All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 771 - Chapter 780

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第771話

海斗は恵に、自分がB市の一等地に所有する広いマンションを凛の名義に書き換えるよう指示を出した。不動産を贈与すれば贈与税だけでも相当な額になるが、海斗にとっては気にするほどの金額ではない。【承知いたしました】と恵は返すと、他にも凛に名義変更すべき個人資産はないかと確認する。ほどなくして、海斗から返信が届いた。【全国の主要都市に、住居と車をひとつずつ用意して。凛の立場で高級車を乗り回すと余計な面倒を招くから、車は目立たないものにしてくれ。運転手をつけることも忘れるなよ】【承知しました】そのころ凛は、そんなことになっているとは夢にも思わず、荷物をまとめていた。そもそも「荷造り」と呼ぶほどのものでもない。それに、軽い潔癖症の凛が出張から戻ったスーツケースを何日も寝室に開きっぱなしにしておくはずがなく、とっくに片づけてあった。B市へ向かう当日、千晴から電話がかかってきた。「今どこにいます?B市ですか?それより、神谷家の人だったんですか?」後半は、隠しきれない驚きに満ちていた。「ええ、でもまだみんなに話す暇がなくて」「うそ……じゃあ美雪さんって神谷家の実の娘じゃなかったんですね。私、全然分かりませんでした。顔じゃなくて、性格の話なんですけどね」「性格?」「神谷家みたいに一族で政界に関わってきた家って、独特なんです。表向きは控えめで人当たりもいいし、話すことも遠回しで、棘がないように聞こえるのに、一言の中にいくつも意味を仕込んでくる。無駄なことは言わないって感じですかね。よく言えば政治家らしい話し方、悪く言えば、みんな腹の内を隠すのがうまいっていうか……美雪さんにはそういう雰囲気があるから、神谷家にすごく馴染んでました。だから逆に、凛さんがあの家に入るほうが心配で」凛の表情がわずかに和らいだ。美雪の話より、千晴が自分を心配してくれていることのほうが心に残る。「心配?」「人の手なんか借りず、崖っぷちでも風に耐えて咲いてきた百合を、いきなり排泄物を肥料にしているような、栄養豊富な畑に植え替えるようなものですから」凛は思わず笑った。「田舎じゃ排泄物を肥料にした畑の方が、農薬を使っていないから健康的って言うんですよ」「畑で育てるのは食べるための野菜じゃないですか!百合を同じようには扱いません」電話越しでも、千晴が不満
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第772話

凛自身も、知り合いが宴に来るとは思っていなかった。しかも、どうやら一人や二人ではないらしい。以前、海斗から神谷家と草壁家の関係について説明されたことがある。両家のつながりは何世代にもわたり、政財界へ複雑に根を張っている。一族の末端までたどれば、どこまで人脈が広がっているのか分からないほどだという。千晴が神谷家を「栄養豊富な畑」と表現したのも納得できるし、利明が根っこのところでどこか人を見下していたのも、ようやく腑に落ちた。以前、彼は何度も凛に「神谷家を相手にしても勝てない」と言っていたが、家の力を正しく使えば、神谷家に生まれたというだけで、普通なら簡単には届かない場所まで行ける。利明はそういう世界で育った人間なのだ。もっとも、今では神谷家も草壁家も表立って権勢を誇ることはなく、以前ほど一族だけで大きな力を握れる時代でもない。新たな勢力が次々と台頭し、限られた権力も人脈も分散している。だからこそ神谷家は、婚姻によってほかの家との結びつきを強めようとしてきた。茂と彰菜の結婚も、そうした家同士の思惑が絡んだものだった。ただし、当時の家格でいえば、彰菜のほうが神谷家へ嫁ぐことで立場を上げた形になる。海斗はそんな神谷家について、凛のために人物相関図まで作っていた。タブレットの画面を限界まで縮小し、文字が読めなくなるほど小さくして、ようやく全体が収まる。本当に、とんでもない人数だった。凛は隣の海斗を見る。「神谷家の先祖まで全部調べたの?」海斗は真顔で答えた。「5代分だけ」「……だけ?」凛は改めて画面を眺め、少し呆れた。「これ、神谷家の人だけだよね。当日はほかにも招待客がいるんでしょ?」「次のページ」凛は唖然とした。彼氏が準備万端すぎるのも、考えものかもしれない。凛が次のページを開くと、今度はびっしりと招待客の名前が並んだ相関図が現れた。「全部が正確とは限らない。来る可能性が高い人間と、そうでもない人間が混じってるから、顔と名前を何となく知っておけばいい」凛はわずかに眉を寄せた。「明日、挨拶で喉が潰れちゃわないかな」「俺がいるから大丈夫」凛は海斗を信頼している。その一言を聞くと素直に頷き、タブレットを閉じた。「じゃあ、もう見ない。このあと病院にも行かないと」DNA鑑定を受けるためだった。
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第773話

