All Chapters of 三百年の妻〜常夜の花嫁〜: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話「常夜の王」

村長と娘は、黄泉の国を抜けるために現世へ続く道を急ぐ……そして――大きな、深い、澱む闇へと飛び込んだ。身体が溶けるような感覚。時間も、空間も、感覚すらも失われていく。上下も分からない。呼吸も出来ない。ただ、娘の手だけが――確かにそこにあった。「……父上……」震える声。村長は、闇の中で必死に娘の手を握り返した。「離すな……もうすぐだ……!」闇が裂ける。光が走る。二人の身体は、異空間を突き抜け――現世へと叩き出された。地面に転がる。乾いた土の感触。風の匂い。生きている世界の空気。「……戻ってきた……のか……」村長が顔を上げた、その瞬間だった。 視界に飛び込んできたのは――巫女が語った通りの光景だった。 街は、死んでいた。 家々は黒く焼け焦げ、柱はねじ曲がり、道には村人達の死体が転がっている。井戸は干上がり、田畑は灰に覆われ、風が吹くたびに、砂のように崩れていく。人の声はない。鳥も鳴かない。虫の音すら存在しない。 世界そのものが――息をしていなかった。 娘が震えながら呟く。「……これが……現世……?」「そうよ...お帰りなさい。」二人の背後から声がする。振り向くとそこには、巫女が立っていた。巫女の言葉が、乾いた風のように耳を裂く。「娘よ...あなたは黄泉の国の民。元は現世の理から外れた存在なの。長くは持たないわ。」娘の身体が、小さく震えた。村長はすぐに前へ出る。「黙れ……!」怒声だった。「ここまで来たのだ……!全てを捨てて、全てを差し出して……ようやく連れ戻したのだぞ……!話が違う!!」握り締めた拳から血が滲む...「今さら死ぬなど――認めぬ!!」巫女は、静かに村長を見つめていた。責めるでもなく、哀れむでもなく。ただ――水のような冷たい目で。「話は、最後まで聞きなさい。娘を延命させたいなら...奪えばいいわ。現世の同じ歳ほどの生命力を...」村長が言葉を返す。「お前が、こういう状況にしたのだろ!?そんな事出来る訳ないに決まってる!」風が吹いた。灰が舞う。遠くで、崩れた家が音を立てて崩落する。「この村がこうなった理由……あなたが一番、分かっているはずよ。村長。」村長の呼吸が止まる。娘が、不安そうに父の袖を掴んだ。「…
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第12話「世界が足りない。」

第12話。その後――村長は動いた。近隣の村や集落へ、容赦ない討ち入りが始まる。夜の闇の中、進軍する影の列。それは生きた軍ではなかった。湖から這い上がった者。井戸から引きずり出された者。既に葬られたはずの村人たち。腐臭をまとい、無言のまま従う――死者の兵隊。彼らの目は白く濁り、ただ村長の背中だけを見つめていた。村長が叫ぶ...「ただいまより、ここにいる全ての者を我が村の復興への民とする!!逆らう事は許さん!!」外部からの抵抗も起きた。若者たちは武器を手に村長の軍に立ち向かった...だが...「なっ!?なんだこいつらは!?」「うわぁ!」「助けてくれ!!」しかし斬っても倒れない。刺しても止まらない。倒したとしても...死者は再び立ち上がり、女、子供を中心に強制収容していく。暴虐無尽な村長の行動に...悲鳴はやがて、祈りに変わった。「助けてください!助けて!っ...」収容された人たちを集めた広場に老人たちが選別される。