All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 761 - Chapter 770

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第761話

一見すれば、年長者が若者を気遣って諭しているような言葉だった。海斗は涼しい顔で返す。「若いうちから竹内グループを任されたので、同世代で似た立場の人間がほとんどいないんです。だからこそ、上の世代の方々から、どうやってさらに上へ行くのか学びたいと思っていまして」「竹内社長はもうグループの実権を握っているじゃないですか。これ以上、どこへ上がるつもりですか?」「社長の上には会長がいますから」「知事の上となれば、次は国政ですよ」海斗の目がわずかに細くなる。「国政にも知り合いはいます。確かに、今度はそちらの先輩方に教えを請うのもよさそうですね」徹は息を呑んだ。厄介な若造だ。神谷家はいったい何をして、この男に目をつけられたのだろう?なぜここまで28年前のことを嗅ぎ回るのだ?それに、本来ならおかしいこと。神谷家と草壁家は長年深い付き合いがあり、互いに無用な敵対は避けてきたはずだから。「竹内社長、私ももう歳ですからね。昔のことはだいぶ忘れてしまいましたよ」「彰菜さんを見舞いに行った日に、偶然知ってしまったことも?」海斗は徹の表情を見逃すまいと、じっと目を向けた。「人の命に関わることですよ」その瞬間、徹の鼻翼がかすかに動く――動揺して呼吸が乱れているのだ。海斗にはそれだけで十分だった。「忘れました」徹はそれ以上話そうとせず、車へ乗り込むとすぐに窓を閉めた。海斗には一度も目を向けないまま、車は走り去っていく。海斗は、遠ざかる徹の車をじっと見送った。その後ろ姿を見送りながら、拓海が口を開く。「もう話してはくれないでしょうね」海斗は小さく頷いた。徹と神谷家の結びつきは、想像以上に深いらしい。神谷家と草壁家にはつながりがある。そして、竹内家と草壁家もさらに強く結びついている。だが、竹内家と神谷家をつないでいるのは瑶子と茂の個人的な関係くらいで、それだけでは弱い。より強固な関係を築き、互いの利益を最大化しようとするなら、美雪と海斗が結婚するか、利明と日和が夫婦になるしかない。だが、どちらも海斗にとっては到底受け入れられない話だった。海斗は低い声で言う。「戻ろう」二人は一度ホテルへ戻って荷物をまとめることにした。明日にはA市へ帰る。小正月まで、あと二日。……凛が昼休みに海斗の専用休憩室を使うことは、今では誰も気
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第762話

神谷家で暮らさないこと自体は、将希にとって大した問題ではなかった。だが、神谷の名前を名乗らないというのは話が別だ。凛は続ける。「私のマンションは一番町特別宿舎10号棟です。言いたいことは分かりますよね?」都心にありながら静かな一等地に位置する公的機関の関係者向け住宅で、一般には売買されていない。どれだけ金を積んでも簡単には入れない場所なのだから、わざわざそこを出て神谷家の屋敷へ生活の本拠を移せなどとは、さすがの将希も言えないだろう。A市とB市のどちらに住むかで、凛の立場が大きく変わるわけでもない。まして神谷家に戻ったところで、住むのは一族の屋敷で、草壁家のように警備まで敷かれた特別な住環境というわけでもない。何より家柄と体面を重んじる将希にとって、凛が特別宿舎を正式な生活拠点としているなら、それに口を挟む理由はなかった。だからこそ凛は、全ての住所関係の手続きを済ませたのだった。将希も、凛がそこまで先回りしているとは思わなかったらしい。しばらく黙ったあと、深いため息をつき、低い声で告げる。「住む場所については構わないが、名字だけは神谷に変えなさい。名前はそのままでいいがな」神谷凛?これからの自分に、そんな名家への依存が必要だって言うの?28年間ずっと神谷家なしで生きてきた。今さら必要ない。凛ははっきりと言った。「私が神谷家の実子だからといって、神谷姓を名乗る義務はありませんし、私は成人していますので、本人の意思を無視して改姓させることはあなたであってもできません」「凛」将希の声に苛立ちが滲む。「28年前に何があったのか、知りたくないのか?海斗くんとの将来のことも考えると言っていただろう」「考えています」凛はあっさり認めた。「名字を変えないだけで、血のつながりまで否定するつもりはありません。だから、外にどう説明するかは神谷家で決めていただいて、構いません。でも、私は今のままでいます。私が神谷家に行くのは、捨てられた理由を知るためと、海斗との間にある現実的な問題を早く片づけるためです。それに、私は忙しいし、海斗はもっと忙しいので、こんなことに二人でいつまでも時間を取られたくありません。それだけは理解しておいていただけると助かります」予想外のことだが、将希は腹を立てなかった。むしろ感心していた。ここまで自分の条件を明確
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第763話

