All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 131 - Chapter 140

206 Chapters

第131話 すずらんの毒を追って①

 大理石のローテーブルの上に散らばったケーキの空き箱と、ソースの拭い残しがある白い小皿。 ペントハウスのリビングは、バターと砂糖の甘ったるい匂いに占領されていた。 ソファに深く腰を下ろした銀髪の来訪者は、最後の一口だったモンブランを綺麗に飲み込むと、満足げに大きく伸びをした。「あー、食べた食べた。人間の甘いものって、すぐ消えちゃうけど、その一瞬のためにすごい手間かかってるよね」 指先についたクリームをペロリと舐めとりながら、機嫌よく両足をブラブラと揺らしている。 その対面のソファでは、ダークグレーのシャツの胸元を少し開けた巨体が、腕を組んだまま、氷のように冷たい視線を突き刺していた。 吐き出される呼吸が重く、低い。テーブルを挟んでいるのに、その分厚い胸板から発せられる熱波が、空調の冷風を完全に相殺して肌をじりじりと炙ってくる。「食い終わったなら、さっさとこの部屋から立ち去れ。それ以上お前の吐く息が混ざれば、空気が澱む」 低い声が、フローリングを微かに震わせる。 しかし、白亜と呼ばれた銀髪の少女は、その威圧感をそよ風程度にしか感じていないらしく、悪びれもせずに鼻をスンッと鳴らした。「澱んでるのは私じゃなくて、そっちの服じゃない? なんか、さっきからずっと焦げ臭いような、線香が腐ったような嫌な匂いが微かにしてるんだけど」 その指摘に、シャツの胸元がピクリと動いた。 黄金の瞳がわずかに眇められ、組んでいた太い腕が解かれる。大きな手が無造作にスラックスのポケットへと突っ込まれ、中から小さな銀色の塊が引きずり出された。 ポイッ、と。 放り投げられた銀色の塊が、大理石のテーブルの上でカチンッ、カチンッと硬い音を立てて転がり、やがて中央で動きを止めた。 すずらんの花を象った、古い銀のブローチ。 有栖川の屋敷を追い出されたあの雨の夜、ボロボロのポシェットの底に唯一隠し持っていた、亡き母の形見だった。 数日前、このブローチにこびりついていた赤黒い脈動のようなものを、目の前の高い体温を持つ主が青白い炎で焼き払ってくれたのだ。「俺が表面の不浄な膜を焼き切った、このガラク
last updateLast Updated : 2026-05-14
Read more

第132話 すずらんの毒を追って②

 生きるための熱を、別の場所に送る。 その言葉が、耳の奥でべっとりとした粘り気を持って反響した。 胸の奥で、厳重に蓋をしていた記憶の箱が、キィと嫌な音を立てて開く。 ――母は、いつも薄暗い部屋のベッドの上で、身を縮めるようにして咳き込んでいた。 差し出される手は骨と皮ばかりで、触れると驚くほど冷たかった。部屋にはいつも、安価なラベンダーの石鹸の匂いと、薬品の匂いが混ざっていた。『ごめんね、瀬理亜。お父様たちの迷惑にならないように、静かにしていなさいね』 無理に笑おうとする青白い顔。 医者は首を傾げ、「原因不明の衰弱」だとさじを投げた。 けれど、父は母のベッドの横に立つたび、心配するどころか、いつもイライラと革靴のつま先で絨毯を叩いていた。『有栖川の当主である私の妻が、いつまでも寝込んでばかりで役に立たないとは。全く、貧乏くさい女だ』 ひたすらに舌打ちをこぼし、病室の空気を冷たく張り詰めさせていた。 そして継母が屋敷に入り込んでから、母の部屋からは少しずつ家具が減り、代わりに継母の部屋には、海外から取り寄せた派手なシャンデリアや、高価な絵画が次々と運び込まれていった。「……これをずっと身につけてた人は、どうなるんですか」 自分の口から出た声は、驚くほど低く、抑揚のない平坦な音だった。「数年で、内側からカスカスになって灰になるね。病気とかじゃなくて、純粋な餓死みたいなもの。吸い上げられた熱は全部、パイプの行き先に吸い取られるから」 餓死。 母は、病で死んだのではなかった。 有栖川の家をさらに豊かにし、父や継母が虚栄の城を築くための、ただの燃料としてくべられていたのだ。 幼い頃、私は母の枕元で何度も小さな手を握った。冷たくなっていく指先を、どうにか温めたくて、両手で包み込んだ。 けれど、どれだけ擦っても、母の手は温かくならなかった。あの時、私が足りなかったのは優しさではなく、真実を知るための力だったのだ。 胸の奥に、悲鳴になり損ねたものが沈んでいく。泣きたいのに、涙は出なかった。涙を流すより先に、母の命
last updateLast Updated : 2026-05-14
Read more

