All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 111 - Chapter 120

206 Chapters

第111話 温かい掌⑤

 黎は一度も振り返ることなく、地獄絵図と化したリビングへと背を向けた。 床に転がる有栖川の家族たち。 理恩は壁際で完全に意識を失い、父と継母、麻里亜も恐怖で硬直したままピクリとも動かない。 黎は彼らに、ゴミ屑でも見るような一瞥すら与えなかった。 彼の視界には、もはや腕の中にいる私しか存在していない。 片腕で私の背中と膝裏をしっかりとホールドしたまま、黎はスラックスのポケットから器用に黒いスマートフォンを取り出した。 画面を見もせずに、親指で短く操作する。「……俺だ。車を回せ。有栖川の正門前だ。一分で来い」 それだけを言い捨てて、通話を切る。 黎が砕け散った巨大な窓枠を越えて、外のテラスへと足を踏み出す。 その足元で、理恩の真っ赤なネクタイが、泥とガラスの破片と共に無惨に踏みにじられた。 夜の雨は、いつの間にか細い霧雨へと変わっていた。 風はまだ冷たいはずなのに、黎の胸に抱かれている限り、寒さは微塵も感じなかった。 ◇ テラスから庭を抜け、正門へと向かう。 黎の歩みは揺るぎなく、私を抱えている腕も全くブレない。 正門の鉄格子の前に着くと、すでに一台の漆黒の高級セダンが、アイドリング状態で音もなく待機していた。 運転席から黒服の初老の男――いつも黎の手足となって動いている執事のような男――が慌てて飛び出し、後部座席のドアを恭しく開ける。「御影様。お迎えに上がりました。……お嬢様も、ご無事で何よりでございます」 黎は短く顎で応えると、私をまるでガラス細工でも扱うような慎重さで、革張りのシートの奥へと滑り込ませた。 続いて、彼自身も巨体を折り曲げるようにして乗り込んでくる。 バタン、と重厚なドアが閉ざされ、外の雨音と喧騒が完全に遮断された。 防音の効いた密閉空間。 車内の暖房が最大まで上げられているのか、吹き出し口から熱風が音を立てて流れ込んでくる。 黎は隣に座ると、無言のまま、自分の着ていたダークスーツのジャケットを脱ぎ
last updateLast Updated : 2026-05-04
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第112話 温かい掌⑥

 窓ガラスの向こうでは、ネオンの光が雨粒に滲んで、まるで万華鏡のようにチカチカと色を変えている。 ペントハウスの地下駐車場に着いた時、車が停まると、黎は私の顔をじっと覗き込んだ。「……痛むか」 彼の指先が、私の鎖骨の下の傷跡に、触れるか触れないかの距離で宙を泳ぐ。「いえ。……黎様が来てくれたから、もう痛くありません」「……俺が、あんな箱にお前を閉じ込めていたせいで、……お前は、俺に愛想を尽かしたのだと思っていた」 ひどく小さく、不器用な声だった。 彼はずっと、そのことを恐れていたのだ。「愛想なんて……尽かしていません。ただ」 私は、彼の指先を自分の手で包み込んだ。「私は、黎様に『使われる』だけの道具になりたかったんじゃなくて。黎様と一緒に、『生きたい』と思っただけなんです」「…………」「お母様の思い出も、自分で選んだ石鹸の香りも。……黎様がいる世界で、黎様と同じ時間を生きて、一緒に感じたかった。……わがままでしょうか」 黎は、ふい、と顔を背けた。 薄暗い車内で表情はよく見えなかったけれど、彼の耳の先端が、微かに赤く染まっているのがわかった。「……わがままだ。……だが、俺も……同じだ」 黎は、私の手を握る力を、少しだけ強めた。「お前に吸い続けられるだけの、無機質な装置に成り果てるのは…………俺も、ごめんだ」 その言葉を聞いた瞬間、私の中で、一晩中張り詰めていた冷たい緊張の糸が、ふわりと完全に解けていった。 不器用で、一方的で、どこまでも歪な関係。 でも、私たちは今日、ようやくお互いの「温度」のありかを見つけたような気がした。 
last updateLast Updated : 2026-05-04
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第113話 銀髪の訪問者①

