む。君にとって神谷家など必要ない、戻っても戻らなくても同じだと言うのなら、
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第755話

凛は海斗の手を握ったまま、空港へ向かう車に乗り込んだ。「神谷家に戻れば、28年前私がどうして捨てられたのか教えるって言われたから、少し考えたい」「車の中に10分以上いたよな?」海斗はそれだけではないだろうと思った。すでに聞いている話を、10分もかけて繰り返すはずがない。ただ、凛が話したくなさそうなのも分かっていた。なら、無理に聞くつもりはない。飛行機が離陸する直前、海斗は携帯の電源を切る前に拓海へメッセージを送った。【坂本先生に直接会うから、手配してくれ】【できるだけ早く調整します】A市に戻って仕事を再開した翌日、海斗は拓海を連れて出張へ出た。予定はひとまず1週間。出張に行く前、海斗は凛に約束した。「小正月の1月15日までには必ず帰ってくるから、小正月は一緒に過ごそう」そう凛に約束したくせに、空港までの見送りはもちろん、マンションの下まで来ることさえ許してくれなかった。玄関まででいいと言われ、凛はそこで海斗を見送ることになった。廊下に人影がないのを確かめると、不意に彼の名を呼ぶ。「海斗」「ん?」返事が終わるより先に、凛は背伸びをして彼の唇の端にキスをした。ほんの一瞬、触れただけ。それだけでも、海斗に火をつけるには十分だった。顎をつかまれ、今度は海斗のほうから唇を重ねられる。軽いキスでは終わらせてくれないらしい。もっと、と求めるように深く口づけられ、凛が唇を開けば、海斗は待っていたようにその距離をなくしていった。10分後、凛はすっかり力が抜けて海斗にもたれかかっていた。頬を赤くしたまま、小さな声で告げる。「もう行かないと、飛行機に間に合わないよ」「分かってる」海斗は凛のうなじをつかみ、もう一度だけキスをして、ようやく離れた。「早く帰ってきてね」「ああ」海斗を見送り、部屋へ戻った凛は、間もなく咲こうとしている胡蝶蘭に目を留めた。凛は葉先を指でそっと撫で、それから携帯を手に取って柑奈へ電話をかける。康平はまだこちらへ戻さなくていい、と伝えた。しばらく片づけなければならないことがあり、今は十分に面倒を見てやれそうにない。柑奈もすでに、凛の出生についておおよその事情を察していた。神谷家といえばB市でも名の通った一族だ。大きな家ほど、人には言えない事情の一つや二つ抱えていてもおかしくない。それだ
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第756話

策は凛に言った。「女二人じゃ心配だから、俺も一緒に行くよ」凛に異論はなかった。策が一緒なら海斗も余計な心配をせず、仕事に集中できるだろう。そのぶん早く帰ってきてくれれば、それでいい。三人で待ち合わせの喫茶店へ向かうと、智也はすでに来ていた。智也は淡い色のスーツをきちんと着こなし、背筋を伸ばして座っている。どこか緊張しているようにも見えた。凛を見つけると、智也は穏やかに微笑んだ。ずっと昔、2人が出会ったばかりのころと同じ笑顔だった。時間が経っても変わらないものはあるけれど、人の心には消えない傷が残る。もう、あのころには戻れない。凛の隣に千晴と策がいることに気づき、智也は一瞬呆気に取られた。以前の凛なら、二人とは交わることさえなかっただろう。それが今では肩を並べて歩き、しかも二人とも当然のように凛を守る側に立っている。役所に直行すれば済む話だったが、智也はどうしても一度カフェに寄って、コーヒーを飲んでから行きたかったらしい。自分がまだ感染症の治療中であることを気にしているのか、飲み物は先に注文せず、それぞれ好きなものを頼むよう促した。「これ飲んだら、すぐ行くんだよね?」凛が尋ねた。「ああ」凛が確認すると、智也は頷いた。その目は、凛から少しも離れない。策が指先でテーブルを軽く叩いた。「谷口さん。一応言っときますけど、目をなくしたら仕事できなくなりますよ」千晴も大真面目な顔で頷く。「竹内社長ならやりかねない」見事な連係だった。凛は自分の分だけアイスコーヒーを頼んだ。二人に頼む気がないわけではないが、ただ、ここでのんびりするつもりがまったくなかったのだ。運ばれてきたアイスコーヒーを、その場で一気に飲み干す。それを見て、三人は唖然とした。凛と海斗はこういうところが妙に似ていると、千晴は改めて思う。何も言わないまま、やると決めたら一気にやる。以前、誰にも言わず離婚の準備を進めたときもそうだった。あのタイミングで動いたからこそ、凛にとって最も不利にならない形で離婚できたのだ。智也は胸を締めつけられるような思いで、思わず口にした。「……本当に、俺とは少しでも一緒にいたくないんだな」「うん」凛は表情一つ変えずに答えた。智也は力なく笑う。しかし、これ以上凛に悪い印象を与えるわけにはいかない。「行こう」
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第757話