逃げる力も、戦う力もない者たち...村長はゆっくりと歩み寄り、その顔を一人一人、確かめるように見つめた。「お前たちは……見せ物行きだ...」その声はもはや人の温度を持っていなかった...。やがて――磔が始まる。杭に打ち付けられる骨の音。乾いた夜気に響く。火が放たれる。炎は静かに、確実に、老人たちの身体を舐め上げていく。「従わなければ、次はお前たちだ!!」それを見て、さらに恐怖を増幅させる...怯え...村長に従っていく捕虜達...それを、村長はただ見つめていた。まるで収穫を確かめる農夫のように。空には月が見ている...その光の下で、死者の軍勢は次の村へと歩き出した。供物は、まだ足りない...娘を取り戻すには――世界が足りない。捕虜達は、焼け落ちた村へと連行される。かつて村長が代償にした場所...そこには今、死者と絶望だけが残っている。湖の周囲で男たちは強制的に働かされた。杭を打ち..土を掘り..木を切り倒す。収容所が作られていく..やがて屋敷が建ち始める。さらに畑が作られ、新しい村が形を成していった。それは決して復興ではなく支配の為の国造り。そこには逃げ場はなく...抵抗すれば、死者の兵に駆け込まれ兵が
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第13話「死にきれなかった命」

……………もう、それでよかった。この世に生を受けたこの身体は、もう穢れてしまったのだから。お腹の子には悪いと思う...けれど――私は母になる資格などない。母が願いを込めて名付けてくれた「澪」という名前も、今の私には重荷でしかなかった。生きることに、疲れてしまった。空を見上げると、満月が静かに輝いている...私は下腹部に手を当て、こぼれる涙を止めることができなかった。「ごめんね……私は、あなたを産めない……」震える声でそう呟く。「もし生まれ変わることがあるなら……今度こそ幸せになってね……」月が映る湖は、恐ろしいほど美しかった。まるで私を呼んでいるみたいに、静かに水面が揺れている。――澪。水の道。命が流れていく道。ならば私は、このまま流れてしまえばいい。そう思った瞬間、私は目を閉じて湖へ身を投げた。冷たい水が全身を包む。息ができない。苦しい。それでも、もう戻ろうとは思わなかった。やがて意識は暗闇に沈んでいった。………………どれほどの時間が経ったのだろう。気がつくと、私は底の見えない闇の中に立っていた。ここは……どこ?けれど、不思議と恐怖はなかった。「ああ……私は死んだのね……」ようやく、生きるという重荷を下ろせる。そう思った、その時だった。遠くから、誰かの声が聞こえた。――父の声だった。振り向くと、そこには血の気を失った顔で必死にこちらへ手を伸ばす父の姿があった。「迎えに来たぞ!!」どうして……どうして父がここにいるの?ここは――黄泉の国なのに....「お父様……お父様なのですか……!?どうしてお父様が.....!?」迎えに来た?...やめて...どうして...まだ私を苦しめるの?...「ここは黄泉の国……私はもう出られません。私のことは良いのです。だから...お父様はお帰りください。」「大丈夫だ!父に任せろ!さぁ、早く帰るぞ!」父はいつも勝手だ...。もう、私をここに置いていて..。父が遠くで、誰かと話をしたあとだった。父は荒い息を吐きながら、必死にこちらへ歩いてくる。その足取りは重く、まるで見えない何かに身体を引き裂かれているようだった。「お父様...どうして、こんな無謀なことを...どうして運命に逆らうのですか..
