All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 141 - Chapter 150

208 Chapters

第141話 麻里亜の焦燥と、偽りの聖女③

「……体調不良、ですか。昨日も会食の途中で、ひどく顔色が悪そうでしたけど」 消え入りそうな声で口を挟むと、二人の鋭い視線が一斉にこちらへ突き刺さった。「会食の途中?」 宗隆の目が、眇められる。「お前、昨夜は理恩くんと一緒だったのだろう。なぜ彼の体調を気遣い、うまく立ち回らない。相手を立てて気分良くさせるのが、お前の役目だろうが」「そ、それは……」 深夜の通りに車から放り出されたなどと、言えるはずがなかった。「私がいくら気を使っても、理恩がずっと上の空で……全然、話を聞いてくれなくて」「上の空にさせているお前が悪いのだろう!」 ドンッ、と。 分厚い手がテーブルを叩き、銀のフォークがガチャリと跳ねた。「見栄えが良いからと、わざわざあの出来損ないの長女を追い出してまで、お前を獅子王の隣に据えてやったのだ。それなのに、相手の機嫌一つ取れず、仕事の足まで引っ張るつもりか!」 怒声が、鼓膜をビリビリと震わせる。「私のせいじゃありません! 理恩が勝手にイライラして、八つ当たりしてくるだけで……」「言い訳など聞きたくない。お前は、顔だけは良いが、中身は本当に空っぽだな」 冷ややかな声が、横から降ってきた。 トーストをかじっていた継母が、ひどく軽蔑したような目でこちらを見下ろしている。「瀬理亜は、確かに薄暗くて陰気だったけれど。黙って裏方に回り、男の靴を磨き、肩を揉み、機嫌を取ることだけは完璧にこなしていたわよ。……お前は、あの泥棒猫の代わりすら満足にできないの?」 血の気が、一気に足元へと引いていくのがわかった。 瀬理亜の代わり。 あの、埃まみれの雑用係の代わりすらできないと。 胃の奥がギュッと雑巾を絞るように収縮し、昨日の夕食から何も食べていないというのに、強烈な吐き気が込み上げてくる。「……私は、あの女の代わりなんかじゃありません」 震
last updateLast Updated : 2026-05-20
Read more

第142話 麻里亜の焦燥と、偽りの聖女④

「あんな特大の軍事力を、あの薄暗い娘がどうやって手懐けたのかは知らんが。……理恩くんが探偵を使ってまで瀬理亜を血眼になって探しているのも、あの男のパイプが目当てなのかもしれんな」 葉巻の先端に火がつけられ、紫煙がダイニングの天井へと昇っていく。 煙の匂いが、鼻腔の奥にこびりついたバニラの香水と混ざり合い、ひどく不快な刺激を生み出す。 頭の中で、いくつかの情報がバラバラのパズルのピースのように散らばり、そして、ひどく歪な形に組み上がっていった。(……理恩が、あの女を探してる?) 理恩の体調不良。冷たい態度。 巨大な男に守られている、あの地味な女。 瀬理亜は、特別な力なんて何も持っていない。ただの、使い走りの家具だ。 それなのに、どうしてあんなにも男たちが目の色を変えて執着するのか。 答えは一つしかない。(……あの女、何か隠し持ってるんだわ) 山奥の田舎で育った、あの貧乏くさい母親。あいつらは、何か得体の知れない「男を惹きつけるための特別な薬」か「媚薬のレシピ」のようなものを、こっそりと有栖川の家に持ち込んでいたに違いない。 そうでなければ、理恩があんなにも必死になって探すわけがない。 あのデカい男が、あんなにも過保護に囲い込むわけがない。 私が理恩から冷たくされているのも、あの女が昔、理恩の飲み物にこっそりと何かを混ぜて、自分に依存するように仕向けていたからだ。「……卑しい」 唇の端から、思わず声が漏れた。「何か言ったか?」 宗隆の鋭い声に、慌てて首を横に振る。「い、いえ。なんでもありません。……私、少し気分が悪いので、お部屋に戻ります」 椅子を乱暴に引き、逃げるようにダイニングを後にする。 背中から、両親の呆れたようなため息が聞こえた気がしたが、振り返る余裕はなかった。 廊下を早足で歩きながら、胸の奥でドロドロとした熱いものが渦を巻き始める。 許せない
last updateLast Updated : 2026-05-20
Read more