第133話 すずらんの毒を追って③

 ドクン、ドクンと、自分の心臓の音が耳障りなほど大きく響く。「……ッ」 不意に、隣から部屋の空気を焦がすような強烈な熱波が膨れ上がった。 バキッ、と。 大理石のローテーブルの脚に、細かいヒビが入る乾いた音が鳴る。 ソファに座っていた巨体が、無言のままゆっくりと立ち上がっていた。 分厚い胸板が、激しく上下している。シャツの胸元から覗く肌が、異常な高熱を帯びて赤黒く変色し始めていた。「……やはり、あの夜に屋敷ごと踏み潰しておくべきだった」 喉の奥で、巨大な岩盤が削れ合うような低い音が鳴る。 黄金の瞳孔が限界まで細まり、視線の先にはもうこの部屋の光景は映っていないようだった。ただ、有栖川の屋敷の人間たちを物理的に引き裂く光景だけを幻視している。「母親を食い潰し、娘まで同じように消費しようとしていたゴミ共だ。今すぐ、一匹残らずこの手で……」 太い腕がゆっくりと持ち上がり、拳が硬く握り込まれる。 その拳の表面に、人間の皮膚とは違う、硬質な黒い鱗が皮膚を突き破って浮かび上がりかけていた。 部屋の温度が跳ね上がり、呼吸をするだけで気管が焼けるように熱い。 だが、私はその燃え盛るような太い右腕を、両手でしっかりと掴んだ。「……だめです」 ピタリ、と。 握り込まれた拳の動きが、空中で止まった。「なぜ止める。あいつらは、お前の親の命を……」「わかっています」 腕から伝わってくる熱は、本当に火傷をしてしまいそうなほど高温だった。 それでも、手を離す気にはなれなかった。指の腹に力を込め、硬い筋肉の隆起を押さえつけるように握りしめる。「この手を、あんな人たちのために使いたくありません」 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。「私の母を燃料にして太った人たちを、わざわざ綺麗に掃除してあげる必要なんてないんです。……それに」 息を一つ吸い込み、
last updateLast Updated : 2026-05-15
Read more

第134話 すずらんの毒を追って④

 鍵。「それがないと、パイプは完全に繋がらない。逆に言えば、その鍵を見つけて壊さない限り、お姉さんの中に残ってる血筋の熱も、まだ有栖川の土地に引っ張られ続ける危険があるってこと」 対になるもの。 祖母が残したもの。 目を閉じると、白檀の線香の匂いと共に、一つの記憶が鮮明に蘇ってきた。 山奥の古い社で、祖母がいつも首から下げていた、重ったらしい銀のロケット。『瀬理亜、これはね、私たちを守るための大切な蓋なんだよ』 しわがれた手で撫でられた、そのロケットの表面。 そこには、母のブローチと全く同じ、すずらんの花の細工が施されていた。「……おばあ様の、ロケット」 目を開けて、テーブルの上に転がるブローチを見つめる。「おばあ様がいつも身につけていた、すずらんの模様が入った銀のロケットがあります。多分、それが対になる鍵です」「ビンゴかもね。で、それは今どこにあるの?」「……おばあ様が亡くなった後、遺品として有栖川の地下の『奈落』に、他の古い荷物と一緒に放り込まれたはずです」 その言葉に、銀髪の少女はパンッと軽く手を叩いた。「じゃあ、明日の目的地は有栖川の地下室で決定だね。お宝探しついでに、その薄気味悪いパイプの元栓も完全にぶっ壊してこようか」「お前は来るな。騒々しくて足手まといだ」「はあ!? 最初に地下の匂いに気づいたのは私なんですけど! 恩知らずのトカゲめ!」 ソファ越しにギャーギャーと再び言い争いを始める二人の姿を見ながら、テーブルの上の銀のブローチをそっと手に取った。 金属の冷たい感触が、指先から手のひらへと伝わってくる。 有栖川の家には、もう何の未練もなかった。あの冷たい地下室も、埃っぽい屋根裏部屋も、すべて捨ててきた過去だと思っていた。 でも、このまま見えないパイプに繋がれたまま逃げているだけでは、母の命を食い物にしたあの家と、本当の意味で縁を切ることはできないのだ。 隣で、深く息を吐き出す音が聞こえた。「…&hellip
last updateLast Updated : 2026-05-16
Read more