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第14話「供物の誕生」

「巫女様……昨日、湖に身を投じた者がございます。いかがなさいましょう……」「昨夜は満月よ。きっと黄泉へと渡ったのであろう……」巫女いろはは、静かに目を伏せた。湖の方角からは、まだ水の匂いが運ばれてくる。「亡骸は、その者の家族へ届けなさい。」「……承知いたしました。村の者に伝えます。」この村では、誰も死を悲しまない。私は――黄泉の国より生まれた怪異。主様が形を与え、魂を宿した存在...名は人が「いろは」と名付けた。主様はかつて、この村に黄泉への入り口を作られた。魂の始まりと終わりを循環させるために...そう、言い伝えられていた。その管理を人である神主と怪異である私に託された。それは人と怪異の協定でもあった。互いの世界に必要以上の介入をしないように日々...役割をこなしていた。湖での身投げがあった翌日だった。私と神主は、村長に殺害された。正確に表すと私は、殺されることを受け入れた。村長が来たのは、夜更けだった。満月はすでに傾き、湖は黒い鏡のように静まり返っている。社の戸が、開いた。神主はこの事を知っていたかのように声をかける。「..........遅かったな。」「お前たち...門を開けろ!今すぐだ!!」村長の怒号は続く...「迎えにいかせろ!!」神主はその怒号を返すように...「娘御は...黄泉に渡ったのだ。もう戻らぬ...」「黙れぇぇ!!!」「愚かな...」言葉は最後まで続かなかった。刃が、神主に振り下ろされた。肉を裂く鈍い音が、静寂の中に異様なほど鮮明に響く。神主の口から、熱い息とともに血が溢れた。何が起きたのか理解できないまま、膝から崩れ落ちる。村長は刃を引き抜くと、何度も、何度も突き立てた。怒りではない。泣き叫びでもない。ただ——壊れた機械のように。「……返せ」それだけを繰り返しながら。血が畳を染め、足元を滑らせても村長は手を止めなかった。やがて神主は動かなくなった。それでも刃は振り下ろされ続けた。肉が裂け、骨に当たる鈍い感触が夜に溶けていく。私は、その光景を見ていた。逃げることも、叫ぶこともせずに。村長の目が、ゆっくりとこちらを向く。そこに人の理性は残っていなかった。血に濡れた刃が、月光を受けて鈍く光る。私は一歩、前へ出た。止める
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第15話「起こるはずのない芽生え...」

それから久遠村の惨劇は、しばらく続いた。村長は支配下を拡大し、巫女いろはの「命薬」により、娘・澪は少しずつ人としての形を取り戻していく。すべてが――いろはの思惑通りに進んでいる。そのはずだった。その夜は満月だった。湖は静かに揺れている。風もないのに、水面だけが呼吸するように脈打っていた。その中央に――白い影が立つ。巫女、いろは。足は水に沈んでいるはずなのに、衣は濡れていない。それが、人ではない証だった。「……迷い人か」呟きは水面に溶けて消える。本来なら、この時点で終わるはずだった。湖に近づいた人間は二度と戻れない。それが、この村の理。だが――「迷ってはいません」声が返ってきた。恐れも震えもない、はっきりとした声だった。いろはの目が、ゆっくりと見開かれる。岸に立っていたのは一人の青年だった。月明かりに照らされながら、まっすぐこちらを見ている。逃げない。膝も震えていない。祈りもしない。ただ、立っている。「ここに来れば……死んだ人に会えると聞いた」湖が、わずかに波打った。常夜が反応している。「愚かな……」いろはは微笑む。その瞬間、世界が歪んだ。湖面から黒い手が無数に伸びる。足首を掴み、引きずり込むためのもの。いつもの光景だった。だが――青年は動かなかった。触れる寸前で、黒い靄が霧散する。まるで存在を拒まれているかのように。いろはの笑みが消えた。「……なぜ、恐れない?」問いは無意識に零れていた。青年は少しだけ首を傾ける。「怖いですよ」あまりにも普通の声だった。「でも――怖いからって、大切な人を迎えに来ない理由にはならない」その言葉が胸の奥に落ちた。音もなく。だが確かに、何かが割れた。怒りではない。軽蔑でもない。ましてや、獲物を見る感覚でもない。理解できない。理解したくない。なのに――視線を逸らせない。「名は……」気づけば問いかけていた。青年は少し笑う。「孝之助」満月が雲に隠れる。世界が一瞬、闇に沈んだ。その闇の中で――いろはは初めて知る。怪異には存在しないはずの感情を。胸が、痛い。月が戻る。だがもう遅かった。常夜の声が遠い。湖の水が、彼を拒んでいる。そして何より――自分が、彼を殺したくないと思ってしまっている。