第143話 麻里亜の焦燥と、偽りの聖女⑤

 硝子のトレイの上に並べると、薄い琥珀色、淡い薔薇色、無色透明の液体が、照明を受けて宝石のように揺れる。「あの女が男を惹きつけられるなら、私にだってできるはずよ」 小さなビーカー代わりのグラスに、香水と聖水を数滴ずつ垂らしていく。甘い匂いが一気に部屋を満たし、鼻の奥が痺れるほど濃くなった。 理屈など知らない。浄化も、聖女も、血筋も、本当は何一つ分かっていない。それでも麻里亜は、鏡の中の自分に向かって、うっとりと微笑んだ。「これは、私の浄化の香油。理恩様も、あの黒い男も、これを浴びれば私を選ぶわ」 口に出した瞬間、その嘘は少しだけ本物になった気がした。麻里亜は細い銀色のアトマイザーに液体を移し替え、バッグの奥へそっと忍ばせた。 ◇ 数時間後。 昼下がりの屋敷は、いつもなら使用人たちの足音すら気を遣うほどの静寂に包まれている時間帯だ。 しかし、一階の裏廊下、普段は誰も寄り付かない地下室へと続く扉の前に、いくつかの大きな段ボール箱と、見慣れない金属の工具箱が積み上げられていた。 階段の踊り場からそっと身を乗り出し、一階の様子を窺う。 壁に隠れるようにして見下ろした先には、作業着を着た数人の男たちが、額に汗を浮かべながら、地下へ続く重い樫の木のドアの前に立っていた。 その中心で、宗隆が葉巻を咥えたまま、太い指で何やら指示を出している。「いいか。音を立てるなよ。地下の『奈落』のさらに奥、壁の一枚向こう側だ。あそこの隠し部屋の鉄格子は、長年の湿気で完全に錆びついているはずだ。バーナーで焼き切って、新しい南京錠を取り付けろ」 鉄格子。南京錠。 ただの物置部屋には、到底不釣り合いな物騒な単語が、宗隆の口からポンポンと飛び出してくる。 作業員の一人が、図面のようなものを広げながら尋ねた。「旦那様。奥の部屋には、古い木箱や壺がたくさん積まれていますが、あれはどうしましょうか」「触るな。そのままでいい。ただ、部屋の真ん中に、椅子と、腕を固定できる鎖を一つだけ用意しておけ」 鎖。 呼吸が、ヒュッと浅くなる。 壁に張り付いたまま、
last updateLast Updated : 2026-05-21
Read more

