All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 161 - Chapter 170

206 Chapters

第161話 黒竜の手が震える夜②

 叱りつけるような口調。けれど、声はひどくかすれ、音の端々が微かに震えている。「水……もらえ、ますか……」「……あ、ああ。待っていろ」 黎は弾かれたように動き、サイドテーブルに置かれていたガラスのコップを手に取った。 氷が再び、カランと澄んだ音を立てる。 ベッドの縁に腰掛けた黎が、コップの縁をゆっくりと口元へ運んでくる。 上半身をわずかに起こそうとすると、後頭部から背骨にかけて、鉛を流し込まれたような重い痛みが走った。シーツを握りしめ、顔をしかめる。「無理に動くな。そのまま口を開けろ」 黎の左手が、後頭部の枕の下に差し込まれ、頭部全体を布越しにそっと持ち上げてくれた。 直接、皮膚に触れないように。 髪の毛一本にも、自分の指が直接触れないように、極端なまでに慎重な力加減。 コップの縁から、冷たい水が流れ込んでくる。乾ききった粘膜に水分が染み渡り、火照った胃の腑へと落ちていく。少しだけ呼吸が楽になった。「……ありがとうございます」 コップが離れ、枕越しの支えがスッと抜ける。 再びベッドに背中を預けると、黎はすぐに立ち上がり、また一歩、距離を置いた。 間接照明の光が、黎の横顔に深い影を落としている。 唇は、血が滲むほどに強く噛み締められ、両手はズボンの脇で、指の関節が真っ白になるほど固く握り込まれていた。 あの地下牢で、白亜が放った言葉。 氷の刃のような正論が、まぶたの裏にフラッシュバックする。『その力は、命を削る力。人間が竜の傍にいるための代償としては、ちょっと高すぎると思わない?』 息が詰まる。 黎が何を恐れているのか、痛いほどに理解できた。 あの時、有栖川の寄生具を破壊するために、無意識の限界を超えて力を引き出した。その結果、熱を出し、こうして倒れ込んでいる。 黎は、自分のせいだと思っているのだ。 自分が傍にいるから。自分が、触れるだけで無自覚に浄化を引き出してしまう
last updateLast Updated : 2026-05-29
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第162話 黒竜の手が震える夜③

「同じことだ!」 黎が両手で、自らの銀髪を乱暴に掻きむしった。「俺がもっと早く、あのふざけた屋敷のすべてを塵にしていれば済んだ話だ。俺の力が足りなかった。俺の、認識が甘すぎた。……お前が、俺に触れるたびに、笑いかけるたびに……少しずつ命を削っていたなんて、思いもしなかった」 黎の黄金色の瞳が、苦痛に歪んで細められる。「俺は……俺の呼吸のために、これまで数え切れないほどのものを踏み躙り、破壊して生きてきた。他者がどうなろうと知ったことではなかった。だが……」 黎の喉仏が、大きく上下に動く。「お前だけは、違う。お前が苦しむくらいなら、傷ついて、命をすり減らすくらいなら……俺の肺など、このまま真っ黒に焼け焦げて腐り落ちた方が、何千倍もマシだ」 絞り出すような、ひび割れた声。 最恐と恐れられる黒竜が、ただの少女の熱を前に、完全に打ちのめされていた。「だから、もう……俺のために、その力を使うな」 黎の視線が、床へと落ちる。「俺は、お前に触れられない。触れれば、お前のそのお人好しな本能が、また勝手に俺の痛みを吸い取ろうとする。お前の命を燃やして、俺の呼吸を楽にしようとする。そんなことは……絶対に、させない」 床を見つめたまま、黎の両手が、行き場を失ったように空中で小刻みに震えているのが見えた。 熱を持った、大きくて、厚い掌。 いつも、不器用な優しさで髪を梳き、冷たい指先を温めてくれた手。 手が、今は自分自身を縛り付ける鎖のように、空を切って震えている。(……嫌だ) 熱でぼんやりとする頭の中で、たった一つ、それだけが明確な輪郭を持った。 役に立つための道具でいるのは、もう終わらせた。 命綱としての関係も、あそこに置いてきた。 なら、今、目の前で一人で傷ついている不格好な生き物に触れたいと思うこの感情には、どんな名前をつ
last updateLast Updated : 2026-05-30
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第163話 雨の夜の謝罪①