最初に採血を受けたのは、茂と彰菜。二人の看護師がそれぞれ対応し、その次に凛と美雪が呼ばれる。凛と美雪は少し離れた場所に座り、それぞれの周りには付き添いが集まっていた。間に立つ茂だけは採血くらい何とも思っていないようだったが、彰菜と利明は美雪が心配で仕方ないらしい。「怖くないから。すぐ終わるよ」利明が優しく声をかける。それを聞いた日和が黙っているはずもなかった。「凛さん、大丈夫ですからね。採血なんてすぐ終わるし、終わったらレバー食べに行きましょ!血を採ったぶん、ちゃんと補給しないと!」そもそも凛は採血など怖くもない。この程度の痛みなら、子供のころに蟻に噛まれたのと大差なかった。それでも日和はせっせと励まし続ける。「凛さんはお兄ちゃんと同い年かもしれませんが、お兄ちゃんは4月生まれで、凛さんは12月生まれなんですから、凛さんもお兄ちゃんのこと自分のお兄ちゃんって思ったっていいんですよ」その言葉に、利明の身体がわずかに強張った。本当の妹は凛なのに、その妹には目もくれず、美雪ばかり心配している、と遠回しに責められているようだった。その場に、何とも言えない沈黙が落ちた。採血が終わると、彰菜は真っ先に美雪へ駆け寄った。「大丈夫?痛くない?」凛のほうには一度も目を向けない。すると瑶子が凛のそばへ歩み寄り、優しく尋ねた。「痛かった?」彰菜とは以前から付き合いがあった瑶子だが、それも茂との縁があってこそのもの。それに、昔の彰菜はこんな人ではなかった。若い頃の彰菜は、名門神谷家への嫁入りに少々引け目を感じていたものの、誰にでも優しい大らかな女性だった。それなのに、あんな環境に揉まれて……神谷家というのは、本当に人を狂わせる場所だ。人は置かれた場所によって、良くも悪くも、時には歪んでいくものだが、彰菜は何も分からない子供のころに神谷家へ入ったわけではない。だから、どんな環境にいようと、最後に自分がどう振る舞うかまで、すべて周囲のせいにしてはいけない。少なくとも凛に対する今の態度だけは、母親としてあまりにも酷かった。海斗から一緒に来てほしいと言われたのは、美雪には母親が寄り添っているのに、凛には誰もいないという思いをさせたくないからだったので、本来、瑶子もここまで世話を焼くつもりはなかった。だが先ほどから、利明も彰菜も美雪のこ
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第774話

