All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 胸の傷と、夜の息苦しさ④

 まるで、手を離せばどこかへ消えてしまう幻を必死に捕まえるような、ひどく臆病で、繊細な力加減。「……離れるな」 黎の黄金の瞳が、月光の中で潤んだように揺れている。 焦点の合っていなかった瞳孔が、真っ直ぐに私だけを映し出していた。「俺に触れろ、ではないのですか」 少しだけ意地悪な質問が、口をついて出た。 黎は短く息を吸い込み、首を横に振った。「違う……。頼む、触れていてくれ……。お前の熱がないと、俺は……っ」 強引な命令ではなく、明確な哀願。 絶対的な強者が、そのプライドをかなぐり捨てて、私というちっぽけな存在に命を預けようとしている。 その事実が、私の胸の奥を甘く、そして苦しく締め付けた。「……はい」 私は小さく頷き、ソファの縁に寄りかかるようにして、さらに身体を黎へと密着させた。 右手は彼の左胸の鱗の上に置いたまま。 左手は彼の手首を優しく握り返す。 黎の荒々しかった呼吸が、少しずつ、少しずつ、落ち着きを取り戻していくのがわかった。 胸の動きが規則的になり、額に浮いていた冷や汗が引いていく。 部屋の空気を重くしていた淀んだ匂いも完全に消え去り、元の静寂なペントハウスの空気が戻ってきた。 ドクン、ドクン。 手のひらから伝わってくる彼の心音が、次第にゆっくりとした、力強いリズムへと変化していく。 私は彼を見下ろしたまま、その硬い鱗の感触を指の腹でそっとなぞった。 冷たくて、悍ましいと言った彼。 でも、私にはこの鱗が、彼が何千年も耐え抜いてきた孤独の鎧のように思えてならなかった。「……もう、苦しくないですか」 囁くような声で問うと、黎は目を閉じたまま、微かにこくりと頷いた。 彼の長いまつ毛が、目の下に濃い影を落としている。 張り詰めていた筋肉から力が抜け、彼の手のひらが、私の手首から滑り落ちて
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第52話 残された生きる道①

 無機質な大理石のカウンターに、微かな手のひらの熱が吸い込まれていく。 ガラス天板のIHコンロを専用のクリーナーで拭き上げ、最後にシンク周りの水滴を乾いた布巾で丁寧に拭き取る。一滴の残りも許さないという強迫観念に近い丁寧さで手を動かすのは、そうしていなければ、背後から突き刺さる強烈な「圧」に押し潰されてしまいそうだったからだ。 キュッ、キュッ。 静まり返った広大なキッチンに、布の擦れる微かな乾いた音だけが、まるで秒針のように規則正しく響いていた。 昨夜、あの暗闇のリビングで、苦痛に喘ぎ、黒い鱗を剥き出しにしていた黎。 あの時、私の指先に触れていた彼の肌は、火傷しそうなほど熱く、同時に氷のように冷たかった。巨大な獣の断末魔のような呼吸に寄り添い、ただ彼の肺が動くリズムをなぞるように夜を明かしてから、丸一日。 朝方になって目を覚ました黎は、驚くほど平然としていた。 胸元を覆い尽くしていた禍々しい鱗の群れも、肺を焼き焦がすような喘鳴も、すべては一夜の幻であったかのように綺麗に隠し通し、彼はいつも通りの傲慢で、不機嫌で、底の見えない不敵な主の姿に戻っていた。 差し出した朝食も、夕食も、彼は無言のまま完璧に平らげた。 だが、何かが決定的に変わっていた。 布巾をカウンターの端に、端を揃えて畳んで置く。ふぅ、と肺の底に溜まっていた熱い息を吐き出し、意を決して背後を振り返った。 リビングの中央、漆黒の本革ソファ。 そこに深く腰を沈めている巨大なシルエットと、真っ直ぐに視線がぶつかる。 縦に割れた鋭利な黄金の瞳孔。 それは瞬きすら忘れ、ただひたすらにこちらの動きを追従していた。食器を洗っている時も、冷蔵庫を開け閉めしている時も、私が一歩動くたびに、その瞳の焦点は寸分の狂いもなく私の喉元や手首を捉え続けていた。 背中に二つの強力なレーザーポインターを照射され続けているような、皮膚がジリジリと焦げる感覚。 以前から「視界から消えるな」という理不尽な命令は受けていた。けれど、今日の視線には、監視や見張りといった言葉では到底足りない、もっと執拗で、粘り気のある、そして「飢え」にも似た強い引力が混じ
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第53話 残された生きる道②