 厚手の遮光カーテンのわずかな隙間から、一本の鋭い光の帯が、ダークブラウンのフローリングを真っ直ぐに切り裂くように伸びていた。 ペントハウスの最奥に位置する、プライベートルーム。 昨夜、リビングの巨大なガラス窓が粉々に吹き飛んでしまったため、吹き込む夜風を避けるようにして、この最も奥まった寝室へと避難していた。 静かだ。 微かな空調の稼働音すら聞こえないほどの、完璧に密閉された静寂。 重く心地よい泥のような眠りの底からゆっくりと浮上し、貼り付いたような瞼を微かに持ち上げた。 視界の端にぼんやりと映るのは、最高級のエジプト綿で作られた、真っ白で滑らかなシーツの皺。 少しだけ身じろぎをしようとして、すぐに自分が全く身動きの取れない状態にあることに気がついた。 背中から腰にかけて、ズシリとした圧倒的な質量がのしかかっている。 太く、硬い腕が、肋骨を折らんばかりの力で腹部を抱きすくめ、背中には、人間の平均体温を遥かに超える、火傷しそうなほどの熱い胸板がぴったりと張り付いていた。 ドクン、ドクン。 規則正しく、少し遅い心拍の音が、背中から直接、肺の奥へと響いてくる。 黎だ。 背後に身を横たえ、まるで自分の最も大切な宝物を外敵から隠す竜のように、その大きな身体で私を完全に覆い隠していた。 首筋のすぐ横、後頭部の髪の間に、高い鼻梁が埋もれている。 スゥ、ハァ、と。 掠れた、けれど昨夜のような狂気を一切含まない静かな寝息が、鎖骨のあたりに規則正しく吹きかかっていた。息を吐き出すたびに、薄い唇が肌に微かに触れ、背筋をゾクゾクとした静電気が駆け抜ける。 昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。 有栖川の屋敷。理恩の冷ややかな手。鼻をつく香水の悪臭。 そして、暗闇の中から現れた、漆黒の鱗を持つ異形の姿。 あの時、私は確かに恐怖よりも安堵を感じていた。この大きな腕の中に閉じ込められることが、今の私にとって唯一の救いなのだと、心の底から思えたのだ。 少しだけ姿勢を変えようと、シーツの中で膝を曲げた瞬間だった。「…&hellip
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第114話 銀髪の訪問者②

「……フィルターというものは、空気を循環させなければ意味がありません。こんな風に隙間なく抱きしめられていたら、空気が通りませんよ」「問題ない。皮膚表面から発せられる微細な浄化成分を直接吸収している。むしろ、この密着度こそが最も効率的なのだ」「そんな機能、ついていません……」 呆れ半分で息を吐き出すと、不満げに喉の奥でグルリと低い音を鳴らした。 そして、高い鼻先が、首筋から耳の下あたりを、まるで自分の縄張りを確認する猟犬のように執拗に嗅ぎ回り始めた。「ひゃっ……、ちょっと、くすぐったいです」「動くな。……まだ、あの家の匂いがする気がする」 その言葉に、小さくため息をついた。「気のせいです。昨夜、三回もお風呂で洗ったじゃないですか」 有栖川の屋敷からこのペントハウスに帰還した直後、「不浄な泥がついている」と言って、強引にバスルームへと押し込まれた。 そして、彼自身の手で、髪の毛一本一本、指の先から足の裏に至るまで、たっぷりの泡で執拗に洗い流されたのだ。 手つきは決して乱暴ではなかったけれど、「他人の匂い」を完全に削ぎ落とそうとする異様な執念と、肌の隅々まで触れてくる大きな掌の感触に、お湯の中で顔を真っ赤にして耐えるしかなかった。「髪から、まだあのラベンダーのシャンプーの香りがしているはずです」「シャンプーの匂いなどどうでもいい。言っているのは、もっと根本的な気配の話だ。……あいつらの、安っぽい悪意の匂いが、髪の奥にこびりついている気がしてならない」 そう言い捨てると、後頭部に顔を埋め、スゥーッと深く、長い息を吸い込んだ。 大きな肺が膨らみ、背中を強く圧迫する。「……もっと、匂いで上書きしなければ」 薄い唇が、うなじに触れた。 チュッ、という微かな水音が鳴り、そこから高い体温が直接肌の下の血管へと染み込んでくる。「っ……! れ、黎様…&
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第115話 銀髪の訪問者③