彰菜がたまらず尋ねた。「一体、どういうことでしょうか?」将希の視線が美雪に注がれる。「美雪、お前はもう知っているんだろう?」美雪は必死に平静を保ちながら頷いた。「お父さんとお兄ちゃんが話しているのを聞きました」「なら、遠回しな話はやめよう」そう言って、将希は淡々と話し始める。「28年前、彰菜さんは身重の身体で茂についてG県へ行った。あのころのG県は今ほど環境が整っていなかったうえ、予定より早く産気づいて、何もかも慌ただしい中での出産になった。そこで病院側の不手際があり、2人の赤ん坊が取り違えられてしまったんだ……」茂の目が大きく見開かれた。だが将希は構わず、あらかじめ用意していた筋書きを続ける。「取り違えだったと分かった以上、神谷家の娘をいつまでも外に置いておくわけにはいかない。凛には28年間もつらい思いをさせたからな。正式に家へ迎え入れ、披露の席も設ける。招くべき人間にはすべて声をかけるつもりだ」美雪の顔から、見る間に血の気が引いていった。それは凛を神谷家へ迎えるための宴なのか?それとも、自分が神谷家の実の娘ではないと世間に知らしめるための宴なのか……その両方だろう。美雪の呼吸が荒くなる。「美雪、落ち着いて。大丈夫だから」利明が慌てて背中をさすった。彰菜はずっと俯いたまま、両手を強く握り合わせていた。爪が手のひらに食い込みそうなほど指先に力が入っている。ストレスが原因のパニック障害の症状がまた出始めていた。それでも自分の苦しさを押し殺し、美雪を抱き寄せる。「大丈夫よ。怖くないから……大丈夫」まるで幼い子供をあやすように、何度も繰り返した。美雪も懸命に呼吸を整える。本当に倒れるわけにはいかない。命を失ってしまえば、何もかも終わりだ。「私……これからはもう、お父さん、お母さんって呼んじゃいけないの……?」それは、今にも消え入りそうな声だった。頭痛を堪えるように額を押さえ、立ち上がった茂。「将希さん、凛に会ったんですか?」将希は頷く。茂は険しい表情を浮かべた。「凛本人の気持ちも聞かずに、どうして勝手にそんなことを決めるんですか?」だが将希は動じなかった。「誰が本人の同意を取っていないと言った?凛は戻ることに同意したんだよ」茂の動きが止まる。今度は全員の視線が将希に集まり、誰もすぐには言葉を発
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第764話