 指先と指先の間にある、ほんの数ミリの隙間。 間接照明のオレンジ色の光が、二つの手の間に落ちる影を震わせていた。 空中で行き場を失っていた大きな右手に、熱を持った自分の指先をそっと重ねる。 ビクンッ、と。 触れた瞬間、銀髪の男の身体が、落雷を受けたかみたいに大きく跳ねた。反射的に手を引っ込めようとする力が筋肉を強張らせる。 逃がさない。 熱で重たい腕に痛いほどの力を込め、引き抜かれそうになった長い指の間に、自分の細い指を滑り込ませた。 関節と関節が噛み合い、熱い皮膚同士が密着する。「……っ!」 鋭い息を呑む音が、頭上から降ってきた。 引っ張るのを諦めたのか、あるいはその力すら抜けてしまったのか。繋いだ手から、脈打つような速い鼓動がドクン、ドクンと伝わってくる。 骨ばった指の甲に浮き出た太い血管。分厚い掌の、少しざらついた感触。 いつもなら強引なほどに握り返してくるその手は、今はただ、縫い付けられたように空中で硬直していた。「……やめろ」 絞り出すような、ひび割れた声。「その力を使うな……っ。頼むから」「使っていません」 繋いだ手に両手を添え、ゆっくりと自分の胸元へ引き寄せる。 パジャマの薄い生地越しに、大きな掌が鎖骨の下あたりにピタリと押し当てられた。 心臓の音が、直接その掌に伝わる距離。「ほら。ただ、熱いだけでしょう?」 見上げると、黄金色の瞳が大きく見開かれていた。 いつもなら、触れ合うだけで無自覚に発動してしまう清浄な波。だが今は、身体の奥底の芯が焼け焦げて空っぽになっているせいで、不思議なほど何も起こらない。 ただ、高い熱を持った人間の皮膚が、別の熱い皮膚に触れているだけ。 その事実を確かめるように、押し当てられた大きな掌が、微かに、本当に微かに指先を動かした。 パジャマの生地が擦れ、鎖骨の上の皮膚に固い指の腹が触れる。 ジュッ、と熱が伝播する。「&h
last updateLast Updated : 2026-05-30
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第164話 雨の夜の謝罪②

「俺がもっと早く、あの屋敷を跡形もなく消していれば。お前がこんな、息をするのも苦しいような状態になることはなかった」 またその話だ。 シーツの上に置かれた大きな手を、もう一度自分の両手で包み込む。 氷水のおかげで少しだけ声が出やすくなっていた。「違います。何度でも言います。これは、私が自分で決めて、自分でやったことです」「お前のその頑固さは、時には美徳だが、今はただの自己破壊だ。自分から炎の中に手を入れる人間がいるか」「火傷をしても、取らなきゃいけないものだったんです。黎様が代わりに取ってくれたら、あの呪いみたいな屋敷の記憶は、一生私の首を絞め続けたはずですから」 強い口調で言い切る。 息が上がり、胸が大きく上下した。 繋いだ手に力がこもるのを感じたのか、大きな掌がビクンと身じろぎし、慌てて力を抜こうとする。 触れたら壊れるガラス細工でも扱うような、その極端な弱々しさ。 あの、高層ビルの窓ガラスを粉々に砕き、冷たい風と共に屋敷に降り立った絶対的な強者の面影はどこにもない。「……俺のせいで、お前が削られているという事実は変わらない」 俯いたままの横顔。 厚い唇が、血が滲むほど強く噛み締められている。「お前が俺に触れるたび、その命を燃やしていたなんて。俺のこの腐った肺が、お前の底を削り取っていたなんて……気づきもしなかった」 雨脚が強くなってきたのか、窓ガラスを叩く音がバラバラと激しさを増す。 寝室のオレンジ色の光が、雨の波紋で僅かに揺らいでいるように見えた。「俺は、自分の呼吸が楽になることしか考えていなかった。お前がそばにいると痛みが消える。だから手元に置いた。それだけだ」 自嘲するような、ひび割れた声。「結局のところ、あの屋敷のクズ共と同じだ。お前という存在を、便利な道具として消費していただけだ」 言葉が、胸の奥の柔らかい部分にチクリと刺さった。 道具として消費される。 誰かの役に立たなければ、捨てられる。 ずっと恐れてい
last updateLast Updated : 2026-05-31
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第165話 雨の夜の謝罪③