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第16話「湖に囚われし想い」

孝之助は次の日も湖に現れた。 そして巫女いろはも、彼との再会を望み、湖にそっと立つ。 夜風が湖面を揺らし、月光が二人を銀色に包み込む。 「女神よ……おられるか?」 その声に、いろはは心の奥で小さな安堵を覚え、気を引き締めて答える。 「なんだ……孝之助。懲りない奴ですこと……さっさと帰りなさい」 孝之助は静かに言葉を返す。 「いや、違うのだ。私の半信半疑を押し切ってここまで来た。やはり、死者との再会を願うとは……女神が言う愚か、なのだ、と」 意外な言葉に、いろはの胸の奥で小さな脈が打つ。 「ふん! 当たり前のことを言うではない……わかったなら、さっさと立ち去れ」 しかし孝之助はさらに言葉を重ねた。 「だから、最後にここが黄泉との門であれば、謝りに来たのだ。あちらでも達者でな、と伝えに……」 「謝り……?」 「そうだ! 私は昨夜の月に照らされる女神、其方に心底惹かれてしまったようだ。移り気な自分の不甲斐なさと、其方のお姿に惚れてしまったようだ!!」 静かな夜空に響く孝之助の声は、まるで太陽の光のように、いろはの胸に真っ直ぐ届く。 「またまた愚かよ、孝之助。あなたは……本当に、懲りないのだから」 いろはは小さく笑った。だが、心の奥底では少しだけ温かさが広がるのを感じていた。 夜風と湖面に反射する月光が、二人を優しく包む。 「愚かでも、いいのだ。 なのでその愚か者は、黄泉に送られた方に謝罪をしてこの地を去ろうと思う。 其方にも迷惑をかける前に……」 その言葉に、いろはは息を飲む。 (この地を去る……) 胸に戸惑いが走る。 「……孝之助。それは許さぬ……今、其方は妾に惚れたと申しただろう。なら私に仕えても良いのだぞ」 「それは本当か! ありがたいお話だが……では許してもらわぬようにしてみたい」 孝之助は微笑む。湖の波音だけが、二人の間の沈黙を優しく満たす。 いろはも、自分でも驚くほど素直に、心の内を吐露した。 「……なら、少しだけ、妾の話を聞きなさい」 彼女の声は夜の静けさに溶け込み、確かに孝之助に届いた。 その時だった―― 湖が激しく水面を叩くように騒ぎ始める。 「なんだ!?」 孝之助が身構えた瞬間、背後から湖の水が球体のように彼を包み込む。 必死にもがき、声を上げる。 「もがっ! ぐぁ……」 「大丈
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第17話「神罰──人へ」

湖は光を帯びて渦を巻き、月光さえも揺らす。 いろはは膝を折り、声も出せず―― ただ、目の前の孝之助を守りたいという衝動と、主様の叱責の重みの間で揺れ動いていた。 その瞬間、世界は静止したかのように。 二人だけが、選択の狭間に立たされていた。 「……時間切れだ」 「いろはよ……」 「そんなに人になりたくば――」 「人に堕ちてしまえ」 「お待ちください!!主様!主様ぁ!!」 その声と同時に、湖から立ち上る月光が―― ひとつの“矢”へと姿を変えた。 次の瞬間。 それは、いろはの背を――貫いた。 「いやぁあああああ――!!」 絶叫とともに、光が二人を包み込む。 意識が遠のく中―― 最後に響いたのは、冷酷な宣告だった。 「いろはよ……二度と黄泉への立ち入りは許さない」 ―――――――――― 「女神よ……女神様よ!」 「女神様!目を覚ましてください!」 遠くから呼ぶ声。 