All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 すれ違いと家出③

 言いながら、視界が溢れ出した涙で滲んだ。 黎は動かなかった。いや、動けなかったのかもしれない。 彼は、自分が何故これほどまでに私を絶望させたのか、その根本的な理由を、理解する術を持っていない。 その決定的な溝が、たまらなく惨めだった。 彼に惹かれていた自分も。彼が梳かしてくれる髪の感触に安らぎを感じていた自分も。 全ては、飼い主に甘える従順なペットのそれと同じだったのだ。「……ここにいると、自分が何者なのか、分からなくなります。空気が綺麗すぎて……窒息しそうなんです」 私は足元のラグを蹴るようにして立ち上がり、リビングのドアへと走り出した。「待て、瀬理亜!」 背後から、空気を裂くような黎の怒号が飛んでくる。 廊下を駆ける私の足元で、高級なカーペットが不気味に沈み込む。 玄関の重い扉のロックを、震える指で乱暴に解除した。「瀬理亜!!」 すぐ背後まで、黎の圧倒的な気配が迫っていた。 その手が私の肩に触れようとした瞬間、私は半ば転がるようにして、廊下へと飛び出した。 ◇ 重い金属の扉が、鈍い音を立てて閉ざされた。 温度管理された完璧なペントハウスの廊下に、不自然なほどの静けさが落ちる。 宙を彷徨う自分の右手を見下ろしたまま、足を動かすことができなかった。 つい数分前まで、この掌の中には、熱を持った華奢な肩があったのだ。俺の膝に背中を預け、体温を明け渡していた、柔らかくて心許ない質量。 指先には、豚毛のブラシの硬い感触がまだ生々しく残っている。そして、微かに漂う髪の匂い。雨の日のような、どこか湿り気を帯びた清潔な香り。 それが、広い空間の中で急速に冷え、薄れていく。『あなたは私の中に流れている感情なんて、どうでもいいんだわ!』 涙でぐしゃぐしゃになった顔。 濡れた睫毛。怒りと絶望に震えていた声。 振り払われた手のひらには、ひ弱な人間から受けたとは思えないほどの鋭い痛みが張り付いていた。 ただ、外の
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第82話 すれ違いと家出④

 俺を恐れ、それでも不器用に甘えてきていたあの高い体温が、腕の中から消え去った。 その事実が、数百年生きてきて一度も経験したことのない焦燥となって、全身の血を沸騰させていく。「……っ、」 無意識にこぼれ落ちた呼気は、驚くほど掠れていた。 ギリッ。 手の中で、無意識に握り込んだブラシの柄が、ミシリと嫌な音を立てて亀裂を入れる。 掌に食い込む硬い木片の痛み。 指の隙間からこぼれ落ちる、微かな髪の匂い。 俺は、自分自身の荒い呼吸の音だけを聞きながら、ヒビの入った木製の柄を、ただひたすらに見つめ続けていた。 ◇ 一階のロビーを抜け、夜の街へ飛び出した瞬間、熱を持った頬に夜の冷気がべっとりと張り付いた。 アスファルトが放つ雨上がりの匂い。通り過ぎる車の排気ガス。遠くで響くサイレンの音。 ペントハウスの完璧な無菌状態とは正反対の、生々しくて、汚れていて、けれどどうしようもなく「生きた人間」が蠢く世界。 薄いルームウェアにカーディガンを羽織っただけの身体が、夜風にさらされてぶるりと震える。裸足のまま突っ込んだサンダルの底から、アスファルトの冷たさが容赦なく体温を奪っていった。「っ、……ぅ……」 歩道の隅、街灯の下で立ち止まると、一気に嗚咽が漏れた。 行くあてなど、どこにもない。 財布も持っていない。携帯電話も、あの冷たい天国に置いてきてしまった。 私はただ、暗い夜の闇の中に、ぽつんと放り出された迷子だった。 煌々と白く発光する、二十四時間営業のコンビニエンスストア。 ガラス越しに見える、整然と並んだ雑誌の背表紙や、無機質な什器の光。 自動ドアが開くたびに、陽気な電子音が夜の静寂を切り裂いて響く。 その光景があまりに日常的で、それでいて、今の私には恐ろしいほど無関係な、異界の景色のように見えた。 有栖川の屋敷にも、黎の隣にも、私の場所はなかった。 誰かにとっての「価値」であることをやめた瞬間、私はこの広
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第83話 不協和音と残り香①