 パジャマの襟元を握る左手に、じんわりと汗が滲んだ。「私が何か言う前に、無理やり、キスをしましたよね」 部屋の空気が、ピタリと凍りついた。 窓を打つ雨音だけが、やけに大きく響く。 目の前の大きな身体が、石像のように硬直するのがわかった。 繋いだ手から、急速に体温が引いていく。「……」 声は出ないようだった。ただ、瞳孔が収縮し、息を呑んだまま呼吸が止まっている。「泥だらけの裏庭で。雨でずぶ濡れで。寒くて、ただでさえ息が苦しかったのに」 ゆっくりと、あの時の感覚を言葉にしていく。 責めるような口調にはならないように気をつけた。ただ、ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた、最初の記憶。「いきなり顔を掴まれて、唇を塞がれて。……息ができなくなって、本当に死ぬかと思いました」 淡々と事実を並べる声が、静かな寝室に吸い込まれていく。「『長生きしろ。お前は今日から俺のものだ』って。そう言って、黎様は夜空に飛んでいきました」 ◇ 長い、長い沈黙だった。 エアコンの送風音すら消え失せたかのような錯覚。 繋いだ手から伝わってくるのは、先ほどまでの熱が嘘のような、冷や汗を伴った強烈な冷たさ。「……あ」 喉元で、空気が漏れるような音がした。「ああ……っ」 黄金色の瞳が、限界まで見開かれ、信じられないものを見るようにこちらを凝視している。 視線が、唇から手首へ、そして再び目元へと、震えながら彷徨った。「俺は……」 声が、ひっくり返っていた。「俺は、お前を……」 その夜の自分の行動を、今の認識で再構成したのだろう。 理由もわからず家を追い出され、雨の中で震えていた十八歳の少女に対し、見ず知らずの大柄な男が何をしたか。 言葉も通じず、同意もなく、ただ自分の呼吸が楽になったというだけの理由で、力任
last updateLast Updated : 2026-05-31
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第166話 雨の夜の謝罪④

 それは、彼のような絶対的な強者にとって、想像を絶する痛みを伴う作業のはずだ。「……すまなかった」 床に這いつくばるような、低く、重い声。「本当に、すまなかった。俺は、お前の恐怖を、お前の痛みを……何一つ、見ていなかった」 顔を覆う手の甲に、ポタ、と水滴が落ちた。 それが雨漏りではないことは、すぐにわかった。 あの最恐の存在が。すべてを破壊するだけの力を持つ存在が、自分の過去の行いを悔い、ベッドサイドで身を縮めて震えている。 その不格好で、みっともなくて、ひどく人間臭い姿が、どうしようもなく愛おしかった。 ◇ 熱のせいで重い腕を、もう一度持ち上げる。 顔を覆う大きな両手の手首に、そっと指を添えた。「黎様」 ビクリと震える身体。「もう、いいんです」「いいわけがあるか……っ。俺はお前を、傷つけて……」「痛かったのは手首だけです。今はもう、跡も残っていません」 添えた指先に力を込め、顔を覆う両手をゆっくりと引き剥がす。 抵抗はあったが、力づくで振り払われることはなかった。 現れた顔は、ひどく蒼白で、目元が痛々しいほどに赤く充血していた。「それに、もしあの夜、黎様が私を攫ってくれなかったら。私はそのままあの家で、一生顔を上げて歩くことも、美味しいアイスクリームの味を知ることもありませんでした」「それは結果論だ。俺の動機は、どこまでも身勝手で……」「じゃあ、今の動機は何ですか?」 遮るように問う。 黄金色の瞳が、わずかに揺らぐ。「今、黎様が私の手を握るのが怖いのは、どうしてですか。私が役に立つ酸素マスクだからですか? それとも、壊れてほしくない大切な……」 言葉の途中で、息が詰まる。 自分からそんなことを口にするのは、あまりにも気恥ずかしくて、熱で赤い顔がさらにカッと熱くなった。
last updateLast Updated : 2026-06-01
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第167話 雨の夜の謝罪⑤

