All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(後編)①

 深い、深い霧の匂いがした。 視界の端で、黎の縦に割れた瞳孔が、まるで呼吸を繰り返す宝石のように揺らいでいる。その赤い瞳の奥に、私はずっと昔に置き忘れていた夏の記憶を重ね合わせていた。 父様から「忌まわしい巫女の家系だ」と疎まれ、北の山奥に隠居させられていた、母方の祖母。 幼い頃、たった一夏だけ、私はその山に預けられた。 そこは、現代の喧騒など一切届かない、むせ返るような緑と湿った土の匂いに支配された、神域のような森だった。 おばあ様は、節くれだった硬い手で私の小さな手を引きながら、森の奥にある、崩れかけた小さな社(やしろ)へと連れて行ってくれた。『瀬理亜、いいかい。この森にはね、とても寂しくて、ひどくお腹を空かせた黒い神様が眠っているんだよ』 社の奥は、真昼だというのに底なしの暗闇に沈んでいた。 そこに、真っ黒な、山のような影が横たわっていた。 周囲の木々は立ち枯れ、足元の土は黒く変色している。その巨大な影は、ひゅう、ひゅうと、まるで自らの肺を削るような痛々しい呼吸を繰り返していた。 普通の子供なら、恐怖で泣き叫び、逃げ出しただろう。 けれど、幼かった私は、その「影」を怖いとは思わなかった。ただ、あまりにも苦しそうに、孤独に震えているその丸まった背中を見て、胸が締め付けられるような悲しみを感じたのだ。 気がつけば、私はおばあ様の手を振り切り、真っ黒な影の足元へと駆け寄っていた。 そして、氷のように冷たく、ざらついた硬い表面――今思えば、それは傷ついた竜の鱗だった――に、両手でそっと触れた。 おばあ様が持たせてくれた竹の皮包みを開き、中に入っていたおにぎりと、道端で摘んだばかりのシロツメクサを、その影の鼻先へと差し出した。『大丈夫だよ、神様。私が、一緒にいてあげるからね』 その時。 影が、ゆっくりと巨大な瞼を開けた。 暗闇の中で燃え上がるような、金色の瞳。 それが、今、目の前で私を見つめている黎の瞳と、鮮やかに重なり合った。「……あの時の、黒い、大きなトカゲさん……?」
last updateLast Updated : 2026-04-09
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第62話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(後編)②

「当時の俺にとっては、胃袋を焼き尽くされるかと思うほどの刺激物だった。だが……」 黎の大きな手が、私の背中に回される。 次の瞬間、視界が大きく反転した。 私は絨毯の上に座り込んだまま、黎の厚い胸板の中に力任せに引き込まれていた。 高い鼻梁が首筋に押し当てられ、長い黒髪が私の肩口にハラリとこぼれ落ちる。シルクのシャツ越しに、黎の異常なほどの体温と、早鐘のように打つ心臓の音が、私の皮膚に直接響いてきた。「あの時……俺は、この国に充満する人間の悪意を吸い込みすぎ、自重を保つこともできず、ただ朽ち果てるのを待つだけの汚泥に成り下がっていた。お前の祖母は、俺をどうにか浄化しようと試みていたが、あまりの瘴気の濃さに手を焼いていたな。……そこに、お前が現れた」 黎の腕に、さらに力がこもる。 私の骨が微かに軋むほどの強さ。けれど、それは「二度と手放さない」という、切実な祈りにも似たしがみつきだった。「お前の、あの小さく無防備な手が俺の鱗に触れた瞬間。俺の乾ききった肺に、千年以上忘れていた清浄な空気が流れ込んできたのだ。お前の体温が、俺の体内から煤を追い出した。……だというのに」 黎が、私の肩口に顔を埋めたまま、低く唸るような声を漏らした。「あの雨の夜、俺の前に現れたお前からは……有栖川の、あの反吐が出るような悪辣な血の匂いしかしてこなかった。俺をあの森に縛り付け、利用しようとした忌々しい封印の気配。このブローチに塗り込められた呪いの悪臭が、お前本来の匂いを完全に塗り潰していたのだ」 黎の言葉が、すとんと胸に落ちる。 第1話、雨の中で再会した夜。黎が私に向けて放った「有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」という激しい憎悪。 それは、私自身に向けられたものではなく、私を覆い隠していた「呪いのブローチ」が放つ、家族たちの執念に向けられたものだったのだ。「有栖川の呪いがあまりに強すぎて、俺の目は曇らされていた。……だが、お前に触れ、その熱を吸い込むたびに、霧
last updateLast Updated : 2026-04-09
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第63話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(後編)③