 壁掛けの時計の針は、すでに午後十一時を回っている。 逃げるようにゲストルームへと向かうべく、一歩足を踏み出した、その瞬間だった。「待て」 空気を物理的に震わせるような鋭い声が、背中をピシャリと打った。 ビクッと肩が跳ね、反射的に足が止まる。 心臓が、嫌な速さでドクドクと暴れ始めた。「どこへ行く」「え……あの、ゲストルームに。もう遅いですし、明日の朝食の準備もありますから」 振り返りながら答えると、黎はソファからゆっくりと立ち上がった。 身長百九十センチを超える巨体が立ち上がっただけで、天井の高いリビングの照明が遮られ、こちらに向かって巨大な影が津波のように押し寄せてくる。 ズシン、ズシン。 大理石を叩く、硬い足音。 ライオンが獲物を追い詰めるような、あるいは檻の隅に逃げ場をなくした小動物を見下ろすような、迷いのない歩み。「俺が許可した覚えはない」「でも、昨日は……」 反論しようとした言葉は、眼前に迫った岩盤のような胸板の圧迫感に押し潰されて消えた。 黎の太く、硬い指先が、私の右手首をガシッと掴む。 熱い。熱すぎる。 皮膚を通して伝わってくる彼の体温は、明らかに人間としての平熱を超えていた。「あ、痛っ……」 骨が軋むほどの力ではない。けれど、絶対に逃がさないという強固な意志が、その掌の厚みから伝わってくる。 黎の顔がゆっくりと下がり、割れた瞳孔が至近距離で私を見つめた。その瞳の奥で、金色(こんじき)の炎がゆらりと揺れている。「俺のベッドへ来い」「……え?」 脳が理解を拒否し、間抜けな声が漏れた。「耳が遠いのか。俺の寝室で、俺と同じベッドで寝ろと言っているんだ」 眉根を深く寄せ、心底不機嫌そうに言い放つ。冗談を言っているようには見えなかった。むしろ、それがこの世で最も効率的で、合理的な決定事項であると断じているような顔。「なっ、なんで
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第54話 残された生きる道③

 窓の外に広がる都会の夜景すらも、この部屋の主が放つ圧倒的な「個」の前では、単なる壁紙の一部に成り下がっていた。 黎はベッドの縁まで私を引っ張ってくると、掴んでいた手首を不意に離した。「入れ」 顎で真っ白なシーツをしゃくる。その動作一つにすら、命令を拒むことを許さない絶対的な王者の威厳があった。 私は、逃げ場がないことを悟った。この男――この竜は、自分が「必要」だと判断したものに対して、人間の情緒や常識など一切介在させない。「……本気、なんですね」「俺が二度同じことを言わせるな」 黄金の瞳が、有無を言わさぬ鋭さで射抜いてくる。 私は震える手でシーツを捲り、ベッドの端からそっと中へと滑り込んだ。 最高級のコットンは驚くほど滑らかで、本来なら深い眠りに誘ってくれるはずのものだった。けれど今の私にとっては、それは巨大な怪物の巣の中に敷かれた、柔らかな処刑台のようだった。 ドサッ、という重い音とともに、ベッドの反対側が大きく沈み込む。 黎が、黒いスラックスと薄手のシャツというラフな格好のまま、隣に入り込んできた。 広大なキングサイズのベッドだというのに、彼の規格外の巨体が横たわっただけで、部屋の空気が一気に一カ所に凝縮されたように感じられる。 私はできるだけ端の方へ、彼の熱から逃げるように身体を丸めた。 緊張で奥歯がガタガタと鳴りそうになるのを、唇を噛んで堪える。 だが、そんなささやかな距離など、彼には通用しなかった。「……遠い。お前は空気の一粒すら、外へ漏らす気か」 背後から低い不満の声が響いた直後。 私の腰に、丸太のように太く、硬い腕がガシッと巻き付いた。「ひゃっ!?」 グイッ! と凄まじい力で引き寄せられる。 マットレスの上を滑るようにして、私の身体はベッドの中央へと強引に移動させられ、背中が黎の分厚い胸板に完全に密着した。 薄い布越しに伝わってくるのは、もはや「体温」と呼べるレベルを超えた、燃え盛る炉のような熱量。「ちょっ、黎様、近す
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第55話 残された生きる道④