 カチャリ、と硬い音が鳴った。 銀色のフォークの先端が、縁に細かな金糸の装飾が施された白い皿の底を、無遠慮に引っ掻く音だ。 テーブルを挟んだ向かいの席で、麻里亜はつまらなそうに唇を尖らせながら、残ったメインディッシュの肉をツンツンと小突いている。「ねえ、理恩。このお肉、ちょっと筋っぽくない? それにここの照明、暗すぎない? さっき撮った写真、全然盛れてなかったんだけど」 スマートフォンの画面を指先でスクロールしながら、不満げに鼻を鳴らす。「……この店の看板メニューだ。赤ワインとバルサミコのソースだよ」「ふーん。でも、先週連れて行ってもらったフレンチのお店の方が、絶対美味しかった。あっちのシェフの方が、私をちゃんと特別扱いしてくれたし」 麻里亜の関心は、料理の味や空間の雰囲気などには微塵もない。いかに自分が「特別で、周囲から丁重に扱われるべき存在」であるか。その肥大化した承認欲求を満たすことだけが、彼女のすべての行動原理だった。 先の尖った真っ赤なネイルで、ワイングラスの細い脚をカチカチと弾く。グラスの縁には、彼女の唇に塗られた濃いローズ色のリップが、べったりと半月型にこびりついていた。 手元のナプキンで口元を拭いながら、小さく息を吐き出す。 シャンデリアのオレンジ色の光を反射する、艶やかな巻き髪。胸元が大きく開いたドレスから覗く、白い肌。有栖川の次女という肩書きと、この目を惹く美貌。隣を歩かせるトロフィーとしては申し分ないと判断して、あの地味で薄暗い長女から乗り換えたはずだった。 だが今は、彼女が身を乗り出すたびに漂ってくる、甘く重たい香水の匂いが、ひどく鼻について仕方がない。バニラとムスクが混ざったような、過剰な自己主張の塊のような香りが、一杯数万円の赤ワインの香りを完全に殺している。(……こんな中身のない空っぽのガキの機嫌を取るために時間を潰すくらいなら、行きつけのキャバクラで適当なシャンパンでも開ければよかった) 胸の奥で、冷めた嘲笑が渦を巻く。 あそこの女たちなら、金さえ払えば完璧な愛想笑いで男の自尊心を満たしてくれる。こんな、金と
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第84話 不協和音と残り香②

 喉の奥を鳴らして赤い液体を飲み干すと、すぐにウェイターに向かって手を挙げた。「すいませーん、これ、もう一杯。あと、この席やっぱり奥すぎて写真映えしないから、窓際の明るい席に変えてもらえます?」 静かなフロアに、甲高い声が響き渡る。 周囲のテーブルの客が、わずかに眉をひそめてこちらを振り返ったのが見えた。 テーブルの下で、無意識にズボンの生地を強く握りしめる。こめかみの奥で、ドクン、ドクンと鈍い脈打ちが始まっていた。「麻里亜。ここは静かに食事を楽しむ場所だ。席の移動なんて、みっともない真似はやめろ」「えー? だって、あっちの席の方が絶対に私に似合うもん。っていうか、理恩が冷たいから、私ばっかり頑張って喋って疲れちゃった」 悪びれる様子もなく、新しく注がれたワインのグラスを再びカチカチと叩き始める。視界の端で上下する、毒々しい赤い爪。 それを見ていると、ふと、記憶の底から別の手が浮かび上がってきた。 短く綺麗に切り揃えられた、桜貝のような薄いピンク色の爪。 自己主張は一切しないけれど、常に清潔に保たれていた手。 仕事の書類に目を通している時、その手は音もなく視界の端に現れ、絶妙なタイミングで温かいお茶の入ったカップを置いていった。カップがソーサーに触れる際、カチャリという音すら立てないほどの、徹底した配慮。『お疲れ様です、理恩様。少し、目を休めてくださいね』 決して自分の意見を押し付けてこない代わりに、理恩が何を求めているのかを先回りして察知し、完璧に環境を整えてみせる。 金もかからず、文句も言わず、ただ黙って背後で傅いているだけの、都合のいい家具のような女。 そう思っていたはずだった。 華やかな麻里亜を手に入れるため、あの「宝石泥棒」の濡れ衣をあっさりと信じたふりをした。あの陰気な長女を切り捨てるには、丁度いい理由だったからだ。自分の選択が正しいと、少し前まで信じて疑わなかった。「……今日はもう出よう。送っていく」「えっ、まだデザートの写真を撮ってないのに!」「俺が疲れているんだ」 低く冷ややかな
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第85話 不協和音と残り香③

