All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 招かれざる訪問者③

 呼吸が、うまくできない。 ヒューッ、ヒューッという、浅くて早い空気が喉の奥で鳴る。 手足の先がビリビリと痺れ始め、全身から冷や汗がどっと吹き出してきた。 視界の端が暗く狭まっていく。 埃っぽくて、カビの匂いが充満する地下室の冷たいコンクリートの感触が、幻覚となって肌に蘇ってくる。真っ暗な部屋で、お腹を空かせて、ただただ誰かがドアを開けてくれるのを待っていた惨めな時間。 また、あそこに連れ戻される。 誰の目にも留まらず、ただの便利な道具として雑用を押し付けられ、ゴミのように見下されるあの日々に。「いや……だ……」 喉から搾り出された声は、ひどく掠れて震えていた。 床に崩れ落ちた肩が、ガタガタと制御不能なほどの痙攣を起こしている。 モニターの前で、黎はピクリとも動かなかった。 ただ、広い背中の筋肉が、異様なほどの硬度で強張っているのがわかる。 ゆっくりと、モニターの下にある通話ボタンを、太い指で押し込んだ。「……失せろ」 マイクに向かって放たれたのは、たった一言。 怒鳴り声ではない。大声を張り上げたわけでもない。 しかし、その低く、重く、地獄の底から這い出てきたような絶対的な冷たさを孕んだ声は、壁や床を物理的に振動させるほどのすさまじい音圧を持っていた。 ガラスのコップが共鳴して微かに震え、耳の奥でキーンという耳鳴りが走る。 モニター越しの、分厚い防音ドアを隔てた外の廊下。 カメラに映る探偵の男の動きが、ピタリと止まった。 へらへらとした薄ら笑いが、まるで映像がフリーズしたかのように顔に張り付いたまま、眼球だけが異常な速度で痙攣し始める。「ここに貴様の探す人間はいない。……俺の領域に泥足を踏み入れたこと、後悔したくなければ二度と現れるな」 声のトーンが、さらに一段階下がる。 人間の出す声帯の振動を超えていた。本能の奥底に眠る、絶対的な捕食者に対する根源的な恐怖を強制的に引きずり出す
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第72話 招かれざる訪問者④

 丸太のように太い両腕が伸びてきて、震える肩を強引に掴むのではなく、まるで脆いガラス細工でも扱うかのように、そっと優しく包み込んだ。 火傷しそうなほどの熱が、シャツ越しにじんわりと伝わってくる。「黎、様……っ。どうしよう、見つかっちゃったかもしれない……連れ戻される……っ。私、またっ、……」 歯の根が合わず、言葉がうまく紡げない。 涙がボロボロと溢れ出し、大理石の床にいくつもの染みを作っていく。 黄金の瞳が、恐怖に歪んだ顔を真っ直ぐに覗き込んでいた。 いつもの傲慢さも、不機嫌さもない。ただ、不器用なほどの心配の色だけが浮かんでいる。 太い指先が、冷え切った頬をそっと包み込む。 乱暴に拭うのではなく、涙の雫を指の腹で丁寧に掬い取るような、ひどく繊細な手つき。「……落ち着け」 震える耳元で、低く囁く。「深呼吸をしろ。俺に合わせて息を吐け」「でも……外に、あの人が……っ」「もういない。怯えさせる虫は消えた」 どこまでも穏やかで、絶対的な温もりに満ちた声。 そのまま背中に腕が回り、そっと全体を包み込むようにして、分厚い胸の中へと引き寄せられた。「……っ、あぁ……」 獣のウールのような匂いと、重く規則正しい心音が、過呼吸になりかけていた肺に新しい空気を送り込んでくる。 大きな手のひらが、背中をポン、ポンと一定のリズムで優しく叩き始めた。泣きじゃくる子供をあやすような、ひどく温かい動作。「あの男の言葉など、気にする必要はない。あんな連中がどれだけ束になって押し寄せてこようが、この扉一枚すら開けさせるものか」 頭の上から、静かな、けれど揺るぎない決意を込めた声が降ってくる。「帰る場所など、有栖川の屋敷にも、あの下劣な男の元にも存在しない。お前の場所は、ここだけだ」 顔
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第73話 深夜のアイスクリーム①