 どうして、この最強で最恐の存在が、何の取り柄もない私を見つけ出し、あんなにも異常なまでの執着を見せていたのか。 私に大量の服や宝石を与え、この最上階の部屋から一歩も外に出そうとしない理由。 それは、黎にとって私が、文字通りの「命綱」だからだ。 私を失えば、再びあの森の暗闇で、孤独に朽ち果てるしかない。この傲慢な黒竜は、私という存在に完全に依存しきっている。 その事実が、私の胸の奥底に、奇妙な熱を灯していく。 有栖川家では、私は誰からも必要とされていなかった。代わりの利く雑用係でしかなかったけれど。 この世界で最も恐ろしい力を持つ方の命運が、今、私の両腕の中に収まっている。「……ごめんなさい、黎様。ずっと忘れていて。あの時のおにぎりのお礼も、まだ聞いてなかったのに」「構わん。お前が忘れていても、俺がお前を骨の髄まで記憶していた。……だが、許せんのはあの一族だ」 黎の体温が、一瞬にして冷酷な刃へと変質した。 私を抱きしめたまま、床に転がった黒ずんだブローチへと冷徹な視線を向ける。「お前の母親の命を食い潰し、お前の無自覚な浄化の力を利用し、さらにこの『呪い』を持たせることで、お前をも一生涯の電池として搾取しようとしていたのだ。……今夜中に、あの一族が築き上げた砂上の楼閣を、すべて灰にしてやろう」 黎の瞳が、再び鋭い赤色に染まる。 窓の外、黒竜の怒りに呼応するように、夜空が不気味な黒雲に覆われ始めた。「待ってください、黎様!」 私は、黎の胸元をギュッと掴み、見上げた。「……止めるのか、瀬理亜。奴らはお前を道具として扱い、挙句の果てに雨の中に放り出したのだぞ」「それは……そうですけど。でも、あの一族には、私の父様も、妹もいるんです。どんなに冷たくされても、一緒に過ごした家族なんです……。黎様がそんな恐ろしいことをしたら、お父様たちはどうなってしまうんですか?」「どうなるだと? 当然、すべてを
last updateLast Updated : 2026-04-10
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第64話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(後編)④

「……お前は、本当にお人好しだな。自分を捨てた連中の心配をするなど、正気の沙汰とは思えん」「お人好しって言われても……。でも、家族なんですもの。父様の事業が失敗したり、麻里亜が泣いたりするのは、やっぱり少しだけ、心配なんです」 私の言葉を聞いて、黎はふっと表情を緩めた。 先ほどまでの禍々しい殺気は消え、そこにあるのは、どこか誇らしげで、それでいてひどく甘やかな独占欲を孕んだ笑みだ。「……いいだろう。お前がそう言うなら、俺が直接手を下すのはやめておいてやる。お前の優しさに免じてな」「本当ですか? ありがとうございます、黎様」「だが、勘違いするなよ。俺は何もしないと言ったが、運命が奴らに下す鉄槌までは止めん。……お前がいなければ、彼らの繁栄も健康も、一秒たりとも維持できない。それは彼ら自身が選んだ結末だ」 黎は私からゆっくりと体を離すと、床に落ちていたブローチを無造作に拾い上げた。 指先から、音もなく青白い炎が立ち上がる。 熱を感じさせないその炎がブローチを包み込んだ瞬間、金属の表面にこびりついていた赤黒い脈動が、断末魔のような甲高い音を立てて剥がれ落ち、空中でパラパラと灰になって消えていった。 淀んだ匂いが完全に消え去り、あとには雨上がりのような清浄な空気が残る。 炎が収まると、掌には、本来の清らかな純銀の輝きを取り戻した、すずらんの細工が乗せられていた。「これでお前の母親の魂も、有栖川の呪縛から完全に解かれた」「黎様……」「これは、俺が預かっておく。二度とお前をあんな家に関わらせぬよう、俺の鱗の側に置いておこう」 そう言うと、銀のブローチをジャケットの内ポケットへと仕舞い込んだ。 心臓に最も近い場所。「さて、過去の話はここまでだ」 黎は立ち上がると、山のように積まれたブランド品の紙袋を一瞥した。「瀬理亜。明日はこれらを一つずつお前に着せて、俺の目を喜ばせる作業から始めるぞ。覚悟しておけ」
last updateLast Updated : 2026-04-10
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第65話 砕ける黒い鏡①

