All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実①

 週末の六本木。けやき坂の通りには、初夏を思わせる強い日差しが暴力的なまでに照りつけていた。  路面に落ちた街路樹の濃い影の境界線を、高級車のタイヤが滑るように通り過ぎていく。排気ガスの微かな匂いと、行き交う人々の熱気、それに混じって漂う様々な香水や化粧品の甘ったるい匂いが、重く淀んだ空気の層を作ってアスファルトの上にべったりと滞留している。  獅子王理恩は、交差点の角にある高級ブティックのガラスショーウィンドウを背にして立ち、右手の指先で眉間を強く揉みほぐしていた。  ズキリ、ズキリと、こめかみの奥で鈍い痛みが脈打っている。  昨夜から続く、原因不明の頭痛だった。いや、頭痛だけではない。首の付け根から両肩にかけて、まるで水分をたっぷりと吸い込んだ重い粘土を乗せられているような、酷い肩こりと倦怠感が張り付いている。  獅子王グループの次期トップとして、連日深夜まで続く役員会議や、海外の取引先との折衝をこなしている。ただの過労と睡眠不足からくる自律神経の乱れだろうと、理恩は自分を納得させていた。  だが、それにしても今日の体調の悪さは異常だった。  普段なら気にも留めない人混みのざわめきが、ひどく耳障りなノイズとなって鼓膜を引っ掻き回す。すれ違う見知らぬ人々の発する体温や息遣いすらもが、不快な湿気となって肌にまとわりつくようだった。  軽く息を吐き出し、オーダーメイドの薄手のネイビースーツの首元を少しだけ緩めようとした時だ。 「理恩様!」  人混みのざわめきを切り裂くような、甲高くよく通る声が鼓膜を鋭く叩いた。  頭痛の芯がビクッと跳ねるのを堪えながら顔を上げると、通りのはす向かいから、大げさなほど手を振りながらこちらへ小走りで近づいてくる女の姿があった。  有栖川麻里亜。  数日前に新たな婚約者として正式に迎え入れたばかりの、華やかで美しい令嬢。  今日の彼女は、鮮やかなマゼンタピンクのタイトなノースリーブワンピースに身を包み、足元には凶器のように細いピンヒールを履いている。綺麗に巻かれた明るいブラウンの髪が、歩くたびにふわりと揺れ、周囲の通行人の視線を否応なしに引きつけていた。 「ごめんなさい、お待たせしちゃい
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第42話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実②

 麻里亜は悪びれる様子もなく理恩の右腕に自分の両腕を絡ませ、豊かな胸の膨らみをスーツ越しの腕の筋肉に押し付けてきた。  さらに香水の匂いが濃くなる。理恩は思わず息を浅くし、肺の奥までその匂いを吸い込まないように無意識の防衛本能を働かせた。 「ああ。どこか見たい店はあると言っていたね」 「はい! あそこの新しいバッグのコレクションが見たくて。でもその前に、理恩様、ちょっとこっち向いてください」  麻里亜は理恩の腕にすがりついたまま、空いた片手でスマートフォンの画面を顔の高さに掲げた。  インカメラのレンズが、二人の姿を画面の中に切り取っている。 「はい、笑ってー」  カシャッ、という人工的なシャッター音が鳴る。  だが、麻里亜は画面を確認すると、すぐに不満げに唇を尖らせた。 「んー、なんか光の入り方がイマイチ。理恩様、もう少し顔を私の方に寄せてくれませんか。あと、笑顔がちょっと硬いです」 「……こうかな」  理恩は引きつりそうになる頬の筋肉を無理やり持ち上げ、口角の角度を調整した。 「そうそう、そんな感じです。じゃあもう一枚いきますよー」  カシャッ、カシャッ、カシャッ。  角度を変え、立ち位置を数ミリ単位で修正しながら、麻里亜は交差点のど真ん中で十回以上もシャッターを切り続けた。すれ違う通行人たちが、物珍しそうにこちらをチラチラと見ながら避けていく。  獅子王の跡取りとして、常に人に見られることには慣れている。だが、まるで自分が「映え写真」のための見栄えの良い小道具として扱われているようなこの状況には、流石に苛立ちが募り始めていた。 「ねえ、麻里亜。そろそろ店に行かないか。日差しも強いし」  やんわりと制止の声をかけると、麻里亜はようやくスマートフォンを下ろし、画面を熱心にスワイプし始めた。 「あ、これいいかも。『#御曹司と週末デート』『#完璧な彼氏』ってタグ付けて、すぐストーリーにアップしなきゃ……」  彼女の意識はすでに理恩ではなく、画面の向こう側にいる見えないフォロワーたちへと完全に向かっている。  理恩は微かに溜息を
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第43話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実③