「えっ……きゃっ!」 フワリ、と。 身体が、重力を失ったように宙に浮き上がる。 ベッドの上に座ったまま、軽々と持ち上げられ、そのまま膝の上に向かい合わせになるように座らせられた。「何をするんですか、自分で歩けます!」「駄目だ。床には昨夜の硝子の破片が落ちているかもしれない」「ここはリビングじゃなくて、寝室ですよ。硝子なんて一枚も割れていません」「目に見えない微細な粉塵が舞っている可能性がある。大切なフィルターの底面……足の裏に傷がついたら、歩行機能が損なわれ、そばに常駐できなくなるだろう」 真顔で、大真面目にそんな無茶苦茶な理屈を並べ立てる。 黄金の瞳には、一切の冗談の気配がない。本気で「足の裏に傷がついたら大変だ」と心配しているのだ。 そのあまりの過保護っぷりに、怒る気も失せ、ただ広い肩に両手を置いて呆れたため息をついた。「……私のことを高性能なルンバか何かと勘違いしていませんか」「ルンバとはなんだ。円盤状の清掃機械のことか? 俺はただ、底面を……」「わかりました。なら、洗面所まで運んでください」 諦めてそう言うと、口角がわずかに、本当にわずかに、満足げに持ち上がった。 両腕で抱きかかえたままゆっくりと立ち上がり、音もなくフローリングを歩いて洗面所へと向かう。 抱き抱えられていると、視線が高くなり、ペントハウスの広い空間がいつもと違って見えた。 胸の筋肉が、歩くたびに微かに収縮し、その振動が身体に直接伝わってくる。 洗面所の明るい照明の下に到着し、広い大理石のシンクの前に立っても、下ろそうとはしなかった。「……着きましたけど」「ここでいいだろう。腕の上に座ったまま、顔を洗え」「無茶を言わないでください! 水が飛び散って、パジャマまで濡れてしまいます!」「構わない。体温ですぐに乾く」 絶対に床に下ろすまいとする強固な意志に、ついに折れるしかなかった。
last updateLast Updated : 2026-05-06
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第116話 銀髪の訪問者④

 顔から、先ほどまでの不器用な甘さが一瞬にして消え去り、絶対零度の冷ややかな警戒心が浮かび上がっている。「こんな朝早くに、誰だ」 低い声が、リビングの空気をビリビリと震わせた。 昨夜の一方的な破壊劇の記憶が蘇り、肩もビクッと跳ねる。まさか、有栖川の人間が警察でも連れてきたのだろうか。 背後に庇うようにして立ち、玄関のモニターを一瞥した。 そして、チッ、と極めて不機嫌な舌打ちをして、ロックの解除ボタンを乱暴に叩いた。 カチャリ、と重厚な金属音が鳴り、玄関の分厚い扉が開く。「おはよー! 黎、ちょっと聞いてよ、下のエレベーターのセキュリティ、また設定変えたでしょ!」 玄関ホールに響き渡ったのは、鈴を転がすような、ひどく透き通った声だった。 そこに立っていたのは、警察でも、有栖川の人間でもなかった。 ハッと息を呑むような、圧倒的な美しさが、そこにあった。 腰のあたりまで届く、月の光をそのまま紡いだような真っ白な銀髪。 抜けるように白い肌と、長い睫毛に縁取られたアイスブルーの瞳。 すらりとした長身に、クローゼットから勝手に持ち出したような、ダボダボのオーバーサイズの白いシャツだけを無造作に羽織っている。 その下から伸びる、傷一つない白く滑らかな足。 性別すら一瞬わからなくなるほどの中性的な美貌を持った、息を呑むほど美しい姿だった。 玄関の土間に脱ぎ捨てられた泥まみれのサンダルを一瞥すると、そのまま土足で上がり込もうとして、鋭い視線に射抜かれてピタッと足を止めた。「……貴様。こんな朝早くに何の用だ。今すぐ消えろ」 声は、床を這うような低さだった。 明らかに、朝の時間を邪魔されたことに激怒している。昨夜のような剥き出しの殺意とまではいかないが、明確な「強烈な拒絶」のオーラが全身から立ち昇っていた。 しかし、その銀髪の美女は、威圧感など全く気にする素振りも見せなかった。「ひっどーい! 昨夜、とんでもない規模の瘴気の爆発があったから、ついに街のど真ん中で理性を飛ばしたのかと思って、わざわざ様子を見に来て
last updateLast Updated : 2026-05-06
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第117話 銀髪の訪問者⑤