いろはは――孝之助の腕の中で、ゆっくりと瞼を開いた。 「……孝之助……生きてるの……?」 「ああ……!よかった……本当に……!」 安堵に震える声。 そのまま、孝之助はいろはを強く抱きしめた。 抱きしめる孝之助の体温を感じる。 鼓動を感じる... 「孝之助よ...妾の心を手を当てて...」 「あぁ!わかった!女神様」 孝之助が胸に手を当てる... 「これでよいか?...」 孝之助の手の温もりが――やけに重い。 「……!?....」 いろはは、かすかに眉をひそめた。 いつもなら、触れられても感じないはずの体温。 鼓動。 息遣い。 それが今は――やけに近い。 うるさいほどに、伝わってくる。 「なに……これ……」 胸に手を当てる。 ドクン。 ドクン。 ドクン―― 「……っ」 跳ねるような鼓動に、息が詰まる。 こんなもの、知らない。 こんな“重さ”――知らない。 「息が……苦しい……」 空気を吸うたびに、胸が軋む。 喉が焼けるように痛い。 視界が揺れる。 「いや……なに……これ……」 手が震える。 足に力が入らない。 立てない。 ――怖い。 初めて感じる、どうしようもない恐怖。 「
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第18話「満ちる命、選ばれる供物」

それから孝之助といろはは、久遠村から 少し離れた集落にて、暮らしを始めた。 「女神よ!今帰ったぞ!」 嬉しそうな表情を浮かべ扉を開ける。 部屋にいたいろはも笑う。 「私はいろはと名を伝えたでしょう。 いろはと呼んでください。旦那様。」 そんな他愛ない日常に幸せを感じていた。 幾度も朝と夜を重ねるうちに 二人の距離は、言葉を交わさずとも伝わるほどに近づいていった。 生活を共にすることにより さらに互いの愛を深めていく。 そして—— その愛は、確かな形となる。 人として生きるいろはの体に、 新たな命が宿った。 とある晩のことだった。 二人は布団に入り、静かな夜を迎えていた... 「なぁ、いろはよ。 やはりお前は、女神だ。 共にいて、幸せな毎日をくれる。 そして私達に新しい家族ができた! これ以上にない幸せだ。」 いろはは、孝之助の手を握り笑顔で 「私もですよ。旦那様...いや孝之助。 あなたは私を人にしてくれた。 愛を教えてくれた。 そして今度は、母にしてくれるんですもの。 一生愛してますよ。」 二人は、こうして互いに愛を誓い... お腹の子との対面を夢見ながら眠りについた。 その頃、久遠村では... 村長が側近達を呼び出し、 とある計画の指示が下される。 「いいか!皆の者! 今、村で起きている全ての事は、 私が黄泉の国から受けた指示のもと 行っていたのだ!!」 周りが驚愕する中、村長は話を続ける。 「我が村を壊滅に追い込んだ怪異を使いとして このような惨劇を望まれた。 でなければ、この世全てを闇に堕とすと 脅されていた。 本当に申し訳ない事をした!」 「悔しい思いをした者もいよう。 恐怖に怯えた夜を思い出せ。 全ては黄泉の国が起こした惨劇だ! 私が先頭に立つ! 黄泉の国へ討ち入りに参る! 我が意志に賛同する者よ! 手を挙げろ!声をきかせてくれ!」 側近達はそれぞれに手を挙げ、 賛同の意志をみせる。 そして、全員の手が上がったその時 村長が号令を宣誓した。 「決戦は次の満月の晩。 黄泉の国討ち入り作戦を開始する」 村長が企てた作戦はこうだ。
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第19話「信じてくれる?」