「私の力は、確かに命を削るのかもしれません。でも、それは私が決めることです。誰に吸われるでもなく、私が、私の意思で使いたい時に使うんです。だから、黎様が責任を感じる必要はありません」「……」「それに、今は使っていません。ただ、熱いだけです。だから……」 じっと目を見つめる。「私の手、冷やしてください。黎様の手、すごく冷たくて気持ちいいですから」 半分は強がりで、半分は本音だった。 黎の瞳が、見開かれたまま、ゆっくりと細められていく。 充血した目の奥で、様々な感情が渦巻き、やがて一つの静かな光へと収束していくのがわかった。 ◇ 繋いだ手に、ゆっくりと力がこもる。 握り潰すような乱暴な力ではない。ガラス細工を包み込むような、慎重で、けれど絶対に離さないという強い意志を持った力。「……勝手な女だ」 かすれた声が、寝室の空気に溶ける。「ええ。有栖川の人間ですから。わがままなんです」「あの腐った連中と一緒にするな。……お前のわがままなど、世界中の海を干上がらせるより可愛いものだ」 呆れたような、ひどく優しい響き。 黎の大きな身体が、ゆっくりとベッドへと近づいてくる。 繋いだ手をそのままに、黎はシーツの縁に腰を下ろした。 マットレスが沈み込み、すぐ隣から、ひんやりとした外の冷気と、かすかな雨の匂いが伝わってくる。「……すまなかった」 もう一度。 今度は、ひび割れた後悔の声ではなく、確かな重みを持った言葉として、寝室に響いた。「俺は、お前を傷つけた。その事実は一生消えない。……だが、もう二度と、お前を俺の都合で怯えさせるような真似はしない」 繋いでいない方の手が、ゆっくりと伸びてくる。 今度は空中で止まることなく、前髪をそっとかき分け、熱を持った額にピタリと当てられた。 ひんやりとした、大きな掌の感触。
last updateLast Updated : 2026-06-01
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第168話 ペントハウスに届いた黒いピアノ①

 まぶたの裏で、薄いオレンジ色の光がゆらゆらと揺れていた。 ゆっくりと目を開けると、視界の端に大きな窓から差し込む冬の柔らかな日差しが飛び込んでくる。 深く息を吸い込む。喉にへばりついていた、あの焼けるような熱さと渇きは、嘘のように消え去っていた。気管を通る空気が、ひんやりとしていて心地よい。 シーツの中で寝返りを打つ。関節の軋むような痛みも、頭の芯をハンマーで叩かれるような重さも、すっかり抜け落ちていた。 ふわりと、鼻先をミントとリネンの香りがかすめる。 そして、その奥に微かに残る、焦げたスパイスのような、熱を帯びた匂い。 昨夜、ずっと手を握ってくれていた大きな掌の感触が、右手の甲にじんわりと蘇る。トントン、と不規則なリズムで優しく叩き続けてくれた、あの不器用な慰め。 隣のスペースに視線を向けるが、そこは綺麗に整えられており、すでに熱は失われていた。(……黎様) パジャマの襟元を軽く握り、ゆっくりと上半身を起こす。 身体は驚くほど軽かった。有栖川の地下で感じたあの枯渇感は、深い眠りと共にどこかへ押し流されたらしい。 ベッドから降りて、毛足の長いカーペットに素足を下ろす。 足の裏から伝わる床の冷たさが、完全に熱が下がったことを証明していた。 寝室のドアは、少しだけ隙間が開けられている。そこから、リビングの空気が流れ込んでいた。 微かなコーヒーの香りと、それにもう一つ、見慣れない匂いが混ざっている。 新しい木材のような、硬い塗装のような、ツンとした匂い。 それに、何か重いものを床に置いた時に響く、ドスンという振動の余韻が、足の裏に微かに残っていた。(……何か、届いたのかな) 首を傾げながら、ドアノブに手をかける。 ゆっくりと隙間を広げ、広いリビングルームへと足を踏み入れた。 その瞬間。 思わず、その場で足が床に縫い付けられたようにピタリと止まった。 息を呑む音すら、喉元で詰まってしまう。 広大なリビングルーム。いつもなら、本革の大きなソ
last updateLast Updated : 2026-06-02
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第169話 ペントハウスに届いた黒いピアノ②