将希は、凛を正式に迎えることを何より重く見ていた。披露の宴については楷に任せたものの、招待客の選定をはじめ、細かなことまで一つひとつ将希の確認を通すよう命じている。本来なら、赤ん坊の取り違えなど神谷家にとって進んで公表したい話ではない。それでも大々的に宴を開くのは、凛の実績と将来性を高く評価しているからだった。凛を神谷家の娘として世間に認識させ、彼女と神谷家を強く結びつけるという将希の狙いは、誰の目にも明らかだろう。ただ、楷には一つ気になることがあった。「凛と美雪ちゃんが取り違えられていたことにするなら、凛が戻ってきた後、美雪ちゃんをどうするつもりなんだ?」「それは茂が決めることだ」余計な口出しはするなという意味だと察した楷は、それ以上は聞かなかった。部屋を出ると、茂の家がある方角へ目を向け、小さく息をつく。「……どっちも娘には違いないのにな」……DNA鑑定をすることに、凛は異論がなかった。自分が本当はどこから来たのか、彼女自身もはっきりさせたい。将希から、小正月には神谷家へ来るよう言われていた。まずは家族全員で食事をし、そのついでに鑑定も済ませたいらしい。鑑定は構わないが、家族団らんの食事に凛は興味がなかった。なぜなら小正月には海斗が帰ってきて、一緒に過ごすと約束しているのだ。大晦日は一緒に過ごせなかったからこそ、この小正月こそ彼と一緒に過ごすことに意味がある。神谷家の人々と食卓を囲むことには何も意味がない。そして海斗は、約束どおり小正月当日にA市へ戻ってきた。ところが凛に会うより先に、神谷家が彼女を正式に迎えるための宴を開くと知った。まだ招待状すら出ていないのに、草壁家にはすでに話が伝わっていたのだ。海斗の表情が一瞬で消えた。電話の向こうの瑶子に、低い声で尋ねる。「誰が凛に戻るよう迫った?何を使って言うことを聞かせたんだ?」瑶子も詳細は分からず、ため息をついた。「それと、おじいちゃんとおばあちゃんが、今度時間があるときに凛さんを連れて草壁家に食事に来なさいって」海斗はすぐに察した。「……俺のためか」瑶子にも、息子がこのあと凛と小正月を過ごすつもりなのは分かっていた。「会っても感情的にならないこと。余計なこと言って凛さんを傷つけたら、私が怒るからね」海斗は握った拳に力を込めた。指の関節が鳴る。「神谷家
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第765話

プライベートな話なら秘書として口出しできない。ただ、昼休みが終わると、拓海は念のため凛に一言伝えておいた。「竹内社長、こちらへ戻る途中で、凛さんが神谷家に戻ることを知ってしまったようですよ」凛の胸がひやりとした。「戻ってきて、どのくらい経ってますか?」「40分ほどです」凛は社長室へ目を向けた。ブラインドが下りていて、中の様子はまったく見えない。横から理央が小声で助言する。「ちょっと機嫌でも取ってあげれば大丈夫だよ」目を覚ました恵も、何となく事情を察したらしい。「うん。機嫌とってあげて」二人に見送られながら、凛は社長室の扉をノックした。「入れ」返ってきたのはたった一言。それに、少し冷たい。凛が足を止めると、すぐにもう一言続いた。「鍵はかかってない」あれ?思ったほど冷たくないのかもしれない。凛が扉を開けると、デスクに向かっていた海斗が一度だけ顔を上げた。だが、すぐに視線を落とし、何事もなかったように仕事へ戻る。凛は唇を引き結んだ。やっぱり怒っている。だが、外にいた面々の見方は違った。扉が閉まった瞬間、恵と理央は揃って笑ってしまう。本気で怒っているなら、「入って」のあとにわざわざ「鍵はかかってない」などと付け足さない。無視して拗ねていたいけれど、本当に無視したら凛さんに放っておかれてしまうかもしれない。うちの社長はたぶん、そのほうが耐えられないのだ。誰にでも、逆らえない相手はいるらしい。凛がデスクへ近づこうとすると、海斗が不意に言った。「仕事中だ」「わかった。邪魔してごめんね」凛は素直に立ち止まり、踵を返した。ところが、一歩目を踏み出すより先に、背後から冷たい声が飛んでくる。「どこ行くんだ?」「研究室」「そこにいろ」海斗は凛が立ち止まったのを確認すると、自分から立ち上がって歩み寄った。大きな身体が目の前まで来る。凛は顔を上げた。「海斗、おかえり」たった一言。なのに、海斗の怒りは半分以上消えてしまった。「勝手なことしてくれるなよ」凛の顎に指がかかる。最初に触れた瞬間だけ少し強かったが、すぐに力は抜け、最後には顔を上向かせるようにそっと持ち上げられただけだった。上から質問が降ってくる。「なんで神谷家に戻るなんて言ったんだ?あの家がまともじゃないことくらい分かってるだろ」
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第766話