運命の時はあまりにも突然だった。 孝之助は、集落の長に呼び出される... 普段、人を呼びつけるような人物ではない。 それだけで、胸の奥にざわつくものがあった。 「……失礼いたします」 戸を開けると、長はすでに座して待っていた。 「来たか、孝之助」 低く、重たい声。 その空気だけで、ただ事ではないと悟る。 「本日は、どのようなご用件で……」 孝之助がそう問うと、長はゆっくりと口を開いた。 「昨晩――久遠村で儀が行われた。 私も参加してきたのだが...」 その言葉に、孝之助の眉がわずかに動く。 久遠村。 決して口にすることすら好まれぬ、 忌まわしき地 今や惨劇が繰り返される場所... 「……それが、私に何か?」 静かに返すが、内心では嫌な予感が膨らんでいた。 長は一拍置き、まっすぐに孝之助を見据える。 「お前の妻――いろはを、久遠村へ遣わしてほしい」 ――その瞬間。 空気が、凍りついた。 「……は?」 思わず漏れた声は、抑えきれない動揺を含んでいた。 「何を……仰っているのですか」 孝之助の声は低く、明らかな拒絶を帯びていた。 「いろは殿の美貌は他所に引けを取らぬ。そういう女性をと...久遠村より、直々の要請だ」 「だからといって――」 孝之助は一歩、踏み出す。 「なぜ、あのような場所へ……!」 感情が滲む。 長はそれを制するように、静かに言った。 「名誉なことだ」 「名誉……?」 「昨夜、久遠村はこの惨状を終わらせると 話をしておった。 いろは殿も、直ぐに帰ってこられよう... これは、お前たちにとっても――この集落にとっても、誉れである」 その言葉に、孝之助は強く首を振った。 「断ります」 間髪入れず、言い切った。 「いろはは……私の妻です。 危険な地へ送り出す理由など、どこにもない」 その声音は、はっきりとした意思を帯びていた。 ――しかし。 長の目が、わずかに細まる。 「……そうか」 静かな声。 だが、その奥にあるものは――冷たい圧だった。 「ならば、話は簡単だ」 長は淡々と言い放つ。 「受けぬのであれば……この集落を出ていってもらう」 「……っ」 孝之助の呼吸が止まる。 「お前たちは元は他所者だ。 この地で暮らせているのは、我らの庇護があってこそ
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第20話「戻れぬ場所」

「孝之助……」いろはの、あの優しい声だった。だが――どこから聞こえているのか、分からない。先ほどの抵抗で受けた傷が、致命だったのだろうか。身体の感覚が、ひどく曖昧だ。痛みもない。息苦しさもない。ただ、“生きている感覚”だけが、ない。「……俺は……」声を出したはずなのに、音がしなかった。「……死んだのか……」その言葉だけが、やけに重く沈んでいく。――……気がつくと。そこは、見覚えのない場所だった。集落でもない。あの忌まわしい湖でもない。光はなく、影すら存在しない。ただ、どこまでも続く――暗闇。「……なんだ、ここは……」足を動かした――はずだった。だが。進んでいるのか、止まっているのかさえ分からない。その時。――ちゃぷん。水の音が、した。「……っ」反射的に振り向く。だが、何もいない。「……いろは……?」呼んだ瞬間。足元に、冷たい感触が広がった。水だ。気づけば、膝のあたりまで沈んでいる。「なっ……」いつの間に。一歩も動いていないはずなのに。――ちゃぷん。また、音がした。今度は、すぐ後ろ。振り向く。――誰もいない。だが。「……孝之助」確かに、聞こえた。耳元で囁くように。あの声が。「いろは……どこだ……!」叫ぶ。だが、返事はない。代わりに――足元の水が、ゆらりと揺れた。その奥で。“何か”が、動いた。長い髪のような影。絡みつくように、ゆっくりと。そして。――ぬるり、と。水の中から、手が伸びてきた。「……っ!?」それは――明らかに、人のものではなかった。手を掴まれ、引きずり込まれようとする。逃れようと足掻くが、力が入らない。――その時。「手を出すな」低く、静かな声。「そいつは――私の客人だ」次の瞬間。足元に絡みついていた“それ”は、音もなく消えた。水面は、何事もなかったかのように静まる。「……っ」息を呑む。目の前で、闇が揺れた。霧のような黒が、ゆっくりと形を持ち始める。やがて――一人の女の姿を成した。「……あなたは……」問いかける。だが女は答えない。ただ、こちらを見下ろしている。その瞳は――底が見えないほど、暗い。「ようやく来たか」ぽつりと、呟く。「ここがどこか、分かるか」答えられない。ただ、嫌な確信だけが
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