やがて両家はそれぞれ病院を出た。車は同じ辺りに停めてあったが、真っ先に足早に向かっていったのは彰菜だった。病院にいる間、ほとんど口を開かなかった。美雪の採血のときだけは心配そうに声をかけたものの、その直後に瑶子が凛を気遣う姿を見せられ、それすら責められているように感じたのだろう。今はただ、一刻も早くここから離れたいらしい。その慌ただしい後ろ姿がふと目に入った凛は、なぜか長いあいだ目を離せなかった。28年前、雪が降りしきる中、生まれたばかりの赤ん坊もまた、あんなふうに遠ざかっていく背中を見つめていたのだろうか。不意に、温かな手のひらが凛の視界を覆った。背後に立った海斗が言う。「見なくていい」凛はその手の中で静かに瞬きをし、目を伏せた。しばらくしてから自分で海斗の手を取り、視界を開く。そのまま手をつないだ。「大丈夫」少し離れたところから美雪がその様子を見ていたが、利明に促されそのまま車へ連れていかれる。茂は眉を寄せ、凛に何か説明しなければと思ったのだろう。「君のお母さんは最近、少し体調を崩していて……薬も飲んでるから、疲れやすくて……」だから何だというのだろう。茂は続きが出てこなかった。自分は凛に気にしないでくれ、とでも言うのか?そんなことを口にする資格が自分にあるとは思えず、茂はそこで黙った。すると、すでに車へ乗り込んでいた日和が窓から声を上げる。「凛さん、お母さん、お兄ちゃん!早く!レバー食べに行くんでしょ!血を採ったんだから補給、補給!」3人は車へと乗り込んだ。扉が閉まり、窓が上がりきった途端、日和はとうとう我慢できなくなった。「もう、ほんっと腹立つ!何なの、あの人たち!揃いも揃って黙り込んで、まるで凛さんが無理やり神谷家に戻るみたいな空気出して。戻ってきてほしいって頼んだのは神谷家のほうなのに!」瑶子も海斗も、日和に好きなだけ言わせていた。凛は隣から日和の背中を撫でる。「まあまあ。そんなに怒らないで」日和は腕を組み、頬を膨らませた。「別にあんな人たち、家族じゃなくていいじゃん。DNA鑑定だって、いっそ関係ありませんでしたって出ればいいのに」残念ながら、日和の願いは叶わなかった。その日の夜遅く、DNA鑑定の結果が神谷家へ届けられた。美雪と茂、彰菜の間に親子関係は認められない。そして凛と2人の間
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第775話

茂の背中には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。その夜、利明は自室のバルコニーに座ったまま、なかなか眠れずにいた。すると、テーブルに置いた携帯の画面がふいに明るくなる。美雪からだった。【お兄ちゃん、考えたんだけど、明日の集まりが終わったら、しばらくスタジオのほうで暮らそうと思う。お父さんがここ何日も凛さんのために準備してきたこと、無駄にしたくないし】利明は眉を寄せた。【余計なこと考えるな】【でも、お父さんの白髪が増えたの気づいた?お母さんも最近ずっと気分が落ち込んでて、薬ばかり飲んでる。薬の飲みすぎがよくないことは、私が一番分かってるから】【それならなおさら家にいろ。お前だって何かあるたび薬が必要になるだろうし、1人で暮らして何かあったらどうする。家にいたほうが安心だし、何かあってもすぐ対応できるだろ?】心臓病を患っている美雪は、ただの風邪でも悪化の引き金になりかねないため、神谷家では美雪の体調に合わせて住環境まで細かく整えていた。室温や空調は使用人が常に管理し、必要に応じて酸素も用意される。特に美雪の部屋には緊急用の呼び出しボタンまで設置されており、何かあればすぐ家中に知らせられるようになっていた。利明は続けて送った。【何も考えなくていい。お前はずっと僕の妹だ、いいな?】【でも、お兄ちゃん。凛さんが戻ってこなかったら、外でいろいろ言われるでしょ?そんなことになったら、お父さんにもお母さんにも、お兄ちゃんにもよくないよ】【そんなことまでお前が心配するな。自分の身体を大事にして、好きなように生きればいい】……そのころ海斗のマンションでは、凛は日和に言われたとおりレバーを食べ、さらに瑶子が届けてくれたサプリメントを飲んで、身体の芯から温まっていた。将希からはDNA鑑定の結果を知らせる電話も入った。それから、明日の朝8時に神谷家の本家へ来るよう念を押され、場所については海斗が知っているから聞けばいいと言われた。「これって、お兄ちゃんも一緒に来いってこと?」お腹が満たされて機嫌を直した日和が、にやにやしながら海斗をからかう。「よかったじゃん。とうとう凛さんのご実家訪問?」「唐沢院長と杏さんのところには、とっくに挨拶に行ってる」「私だって行ったことあるし」日和はそう言ってから、凛へ顔を向けた。「明日の朝は、お兄ちゃ
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第776話