 そしてその奥から、恐ろしいほどの強さで響いてくる振動。 ドクン。ドクン。ドクン。 それは心音と呼ぶには、あまりにも重すぎた。 巨大な岩がぶつかり合うような、あるいは地下深くで機械が稼働しているような、腹の底を直接揺さぶる重低音の脈打ち。「黎様、ここ……痛くないんですか? こんなに、硬くて……」「黙れ」 問いかけは、後頭部を押さえる手の力の増加によって封じられた。 痛みはない。だが、ここから一ミリも動くことは許さないという、呪いにも似た強烈な執着が指先から浸透してくる。「……お前の心臓の音が、ここから一番よく聞こえる」 頭のすぐ上で、黎の喉仏が激しく上下するのが分かった。 意味がわからなかった。私の頭を自分の胸に押し付けているのだから、聞こえるのは彼の心音のはずだ。 だが、黎の呼吸は、私の思考のさらに先を行っていた。「俺の傷口から、お前の体温が流れ込んでくる。泥のように濁った俺の血の中に、お前の清浄な心音が……メトロノームのように、正しいリズムを刻んでくれるんだ」 黎の顔がガクンと下がり、私の頭頂部、髪の根元あたりに深々と鼻先が押し付けられた。 スゥーッ……。 深く、長く、そして執拗に。 私が吐き出したばかりの呼気を、一滴も残さず肺の奥底に飲み込もうとするような、飢えた獣の呼吸音。 吸い込まれるたびに、彼の大胸筋が鋼のように膨張し、私の頭をさらに強く、あの禍々しい鱗の表面へと押し付けてくる。 逃げ場はない。私は今、この男の「呼吸」を維持するための、パーツの一部と化していた。「……あの日からだ」 吐息とともに、地を這うような掠れた声が降ってきた。「あの雨の夜、俺が死にかけの身体で有栖川の裏庭に逃げ込んだあの日。お前が俺の汚れた胸に触れた瞬間から、俺の肺は、お前が放つ空気を吸い込まなければ、まともに機能しなくなってしまった」 黎の腕が、さら
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第56話 残された生きる道⑤

 私が「私」である必要はない。ただ、この特殊な浄化のリズムを刻み続ける「心臓」さえあれば、彼は満足なのだ。 圧倒的な力を持つ神話の化け物が、私の呼吸がなければ夜を越せない。 その歪な関係性の核心を突きつけられ、私は自分の存在が、少しずつ消えていくような感覚に陥った。 私は彼を救っているのではない。彼という巨大な穴を埋めるために、私の意志も、自由も、未来も、すべてがすり潰されて注ぎ込まれているのだ。 これこそが、私の運命の「谷」だった。 豪華な食事も、清潔な服も、すべてはこの装置を動かし続けるための、メンテナンスに過ぎない。 ◇ 私が抵抗をやめ、死んだ魚のような目で天井を見つめていると、黎の後頭部を押さえていた手の力が、ふっと柔らかく緩んだ。 代わりに、その大きな手が私の背中を一定のリズムで、不器用に、ポン、ポンと軽く叩き始める。 自分を落ち着かせるためなのか、あるいは、私を眠らせて機能を安定させるためなのか。「……お前も、寝ろ。機能が低下すれば、俺が困る」 耳元で囁かれた声には、先ほどまでの威圧感の裏に、隠しきれない依存への恐怖が混じっていた。 右耳から伝わってくる、黎の重い心拍。 ドクン、ドクン。 そのリズムは、私が大人しく腕の中に収まったことで、ようやく落ち着きを取り戻していく。 頬に当たる鱗の感触は、いつの間にか私の体温を吸い上げ、ヌルリとした不思議な温かさを持ち始めていた。 息苦しいほどの拘束。 逃げ出すことのできない、完全な密室。 私は、黎の広い胸板にそっと額を押し当てた。 彼が必要としているのが私の「機能」だけだとしても。 たとえ私が、生涯この部屋で、彼の呼吸を助けるだけの「道具」として終わるのだとしても。 有栖川家の、あの冷たい雨の中。誰からも必要とされず、泥水の中に捨てられていたあの日々に比べれば。 この、熱くて、重くて、狂おしいほどの執着で縛り付けられる牢獄の方が。 今の私には、唯一の「救い」のように思えてしまう。(&hel
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第57話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(前編)①