凛は素直に歩み寄り、両腕を海斗の引き締まった腰へ回した。頬を彼の胸元につける。海斗はまだ怒っているふりをして、すぐには抱き返さなかった。すると凛は自分から海斗の腕を取り、背中へ回す。あの夜、眠れずに自分から海斗の腕の中へ潜り込んできたときと同じだった。普段は静かで淡々としているくせに、ときどき驚くほど素直に甘えてくる。もう怒れるはずがなかった。凛には敵わない。海斗は小さく息をつき、凛をしっかり抱きしめると、顎をその頭に乗せた。「戻るなら戻るでいい。でも、俺がいる。神谷家には凛を好き勝手にさせないから」「私は神谷家に認めてもらいたいわけじゃないから、大丈夫」凛は海斗の胸に頬をつけたまま答えた。「誰かに認めてもらおうとするってことは、その人に自分を評価する権利を渡すってことでしょ?でも、私は神谷家にそんな権利を渡してない。だから、あの人たちにどう思われても傷つかないよ」「それは気持ちの話だろ」海斗は凛の腰を軽くつまんだ。「飯もまともに食わせない、ろくな部屋も用意しない、それでも嫌な思いじゃないって言うのか?」「あっちには住まないよ」そういえば、まだ条件を話していなかった。凛は将希に提示した内容をそのまま海斗へ伝える。条件を聞き終えた海斗は、さすがに少し驚いたあと、感心したように凛を見た。そこまで線を引いているなら、神谷家が凛を好き勝手に扱うのは難しいだろう。むしろ今後、振り回されるのは神谷家のほうかもしれない――特に茂たち一家は。神谷家が大々的に披露の宴を開くのは、凛を正式な娘として世間に示すためだが、もちろん、凛の研究者としての名声を神谷家にも結びつけたいという思惑がある。だが、それと同時に、美雪がこれまで占めてきた「神谷家の令嬢」という立場を凛へ返すことでもあるのだ。凛が戻らなければ、実の娘だと世間に知られても、片方は神谷家に寄りつかず、もう片方はこれまでどおり神谷家で暮らし続ける。それを見た周囲は、どちらが本当に神谷家から大切にされていると考えるだろうか?人も、評判も、縁も、自然とそちらへ流れていくだろう。凛が退けば美雪が前に出るし、美雪が前に出れば、そのぶん凛の存在は薄くなるのだ。美雪は28年間も凛の居場所にいたのだ。これ以上、その場所を譲ってやる必要はない。「凛、神谷家と静かな戦争を始めたな」海斗は腕
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第767話

……凛が神谷家に戻ると決まってからも、心から喜んでいる者はいなかった。茂だけは嬉しさと不安が入り混じっていたが、残る3人は誰も凛と向き合う覚悟ができていない。彰菜は年末、つてを頼って一度だけ凛に会ったものの、ろくに話もできないまま逃げるようにその場を去った。B市へ戻って距離さえ置けば、それで済むと思っていたのに、将希が凛を神谷家へ迎えると決めてしまった。ほんの短い時間さえ耐えられなかったのに、毎日顔を合わせるとなればいったいどうなることか……利明も、凛が実の妹だということはもうほとんど信じていた。しかし、DNA鑑定の結果が出るまでは認めないと言い張っているのは、ただ自分が凛に浴びせた言葉と向き合う勇気が持てないから。孤児……親も家族もいない……いったいどんな顔で向き合えばいいのだろう?そして美雪にとっては、さらに深刻だった。凛が戻ってくれば、自分が神谷家の実の娘ではないという事実が確定するだけではなく、凛を正式に迎える宴が開かれれば、それが大勢の前で公表されることになる。凛は国の研究者で、A大学の准教授。美雪も有名な写真家として自分のスタジオを持ち、B市には600坪もの撮影施設を構えているが、それでも、国を代表する研究に携わる凛と比べれば、世間からの評価も立場もまるで違う。比べること自体、虚しくなるほどだった。しかも凛の顔が広ければ広いほど、自分が神谷家の実の娘ではなく、28年前に取り違えられた子供だと知る人間も増えるだろう。自分は凛の代わりに、28年間何不自由ない暮らしを送り、恵まれた教育も受けてきた。それなのに、施設から何の後ろ盾もなく、自分の力だけでここまで這い上がった凛に及ばないなんて。あまりにも皮肉だった。さらに美雪を追い詰めたのは、茂がすでに凛を迎える準備を始めていたこと。2階はこれまで、美雪がほとんど1人で使っていた。寝室を自室にし、ほかの部屋も好きなように使っていたのだが、今は2つの部屋をつなげ、美雪の部屋よりも広い空間へ改装されている。生活用品から服、靴まで次々と揃えられ、小さな書斎まで用意された。モニターやパソコン、キーボード、身体に合った椅子に加え、さまざまな本や筆記用具、ノートまで、必要になりそうなものは一通り揃っている。毎日のように荷物が届き、使用人たちが箱を開けては、指示
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第768話