第135話 完璧な御曹司の崩れた笑顔①

 こめかみの奥で、重たく湿った鉛の塊が一定のリズムで内側から頭蓋骨を叩き続けている。 ズキン。ズキン。 眉間を右手の親指と人差し指で強く挟み込むように揉みほぐすが、鈍い痛みの芯は一向に引く気配を見せない。 獅子王グループ本社、最上階に位置する役員室。 防音ガラスで覆われた窓の向こうには、東京のビル群を白く飛ばすような初夏の日差しが降り注いでいる。だが、室内の空調は完璧に設定されているはずなのに、ワイシャツの背中には不快な汗がべったりと張り付いていた。 マホガニー調の重厚なデスクの上に広げられた決算報告書。そこに並ぶ細かい数字の列が、焦点が合わずにぐにゃりと波打って見える。 コンタクトレンズが乾いているわけではない。眼球の奥から、神経を直接ヤスリで削られているような疲労が視界を歪ませているのだ。 コン、コン。 控えめなノックの音と共に、分厚い扉が開いた。「失礼いたします。次回の取締役会の資料と、お茶をお持ちしました」 秘書の女性が、静かな足取りでデスクに近づいてくる。 書類の束が置かれるバサッという音。続いて、白い陶器のカップがソーサーに乗せられるカチャリという乾いた高い音。 そのわずかな金属音でさえ、今の過敏になった鼓膜には、ガラスを引っ掻くような鋭いノイズとして突き刺さる。 カップから立ち上る、深く焙煎されたコーヒーの匂い。普段なら頭をクリアにしてくれるはずのそのカフェインの香りが、今日は胃の底を直接かき回すような強烈な吐き気を誘発した。「……下げてくれ」 喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。 秘書の動きがピタリと止まる。「え……? ですが、いつもこのお時間は……」「匂いが鼻につくと言っているんだ。さっさと下げろ」 語気が荒くなるのを止められなかった。 秘書はビクッと肩を震わせ、慌ててカップをトレイに戻し、逃げるように役員室から退出していった。 扉が閉まる重い音を聞きながら、革張りのオフィスチェアに深く背中を預ける。
last updateLast Updated : 2026-05-17
Read more

第136話 完璧な御曹司の崩れた笑顔②

 だが、その判断が、これほどまでに自身の生活の基盤を崩壊させるとは。(……馬鹿馬鹿しい。俺が、あの程度の女に依存していたというのか) デスクの上に両肘を突き、両手で顔を覆う。 愛情などではない。あんな自己主張のない、地味な女に恋愛感情など湧くはずがない。 あれはただの「便利な環境調整機能」だ。最高級の空気清浄機をうっかり捨ててしまったことで、都会の汚れた空気を直接吸い込み、体がアレルギー反応を起こしているだけだ。 そう、ただの機能の欠如。 ならば、その機能を取り戻せばいいだけのこと。 だが、頭に浮かぶのは、有栖川の屋敷の窓ガラスをすべて吹き飛ばした、あの巨大な漆黒の男の姿。 部屋の温度を一瞬で絶対零度まで引き下げるような、人知を超えた暴力の塊。 正面から挑んで、勝てる相手ではない。 こめかみの拍動が、さらにスピードを増した。 ◇ 夜の帳が下りた、銀座の高級料亭。 しっとりと水が打たれた石畳の入り口を抜け、案内された奥の個室。 畳のい草の匂いと、微かに漂う出汁の香りが、本来なら食欲を刺激するはずの空間。 しかし、その上品な和の香りは、隣に座る存在から絶え間なく放たれる強烈な異臭によって、完全に蹂躙されていた。「んー、このお刺身、すっごく新鮮! ねえ、写真撮ってもいいですか?」 甲高く、耳の奥を直接引っ掻くような声。 麻里亜が、鮮やかに盛り付けられた造りの皿にスマートフォンのレンズを向け、カシャッ、カシャッと無遠慮なシャッター音を連続して響かせる。 隣に座る取引先の老社長が、ピクリと眉をひそめたのが見えた。「麻里亜。食事の席だ。少し控えなさい」 声を低くして注意するが、麻里亜は悪びれる様子もなく、尖った真っ赤なアクリルネイルでスマートフォンの画面をタップし続ける。「だって、すごく綺麗なんだもん。すぐにストーリーに上げないと。……あ、フィルターこっちの方が美味しそうに見えるかな」 動くたびに、バニラとムスクの重たく甘ったるい香水が、
last updateLast Updated : 2026-05-17
Read more