 深い夜の闇が、広大なマスターベッドルームを重く冷たく満たしていた。 分厚い遮光カーテンは外の街明かりを完全に遮断し、部屋の中は文字通り、一寸先も見えない漆黒に沈んでいる。空調の低いモーター音だけが、耳の奥で単調なリズムを刻み続けていた。 あの朝、焼きたてのフレンチトーストの甘い匂いと黎の不器用な慰めによって、インターホン越しの探偵が残した恐怖の残滓をどうにか塗り潰して、一日をやり過ごすことができたと思っていた。 明るい太陽の光が差し込むリビングで、黎の執拗な視線と高体温に守られている間は、確かに私は絶対的な安全圏にいたのだ。 しかし、夜が来て、こうして静寂と暗闇の中に身体を横たえると、昼間は鳴りを潜めていた不安が、じわじわと冷たい泥水のように足元から這い上がってきた。(……もし、あの人がまた来たら) 目を閉じると、モニター越しにへらへらと笑っていた男の顔が、まぶたの裏にこびりついて離れない。 コンシェルジュに融通を利かせたと言っていた。だとしたら、エントランスの厳重なセキュリティも、私を守る完璧な盾にはならないのではないか。 お父様の涙の会見。そして、私を探しているという理恩様の執着。 有栖川の家から、そして理恩様の歪な悪意から、私は本当に逃げ切れるのだろうか。いつかまた、あのカビ臭い地下室の冷たいコンクリートの床に引きずり戻される日が来るのではないか。 ヒューッ、と。 無意識のうちに、呼吸が浅く、早くなっていた。 肺の奥に冷たい空気が入り込み、喉が引き攣るように渇いている。最高級のシルクのシーツの下で、手足の指先からゆっくりと血の気が引き、氷のように冷たくなっていくのがわかった。 寝返りを打とうとして、腰に巻き付いている丸太のように太い腕の存在に気づく。 私の背中は、黎の分厚い胸板に完全に密着していた。彼から放たれる、巨大なストーブのような火傷しそうなほどの熱気が、薄いコットンのルームウェア越しに私の皮膚をじりじりと焦がすように伝わってくる。 ドクン、ドクン。 背中越しに響く、岩盤の奥で鳴るような彼の重い心音。 普段なら、この圧
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第74話 深夜のアイスクリーム②

 黎の大きな手のひらが、私の額を覆うようにして触れた。  ヤケドしそうなほど熱い指先が、冷え切った皮膚の表面をゆっくりとなぞる。 「……昼間の虫のせいか」  黎の声が、一段階低く、そして絶対的な冷たさを帯びた。 「あのゴミの吐いた言葉が、まだお前の頭の中にこびりついているというわけだ」 「ちが、違います。ただ、少しだけ……暗いのが……」 「嘘をつくな」  額に置かれた手のひらが、私の頬を包み込むように移動する。 「俺はお前を、この鳥籠の中で完璧に守り抜くと言った。だが、お前はまだ、この箱の外にある下界の悪意に怯えている。俺の熱だけでは、そのつまらない恐怖を焼き尽くせないというのか」  黎の言葉には、怒りよりも、どこか苛立ちと焦燥が混じっていた。自分の所有物を完璧にコントロールできていないことに対する、絶対的強者ゆえの不満。  彼の手が離れ、ベッドのマットレスが大きく沈み込む音がした。  黎が、上半身を起こしたのだ。  カチッ、という小さな音とともに、ベッドサイドのランプがオレンジ色の淡い光を放った。  突然の光に目を細めると、シーツの上に胡座をかいて座る黎の、彫刻のように整った顔が浮かび上がった。乱れた漆黒の前髪の奥で、黄金の瞳が鋭くこちらを見下ろしている。 「起きろ」  短い命令。 「え……?」 「服を着替えろ。外に出るぞ」  黎はそう言い捨てるなり、ベッドから長い脚を下ろし、無造作に黒いスラックスを穿き始めた。 「外って……今からですか!?」  サイドテーブルの時計は、午前二時を回ったところを赤いデジタル数字で示している。 「こんな真夜中に、どこへ……」 「下界だ」  黎はダークグレーのシャツのボタンを留めながら、振り返りもせずに答えた。 「お前が俺のテリトリーにいながら、見えない外の世界に怯えているのが目障りだ。ならば、直接その外の世界へ連れ出し、俺の傍にいればどこであろうと何も恐れる必要がないということを、その身体に叩き込んでやる」  あまりにも極端で、暴力的な理屈。  夜中の二時に、不安を払拭す
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第75話 深夜のアイスクリーム③