「……少し、換気したかっただけだ」「私の匂いが臭いって言いたいの!?」 助手席から鋭い声で食ってかかる。ヒステリックな甲高い声が、狭い車内で反響し、耳の奥を突き刺した。「そんなことは言ってない。空気がこもっていたからだ」「絶対そう思ってる! 最近の理恩、ずっと私に冷たいじゃない。私みたいな完璧な彼女がいるのに、どうしていつも上の空なのよ!」 目は、少しだけ涙ぐんでいた。以前なら、その涙を見れば慌てて抱き寄せ、適当な甘い言葉で自尊心を満たしてやっていただろう。だが今は、彼女の涙すら「自分を被害者に仕立て上げ、相手を思い通りにコントロールするための安っぽい武器」にしか見えなくなっていた。 車をゆっくりと発進させながら、前を見据えたまま口を開く。「君は少し、周りが見えていなさすぎる。さっきのレストランでもそうだ。もう少し、TPOというものを……」「お説教!? 信じられない。私を誰だと思ってるのよ。有栖川の娘よ?」「だからこそ言っているんだ。君の振る舞いは、有栖川の品格を疑われる」「……っ!」 大きく息を呑む音が聞こえた。 そして、口から飛び出してきたのは、今最も聞きたくない名前だった。「お姉様みたいにしろって言いたいのね!」 ハンドルを握る手に、ギリッと力が入った。革の表面が擦れる、嫌な音が鳴る。「誰もそんなことは言っていない」「言ってるのと同じよ! 理恩、最近ずっとお姉様と私を比べてる。お姉様はもっと静かだったとか、お姉様はもっと気が利いたとか、心の中で思ってるんでしょ!」 図星だった。 否定しようとして口を開きかけたが、喉の奥から声が出てこない。赤い爪が、シートの革をガリガリと引っ掻く。「あんな泥棒猫のどこが良かったのよ。お母様の大事な宝石を盗んで、家を追い出されたような恥知らずなのに! いつも日陰でジメジメしてて、自分の意見も言えない、ただの操り人形みたいな女じゃない!」 泥水のような罵詈雑言が、車内に溢れ返る。 泥棒猫。恥知らず
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第86話 不協和音と残り香④

 隣でキャンキャンと甲高い声を上げる、中身の空っぽな、ただ金と手間ばかりがかかるヒステリックな愛玩動物ではないか。 本当に必要だったのは、見栄えなどではなく、黙って完璧に環境を整えてくれるあの静かで優秀な「土台」の方だったのだと、今更になって気がついた。「黙れと言っている」 低く、地を這うような声に、隣の肩がビクッと跳ねた。「な、によ……」「瀬理亜の話は、今は関係ない。俺は君の振る舞いについて話をしているんだ」「関係あるわよ! あんな女、どこかで野垂れ死んでればいいのに!」 キィィィッ、と。 タイヤがアスファルトを強く摩擦する音が、夜の道路に響き渡った。急ブレーキを踏み、車を路肩に乱暴に停車させる。急激な減速のせいで、シートベルトが胸元に深く食い込む。「ちょっと! 何するのよ!」「降りろ」 声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。エンジンのアイドリング音だけが、不気味なほど規則正しく鳴り響いている。「は……? 何言ってるの、ここ、まだ家の近くじゃ……」「タクシーを拾え。これ以上、騒音の出る欠陥品と同じ空気を吸っていたくない」 顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。今の瞳には、一切の妥協も、取り繕った愛情の欠片も浮かんでいない。ただ、底知れぬ疲労と、無能なアクセサリーに対する完全な見切りだけが張り付いていた。「……っ、最低!」 バタンッ、と鼓膜が破れそうなほどの勢いで、助手席のドアが叩き閉められた。ヒールの甲高い足音が、怒りに任せてアスファルトを叩き、夜の闇の中へ遠ざかっていく。 その後ろ姿を振り返ることすらなく、ただハンドルに両手を乗せ、深く息を吐き出した。 車内にはまだ、重たい香水の匂いがべっとりとこびりついている。 助手席の窓を全開にし、夜風を車内に通す。冷たい風が頬を叩き、シャツの襟元から入り込んで体温を奪っていく。 いつでも静かに隣にいて、決して出しゃばらず、ただこちらの負担を減らすことだけを考え
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第87話 最悪の遭遇①