せっかく漂いかけた甘い空気は、それで跡形もなく吹き飛んだ。けれど同時に、病院での光景が何度も頭に浮かんでいた凛も、すっかりそちらへ気を取られた。日和の額は切れても出血してもいなかったが、少し青くなっていたので、腫れないよう、凛は綿棒に消毒液を含ませ、そっと額へ塗った。横から海斗が呆れた声を出す。「ほんと落ち着きないな」「だって2人の邪魔しちゃ悪いと思ったんだもん!」「だったら最初から連れてきてない」邪魔になると思っていたなら、日和も瑶子と一緒に帰らせていた。それでもここに残したのは、明日を前にした凛のそばに、気心の知れた友人がいたほうがいいと思ったから。しかし、だからといって、テーブルに頭をぶつけるような付き添い方をしてほしいわけではない。「貸して。俺がやる」海斗はそう言うと、凛の手から綿棒を取り上げた。日和は即座に凛の腕へしがみつき、ぴったり身体を寄せてぶんぶん首を振った。「やだやだ。ぶつけたより、お兄ちゃんにやられるほうが絶対痛いに決まってる!」凛は思わず笑って言った。「じゃあ私がやるよ。あと少しだけだから」「うん!」日和はコクリとうなずき、素直におとなしくなった。「演技派め」日和は得意げに言い返す。「甘え上手は得するんだから。お兄ちゃんができないからって僻まないでくれる?」「調子に乗るな」兄妹のやり取りを聞いていると、凛の気持ちはいつも不思議なくらい軽くなる。手当てを終えると、凛は時計を見た。「今日は早く寝よう。明日は早いから」「私は早起きしなくていいもんね」「お前、本当によく寝るよな」まるで明日も、いつもと変わらない一日にすぎないかのように、3人の会話はどこまでも普段どおりだった。日和は帰らずに、そのまま泊まっていった。夜、ベッドに入ると凛をぎゅっと抱きしめ、眠りに落ちる寸前までぼんやり呟いていた。「大丈夫、明日はお兄ちゃんが守ってくれるし、私も凛さんのことを守りますから」凛は小さく笑った。「おやすみ」「おや……」最後まで言い終える前に、日和はすっかり寝息を立てていた。海斗が泊まる条件は、ソファではなくゲストルームで寝ることだった。部屋へ入る前に一度「おやすみ」を交わしたにもかかわらず、2人はそれぞれの部屋へ入ったあと、携帯でもう一度同じ言葉を送り合ってから眠った。翌
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第777話

「ありがとうございます」「いえいえ。仕上げにグロスを足しておきますね」ヘアメイクは新品の口紅とグロスを開けて凛の唇を整えると、小さな鏡と一緒にそのまま渡してくれた。「途中でお直しできるように、持っていてくださいね」続いて取り出したのは、靴とバッグの箱だった。「今日のお洋服なら、小さめのバッグが合うと思いまして、こちらでご用意させていただきました。瑶子さんから、凛さんはヒールに慣れていないかもしれないと伺っているので、靴は3cmくらいの低いものに。ダークブラウンの革靴で履きやすいので、これなら長時間でも疲れにくいはずですよ」ここまで考えてくれていたのかと、凛は驚いた。一方、隣の海斗はそれどころではなかった。凛が化粧を始めてからずっと目で追っていたが、仕上がった今は完全に見惚れている。やがて車が神谷家の本家に到着した。海斗は凛の革靴を手に取ると先に車を降り、開いた扉の前に立った。どうやら、その場で凛に靴を履き替えさせるつもりらしい。凛が戸惑っていると、海斗が低い声で言う。「足」凛は座席に腰かけたまま、素直に片足を差し出した。海斗が白い靴を脱がせると、横からヘアメイクが声をかける。「靴下も替えたほうがいいですね」こんな寒い日に素足で履かせるつもりか?海斗の眉が寄り、じっとヘアメイクを見る。言葉に詰まったメイクスタッフ。その無言の圧に負けたのか、彼女はそっと黒い浅履きの靴下を取り出した。海斗は受け取ったものの、まだ納得していない。「これでも甲は出るだろ」ヘアメイクは困り果て、助けを求めるように凛を見た。凛は思わず笑う。「今日は中にタイツも履いてるから、大丈夫。靴下は自分で履くよ」ところが海斗は聞かなかった。少し車内へ身を乗り入れると、凛の足を自分の腹元に寄せ、コートで外側を覆って冷たい風が当たらないようにする。まさかそこまでするとは思わず、凛は一瞬動きを止めた。足の裏に海斗の服が触れていて布越しなのに、呼吸するたび彼の腹部がわずかに上下する感覚まで伝わってきた。「よし」海斗は凛を冷やしたくないのか、驚くほど手早く靴下を履き替えさせ、そのまま新しい靴まで履かせた。凛が車を降りる。黒いコートはふくらはぎまで届き、腰のベルトがすっきりとした輪郭を作っている。胸元には細い銀色のロングネックレス。装いその
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第778話

