深い、深い霧の匂いがした。 視界の端で、黎の縦に割れた瞳孔が、まるで呼吸を繰り返す宝石のように揺らいでいる。その赤い瞳の奥に、私はずっと昔に置き忘れていた夏の記憶を重ね合わせていた。 父様から「忌まわしい巫女の家系だ」と疎まれ、北の山奥に隠居させられていた、母方の祖母。 幼い頃、たった一夏だけ、私はその山に預けられた。 そこは、現代の喧騒など一切届かない、むせ返るような緑と湿った土の匂いに支配された、神域のような森だった。 おばあ様は、節くれだった硬い手で私の小さな手を引きながら、森の奥にある、崩れかけた小さな社(やしろ)へと連れて行ってくれた。『瀬理亜、いいかい。この森にはね、とても寂しくて、ひどくお腹を空かせた黒い神様が眠っているんだよ』 社の奥は、真昼だというのに底なしの暗闇に沈んでいた。 そこに、真っ黒な、山のような影が横たわっていた。 周囲の木々は立ち枯れ、足元の土は黒く変色している。その巨大な影は、ひゅう、ひゅうと、まるで自らの肺を削るような痛々しい呼吸を繰り返していた。 普通の子供なら、恐怖で泣き叫び、逃げ出しただろう。 けれど、幼かった私は、その「影」を怖いとは思わなかった。ただ、あまりにも苦しそうに、孤独に震えているその丸まった背中を見て、胸が締め付けられるような悲しみを感じたのだ。 気がつけば、私はおばあ様の手を振り切り、真っ黒な影の足元へと駆け寄っていた。 そして、氷のように冷たく、ざらついた硬い表面――今思えば、それは傷ついた竜の鱗だった――に、両手でそっと触れた。 おばあ様が持たせてくれた竹の皮包みを開き、中に入っていたおにぎりと、道端で摘んだばかりのシロツメクサを、その影の鼻先へと差し出した。『大丈夫だよ、神様。私が、一緒にいてあげるからね』 その時。 影が、ゆっくりと巨大な瞼を開けた。 暗闇の中で燃え上がるような、金色の瞳。 それが、今、目の前で私を見つめている黎の瞳と、鮮やかに重なり合った。「……あの時の、黒い、大きなトカゲさん……?」
Last Updated : 2026-04-09 Read more