「あの……これ、は……?」 指先で、巨大な黒い塊を指し示す。 黎はふんと鼻を鳴らし、腕を組んだ。「見ればわかるだろう。音の出る巨大な家具だ。先ほど、業者の人間が十人ほどかり出されて、クレーンでバルコニーから搬入していった」「ク、クレーンで……?」「玄関のドアを通らなかったからな。壁をぶち抜くか、窓を外すかの二択だったが、壁を壊すと埃が舞うから窓から入れさせた」 あっさりととんでもないことを言う。 確かに、よく見るとバルコニーへと続く巨大なガラス窓の周囲に、微かな作業の痕跡が残っている。 頭がくらくらしてきた。熱のせいではなく、あまりのスケールの大きさに。「どうして……こんなものが、ここに……?」 黎は組んでいた腕を解き、大きな掌でピアノの屋根(天板)をバンッと無造作に叩いた。 木と弦が共鳴し、ボーン、という低く重い音がリビングに響き渡る。「……おい。熱は本当に下がったのか。顔色がまだ赤いぞ」 質問には答えず、黎は長い脚でカーペットを踏みしめ、こちらへ歩み寄ってくる。 すぐ目の前まで近づくと、昨夜と同じように、少しだけためらうような動作を見せた後、大きな手が伸びてきて額にピタリと当てられた。 ひんやりとした皮膚の感触。「……平熱だな。脈も普通だ」「はい。すっかり良くなりました。昨夜は、その……ご迷惑をおかけして」「迷惑なものか」 黎の眉間に、微かに皺が寄る。「お前が静かに寝ているのを見るのは、心臓に悪い。息をしているかどうか、何度も確認した」 その言葉の裏にある、不器用な切実さに、胸の奥が温かくなる。「あの、黎様。このピアノのことなんですけど……」 黎の腕からそっと逃れ、再び黒い巨大な塊を見上げる。 どう考えても、このペントハウスの
last updateLast Updated : 2026-06-02
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第170話 ペントハウスに届いた黒いピアノ③

 指摘されて、顔から火が出るかと思うほど恥ずかしくなった。 無意識の癖だ。楽譜に触れられなくなってから、頭の中でメロディを鳴らす時、どうしても指先が動いてしまう。 まさか、そんな些細な動作まで見られていたなんて。「……ただの暇つぶしの癖です」「そうか? 俺には、羽をもがれた小鳥が空を飛ぼうと藻掻いているように見えたがな」 黎は皮肉めいた笑みを浮かべ、再びピアノの側面を叩いた。「俺は、自分の呼吸が楽になることだけを考えて、お前をあの屋敷から攫った。お前が何を失い、何を好んでいたのか、知ろうともしなかった」 昨夜の、雨の夜の謝罪。 その続きが、この巨大な黒い物体として目の前に形を成している。「だから、これは……俺の身勝手な罪滅ぼしの一部だ。受け取っておけ」「……罪滅ぼしで、こんな大きなものを……」「金額のことは気にするな。こんなもの、俺のポケットマネーの端数にも満たない。むしろ、こんなガラクタ一つで許されようとしている俺の狡さを笑えばいい」 黎の不器用な照れ隠しが、その投げやりな言葉選びから痛いほど伝わってくる。 一歩、足を踏み出す。 カーペットの毛足が、素足の裏を柔らかくくすぐる。 巨大なグランドピアノに近づくにつれ、新しい木の匂いと、鍵盤のフェルトの匂いが濃くなっていく。 黒く艶やかな側面に手を触れる。 ひんやりとした、滑らかな感触。指先が、鏡のような表面に映り込んでいる。 これは、酸素マスクとしての「役割」を与えられたわけじゃない。 有栖川の家柄を飾るための「道具」として押し付けられたわけでもない。 黎が、私という人間の「好きなもの」を見て、ただそれを取り戻すために贈ってくれたもの。「……開けても、いいですか?」 震える声で尋ねると、黎は小さく顎を引いた。「好きにしろ。今日から、それはお前のものだ」 鍵盤蓋の縁に、そっと指をかける。
last updateLast Updated : 2026-06-03
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