 ◇ 深夜の六本木。 昼間の喧騒が嘘のように、街はひどく静まり返っていた。 しかし、完全に眠りについているわけではない。けやき坂の広い通りには、まだ眩いネオンの光が毒々しい色彩を放ち、時折、重低音を響かせて高級車が滑るように通り過ぎていく。 路地裏からは、微かにアルコールの匂いと、得体の知れない人間の気配が漂ってくる。 私は黎の手首に引かれるまま、小走りで彼の歩幅に合わせて歩いていた。「黎様……どこに行くんですか」 周囲を見回しながら、不安に押し潰されそうな声で尋ねる。「目的などない。ただ、この淀んだ空気を歩くだけだ」 黎は前を向いたまま、淡々と答える。 彼の横顔は、完全に「戦闘状態」に入っていた。 眉根を深く寄せ、黄金の瞳は周囲の暗がりを鋭く睨みつけている。彼から放たれる威圧感は、ペントハウスのリビングにいる時よりも数倍、いや数十倍に膨れ上がっていた。 物理的な魔力や炎を出しているわけではない。 ただ、彼という絶対的な捕食者がそこに存在しているという「気迫」。それが、目に見えない巨大な壁となって、私たちの周囲数メートルの空間を完全に制圧していた。 通りのはす向かいを歩いていた、ガラの悪そうな若者の集団がいた。 彼らは大声で笑い合いながらこちらへ向かって歩いてきていたが、黎の姿を視界に捉え、その圧倒的な気迫に触れた瞬間、ピタリと足を止めた。 笑い声がヒュッと凍りつき、彼らはまるで透明な壁に弾かれたかのように、慌てて道の反対側へと逃げるように避けていった。 すれ違う通行人も、タクシーを待つ酔客も、誰もが黎の放つ異様なオーラに本能的な恐怖を感じ、モーセの十戒のように道を空けていく。 誰も、私たちに近づこうとしない。 近づくことすら、できないのだ。「……見ろ」 黎が、歩みを止めずに低い声で言った。「これが、お前が怯えていた下界の姿だ。俺の隣を歩いている限り、有栖川の人間だろうが、探偵のゴミ虫だろうが、誰一人としてお前の半径十メートル以内に近づくこと
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第76話 深夜のアイスクリーム④

「えっ? コンビニですけど……黎様、ご存知ないですか?」 黎は数年前に目覚めてから、ずっとこの社会で財産を築いて生活してきたはずだ。コンビニエンスストアの存在くらい、知っていてもおかしくはない。 黎は少しだけ思案するように黄金の瞳を細めた。「……昔、あの婆さんに連れられて一度だけ入ったことがある。無駄に明るく、目がチカチカする箱だ」 ぽつりとこぼれ落ちた言葉。(おばあ様……?) 黎が言った「婆さん」という言葉に、ふと亡くなった祖母の顔が脳裏をよぎった。でも、いくらなんでも黎が私の祖母と知り合いだなんてあり得ない。何千年も生きてきた彼が指す「婆さん」なんて、きっとどこかの古い知り合いのことだろう。私はその疑問を深く追求せず、小さく頷いた。「食べ物や飲み物、日用品を売っているお店ですよ。誰でも入れるんです」 私が答えると、黎はフンと鼻を鳴らした。「……そうか。お前、何か好きなものを選べ」「え?」「気分を変えるためだ。下界の食べ物で、お前のその淀んだ顔色を多少マシにできるものがあるなら、俺が買い上げてやる」 黎はそう言うと、私の手首を引いて、コンビニの自動ドアへと堂々と足を踏み入れた。 ◇ ウィーン、という電子音とともに、人工的な白い光と、エアコンの冷えた空気が全身を包み込む。「い、いらっしゃいませ……」 レジの奥で品出しをしていた若いアルバイトの店員が、顔を上げて挨拶をしかけ、そのまま完全に硬直した。 無理もない。 深夜の静かなコンビニに、身長百九十センチを超える、極道かマフィアのボスのような圧倒的オーラを放つ漆黒の巨体が、眉間を深く寄せて殺気を撒き散らしながら入ってきたのだ。 黎の存在感は、明るい蛍光灯の下の陳列棚や、ポップな広告の色彩と、あまりにも不釣り合いで、シュールなほどの違和感を生み出していた。「さあ、何が欲しい。言ってみろ」 黎は腕を組み、店内の陳列棚を睨みつ
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第77話 深夜のアイスクリーム⑤