茂はすぐに眉を寄せた。達朗が自分に何の相談もなくここまで踏み切ったということは、裏でさらに力のある人間が動いたのだろう。自主退職という形を残してくれたのは、むしろ茂への最低限の配慮なのかもしれない。「最近、誰かを怒らせたのか?」茂が単刀直入に尋ねる。「僕が誰を怒らせるんだよ」そのとき、美雪が何か言いかけて口を閉ざした。利明はそれを見逃さなかった。すぐに一人の男へ思い至る。「海斗……」噛みしめるように名前を口にした。美雪が静かに言う。「でも海斗さんだって、草壁家と神谷家の関係を無視するようなことはしないと思う。それに、お父さんと瑶子さんの付き合いだってあるし……」だが、利明はそこまで聞けば十分だった。「凛さんのためなら、あいつが何をしたっておかしくないだろ」思惑通りに話が動き出したのを見て、美雪はそれ以上何も言わなかった。だが今回、茂は利明の味方をしなかった。「自分が凛に何を言ったか思い出してみろ。よくあんなことが言えたな。お前はあの子の本当の兄なんだぞ?」「そのときは知らなかったんだよ!」「今は知ってるんだ。だったら受け止めろ」利明は黙り込んだ。おそらく、この家で一番気持ちの整理がついていないのは自分だ。自分がずっと想い続けてきた柚葉を刑務所へ追いやるきっかけを作ったのが、実の妹。そして自分が「親も家族もいない」と侮辱した相手も、その実の妹。何をどう考えればいいのか分からない。妹だから柚葉への怒りを帳消しにすべきなのか、それとも柚葉のことで恨めばいいのか。「ちょうどいいから、しばらくは試験に集中しろ。それから早紀さんとのことも、そろそろきちんと考えなさい」利明はすでに早紀と一度食事をしていた。互いに相手を悪く言うこともなく、両家の親たちは手応えを感じたらしい。今後も二人で会う機会を増やしてはどうかと、すでに話を進めている。茂は一枚の招待状を差し出した。「これを早紀さんに直接届けて、来てもらいなさい」それは、凛を正式に迎える宴の招待状だった。だが利明は受け取らない。むしろ眉をひそめ、父を問い詰める。「赤ん坊を取り違えたなんて、わざわざ大勢に知らせるような話か?なんでこんな派手な宴を開くんだよ。政財界の人間まで呼んで……美雪が本当の娘じゃないって、わざわざ世間中に知らせたいのか?」美雪の
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第769話