第137話 完璧な御曹司の崩れた笑顔③

 会話が、うまく頭に入ってこない。 老社長が語る新規プロジェクトの展望も、契約の細かい数字も、すべてが水底で響くノイズのようにくぐもって聞こえる。 相槌を打つタイミングが、半拍遅れる。 愛想笑いの筋肉が、限界を告げてヒクヒクと痙攣し始める。「……理恩くん? どうかしましたかな。顔色が優れないようだが」「えっ? あ、いえ、何でもありません。少し、冷房が強いようで……」 額に浮いた冷や汗を、指先で素早く拭い取る。 隣では、麻里亜が「私は全然寒くないですよー?」と的外れな口を挟んでくる。 殺意すら湧き上がるほどの苛立ち。 テーブルの下で、膝の上に置いた両手をギリリと固く握りしめた。 このままでは、獅子王の看板に傷がつく。 完璧でなければならない。いかなる時も、冷静に、すべてをコントロール下に置くのが、次期当主としての絶対条件だ。 なのに、隣で喚くこの欠陥品のせいで、そして、あの優秀な環境調整機能を失ったせいで、すべてが崩れかけている。「ところで、例の三崎臨海再開発の件ですが」 老社長が盃を置き、穏やかな声で切り出した。ようやく本題に入ったのだと理解し、理恩は背筋を伸ばす。「ええ。白河中央再開発の件でしたら、弊社としても前向きに――」 言い終える前に、個室の空気がすっと冷えた。老社長の笑みが、薄い和紙のように音もなく剥がれ落ちる。「……白河ではありませんよ、理恩くん。三崎臨海です。前回の会合から、ずっとその話をしていたはずですが」 しまった、と気づいた時には遅かった。隣で麻里亜が「え、どっちでも似たような名前じゃないですか」と笑い、老社長の眉間に深い皺が刻まれる。「失礼しました。少し、資料の確認が混線しておりまして」 完璧な営業スマイルを貼り直そうとしたが、頬の筋肉が思うように動かない。獅子王の次期当主が、重要案件の名前を取り違えた。その事実が、畳の上に落ちた墨のように、じわじわと場を汚していく。 ◇ 長時間の拷問のよ
last updateLast Updated : 2026-05-18
Read more

第138話 完璧な御曹司の崩れた笑顔④

「図星でしょ! あんな、家を追い出されて化け物に拾われた泥棒猫のどこがいいのよ! あんな陰気な女より、私の方がずっと理恩の隣にふさわしいのに!」 ギャーギャーと叫ぶ麻里亜の顔は、嫉妬と劣等感で醜く歪んでいる。 自分の方が優れていると信じ込みたいがゆえの、ヒステリックな自己防衛。 この空っぽな女は、有栖川の血を引いているというただ一点の価値しかない。(お前より、あの地味な女の方が百倍マシだった) 喉まで出かかったその言葉を、唾液と共に飲み下す。 今ここでこの欠陥品を怒らせて有栖川との関係を悪化させるのは、得策ではない。「……車を停めろ」 運転席の運転手に向かって、低く命じた。 車が路肩に静かに停車する。「降りろ」「は……?」 麻里亜が、目を丸くして固まった。「今日はもう疲れた。君の相手をしている余裕はない。タクシーで帰れ」「な、何言ってるの!? こんな夜中に、私を一人で……」「降りろと言っている」 声のトーンを一段階落とし、一切の感情を排した視線を突き刺す。 その絶対的な拒絶の空気に、麻里亜はヒッと短く息を呑み、怯えたように口をつぐんだ。「……最低!」 バツンッ! とドアを乱暴に開け、ヒールを鳴らして外へと飛び出していく。 ドアが閉まり、ようやく車内に静寂が戻った。 運転手に合図を送り、車を再び発進させる。 窓を少しだけ開け、夜風を入れて車内の香水の匂いを追い出す。 ネクタイを乱暴に引き抜き、シートの横に放り投げた。 ズキズキと痛むこめかみを指で押さえながら、大きく、深く息を吐き出す。 限界だ。 あの機能を取り戻さなければ、俺の生活基盤は完全に崩壊する。 愛だの恋だのという、下らない感情ではない。これは純粋な、自己保存のための防衛本能だ。 胸ポケットに手を入れる。 指先が、冷たく硬いものに触れた。 
last updateLast Updated : 2026-05-18
Read more