 白い冷気が足元に流れ落ちる。「どれだ。これを一つか」 黎の太い指が、ハーゲンダッツのバニラ味のカップを一つ摘み上げる。「はい。それ、すごく美味しかった記憶があって……」 私が小さく頷くと、黎は鼻でフッと笑った。「一つで足りるわけがなかろう。遠慮するな」 黎はそう言い放つなり、おもむろに両腕を広げた。 そして、あろうことか、冷凍ケースの棚の一段に並んでいるハーゲンダッツのカップを、端から端まで、まるで巨大な除雪車のように太い腕でかき集め始めたのだ。 ガサガサガサッ!! という無遠慮な音とともに、数十個のカップが次々と彼の巨大な腕の中に抱え込まれていく。「えっ!? ちょ、黎様!?」「まだ足りないか? なら、この段もだ。全種類、俺が買い占めてやる」 黎は本気だった。 さらに下の段のチョコレートやストロベリー味まで、棚ごとごっそりと抱え込もうとする。「だめですだめです!! そんなに買っても、冷凍庫に入りきりませんし、溶けちゃいます!!」 私はパニックになり、慌てて黎の腕に飛びついた。「俺のペントハウスの冷凍庫は巨大だ。問題ない」「そういう問題じゃなくて!! 一つでいいんです、今食べる分だけで!!」 全力で彼の太い腕にぶら下がり、抱え込まれたアイスの山を崩そうとする。岩のように硬い上腕二頭筋が、シャツ越しにピクリとも揺るがない。 黎は完全に理解不能だという顔で、私を見下ろした。「なぜ止める。お前が欲しいと言ったのだろう。俺の財力なら、この店ごと買い上げることも可能だぞ」「お店は買わなくていいです!! お願いですから、戻してください!」 必死の攻防。 圧倒的な力を持つ神話の黒竜が、深夜のコンビニの冷凍ケースの前で、アイスの爆買いを止めようとする人間の小娘と揉み合っている。 レジの方を見ると、店員はあまりの事態に完全に思考停止し、口をぽかんと開けたまま立ち尽くしていた。 黎の、一切の迷いのない真剣な表情。「遠慮するな」と、棚ごとアイスを根こそぎ奪い取
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第78話 深夜のアイスクリーム⑥

 黎の胸の奥で鳴った、心臓の音。 彼は、ただじっと、息をすることすら忘れたかのように、私の笑顔を見つめていた。(どうしたんだろう……また、変なスイッチが入っちゃったかな) 私が逃げ出さないように見張って、変に興奮しているのだろうか。相変わらず、抱き枕に対する執着が激しすぎる。 私が小首を傾げると、黎は不意に視線を逸らし、大きく喉仏を上下させた。「……一つでいいのだな」 ひどく掠れた、どこか熱を帯びた声だった。 黎は床に落ちたアイスを乱暴に拾い集めてケースに押し込み、私の手の中にあったバニラ味のカップを一つだけ掴み取った。 そのままレジへと向かう。 店員が震える手でバーコードを読み取る中、黎はスラックスのポケットから、黒いカードを無造作に引き抜いて乱暴に提示した。 ◇ コンビニの自動ドアを抜け、再び深夜の通りへと出る。 冷たい夜風が頬を撫でるが、私の手の中には、冷たいアイスのカップがしっかりと握りしめられていた。 黎は無言のまま、少しだけ歩調を緩めて私の隣を歩いている。 先ほどまでの殺気立った威圧感は、すっかり霧散していた。代わりに、彼の内側で何か得体の知れない熱が渦巻いているような、奇妙な静けさが漂っている。 通り沿いの小さな公園のベンチに、二人で腰を下ろした。 店員にもらった木のスプーンで、少しだけ溶けかかったバニラアイスをすくい、口へ運ぶ。「……冷たくて、美味しい」 濃厚な甘さが、舌の上でゆっくりと溶けていく。 不安で浅くなっていた呼吸は、もうすっかり元の穏やかなリズムを取り戻していた。 隣に座る黎を見上げる。 彼はアイスには見向きもせず、街灯に照らされた私の横顔を、ただじっと、食い入るように見つめていた。「……お前」 不意に、黎が低く呟いた。「よく、笑うようになったな」 その言葉に、私はスプーンを持ったまま目を瞬かせた。「そうです
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第79話 すれ違いと家出①