美雪は利明の手をそっと振りほどいた。「お兄ちゃん、落ち着いて。ここは凛さんの家なんだから、戻ってくるのは当然だよ。それに、お兄ちゃんは凛さんのお兄ちゃんなんだから」「美雪、僕はお前の兄だ!」利明と美雪は3歳しか違わない。幼いころ、美雪は産後うつに苦しむ彰菜に抱き上げられたかと思えば突き放され、また抱き寄せられる――そんな不安定な日々を送っていた。そのたびに利明は父の真似をしながら、小さな妹の面倒を見てきたのだ。だから、いくら凛が血のつながった妹だとしても、自分の目の前で育ち、ずっと守ってきた美雪への情が、それだけで消えるはずがない。美雪はそんな利明をそっと抱きしめた。だが、すぐに離れる。以前は、茂が「兄妹でもある程度の距離は取ったほうがいい」と言う理由が分からなかった。しかし、凛の存在を知った今なら分かる。自分が神谷家で好きなように生きてこられた一方で、利明は家が決めた道を歩むことを求められてきた理由も……美雪は神谷家の人間ではない。だからこそ、神谷家の将来を背負わせる必要がなかったのだ。つまり、父はずっと前から、自分が実の娘ではないと知っていたのではないか?そう考えると、将希が語った「赤ん坊の取り違え」という話にも疑いが湧く。「あなたたち、また何を揉めてるの?」声に振り向くと、彰菜が階段を下りてきた。最近は精神安定剤を服用しているせいか眠気が強く、今まで休んでいたらしい。目を覚まして下りてきたところで、夫と子供たちが言い争っているのを見つけ、眉をひそめる。近くまで来ると、美雪の痛々しい笑顔と、利明の頬にうっすら残った赤い跡にも気づいた。「いったい何があったの?いつもお母さんの言うことを一番よく聞いてくれるんだから、美雪、あなたが話してちょうだい」美雪は茂と利明を見てから首を振った。「別に、なんでもないわ」だが、利明は黙っていられなかった。「凛さんのことで揉めたんだ」その名前を聞いただけで、彰菜は頭が痛くなった。「あの子、まだ戻ってきてもいないのに家の中がこんなにめちゃくちゃになって……本当に帰ってきたら、どうなるのよ。もう……本当に……」それ以上は、うまく言葉が出てこなかった。やがて、自分が28年間育ててきた娘へ目を向け、その手を強く握る。「大丈夫よ、美雪。あなたはずっとお母さんの娘だから。お母さんはあな
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第770話

数日後、凛のもとへ将希から電話が入った。凛の顔見せの宴の前日には、B市へ来るようにという連絡だった。空港には迎えを寄越すので、そのまま神谷家の本家に泊まれという。その電話を受けたとき、海斗はすぐ隣にいた。通話はスピーカーになっていたため、海斗は携帯に文字を打ち、それを凛に見せた。凛は画面を読み、わずかに言葉を詰まらせる。「神谷家に泊まる件については、私の……か、彼氏と相談してください」海斗を一度見てから、今度は自分の言葉で付け加えた。「前にも言いましたけど、神谷家に住むつもりはありませんので」「住めと言っているわけじゃない。宴の前後だけだ。せっかく戻ってくるのに、その2日すら本家にいないというのは体裁が悪いだろ?」すると海斗が、また携帯に文字を打った。凛はそれを見て、そのまま口にする。「海斗に言ってください」電話の向こうで、将希が黙った。海斗は確かに年下だから、普通なら年長者から一言言えば済む話だろう。だが、こと正式な話し合いとなれば海斗は「お願い」を聞くような相手ではない。必ず交渉になる。しかも、どんな条件を出してくるか分かったものではなかった。「まだ結婚もしていないのに、どうして海斗くんが決めるんだ?」海斗がまた文字を打つ。【彼は亭主関白で、強引だから】さすがに凛も、それは読まなかった。「私たちはもう付き合っています。大事なことなら、海斗の意見も尊重したいので」将希は黙り込み、「そうか」と一言だけ漏らして電話を切った。「なんで俺が書いたとおりに言わなかった?」海斗がゆっくり尋ねる。「凛がやりたくないことは、全部俺のせいにすればいいのに」海斗はすでにそうするつもりでいた。凛が神谷家へ戻ること自体は構わない。だが今後、神谷家から何かを求められ、凛が嫌だと思ったなら、すべて自分を盾にすればいい。海斗が反対している、海斗が嫌がっている。それで押し通せば、神谷家も簡単には手を出せないはずだ。「海斗を悪者にしたくないから」「俺がいつ良い人になった?」凛は真剣な顔で見つめ返した。「私にとっては、いい人だよ」海斗が一瞬黙り、ふっと笑った。「俺、別にいい奴じゃないけどな。特に凛に対しては……いろんな意味で」凛は純粋に首を傾げる。「今のところ分からないけど、どの辺が?」「聞かないほうがいい」海斗は親
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