谷口家が没落してから、一家は全員、南山ヒルズ11号棟で暮らしていた。智也があらかじめ1年分の家賃を払っていたから住み続けられているだけで、維持費まで安いわけではない。管理費や光熱費に加え、掃除や食事を任せている使用人の給料もかかる。それだけではなかった。家族全員の生活費に母親の治療費まで、今ではすべて智也が背負っている。両親と胡桃の面倒を見ながら仕事をこなし、自分の体調にも気を配らなければならず、まともに休める日はほとんどなかった。一度上げた生活水準は、そう簡単には下げられない。両親も胡桃も、忘れたころに大きな出費を作ってくる。そのたびに請求額を見て、智也は頭を抱えた。家のことを切り盛りするのが、こんなに大変だったとは……凛はいったいどうやって何もかも滞りなくこなしていたのだろう。当時の智也は、凛のことをただの雇われ社員だと甘く見ていた。もっと余裕があるのだから、家のことに精を出せばいい――そう思って、家のことを凛に丸投げしていたのだ。しかし現実には、研究者としての凛の仕事は、智也が想像していたよりはるかに過酷だった。それでも彼女は、仕事と家庭のどちらも疎かにしなかったのだ。今になってようやく、凛がどれほどすごいことをしていたのか身に染みて分かった。ただでさえ疲れ切っている智也を、さらに悩ませているのが妹の胡桃だった。智也が仕事を用意してやり、将来の幹部候補として現場経験を積ませているものの、胡桃は仕事で何度も失敗し、人間関係までうまくいかない。帰宅するたびに泣きながら、客に嫌がらせをされた、同僚にも意地悪をされた、もうこんな仕事は続けられないと訴えてくる。それでも智也は、辞めたいという願いだけは聞き入れなかった。今の谷口家を養っているのは自分だ。少なくとも生活に関しては、家族にも言うことを聞いてもらわなければ困る。そもそも胡桃は、苦労というものにまるで耐性がなかった。夢は昔から裕福な男と結婚して、何不自由なく暮らすこと。以前の谷口家なら、それなりに上流の人間と知り合う機会もあったが、今となってはその世界に近づくことさえ難しい。結婚相手を探そうにも候補すらいない。そこで胡桃が目をつけたのが、智也の親友である正人だった。正人は家の中で大きな権限を持っているわけではないが、生まれながらの御曹司には違いない。金に困ること
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第758話

それだけ正人が腹を割って話しても、智也から返ってきたのは、「それでも胡桃は俺の妹なんだ」という一言だった。結局、二人はうやむやなまま別れ、それから2週間の間、一度も連絡を取っていなかったし、胡桃の件についても、どちらも譲らないままだった。だから今日、突然智也から「もういい」と電話が来たとき、正人は心底ほっとした。つまり、もう胡桃との結婚を迫るつもりはないということ。だが、喜びが落ち着くと、今度は疑問が湧いた。あれだけ頑なだった智也がどうして急に考えを変えたのだろう?智也は今日、凛と会ったことを簡単に話した――正人さんは、友達として本当にいい人だと思うよ。その一言で、智也はこれまで正人が自分にしてくれたことを思い出したのだ。谷口家が没落したときも、周囲の人間のように離れていかなかった。それどころか手を差し伸べ、車なら好きに使えと言い、金が必要なら貸すと言い、仕事まで用意して逃げ道を残してくれた。胡桃との結婚を拒んだときでさえ、正人は自分との友情を大切にしたうえで本音を話してくれていたのだ。そこで正人は驚いた。まさか自分が危うい結婚から逃れられたのが、凛のたった一言のおかげだったとは……しかし、正人にとってはとてつもなく大きな恩だった。この恩は返さなければならない。しかも、半端な形では駄目だ。あのまま胡桃と結婚していたら、自分の残りの人生がどうなっていたか分からない。考えようによっては、人生を救われたようなものだ。正人はさっそく彼女の近況を探ってみた。何ができるかは分からなくても、助けてもらったら必ず返す。それが正人なりの筋の通し方だった。ところが、調べてみると思いがけない話が耳に入ってきた。正人と陸は、特別親しいわけではない。ただ、2人とも家の権力争いには興味がなく、遊ぶことばかり考えてきた御曹司同士。付き合いのある世界も重なっているうえ、それぞれの親友が柚葉に散々振り回されたという共通点まであり、妙な仲間意識が生まれていた。その陸から、凛が神谷家と関係しているらしいと聞かされたのだ。「『らしい』ってどういう意味なんだよ?神谷家と関係あるって?」正人は食い気味に問い詰めた。二人はちょうど酒を飲んでいた。陸はグラスを置き、周囲に人がいないか確かめてから、正人の耳元で声を潜める。「凛さんって、どうやら利明の妹らしいん
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第759話