 視界のすべてが、暴力的なまでの色彩と光沢に埋め尽くされていた。 黎の住まう超高層マンションの最上階。その広大なリビングへと運び込まれたのは、数えきれないほどの紙袋と、重厚なロゴが刻印された箱の山だ。買い物という概念を超越した、いわば「物流の衝突」の残骸。それらが、毛足の長い真っ白な絨毯の上に無造作に積み上げられている。 エルメス、シャネル、ディオール――それ以外の、私には一生縁がないと思っていた聞いたこともない最高級メゾンのタグが、あちこちから顔を覗かせていた。「……はあ。これ、本当にどうすればいいんですか」 私は、山のような荷物の前に膝を突き、深いため息をついた。 隣では、この「在庫処分」の首謀者である黎が、さも当然といった風情でソファに深く身を沈めている。彼は窮屈そうにしていた上着を脱ぎ捨て、片膝を立てて、手にしたクリスタルグラスの琥珀色の液体を揺らしていた。 先ほどまでの、店員に囲まれて「なぜ怒られているのか分からない」と戸惑っていた迷子の大型犬のような顔はどこへやら。今はまた、世界を統べる者のような傲岸不遜な美しさを取り戻している。「何を悩んでいる。適当な場所に並べておけ。足りなければ、隣のゲストルームを衣装部屋に改装させるまでのことだ」「そういう問題じゃないって言ってるじゃないですか……! そもそも、私、体は一つしかないんですよ。こんなにたくさんの服や靴、一生かかっても使いきれません」「毎日十回着替えれば済む話ではないか。お前が様々な布切れを纏う姿を見るのは、俺の退屈しのぎになる」 黎は、形の良い唇を微かに歪めて、事もなげに言った。 布切れ、という暴言に頭が痛くなる。一着で私の数年分の生活費が飛んでいくようなドレスを捕まえて、なんて言い草だろう。 しかし、文句を言おうと彼を睨みつけた私の言葉は、途中で行き場を失った。 黎の視線が、私の全身を舐めるように這っていたからだ。それはただの「所有物の確認」ではない。まるで獲物の脈動や体温、皮膚の下を流れる血の音までを確かめるような、熱を帯びた執着が混ざっている。 その眼差しに射抜かれるた
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第58話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(前編)②

 彼が私にこれほどの物質的な豊かさを与える理由。それは単なる気まぐれや、金持ちの道楽ではない。 私という存在を、完全に「外の世界」から切り離すためだ。 外の世界――有栖川家という呪縛、私を虐げてきた家族、そして私を不当に扱ってきたすべての悪意から、物理的にも精神的にも隔離しようとしている。 そして同時に、それは彼自身の「生存」のためでもあるのだ。現代の空気に満ちた瘴気で肺を焼かれ、私という「浄化の酸素」なしでは生きていけないこの最強の黒竜にとって、私を失うことは彼自身の死を意味する。 だからこそ、彼は私を絶対に逃がさない。この黄金の檻に閉じ込め、彼だけのものにする。それが黎の「最終目的」なのだと、言葉の端々から生々しく伝わってくる。 私は逃げるように視線を逸らし、手近な紙袋の一つを引き寄せた。 シルクの肌触り。指先を滑る滑らかな感触。どれもが一級品で、触れるだけでため息が出るほど美しい。有栖川の屋敷にいた頃、妹の麻里亜にお下がりを強要され、穴の開いた靴下を隠してピアノを弾いていた私にとっては、あまりにも現実味のない光景だった。 その時。 豪奢な紙袋の隙間に、ひどく場違いなものが混じっているのに気づいた。 それは、今回の買い物で手に入れたものではない。私が有栖川家を追い出された夜、あの土砂降りの雨の中、唯一握りしめていたボロボロのポシェットだ。 買い物の荷物に紛れて、いつの間にかリビングに運ばれてしまっていたらしい。「……」 私は無意識に手を伸ばし、その古びた布地を探った。 指先が、底に沈んでいた小さな、冷たい金属の塊に触れる。「……これ」 震える指先でそれを取り出す。 銀色のすずらんを象ったブローチだった。 長年の放置により、銀は黒ずみ、細かな細工の間には埃が詰まっている。宝石の一つも付いていない、今のこの部屋にある贅沢品の数々に比べれば、ゴミ同然の安物だ。 けれど、私にとっては――。「お母様……」 呟きが、乾いた唇から零れ落ちた。
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第59話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(前編)③