第144話 麻里亜の焦燥と、偽りの聖女⑥

 喉の奥で、ゴクリと唾を飲み込む音がやけに大きく響いた気がした。 理恩が、あの女を連れ戻す。 そして、この地下の奥深くに、鎖で繋いで閉じ込める。 両親は、あの女を獅子王との交渉のカードとして使うつもりらしい。 だが、私にとっては、そんな難しい会社の都合などどうでもよかった。 重要なのは、あの女がこの屋敷に戻ってくるということ。 そして、誰の目にもつかない地下の奥深くに、無防備な状態で鎖に繋がれるということだ。 壁の陰から、積まれた工具箱と、地下へと続く暗い階段を見つめる。 ムスクの香水が、自分の体温で温められ、むせ返るような匂いを放っていた。 唇の端が、自然と上に吊り上がっていく。(……なんだ。わざわざ探しに行く手間が省けたわ) あの女が地下に縛り付けられたら。 両親や理恩の目を盗んで、こっそりとあの部屋に行けばいい。 そして、たっぷりと時間をかけて、吐かせてやるのだ。 男を虜にする秘密の薬の作り方を。あの巨大な男を手懐けた、卑しい媚薬の隠し場所を。 もし口を割らないなら、あの地下室ならいくら悲鳴を上げても、誰の耳にも届かない。 長いアクリルネイルの先を、自分の赤い唇にそっと当てる。「……待ってるわ、お姉様」 声に出さずに、口の形だけでそう呟いた。 階段の冷たい手すりに触れた指先から、ドロドロとした熱い高揚感が全身へと広がっていく。 私が、本物になる。 理恩の隣に立ち、あのペントハウスの最上階から東京の街を見下ろすのは、この美しい顔を持った私だ。 作業員たちが、ガチャガチャと金属音を立てて地下へと下りていく。 その音は、私にとって、輝かしい未来をこじ開けるための、心地よいファンファーレのように聞こえていた。 階段の陰で息を殺したまま、バッグの内ポケットに忍ばせた小さな銀のアトマイザーを指先で撫でた。昨夜、自分で作ったばかりの「浄化の香油」だ。 香水と、母の化粧棚から盗み出した古い精油と、礼拝堂の聖水を混ぜ合わせ
last updateLast Updated : 2026-05-21
Read more

第145話 帰らないための帰還①

 クローゼットの奥から、厚手のウールコートを引き出す。木製のハンガーが金属のポールと擦れ合い、カチャリと乾いた音を立てた。  指先で滑らかなグレーの生地を撫で、小さく息を吐き出す。手首のボタンを留めようとする指先が、微かに震えていた。  背中には、さっきから痛いほどの視線が突き刺さっている。  振り返らなくてもわかる。リビングの中央に置かれた本革のソファ。そこに深く腰掛けた大きな身体が、不機嫌のオーラを隠そうともせずにこちらを睨みつけているのだ。 「どうしても行くというのか」  低く、地を這うような声が広い室内に響いた。  振り向くと、長い脚を組んだ黎が、眉間に深い皺を刻んでこちらを見据えていた。黄金色の瞳が、剣呑な光を帯びて細められている。 「はい。行きます」  コートを腕に掛けたまま、まっすぐにその視線を受け止める。  ソファの革がギュッと軋む音。黎が苛立たしげに脚を組み替えた。長い指先が、ソファのひじ掛けをトントンと一定のリズムで叩いている。 「俺が行く。お前はここで、温かい紅茶でも飲んで留守番をしていればいい」 「お気持ちは嬉しいですが、ダメです。私が自分で取りに行きます」  言い切るのと同時に、ソファから大きな影が立ち上がった。  音もなくカーペットを踏みしめ、長い脚が三歩で距離を詰めてくる。見上げるほどの長身が目の前に立ちはだかると、窓から差し込む冬の薄日が完全に遮られた。  鼻先をかすめる、黎特有の熱を帯びた空気。洗い立てのリネンのような清潔な香りに、微かに焦げたスパイスのような匂いが混じっている。 「俺の指先一つあれば、あのガラクタみたいな屋敷ごと五分で更地にできる。目当ての物だけを瓦礫の山から拾い上げてくれば済む話だ」  真顔でとんでもないことを言う。  見上げると、本気でそうするつもりの凄絶な表情がそこにあった。 「更地にしたら、お目当てのお祖母様のロケットまで粉々に砕けてしまいますよ」 「俺の力加減を舐めるな。指輪の小さな宝石一つ傷つけずに、周りの壁だけを吹き飛ばすことくらい造作もない」 「そういう問題ではありません。それはただの強盗です。ご近所迷惑にもなります」 「あの悪趣味な箱庭の周囲に、気にするような隣人などいなかったはずだが」 「それでもダメです」  強く首を振ると、黎が大きなため息をついた
last updateLast Updated : 2026-05-22
Read more