 指先を滑るシルクの感触は、どこまでも滑らかで、ひどく頼りない。 新しく届いたばかりの純白のブラウスを、広大なクローゼットの奥へと静かに吊るした。カチャッ、というハンガーの硬い金属音が、厚手の衣類に囲まれた密閉空間に吸い込まれて消える。 雨の夜に拾われてから、世界は完全に塗り替えられていた。 ここは豪華な鳥籠。あるいは、逃げ場のない酸素室。 夜になれば、当然のように巨大なベッドへと引きずり込まれる。丸太のように太い腕に絡め取られ、火傷しそうなほどの高体温と、獣のウールのような重い匂いに包囲されて朝を迎える。最初は心臓が止まるかと思うほど恐ろしかった抱き枕の業務も、数日も経てば、身体は奇妙なほどその圧倒的な質量に馴染んでしまっていた。 有栖川家の地下室で、カビ臭い毛布にくるまって震えていた夜。それに比べれば、この暴力的とも言える物理的な熱に守られているという事実は、毒のように甘く理性を侵食していく。 クローゼットの扉を閉め、パノラマウィンドウから初夏の日差しが降り注ぐリビングへと足を踏み入れた。 光のシャワーの真ん中で、黎はいつものように漆黒の革張りソファに深く腰を沈めていた。ダークグレーのシャツの胸元が大きく開き、隆起した大胸筋の谷間が影を作っている。 一歩動くたびに、黄金の瞳が、音もなくスッとこちらへ滑ってくる。縦に割れた鋭い瞳孔が、顔、首筋、そしてシフォンのワンピースの裾が空調の風で揺れるわずかな動きまでを、瞬きもせずに追いかけてくる。 一滴の空気の漏れも許さないとでも言うような、執拗で粘り気のある視線。 放たれる無言の圧力に、リビングの空気がじりじりと重さを増していく。「……あの、黎様」 居心地の悪さを紛らわせるように、ガラスのローテーブルの前に立った。 この部屋は、静かすぎる。 換気扇の低いモーター音と、黎の腹の底から響くような規則正しい呼吸音。それしか聞こえない密室は、時々、世界にたった二人しか取り残されていないような、心細い錯覚を抱かせる。 ふと、壁一面を占領している、巨大な黒い長方形の板が目に入った。 最新型の有機ELテレビ。この
last updateLast Updated : 2026-04-11
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第66話 砕ける黒い鏡②

 映し出されていたのは、お昼の情報番組だった。『――本日のゲストは、現在大ブレイク中の若手俳優、彼です!』 カメラが切り替わり、画面いっぱいに一人の青年が映し出される。 サラサラの明るいブラウンの髪に、清潔感に溢れた屈託のない笑顔。白いシャツに淡いブルーのカーディガンを羽織った姿は、まさに陽だまりを擬人化したように輝いている。 すべてを威圧し、闇に引きずり込むような目の前の規格外の存在とは、あまりにも真逆。暴力も、理不尽な命令も、命を脅かすような殺気も存在しない、平和な人間の世界を象徴するような無害な美しさ。 すごい。キラキラしてる。同じ人間とは思えないくらい。 リモコンを握ったまま、その爽やかな笑顔に少しだけ見惚れていた。 絵画を愛でるような、純粋な感嘆。 暗い地下室から、圧倒的な恐怖と熱の支配へと移り変わった日々の中で、その笑顔は今の生活に欠けている平穏を思い出させてくれた。「……かっこいいですね」 本当に無意識の、他愛のない独り言だった。 十八歳の女の子なら、誰もが口にするような感想。 ――だが、その瞬間。 リビングを満たしていた空気が、物理的な音を立てて凍りついた。 肌に当たる空調の風が止まったわけではない。しかし、背中からジリジリと、肌を直接焦がすような異常な熱気が膨張してくるのがわかる。 声は聞こえない。 聞こえないのに、海底の底で地殻変動が起きているかのような、耳の奥を圧迫する不吉な重低音が空気を震わせ始めた。 ギリッ、と。 大理石の床に置かれた重いガラスのテーブルが、誰も触れていないのに微かに振動する。「……何がだ」 喉の奥から這い出てきたような、絶対的な零度の声。 恐る恐る振り返ると、ソファに座ったままの黎の黄金の瞳が、完全に異質な光を放っていた。 針のように極限まで収縮した瞳孔。 その視線は、こちらではない。壁の画面の中で微笑み続けている、あの若手俳優の顔を真っ直ぐに射抜いていた。「え…&
last updateLast Updated : 2026-04-11
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第67話 砕ける黒い鏡③