茂も眉を寄せて母子を見る。母親はますます青ざめ、男の子も空気の変化を感じ取ったのか、首をすくめて母親の後ろへ隠れようとした。しかし、凛は昔から子供には甘い。腰を屈めて目線を合わせ、何でもないことのように言った。「心配しなくていいよ。これからもずっと、美雪さんは利明さんの妹だから」凛は子供を安心させるために言っただけだったのだが、その母親の唇はさらに白くなった。美雪を利明の妹だと思っていいかどうかなど、母親にとっては大した問題ではない。美雪は写真家として活動しているが、今の知名度も人脈も、神谷家という後ろ盾があってこそ得られた部分が大きい。しかし、凛は違う。何の後ろ盾もないところから自分の実力だけで今の地位まで上り詰め、将希自らが動いて、これほど大々的に神谷家へ迎え戻そうとしている。今後、神谷家の若い世代にとって、凛がどれほど大きな力になるか分からない。それなのに、凛は自分の息子に「これからも利明の妹は美雪でいい」と言った。それはつまり、彼女自身と自分の息子の関係を認めるつもりがない、ということではないのか?「凛さん、帰ったらきちんと言い聞かせますから」母親は慌てて息子を前へ出した。「ほら。ちゃんとご挨拶して」だが子供は意地を張ったように口を結び、何も言わない。母親がさらに叱ろうとする気配を感じ、凛はすぐに止めた。「無理に挨拶させなくて大丈夫ですよ」それだけ言って、そのまま先へ進む。茂が隣から説明した。「あの子は秀明のところの晁生くん」神谷晁生(かみや あきお)。海斗が作った相関図で見た名前だった。凛にとって叔父にあたる秀明の孫で、たった一人の男の孫として可愛がられている子。やがて広間へ入った。庭ほど人数は多くないものの、すでに大勢の者が座り、残りは壁際や入口付近に立っている。正面の上座には将希。杖に両手を重ね、そこに座っているだけで場の空気を支配していた。凛と海斗が入った瞬間、全員の視線が一斉に集まる。ただ、誰も何も言わない。室内は伝統的なデザインに改装され、窓も大きく明るい。外の緑がよく見え、室内にも植物が置かれているため、決して暗くもなく、閉塞感もない。それなのに、凛は息苦しかった。まるで、神谷家という場所そのものに、目には見えない圧迫感が染みついているようだった。「来たか」将希が杖に両手を置い
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第779話