第146話 帰らないための帰還②

 黎の鋭い感覚が、その微細な身体の変調を見逃すはずがない。 「そんな状態で、あの毒の溜まり場のような場所へ戻る意味がどこにある。また熱が上がって、倒れるつもりか」  責めるような口調の奥に、隠しきれない焦燥感が滲んでいる。  黎の大きな親指が、手首の脈を確かめるようにそっと撫でた。脈拍が速くなっているのを、指先を通して読み取っているのだ。  黎が恐れているのは、有栖川家の人間ではない。あの屋敷に残る過去の残滓が、再び身体を削り、呼吸を奪うこと。ただそれだけを、極端なまでに恐れている。  手首を包み込む黎の手の上に、自分の手を重ねた。  黎の熱い皮膚に比べると、氷みたいに冷たい自分の指。それでも、しっかりと力を込めてその指を握り返す。 「怖いですよ。今でも、あの屋敷の匂いを思い出すだけで息が詰まりそうになります」 「だったら……っ」 「でも、これは私が自分で取り戻さなくちゃいけないものなんです」  遮るように言葉を重ねる。  黎の言葉を待たず、重ねた手にさらに力を込めた。  母を死に追いやり、その命を吸い上げて繁栄を築き上げてきた有栖川家。地下に眠る奈落の冷たさ。  祖母が遺してくれた、本当の力のかけら。  誰かに代わりに取りに行ってもらうわけにはいかない。それは、過去に蓋をして逃げ続けることと同じだから。 「今までは、連れ戻されることしかありませんでした。お父様や理恩様に腕を引かれて、無理やりあの暗い廊下に引きずり戻されて……。でも、今日は違います」  黎の黄金色の瞳を、まっすぐに見つめ返す。  黎の瞳の奥で、小さな炎が揺れるのが見えた。 「私は今日、連れ戻されるのではなく、自分の足で向かうんです。奪われたものを取り戻すために。だから、黎様が全部壊してしまったら、意味がないんです」  静かな室内。  エアコンの微かな送風音だけが、耳の奥で鳴っている。  重なった手から伝わる黎の脈動が、ドクン、ドクンと大きく波打っていた。黎の喉仏が上下に動く。  視線を逸らさずに待ち続けると、やがて黎の唇の間から、深く、絞り出すような息が漏れた。 「……見ているだけで、俺の腹の底が焼け焦げそうになる」  独り言のような低い呟き。 「俺は、お前が少しでも息苦しそうにしているのを見るくらいなら、原因となるものをこの世から一つ残らず消し去り
last updateLast Updated : 2026-05-22
Read more

第147話 帰らないための帰還③

 黎の眉間にもう一段深く皺が寄る。まるで、とてつもなく苦い薬を無理やり飲まされているような顔だった。 長い沈黙の後、黎は頬から手を離し、乱暴に自分の銀髪を掻き乱した。「……三歩だ」「え?」「俺から三歩以上、絶対に離れるな。もしそれ以上離れたら、その瞬間に首根っこを掴んで窓から飛んで帰る」 その物騒な条件に、思わず唇の端が緩む。「三歩じゃ、廊下を歩く時にぶつかってしまいますよ」「文句を言うなら一歩にするぞ。背中に張り付いて歩け」「三歩でお願いします」 ふん、と鼻を鳴らした黎が、腕に掛かっていたコートをひったくるように取り上げる。そして、乱暴な手つきで肩にバサリと掛けた。「ほら、さっさと袖を通せ。気が変わらないうちに行くぞ」 ぶっきらぼうな声の裏にある、不器用すぎる譲歩。 腕を通しながら、胸の奥に灯った小さな温かさが、先ほどまでの冷たい恐怖を少しだけ溶かしていくのを感じた。 ◇ 地下駐車場から地上へ出ると、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。 大型の黒いセダン。本革張りの後部座席に深く沈み込むと、新車の匂いと、隣に座る黎の熱気が鼻腔を満たす。 運転席との間には厚い防音ガラスのパーティションが引かれ、完全な密室になっていた。 タイヤがアスファルトを掴み、滑らかに車が発進する。 窓の外を流れる東京の街並み。見慣れた華やかな景色が、次第に閑静な高級住宅街へと変わっていく。有栖川邸がある山の手のエリアに近づくにつれ、沿道の並木道や石垣が、嫌な記憶を鮮明に呼び起こし始めた。 膝の上で、両手を固く握り合わせる。 指先から血の気が引き、冷たくなっていくのが自分でもわかった。喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むことすら難しい。 浅くなる呼吸。 無意識のうちに、前かがみになりそうになったその時。 隣から伸びてきた大きな手が、膝の上で握りしめていた両手を乱暴にほどき、そのままガッチリと包み込んだ。「……冷たい」 不機嫌な声が
last updateLast Updated : 2026-05-23
Read more