 ジジッ、ジジッ……と、古びた蛍光灯が寿命を訴えるような、微かな電子音が頭上から降ってくる。 煌々と白く発光するコンビニエンスストアのネオン看板は、数秒おきに不規則な瞬きを繰り返し、そのたびに私の足元に落ちた濃い影の輪郭を揺らしていた。 雨上がり特有の、アスファルトが湿気を吐き出すような重たい匂いが鼻腔を塞ぐ。 薄いルームウェアの生地は、夜風を防ぐ役割を全く果たしていなかった。カーディガンの前を両手で掻き合わせても、布地の隙間から忍び込んでくる冷気が、容赦なく体温を奪っていく。 何より堪えがたいのは、足元の冷たさだった。 玄関で適当に突っ込んできただけの薄いサンダルの底からは、雨水を吸ったアスファルトの刺すような冷気が、足の裏から足首、そしてふくらはぎへと、じわじわと這い上がってくる。 足の指先はとうに感覚を失い、白く強張っていた。(……どこへ、行けばいいんだろう) ガチガチと鳴りそうになる奥歯を強く噛み締めながら、私はぼんやりと周囲を見渡した。 深夜の通りは不気味なほど静まり返り、行き交う人の姿もない。遠くの幹線道路を走る大型トラックの重低音が、地面を微かに震わせるのを感じるだけだ。 財布も、携帯電話も持っていない。 文字通り、着の身着のままで飛び出してきてしまった。 有栖川の屋敷を追い出されたあの雨の夜でさえ、最低限の荷物くらいは持っていたというのに。今の私は、この広い世界の中で、誰の記憶にも留まらない透明なちりあくたと同じだった。 ペントハウスの、あの完璧に温度管理された空気がひどく遠い。 背中を包み込んでいた、黎の膝の硬さと、圧倒的な熱量。 私の髪を梳かしていた、あの不器用で優しい指先の感触が、急速に冷えていく肌の表面にありありと蘇り、胸の奥をギュッと締め付けた。「……っ、」 視界が再び滲みそうになり、私は慌てて瞬きをしてそれを堪えた。 泣いている場合ではない。まずは、どこか風を凌げる場所を探さなければ。 麻痺し始めた足を無理やり動かし、歩道の縁
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第88話 最悪の遭遇②

 仕立ての良いダークスーツ。少しだけ緩められたシルクのネクタイ。  車のドアに片手をかけたまま、街灯の逆光を背負って立っていたのは、黎ではなかった。  理恩だった。 「理恩、様……」  無意識のうちに、すり減った声が唇からこぼれ落ちていた。  どうして、彼がここにいるのか。  私の問いを待つまでもなく、理恩はゆっくりとドアを閉め、革靴のヒールでアスファルトを鳴らしながら、こちらへ近づいてきた。  数歩の距離まで近づいた彼の顔には、私がかつて見慣れていた「有栖川の優秀な次期当主」としての隙のない表情はなく、ひどく疲労し、何かに追い詰められているような歪な陰りが落ちていた。  理恩の細められた冷ややかな瞳が、私の顔から、薄着のルームウェア、そして裸足のまま突っ込んだサンダルへと、舐め回すように上下に動く。 「……ひどい有様だな」  理恩の口から吐き出されたのは、底冷えのするような嘲笑だった。 「家を追い出されてから、まともな生活すらできていないのか。そんな薄着で、裸足同然で夜の街を彷徨うなど。有栖川の娘としての矜持すらとうに捨てたらしい」 「…………」 「何か言ったらどうだ。俺の顔を見るのも久しぶりだろう」  理恩が一歩、距離を詰めてくる。  かつての私なら、彼のこの冷たい声と威圧的な態度を前にしただけで、胃がひっくり返るような恐怖を覚え、条件反射のようにその場にしゃがみ込んで許しを請うていただろう。  彼が有栖川の当主と結託し、私に「宝石泥棒」という無実の罪を着せて家から叩き出した張本人であることは、頭では理解していた。それでも、長年刷り込まれた「彼には逆らえない」という恐怖の呪縛は、そう簡単に解けるものではなかったはずだ。  だが。 (……あれ?)  私は、自分の内側が驚くほど静かに凪いでいることに気がついた。  理恩の冷たい視線を浴びても、彼の苛立ちを含んだ声を聞いても、私の心臓は一つも跳ねない。胃の奥が縮み上がるような悪寒も、呼吸が浅くなるようなパニックも、全く起きなかった。  無理もない。  私はこの一ヶ月間、あの「最恐の黒竜」と文字通り
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第89話 最悪の遭遇③