 サクッ、サクッ、と微かな摩擦音が、間接照明だけが灯る薄暗いリビングに規則正しく響いている。 私の頭皮をゆっくりと滑り降りていくのは、最高級の豚毛を使ったヘアブラシだ。その適度な硬さと、髪の合間を縫うように動く黎の長い指先の感覚が、私の脳をじわりと痺れさせていく。 背中には、黎の硬い膝と、厚い胸板がぴったりと張り付いている。ソファの座面に腰を下ろした黎の足の間に私が収まり、後ろから髪を梳かされる。この一ヶ月ですっかり定着してしまった、甘やかで、けれどどこか逃げ場のないこの時間が、私は堪らなく好きで、同時に恐ろしかった。 黎の体温は、人間よりも明らかに高い。背中越しに伝わってくるその熱は、私の薄いルームウェアを簡単に突き破り、肌に直接、重厚な質量となってのしかかってくる。「……髪の乾燥がひどいな。先ほど届いたオイルは使わなかったのか」 頭上から降ってきたのは、低く、微かな不満を含んだ掠れた声。「……すみません。少し、香りが強すぎる気がして。……今のままでも、十分すぎるほど贅沢をさせていただいていますから」 私は膝の上で指を絡め、小さく身を縮めた。 有栖川の屋敷にいた頃、私の髪はいつもパサついていて、埃っぽかった。家族が使い残した安い石鹸の泡で洗うのが精一杯で、櫛を通すことさえ、一日を生き延びるための雑事の中に埋もれていた。 けれど、ここでは違う。黎は私の髪一房、指先一つに至るまで、執拗なまでの関心を持って管理しようとする。それが彼なりの「保護」なのだと分かっていても、時折、自分が精巧に作られた愛玩動物か、あるいは最高級の空調設備にでもなったような錯覚に陥ることがある。「贅沢などと言った覚えはない。お前は俺の呼吸を支える、唯一の道連れだ。その状態を万全に保つのは、当然の権利だろう」 黎の大きな掌が、私の後頭部をそっと包み込む。 その感触があまりに優しくて、私はつい、心の中に溜まっていた澱を吐き出しそうになった。 今の生活は、間違いなく天国だ。美味しい食事、静かな眠り。そして何より、私を必要としてくれる――たとえそれが、特殊な能力
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第80話 すれ違いと家出②

 それは、有栖川家で全てを否定されてきた私が、唯一手放さずに持ち続けていた「自分自身」の記憶の欠片だった。その香りに包まれれば、黎の隣にいる自分を、もう少しだけ肯定できるような気がした。 だが、黎の答えは、氷の楔となって私の鼓動を貫いた。「必要ないと言っている。その石鹸とやらの成分を白亜に調べさせ、全く同じものをこの部屋に用意させる。お前が外の淀んだ空気を吸い込み、わざわざ身体を汚しに行く理由にはならない」「……同じものがあればいい、というわけじゃないんです。母が好きだったあのお店の空気を感じて、自分で選びたいんです。それは、ここで届くのを待っているのとは、全然違って……」「何が違う。結果は同じだ。お前はここで、清浄な空気の中に守られていればいい」 黎の声には、一切の揺らぎがなかった。彼にとって、私は「最高の状態を保つべき資産」なのだ。 黎の指先が、私の首筋をなぞる。 ひんやりとしたその感触が、今はひどく疎ましく感じられた。「お前は、俺を正常に保つための唯一のフィルターだ。そのフィルターが自ら目詰まりを起こしに行くなど、愚の骨頂だろう。お前はただの人間ではない。俺の命を繋ぐための、『器』なのだから」 ――器。 その単語が、私の頭の奥で、カランと虚しい音を立てた。 視界が急激に歪み、有栖川の父の冷徹な声が蘇る。『お前は有栖川の泥を洗うための道具だ。自分の意思など、磨り減るだけの無駄な機能でしかない』 母が病に倒れ、その「機能」を果たせなくなった時、父は母をどう扱ったか。 黎の言っていることは、形こそ違えど、本質的には同じだった。 結局、この人は私を見ていない。 私が何を想い、何に傷つき、何を愛おしんでいるか。そんな「人間としての機微」なんて、彼には必要ないのだ。「……器。私は、黎様にとっても、ただの……便利な道具なんですね」 声が震えた。握りしめた拳が、膝の上で白く強張る。「……私は、黎様の命を繋ぐた
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