第148話 帰らないための帰還④

 車が緩やかな坂道を登り始める。沿道に植えられた高い樫の木。見覚えのあるレンガ造りの塀。 胃の底がギューッと握り潰されるような感覚に陥り、思わず黎の手を強く握り返した。 黎は何も言わず、ただ握り返された手ごと、自分のウールコートのポケットの中に突っ込んだ。 分厚い生地に覆われたポケットの中は、驚くほど温かい。黎の腿の熱と、布の摩擦が、冷え切った指先を溶かしていく。「……ありがとうございます」「別に。俺の手が冷えるのが嫌なだけだ」 子供のような強がりを言う横顔を見つめ、ポケットの中の大きな手にぎゅっとしがみつく。 やがて、タイヤが微かに砂利を噛む音を立てて、車がゆっくりと停止した。 運転手が外からドアを開ける。 流れ込んできたのは、冬の冷たい風と、枯れ葉が擦れる乾いた音。 そして、古い石材と湿った土が混じったような、あの屋敷特有の匂い。 ポケットから手を引き抜き、車の外へ足を踏み出す。 革靴がアスファルトを叩く音。 見上げると、そこには黒々とそびえ立つ重厚な鉄の門扉があった。 尖った装飾が施された高い門。その奥に広がる、無駄に広い前庭と、権威を誇示するような洋館。 かつては、この門の前に立つだけで、巨大な怪物に呑み込まれるような息苦しさを感じていた。ここは鳥籠の入り口であり、終わりのない苦痛の始まりの場所だったから。 ゴクリ、と乾いた喉を鳴らす。 背後に回った黎が、無言のまま隣に並び立った。 肩が触れ合うほどの距離。分厚いコート越しでも伝わってくる、圧倒的な熱量。 黎が見上げる視線の先で、屋敷の窓がいくつか暗く沈んでいるのが見えた。「……ただの、古い家ですね」 ぽつりとこぼれ落ちた自分の声は、驚くほど平坦だった。 震えていない。「ああ。壁にはヒビが入っているし、鉄格子は錆びだらけだ。俺が蹴破れば三秒で倒壊するだろうな」 黎が鼻で笑いながら、門扉の鍵穴の辺りに長い指を向ける。「開けてやろうか。指一本で溶接ごと吹き飛
last updateLast Updated : 2026-05-23
Read more