第139話 麻里亜の焦燥と、偽りの聖女①

 タクシーの後部座席に体を投げ出すと、合成皮革のシートが冷たく背中に張り付いた。 窓ガラスを打ち付ける雨音と、ワイパーがゴムを擦る単調な音が、狭い車内に響き続けている。 膝の上に置いたブランド物のバッグを、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。尖ったアクリルネイルの先が、柔らかい子牛の革に食い込み、小さな三日月型の跡を残していく。「……っ、ふざけないでよ」 真っ赤に塗られた唇から、ギリギリと空気が漏れる。 深夜の六本木。高級レストランでの食事の帰り道。 突然、車を路肩に停められ、そのまま夜の街に放り出されたのだ。 完璧なエスコートを約束されていたはずのデートが、どうしてこんな無様な結末を迎えなければならないのか。 バッグの金具をいじりながら、荒い呼吸を繰り返す。 鼻腔にまとわりつくのは、自分自身がたっぷりと振り撒いたバニラとムスクの香水。いつもなら自信を与えてくれる甘い匂いが、今はタクシーの芳香剤の安っぽい柑橘系の匂いと混ざり合い、強烈な吐き気を催させていた。「お客さん、着きましたよ」 運転手の無愛想な声にビクッと肩を跳ねさせる。 窓の外には、見慣れた有栖川本邸の重厚な鉄門が、雨に濡れて黒々とそびえ立っていた。 財布から乱暴に紙幣を引き抜き、お釣りも受け取らずにドアを蹴り開ける。 バタンッ、という大きな音が夜の静寂を切り裂いた。 足元の水たまりを避けようともせず、高いヒールで濡れた石畳を踏み荒らして進む。泥水が跳ね上がり、薄いピンク色のシルクのドレスの裾に汚い染みを作っていくが、そんなものを気にする余裕など微塵もなかった。 玄関の重い扉を押し開け、大理石の床にヒールを乱暴に叩きつける。 深夜の屋敷はひどく静まり返っており、常夜灯のオレンジ色の光だけが長い廊下をぼんやりと照らしていた。 リビングからは何の物音も聞こえない。両親はすでに二階の寝室で眠りについているのだろう。「……なんで、私がこんな目に」 階段の手すりに掴まり、一段一段、重い足取りで上っていく。 
last updateLast Updated : 2026-05-19
Read more

第140話 麻里亜の焦燥と、偽りの聖女②

「……絶対に、あいつのせいだわ」 自室のドアを乱暴に開け、部屋の中央にバッグを投げ捨てる。 ドサッ、と鈍い音がして、中からリップスティックやコンパクトが絨毯の上に散らばった。 ドレッサーの前に座り込み、鏡に映る自分の顔を睨みつける。 雨と湿気で髪の巻きはすっかり取れ、だらりと肩に垂れ下がっている。完璧に引かれていたアイラインは滲み、目の下を薄黒く汚していた。 コットンにたっぷりとクレンジングオイルを含ませ、肌が赤くなるほど強く顔を擦る。 あいつ。あの、日陰でジメジメと苔でも育てていそうな、薄暗い女。 家を追い出されて、どこかで野垂れ死んでいると思っていたのに。 あんな、見上げるほど巨大で、高級なスーツを着こなした男に囲われて、タワーマンションの最上階でふんぞり返っているなんて。「生意気なのよ。いつもいつも、私のものを横取りして」 コットンの繊維が肌に擦れる痛みが、苛立ちをさらに加速させる。 有栖川の本当のお嬢様は、この美しい顔を持った人間だけだ。 あんな、母親譲りの貧乏くさい顔をした女が、どうしてあんな特別な扱いを受けているのか。 化粧を落とし終えた顔に、冷たい化粧水をバシャバシャと叩き込む。 鏡の奥の瞳が、血走ってギラギラと光っていた。 ◇ 翌朝。 一睡もできないまま迎えた朝のダイニングルームは、銀の食器が擦れる音すら気を遣うほどの、ひどく重く、息の詰まる空気に支配されていた。 長いマホガニーのテーブルの端。 有栖川宗隆は、運ばれてきたばかりのコーヒーカップに手を伸ばしたまま、眉間を深く寄せてスマートフォンを睨みつけていた。 厚い胸板が、短く早い呼吸で上下している。「……また、キャンセルだと?」 低い、唸るような声がダイニングに響いた。 向かいの席でトーストにバターを塗っていた手が、ピタリと止まる。継母が、おずおずと顔を上げた。「あなた、どうしたの?」「獅子王グループからの連絡だ。今日の午後に予定され
last updateLast Updated : 2026-05-19
Read more
PREV
1
...
1213141516
...
21
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status