 同じ世界の、同じ空気を吸って生きている者同士にしか出せない、絶対的な同族の気配。「痛っ。相変わらず冷たいなあ」 振り払われても、ケラケラと楽しそうに笑っている。「……白亜。貴様、用がないならさっさと帰れと言っているだろう」「用がないわけじゃないわよ。……あ、もしかして」 スンッと小さく鼻を鳴らして、室内の空気を嗅ぐような仕草をした。 そして、アイスブルーの瞳が、肩越しに、正確に捉えた。 ピタリ、と。 美しい顔から、軽薄な笑みがスッと消え去る。 上から下まで、値踏みするような、鋭く、底知れぬ深さを持った視線。「……へえ。なるほどね」 薄い唇が、ゆっくりと弧を描いて吊り上がった。「昨夜、ありえない規模の瘴気が爆発したから何事かと思ったけど。それなのに、この部屋に入った瞬間からやけに空気が澄んでると思ったら」 あえて言葉を区切り、意味深に目を細めた。「……あんたが、言ってた……。ふーん。どんなお姫様かと思ったら、なるほどね」 肝心な部分をわざと濁したその曖昧な言葉に、胸の奥がチクリと、極細の針で突かれたような嫌な痛みを覚えた。 この美しい女性が、楽しげに話をしている。 その事実が、どうしてこんなにも胃の奥を冷たく、重くさせるのかわからない。 大きな背中と、息を呑むほど美しい銀髪。 並んで立つ二人は、同じ世界の空気を吸う者同士にしか出せない、入り込む隙のない空気を纏っているように見えた。 チクリ、チクリと、心臓の表面を薄く引っ掻かれるような、得体の知れないざわめき。「なんだ、ただの人間じゃん」 あっけらかんとした声が、乾いた大理石の床に落ちた。 悪意を含んだものではなかった。ただ、道端の石ころの成分を分析して、結果を口に出しただけのような、純粋な事実の確認。「すぐ死ぬのに、なんで番(つがい)なんて面倒なものにするわけ?」 空調の音が、
last updateLast Updated : 2026-05-07
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第118話 銀髪の訪問者⑥

 だが、「番」という言葉は。 それは、生涯を共にする、唯一無二の伴侶を指す言葉ではないのか。 昨夜、手の甲に落とされた熱い口付け。 不器用な指先で髪を梳かしてくれる、あのひどく切実な体温。 ただの道具に向けるものではなかった。あの熱は、間違いなく「執着」以上の何かだった。 でも。 すぐ死ぬ。 その言葉が、足元から冷たい泥水となって這い上がってくる。 私は人間だ。五十年、もって六十年後には、確実にこの肉体は朽ちて灰になる。 けれど、目の前に立つ彼らは違う。 時間が止まったように美しいまま、果てしない時を生き続ける。 私が死んだ後。 この大きくて、不器用で、孤独な人は、またあの暗闇の中で、一人で瘴気の痛みに耐えながら、何千年も生き続けなければならないのだろうか。「……失せろ」 鉤爪の切先が、白亜の喉元数センチにまで迫っていた。 黄金の瞳は限界まで細まり、今にもその細い首を撥ね飛ばしそうな緊張感が空間を支配している。「わかった、わかったよ。そんなに怒んないでよ」 白亜は両手を軽く上げ、降参のポーズをとった。「今日は帰る。でも、無理しすぎないでよ。……あんたのその目、昔、番を失って狂った奴と同じ目をしてる」 ヒールもない素足で、大理石の床をパタパタと鳴らしながら、玄関へと歩いていく。 すれ違いざま、アイスブルーの瞳が、もう一度だけ私を捉えた。「……可哀想に。あんた、こんな重たいの背負わされて、絶対長生きできないよ」 扉が閉まり、電子ロックがカチャリと音を立てるまで、部屋には完全な沈黙が落ちていた。 静電気のノイズが消え、徐々に室内の気圧が元に戻っていく。 鉤爪が、人間の指先へとゆっくりと戻る。 背中を向けたまま、ピクリとも動かない。 いつもなら、すぐに振り返って「気にするな」とでも言いながら、強引に抱きしめてくるはずだった。 だが、彼は動かなかった。 広く
last updateLast Updated : 2026-05-07
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第119話 砕かれた名家の夜と、黒竜の余波①