 黒いガラスの破片がパラパラと大理石の床にこぼれ落ち、鮮やかだった映像は一瞬にしておぞましいノイズへと歪み、やがて完全に光を失う。 シューッ、という静電気の音と、プラスチックの焦げるようなオゾンの匂いが鼻を突く。「……っ、うそ……」 震える手からリモコンが滑り落ちる。カラン、と乾いた音が床に鳴った。 完全に沈黙した黒い残骸を前に、黎は忌々しそうに低く舌打ちをした。「脆弱なゴミめ。少し圧をかけただけで砕け散りおって」 テレビのことなど微塵も気にかけていない様子で、ゆっくりとこちらに向き直る。 細くなった瞳孔が、今度は真っ直ぐに射抜いてきた。 ズン、ズン、と。 大理石を叩く足音が、早鐘を打つ心音に重なる。「あ、あの……黎様、今の……テレビが……」 後ずさった背中が、冷たい壁にぶつかった。逃げ道はない。 ダンッ! ! 耳のすぐ横の壁に、丸太のように太い腕が叩きつけられる。 少しでも力を誤れば、頭蓋骨ごと壁が粉砕されかねないほどの、暴力的で圧倒的な拘束。「答えろ」 地鳴りのような声。見上げると、彫刻のような顔が、怒りと焦燥が入り混じった歪な表情で見下ろしていた。「あんな貧弱な、息を吹きかけただけで骨が折れそうなゴミの、一体どこがいいのだ」「え……?」「答えろと言っている。俺の命綱が、なぜあんな幻影に目を奪われる」 目の前の広い胸板が、激しく上下している。 至近距離から伝わってくる呼吸は、感情のコントロールが完全に崩壊し、荒れ狂っている息遣いだ。シャツ越しに伝わる心音も、異常なほど早い。ドクン、ドクンと、怒りのままに血流を送り出しているのがわかる。「テレビの、俳優さんのこと、ですか……? ただ、すごいなって思っただけで……別に、そういう意味じゃ……」「
last updateLast Updated : 2026-04-12
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第68話 砕ける黒い鏡④

 傲慢な理屈が並べ立てられる。「意識が逸れるということは、空気の供給が疎かになるということだ。これは生存に関わる死活問題だ。だから、障害物を排除した。それだけの話だ」 何千年も生きてきた圧倒的な強者が、胸の内で暴れ回っている感情の正体にまったく気づいていない。 ただの命綱だと思っている相手が、ほんの少し他の誰かに目を向けただけで、衝動的にテレビを破壊してしまうほどの苛立ち。 あまりにも理不尽で、大人気なくて、身勝手な独占欲。 テレビを見たからといって、浄化の能力が止まるわけでもないのに。 どうして自分がこんなに苛立っているのか分からずに混乱している不器用な姿を間近で見ていると、怖かったはずの胸の奥で、じんわりと不思議な温かさが弾けるのを感じた。 ただの道具に対して、こんなにも熱くなって、必死に自分だけを見ろと怒りをぶつけてくる存在が、果たしてこの世界に他にいるだろうか。「……ふふっ」 緊張が解け、思わず小さな笑い声が漏れた。目の前の顔が、ピクリと強張る。「何がおかしい」「黎様は、本当に不器用ですね」「……あ?」「怒らないでください。私はどこにも行きませんし、テレビの中に吸い込まれたりもしませんから」 微笑みながら言うと、信じられないものを見るように、目を僅かに見開いた。 縦に割れていた瞳孔が、少しずつ、丸く柔らかい形へと戻っていく。 顎を掴んでいた指先が離れる。 その代わり。分厚い腕が背中と腰に深く回り込み、グイッと強烈な力で分厚い胸の中へと引きずり込まれた。「あっ……」 冷たい壁と、岩のような大胸筋の間に完全に挟み込まれる。 顔がガクンと落ちてきて、首筋に深々と高い鼻先が押し付けられた。 スゥーッ……。 怒りを冷ますように、首元の匂いを肺の奥底まで、執拗に何度も深く吸い込む。 シャツ越しに伝わってくる心拍が、ドクン、ドクンと、こちらの鼓動と重なるように激しく鳴っていた。
last updateLast Updated : 2026-04-12
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第69話 招かれざる訪問者①