 理恩の口角が、歪な弧を描いて吊り上がった。 その顔に浮かんでいたのは、純粋な安堵と、ひどく傲慢な優越感だった。 彼は、本気でそう思い込んでいるのだ。私が彼を失い、家を失い、惨めに転落して泣いているところを、自分が慈悲深く救い上げてやるのだと。「来い、瀬理亜」 理恩の大きな手が伸びてきて、私の右腕をガシリと掴んだ。「痛っ……」「車に乗れ。屋敷へ連れて帰ってやる。父上や義母上には、俺からうまく口利きをしてやろう。お前が深く反省し、二度と逆らわないと誓うなら、また有栖川の隅に置いてやらないこともない」 腕に食い込む指の力は、確かに強かった。 だが、その手から伝わってくるのは、黎のあの火傷しそうなほどの熱ではなく、ただの生温かい、汗ばんだ人間の体温でしかない。「離してください」 私は、その手を振り払おうと右腕に力を込めた。 しかし、理恩の握力は予想以上に強く、ビクともしない。「意地を張るなと言っているだろう。お前みたいな女が、一人で生きていけるわけがないんだ。黙って俺の庇護下に戻ればいい」「誰が、あなたなんか……!」 強い力で引き寄せられた瞬間、理恩のスーツから、むせ返るような強烈な匂いが鼻腔を殴りつけた。 甘ったるくて重たい、過剰な自己主張の塊のような匂い。 麻里亜がいつも好んでつけていた香水だ。 その匂いが理恩の服にべったりと染み付いているという事実が、私の胃袋を強烈に押し上げた。吐き気が込み上げ、思わず口元を押さえる。「……っ、嫌、離して!」「お前は、本当に何も分かっていないな」 理恩の声が、一段と低く、冷酷な響きを帯びた。 掴まれた手首がギリリと捻り上げられ、痛みに顔が歪む。「お前が宝石を盗んでいないことくらい、俺も、父上たちも、最初から知っていたさ」「……え?」 息が、止まった。 ネオンの光に照らされた理恩の顔は、残酷なほど無表情だった。「
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第90話 最悪の遭遇④

 でも、黎の手はあんなにも優しかった。私の髪を梳かす指先には、私を壊さないようにという切実な労わりがあった。私が怒れば、捨てられた犬のように戸惑い、自分の不器用さを嘆いていた。 それに比べて、目の前のこの男はどうだ。 私の意思など初めから存在しないものとして扱い、ただ自分の生活を快適にするための「便利な家具」として、力ずくで連れ戻そうとしている。「ふざけないで……!」 私は全身の体重を後ろにかけ、全力で腕を振り解こうとした。「私は、あなたの便利な道具じゃない! あなたたちのために磨り減るだけの人生なんて、もう絶対に嫌!」「黙れ!」 怒号とともに、理恩の空いた左手が私の肩を乱暴に突き飛ばした。 足元のサンダルが濡れたアスファルトで滑り、無様にバランスを崩す。「きゃっ……」 そのまま地面に倒れ込むかと思った瞬間、理恩が私の腰を腕で強く抱え込み、そのまま車の助手席の方へと強引に引きずり歩き始めた。「やめ、離して! 助けて!」「誰が助けに来るというんだ! お前にはもう、俺しかいないんだよ!」 バツン、と重たい音を立てて助手席のドアが開けられる。 理恩は抵抗する私の身体を、半分投げ飛ばすようにして、助手席のシートへと押し込んだ。「痛っ……」 背中に激突した本革シートは、氷のように冷たく、硬かった。 それと同時に、密閉された車内にこびりついていた香水の匂いが、一気に肺の中へと流れ込んでくる。 胃液が逆流するような吐き気に襲われ、私はシートの上で身を丸めた。 逃げようと足掻く間もなく、理恩の身体が覆い被さるようにして私の肩を押し付け、シートベルトを乱暴に引き出して金具をガチャンとロックする。「大人しくしていろ。無駄な抵抗をするようなら、手荒な真似をしなければならなくなる」 至近距離で睨みつけてくる理恩の息には、微かにアルコールの匂いが混じっていた。 バタンッ! 助手席のドアが、鼓膜を破るような乱暴な音を立てて閉ざされる。
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