 時は少し逆戻る。 吹き抜ける横殴りの雨風が、無惨に砕け散った窓枠からリビングへと遠慮なく流れ込んでくる。 足元のペルシャ絨毯は雨水をたっぷりと吸い込み、革靴で踏みしめるたびにジュクジュクとひどく不快な音を立てていた。 獅子王理恩は、壁に背中を預けたまま、自分の右手の指先をじっと見つめていた。 オーダーメイドのネイビースーツの袖口から覗く指の表面には、うっすらと白い霜が降りている。雨の湿気と室内の暖かな空気が混ざり合っているにもかかわらず、その霜は溶ける気配すら見せない。 ガチガチ、ガチガチと。 自分の奥歯がぶつかり合う音が、耳の奥でうるさいほど鳴り響いている。(……なんだ、今の突風は) 理恩は、引き攣りそうになる頬の筋肉を無理やり動かし、鼻の奥から垂れそうになる鼻水を必死にすすり上げた。 完璧な獅子王の御曹司である自分が、鼻水を垂らして震えているなど、誰の目にも見せてはならない。理恩はスーツのポケットに震える両手を突っ込み、ひたすらに脳内で言い訳を構築し始めた。(最近の気象異常だ。ビル風がたまたま強烈に吹き込んだだけで、窓ガラスの施工不良が重なったんだ。そうだ、そうに決まっている) さきほどまでこの部屋に立っていた、あの異様に背の高い漆黒の男。 あの男が睨んだだけで窓ガラスが一斉に吹き飛んだなど、物理法則を無視したオカルトだ。疲労とストレスが重なって、集団幻覚でも見たのだと理恩は自分に言い聞かせる。 だが、床に散乱する細かいガラスの破片と、真っ二つにへし折られた真鍮のステッキの残骸が、理恩の脳内補正を容赦なく打ち砕いていた。「……寒っ、ちょっと、誰か窓を塞ぎなさいよ!」 部屋の隅、ひっくり返ったアンティークキャビネットの陰から、継母のヒステリックな声が上がった。 彼女はクッションカバーを頭から被り、ブルブルと肩を震わせている。完璧にスプレーで固められていた夜会巻きの髪は雨風で無惨に崩れ、額にべったりと張り付いていた。「私のエステ通いの成果が台無しじゃないの! あなた、早く警察を呼びなさいよ! あんな気味
last updateLast Updated : 2026-05-08
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第120話 砕かれた名家の夜と、黒竜の余波②

 理恩は壁から背中を離し、ゆっくりと宗隆の方へ歩み寄った。靴の裏でガラスの破片がジャリッと砕ける。「お義父さん。怪我の手当てが先では」「これくらい大したことはない。……それよりも、理恩くん。見たか、あれを」 宗隆の目が、血走ったままギョロリと理恩へ向けられる。「ええ。酷い突風でしたね」「風の話ではない! あの男だ。そして、あの男の手綱を握っていた、瀬理亜のことだ」 宗隆の言葉に、理恩はピクリと眉根を寄せた。 脳裏に蘇るのは、漆黒の男の暴力的な威圧感ではなく、その男の太い腕をそっと押し留めた、瀬理亜の細い両手だった。 いつも有栖川の屋敷の隅で、他人の顔色ばかりを窺い、小さな声で「申し訳ありません」と謝り続けていた、あの地味で薄暗い女。 それが、あの規格外の暴力装置の前に立ち塞がり、「もういい」と一言呟いただけで、部屋を満たしていた殺人的な冷気が嘘のように霧散したのだ。「……瀬理亜の奴、いつの間にあんな猛獣を手懐けたのか。だが、考えてもみろ。あの圧倒的な手駒を有栖川の管理下に置くことができれば、ライバル企業など言葉通り一捻りだぞ」 恐怖で震えていたはずの宗隆の顔に、次第に強欲な笑みが浮かび上がり始める。「瀬理亜には、あの怪物を制御するマスターキーとしての価値がある。ただの使い走りの道具だと思っていたが、どうやら見立てが甘かったようだ」 宗隆の言葉を聞きながら、理恩の胸の奥でも、ドロドロとした熱い執着が渦を巻き始めていた。 理恩にとって、瀬理亜は自分の偏頭痛や肩こりを和らげてくれる、都合の良い空気清浄機のようなものだった。彼女が隣でお茶を淹れてくれるだけで、呼吸が楽になり、イライラが鎮まった。 それなのに、あの女は俺の元を離れ、あんな巨大な男の背中に隠れて、俺を見下すような真似をした。(ふざけるな。お前の居場所は俺の部屋の隅だ。俺の仕事の愚痴を聞いて、大人しくマッサージでもしていればいいものを) 恐怖は、強烈な嫉妬と所有欲へとすり替わっていく。 あの女を取り戻せば、俺の不眠症も治る。それに、あの黒い
last updateLast Updated : 2026-05-08
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