第149話 初めて父に背を向ける①

 インターホンを押してから、十秒ほどの空白が流れた。 カチャ、と頼りない電子音がスピーカーから漏れ、直後にガリガリと錆びた金属が擦れ合う鈍い音が響く。重い鉄の門扉が数センチメートルだけ内側へ動き、自動解錠の細かな振動が、石畳を通して靴の裏へと伝わってきた。 勝手知ったる他人の家のような。そんな奇妙な感覚が、胸の奥をチクリと刺す。「ずいぶんと大層な出迎えだな。手動でへし折ってやった方が早かったのではないか」 すぐ隣から、不機嫌さを隠そうともしない低い声が降ってきた。 少しだけ視線を上げると、黎がウールコートの襟を立て、灰色の空を忌々しげに見上げている。黄金色の瞳には、この空間のすべてを拒絶するような険しさが宿っていた。「壊したら弁償になりますから、絶対に触らないでくださいね」「この程度の鉄屑に払う金など、俺の財布には入っていない。すべて塵にするだけだ」「それが一番困るんです」 短く言葉を交わしながら、門扉の隙間に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。 ギィ、と耳障りな悲鳴を上げて開いた隙間から、広く、手入れの行き届いた前庭へと足を踏み入れた。 一歩、進むごとに、かつて嫌というほど踏みしめた石畳の硬さがふくらはぎに伝わる。 有栖川家。 名門という看板を守るためだけに、すべての歪みを隠蔽し、都合の悪い存在を地下へ押し込めてきた場所。 前庭の隅に植えられたツツジの生垣は、冬の寒さで葉を落とし、枯れ木の檻みたいに這い回っている。その間を通り抜ける風が、ひゅうひゅうと寂しげな音を立てていた。 洋館の重厚な玄関扉に近づくにつれ、鼻の奥を突く匂いが強くなっていく。 埃、古びた木材、そして――人間のどろどろとした欲望や妬みが腐着したような、あの重苦しい空気。六本木のペントハウスで清浄な空気に慣れてしまった身体には、この屋敷が放つ独特の淀みが、目に見えない灰色の霧のようにまとわりついてくる。 ウールコートの上からでも、胸の辺りがぎゅっと圧迫されるように苦しい。 無意識のうちに、歩幅が狭くなる。 直後、背中に大きな掌がぽんと添えられた。 分厚い生地を透
last updateLast Updated : 2026-05-24
Read more

第150話 初めて父に背を向ける②

 黎はふんと鼻を鳴らし、玄関扉を睨みつけた。 その言葉のトゲの裏にある、狂おしいほどの庇護欲。 口元をわずかに緩め、深く息を吸い込む。喉にへばりつく嫌な匂いを、隣の熱気で押し流すようにして、大きな真鍮のドアノブへ手を伸ばした。 手を触れる前に、内側からカチャリと鍵が開く。 ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、見慣れた初老の執事だった。いつも完璧に整えられていた白髪は、どことなく生気を失って縮れており、背筋も以前より微かに丸くなっている。「……お、お嬢様……。お戻りで、ございますか」 執事の声が、細かく震えていた。 視線は、すぐに後ろに控える大柄な影へと向けられる。黎がただそこに立っているだけで、玄関ホールの天井灯がパチパチと不規則に瞬き、絨毯の毛並みが一斉に逆立つような緊張感が走った。執事の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。「お祖母様のロケットをいただきに来ました。お父様は?」「だ、旦那様は、奥の応接室でお待ちでございます。ですが……そちらの、お方様は……」「連れだ。文句があるなら今すぐこの屋敷の柱をすべて叩き折るが、どうする」 黎が冷徹なトーンで告げると、執事は悲鳴にも似た息を呑み、何度も激しく首を振った。「い、いえ! とんでもございません! どうぞ、こちらへ……!」 案内する手元がガタガタと音を立てている。かつて、雑用を押し付けるために冷たい声を浴びせてきた人物の、あまりにも無様な変貌。 絨毯を踏みしめ、薄暗い廊下を進む。 壁に掛けられた歴代の当主の油絵が、どれも濁った目で見下ろしてくるように感じられた。けれど、もうあの頃のように、床だけを見て歩く必要はない。 一番奥にある、大理石の暖炉が設えられた応接室。 執事が震える手でドアを開くと、部屋の中央に置かれた一人がけの革製ソファに、有栖川宗隆が座っていた。 手元には、紫煙を燻らせる太い葉巻。 こちらが室内に入った瞬間、宗隆は視線を
last updateLast Updated : 2026-05-24
Read more
PREV
1
...
1314151617
...
21
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status