「仕返しなら、柚葉さんがやったことを全部まとめて、お前の親友に送ってたぞ」「それなら余計におかしいだろ」陸は納得できない様子で眉を寄せた。「いくら利明が現実を見たくないからって、そこまで馬鹿じゃない。谷口は本当に証拠を送ったのか?」「ああ、誓ってもいい」それでも陸は首を傾げるばかり。埒が明かないと思った正人は、その場で智也に電話をかけた。個室で歌ったり踊ったりしていた連中にも静かにするよう合図する。「もしもし、正人?」電話の向こうから智也の声が聞こえ、陸もそばへ寄って耳を澄ませた。「智也、前に柚葉さんがやったことをまとめて、神谷さんに送ったって言ってたよな?」「ああ、送った」今となっては、柚葉の名前を聞くだけでも嫌悪感を隠せないらしい。智也の声が露骨に冷たくなった。「急にあいつの話なんかして、どうしたんだ?」正人は隣の陸を見て、ほらな、というように目で訴える。それでも陸は信じられなかった。いくら何でも、そこまで全部知ったうえで柚葉を庇い続けるほど、利明が愚かだとは思えないのだ。陸は携帯に文字を打ち、正人に見せる。正人はそのまま読み上げた。「それ、神谷さん本人に直接渡したのか?あの人、ちゃんと中身見た?」「いや。妹に渡した」「誰?」陸が思わず声を上げた。「どの妹?」正人が睨んだが、智也は電話を誰かに聞かれていることなど気にせず答えた。「あの人の妹なんて1人しかいないだろ?美雪さんだよ」陸は思わず息を飲んだ。正人は電話を切ると、怪訝そうにその顔を覗き込む。「何だよ、その顔」「ちょっと考えてる」陸は難しい顔で眉間を押さえた。「少し黙ってて。俺さ、今ものすごく嫌な想像してるんだけど、なんだか自分が性格悪くなった気がしてきた」「は?」「もうちょっと待て」「いいから早く言えよ」急かされ、陸は真顔で正人を見る。「やっぱりおかしいんだよ。利明が柚葉さんのやったことを全部知って、それでも今みたいに庇い続けるとは思えない」「つまり神谷さんは知らない。智也が送った資料は本人まで届かず、美雪さんのところで止まったってことか?」陸の表情がますます険しくなる。「ちょっと待て……」「お前、さっきからそればっかりだな」正人はだらしなく背もたれに身体を預けた。「おい、まさか美雪さんがわざと渡さなかったとか
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第760話

凛はいくつかの新しい手続きには時間がかかると思っていたのだが、申請をした三日後には全ての手続きが終わったとの連絡が来た。あまりにも早い仕事ぶりに驚くしかない。凛はつい、海斗が裏で手を回したのではないかと疑ったのだが、この話を克哉にした際、彼は笑ってこう言った。「自分自身の功績のおかげだとは思わなかったのかい?」凛は教授を見つめた。「私?」克哉は笑った。「国から認められた人材には、特別に優遇される手続きがあるんだよ。専門の代行スタッフだってつくし、今回の3日なんて特段早いわけじゃない。僕なんか当時、全ての手続きを含めても2日で終わったんじゃなかったっけかな」凛は考えもしなかったことだった。「僕たちの給料はそんなに高いとは言えないけど、実際にはいくつもの隠れた恩恵があるんだよ。それは君自身の努力が勝ち取った報酬だ。A大学に着任すると同時に准教授になれたのも、国が用意してくれたものだしね」大学で准教授になる一般的なルートなら、早くても数年はかかる。大きな研究プロジェクトで実績を上げていたとしても、通常なら相応の審査と時間が必要だ。だが凛は、優秀な研究者を外部から迎えるための特別枠で採用されたため、通常の昇進ルートとは別扱いで、着任と同時に准教授となる。凛の採用辞令も、准教授としての正式な通知も、すでに届いていた。A大は今年4月1日から新年度が始まり、教職員は学生より早く準備に入るのが普通だが、大学側も凛がまだ例のプロジェクトを抱えていることは承知しているため、すぐに大学へ来る必要はないと言われていた。だから、担当する授業が正式に決まってから動けばいい。准教授ともなれば、専門科目を担当するだけでなく、大学院生の研究指導も仕事に入ってくるのだが、凛は当面、学部の専門科目だけを受け持つつもりだった。大学院生を受け入れるとしても、早くて今年の後半、遅くとも来年から。しかし、大学側も凛の事情と研究を優先し、その方針を尊重してくれていた。「改めて、おめでとう」克哉が嬉しそうに祝うと、梓も笑って口を挟んだ。「じゃあ、これからは先生って呼ぶべきですかね?」凛も微笑んで答える。「今までどおりでいい。先輩って呼ばれるほうが好きだから」そう答えながら、海斗にもメッセージを送る。余計な言葉は添えず、採用辞令と准教授就任の通知を撮った画像だけ
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