 粉々に砕け散った黒いガラスの破片が、手配された専門の清掃業者によって完全に片付けられてから、すでに一夜が明けていた。 巨大な最新式テレビが掛けられていた壁には、四角い固定金具だけが無機質に残されている。パノラマウィンドウから差し込む鋭い日差しが、広大なリビングルームの大理石の床を白く照らし出していた。 昨日、あの窓際で壁へと追い詰められ、骨が軋むほど強く抱きしめられた時の熱が、まだ皮膚の奥にじんわりと残っている。 アイランドキッチンの黒いカウンターの前に立ち、ボウルの中で新鮮な卵とミルクを静かにかき混ぜる。カチャカチャという泡立て器の軽い音が、静寂に包まれたペントハウスに規則正しく響く。 厚切りにしたパンを卵液に浸し、バターを溶かしたフライパンへと並べる。ジュワッ、という心地よい音とともに、甘く香ばしい匂いが空間にふわりと広がっていった。 視線の先、リビングの中央に置かれた本革のソファには、漆黒のスラックスとダークグレーのシャツを身に纏った黎が、深く背中を預けて座っている。長い両脚を無造作に投げ出し、太く硬い両腕を胸の前で固く組んだまま、ピクリとも動かない。 鋭い黄金色の瞳は、フライパンの火加減を調整する手元、冷蔵庫を開け閉めするタイミング、さらにはワンピースの裾が揺れる様子まで、一切のブレなく追従し続けていた。 昨日、テレビの中の俳優に向けた何気ない言葉に、テレビを粉砕するほどの激しい怒りを見せた。 暴力的で不器用な態度の裏に隠された、どうしようもないほどの焦燥と執着。それを知ってしまった今、放たれる執拗な視線を浴びていても、息が詰まるような恐怖は感じない。 恐ろしい存在が、ちっぽけな人間の些細な動きに一喜一憂し、目を離すまいと必死になっている姿が、胸の奥をくすぐったくさせる。 コトリ、と。 焼き上がったフレンチトーストを白い陶器のプレートに盛り付け、カウンターに置く。 微かな音にすら眉根がピクリと反応し、組まれていた腕の筋肉が僅かに収縮するのがわかった。「……何か、手伝うことはあるか」 地鳴りのように低い声が、ソファから這うようにして届く。「いえ、も
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第70話 招かれざる訪問者②

 誰かが一階のエントランスを突破し、この最上階の玄関口まで直接やってきて、インターホンのボタンを押したということ。 ソファの方を見ると、黎がゆっくりと立ち上がるところだった。 黄金の瞳が、限界まで細められている。 放たれる空気が、一瞬にして日常のそれから、獲物を前にした猛獣の極寒の気配へと切り替わった。 ズン、と重い足音を立てて、インターホンのモニターへと近づいていく。「黎様……誰か、来たんですか」 震える声に、振り返ることなく、太い腕を横に伸ばしてそこから動くなというジェスチャーをした。 壁に埋め込まれた液晶モニターの画面が、パッと明るく点灯する。 カウンター越しに背伸びをして、その画面を覗き込んだ。 高画質のカメラが映し出していたのは、一人の見知らぬ男の顔だった。 安物のよれよれになったグレーのスーツを着ており、髪は整髪料で不自然に撫で付けられている。首元には脂汗が光り、口元にはひどく愛想笑いを張り付けた、胡散臭い表情が浮かんでいた。 配達員でも、管理人でもない。 明らかに、この場所にふさわしくない異質な気配を纏った人間。『あー、突然の訪問で失礼いたします。聞こえておりますでしょうか』 モニターのスピーカーから、ざらついた男の声がリビングに響く。『私、しがない調査業を営んでおる者でして。いやあ、ここのコンシェルジュの方に少しばかり融通を利かせてもらいまして、このフロアに上がらせていただくのには、随分と骨が折れましたよ』 男はカメラに向かって、悪びれる様子もなくへらへらと笑いかけた。手にはくたびれた手帳のようなものを握っている。 コンシェルジュに融通を利かせた。何かを握らせて誤魔化したのか。 意味を理解した瞬間、心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。 指先から、急速に血の気が引いていくのがわかる。『単刀直入に伺いますがね。人探しをしておりまして。有栖川という名家の娘さんが、数日前から行方不明になっておるんですわ』 ――有栖川。 その単語が鼓膜を震わせた瞬間、視界がグラリと歪
last updateLast Updated : 2026-04-13
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