 有栖川家を出た私が、いつか自分の力で生きていくための心の支え。私の目的は、このお守りと一緒に、誰も私を知らない場所で、静かに、誰かの役に立ちながら生きていくことだったはずだ。 不意に、部屋の空気が凍りついた。 背後から、圧倒的な質量を持った「気配」が迫る。 ソファにいたはずの黎が、音もなく私の真後ろに立っていた。 彼の長い影が私を覆い隠す。空気そのものが急激に重くなり、肺が圧迫されるような錯覚に陥る。「……それを、どこで手に入れた」 黎の声は、低く、低く、地を這うような響きを帯びていた。 先ほどまでの揶揄うような口調は完全に消え失せ、そこにあるのは、純粋なまでの殺意に近い緊張感だ。「え、あ、これは……亡くなった母の形見で……」「寄こせ」 拒絶する暇もなかった。 大きな、熱い手が私の手首を掴む。乱暴ではない。けれど、決して逃れられない絶対的な力。 黎は私の掌からブローチをひったくるように取ると、それを目の高さに掲げた。 彼の瞳が、琥珀色から深い血のような赤へと変色していく。瞳孔が爬虫類のように縦に裂け、彼の頬に、黒い、鈍い光を放つ鱗が数枚、浮かび上がった。 人外の正体を隠そうともしないその姿に、私の心臓が大きく跳ね上がる。「……なんて悪辣な匂いだ。反吐が出る」 黎が吐き捨てるように言った。 その言葉に、私の胸に鋭い痛みが走る。「ちょっと、なんてこと言うんですか! 返してください! それは、私の大切なお母様の……!」「黙って見ていろ。これは、お前が思っているような温いものではない」 黎は私の叫びを無視し、ブローチを凝視し続けた。 彼の指先から、黒い陽炎のようなものが立ち上る。それがブローチに触れた瞬間、銀色のすずらんが、まるで生きた虫のように嫌な音を立てて震え始めた。 チリ、チリ、と耳障りな音が部屋に響く。 すると、どうだろう。 黒ずんでいた
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第60話 呪いの残滓と、ただひとつの帰る場所(前編)④

 母様は……健康だった母様は、私を産んだ後、目に見えて衰えていった。医者は原因不明の衰弱だと言い、父様は「役に立たない女だ」と母様を疎み始めた。「お前の母親は病死ではない。この『毒』に、一族の栄華のために食い潰されたのだ。そして、お前がそのガラクタを後生大事に抱えていたせいで、お前の生命力もまた、あのごみ共に吸い取られ続けていたというわけだ」 世界が、ぐにゃりと歪んだ。 膝の力が抜け、絨毯の上に崩れ落ちる。 母様は、守ってくれると言った。私を守るための「お守り」だと。 けれどそれは、彼女の命を吸い取り、私を虐げる者たちに富を与えるための装置だったというのか。 私が大切に抱えていた思い出は、母様を殺し、私自身をも有栖川の「電池」として縛り付けていた鎖そのものだった。「嘘……そんな、嘘です……」「俺の目は欺けん。このブローチからは、有栖川の連中の強欲と、お前の母親の絶望の匂いがこびりついている。……だが」 黎はブローチを床に叩きつけようとして――ふと、その手を止めた。 彼は何かに気づいたように、顔をブローチに近づけ、深く、深く、その「匂い」を吸い込んだ。縦に割れた瞳孔が、僅かに揺らぐ。「……待て。この奥に、別の匂いがする」「……え?」「この呪いの膜の、さらに奥底。……お前の匂いだ。だが、今のお前の匂いではない。もっと幼く、無垢で……ひどく懐かしい、雨上がりの森の匂いだ」 黎はブローチを握りしめたまま、這いつくばる私の前にゆっくりと膝をついた。 視線が、同じ高さで絡み合う。 彼の顔が、すぐ近くにある。微かな革の香りと、彼特有の、焦燥感を煽るような熱い吐息。 黎の大きな手が、私の頬を包み込んだ。その指先は、先ほどの怒りに満ちたものとは思えないほど、ひどく慎重で、震えていた。「瀬理亜。お前は……かつて、北の果て
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