凛はそのまま優愛を抱き上げ、椅子に座らせた。けれど優愛は自分だけ座るのが申し訳ないらしく、何度も真佑の手を引いて、一緒に座らせようとする。もちろん真佑にそんなことができるはずもなく、目を伏せながら「ママは大丈夫だから、優愛が座ってて」と優しく言い聞かせた。その光景を見て、神谷家の親族たちはそれぞれに思うところがあったらしいが、互いに顔を見合わせる者はいても、誰一人として口には出さない。茂は娘を見る目をますます優しくし、海斗もわずかに目元を緩めている。将希だけは特に何も言わず、本題へ入った。居並ぶ一族をゆっくり見渡し、重々しい声を響かせる。「凛は茂の実の娘だ。DNA鑑定も済んでいる。28年前、G県の病院で美雪と取り違えられた。間違いは正さなければならないし、神谷家の娘をいつまでも外に置いておくわけにもいかない。だから、今日の集まりは凛を正式に家族として迎え入れると同時に、帰ってきた凛を皆で迎えるためのものだ」年齢のせいか、将希の声には昔ほどの張りがない。ゆっくりと話し、時折息を整えるように間を挟んでは、また続ける。「凛はこれまで、ずいぶん苦労してきた。施設で育ちながらも自分の力で道を切り開き、亡くなった二宮史哉教授に師事した。その後、国内初期のマイクロチッププロジェクトで開発責任者を務め、竹内グループとのトライドメイン・スマートチップにも携わり、今はA大から招かれて准教授に就任している。神谷家にとっても、誇るべき娘だ」と将希は誇らしげに頷き、海斗の方へ目を移した。「それに今は海斗くんとも交際している。めでたい話が重なったな」それから茂に向かって言った。「家の者を紹介してやりなさい。凛にも顔を覚えてもらわなければならないし、皆も凛をよく覚えておくように。身内なのに、外で顔を合わせても分からないようでは困るからな」そう言うと、将希は海斗にも椅子を用意させた。実のところ、将希は少し意外に思っていた。海斗という男は、どこへ行っても自然と場の中心になり、本人が何かをしなくても、その存在感だけで周囲を圧倒するような男なのに、今日は驚くほど自分を抑えている。凛より前に出ることも、主導権を奪うこともない。ただ彼女のそばに立ち、必要なときだけ手を差し伸べる姿は、まるで護衛役に徹しているかのようだった。研究者として優秀なだけではない
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第780話

改めて見れば、卓ごとの序列だけではない。同じ卓の中ですら、その考え方に沿って席順が決められている。4番目のテーブルでは楷の妻が上座に座り、その左右に秀明と茂の妻。3番目のテーブルの上座には茂が陣取っていた。2番目のテーブルには製造業に携わる親族が上座にいて、利明もそこに座っている。凛は自分の兄だという利明の顔を少し見つめた。食事中だったため海斗もそれ以上は説明せず、将希が午後から招待客が順次到着すると一族へ伝え、皆が散り始めたころに、続きを教えてくれた。「利明は今、司法関係の公的な選考を受ける準備をしてる。そこに入れば、一番上の卓に席が移るだろう。それに、凛が一番上の卓、それもかなり上座に座ってたのは、国が関わる研究をやってるからだ。これは神谷家だけの話じゃない。形はもっと曖昧でも、似たような序列は今でもいろんなところに残ってる」そこで、海斗が例として挙げたのは策だった。策が大学の同窓会に出れば、本来の専門とは別の道へ進み、医療機器の会社を大きく育てた経営者もいる。しかし、どれほど金を持っていても、教授や研究者が集まる卓では後ろの席へ回され、さらには会の費用まで多く負担することがある。一方、国の研究事業で医薬品開発に携わる者は教授のそばに座り、教育や医療支援のような公益性の高い活動に関わる者も前へ通される。よほど社会的な影響力を持つ人物でもない限り、経営者は後ろ。誰かがそういうルールを決めたわけではない。それでも、そういう暗黙の序列は確かに存在しているのだ。そこで凛は、ようやく昔のことを思い出した。史哉が存命だったころ、門下の者に食事に招かれ、凛も一緒についていったことがあるが、あのときも確かに似たような席順だった。ただ当時の凛は、門下で一番年下ということで史哉の隣に座らせてもらっていたし、世間のことも今ほど知らなかったため、そこにどんな意味があるのか考えたこともなかった。それが今、海斗に言われてようやく腑に落ちた。だから教授は、ああいう席をあまり好まなかったのか。研究に没頭し、時間が空けば妻とのんびり過ごす。彼にとっては、きっとそのほうがよほど大切だったのだろう。「凛」海斗は真剣な眼差しを凛に向けた。「神谷家で女があの卓に座ったのは凛が初めてだ」それは凛自身も、さっき気づいた。「凛さん」そこへ柔らかな
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