 麻里亜の頭の中にあるのは、自分が他人の目にどう映るか、どれだけ羨望の的になれるかということだけ。理恩との会話も、中身は常に「どこそこのブランドの新作が出た」「誰々がハワイに行ったから私も行きたい」という、果てしなく浅はかな承認欲求の垂れ流しでしかない。 「理恩様、行きましょう!」  ようやくSNSへの投稿を終えたらしい麻里亜が、再び腕を引く。  重い鉛のような疲労感を引きずりながら、理恩は麻里亜の歩調に合わせて歩き出した。 ◇ 大理石の床が広がる、冷房の効きすぎた高級ブランドのブティック。  壁一面に並べられた色とりどりのレザーバッグを前に、麻里亜のテンションは最高潮に達していた。 「わぁ、これ、雑誌に載ってた限定カラーだわ! 理恩様、どっちの色が私に似合うと思いますか」  麻里亜が両手にそれぞれ真っ赤なハンドバッグと、淡いブルーのショルダーバッグを持ち、理恩の前に突き出してくる。  理恩は店内に用意されたビロード張りのソファに深く腰を沈めながら、投げやりになりそうな意識を必死に繋ぎ止めた。  冷房の冷たい空気が、汗ばんだ首筋を急激に冷やしていく。そのせいで肩の筋肉がさらに強張り、重い鈍痛が首の骨を軋ませているようだった。新しいレザーの独特な匂いが、麻里亜の香水と混ざり合って鼻の奥を突く。 「……どちらもよく似合っていると思うよ。君の華やかさを引き立てている」  当たり障りのない、完璧な模範解答を口にする。  麻里亜は満足そうに微笑むと、全身鏡の前で様々なポーズを取り始めた。 「んー、でも赤はちょっと主張が強すぎるかなぁ。ブルーの方が、今日のピンクのドレスには抜け感が出ていいかも。ねえ、店員さん、これの在庫ってまだあるんですか」  黒いスーツを着た女性店員が、恭しく頭を下げる。 「はい。そちらのブルーは最後の一点となっております。大変人気の商品でして」 「最後の一点! 理恩様、私これにします!」  麻里亜は弾んだ声で言いながら、バッグを抱きしめるようにして理恩を見つめた。  その目には、愛する男へのおねだりという可愛らしさの裏に、確固たる「買ってもらって当然」
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第44話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実④

 買い物を終え、重厚な紙袋を手渡された後、二人はブティックを出て再び通りへと戻った。  麻里亜の手には、ブランドのロゴが大きくプリントされた紙袋が握られている。理恩にもいくつかの荷物を持たせ、彼女は満足げに足取りを弾ませていた。 「少し、どこかで休憩しないか」  視界の端がチカチカと点滅し始めたのを感じ、理恩は立ち止まって提案した。  首の付け根に張り付くような重さが、いよいよ背中全体へと広がってきている。まるで、見えない泥の塊を背負わされているような、息苦しい感覚だった。 「いいですね。じゃあ、あそこのカフェに行きましょう。あそこのテラス席で写真撮りたかったんです」  麻里亜が指差したのは、通りを見下ろす位置にある、ガラス張りのスタイリッシュなカフェだった。  店先に着くと、週末ということもあり、数組の客が順番待ちの列を作っている。  理恩は舌打ちしたい衝動を飲み込んだ。普段の彼であれば、秘書に命じてVIPルームを確保させるか、並ぶような店には最初から近寄らない。だが、麻里亜にとっては「この店の、この席で撮る」という過程そのものが重要なのだ。  十五分ほど待たされ、ようやく通されたテラス席。  理恩は逃げるように椅子に腰を下ろし、冷たい水の入ったグラスに手を伸ばした。氷がカランと鳴り、喉の奥へ冷たい液体を流し込む。  メニューも見ずに、理恩はブラックのドリップコーヒーを注文した。頭の芯にこびりついた不快な泥のような感覚を、強いカフェインの苦味で洗い流したかった。  一方の麻里亜は、店員を捕まえてメニューの写真を指差し、何やら複雑な注文を繰り返している。 「この季節限定のフルーツパフェ、上のトッピングをマカロンに変えてもらえますか。あと、ソースは横に添える感じで。写真撮る時に色が混ざっちゃうと嫌なので」  店員が困惑したような愛想笑いを浮かべながら注文を復唱して下がっていく。  理恩はテーブルに両肘を突き、組んだ指先で口元を覆った。  視界の向こうで、麻里亜はさっそく先ほど買ったばかりのブランドバッグをテーブルの上に配置し、スマートフォンのカメラで物撮りを始めている。 「ねえ、麻里亜」
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第45話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実⑤

「お父様の演技、完璧でしたよね。世間はすっかり可哀想な家族だと思ってくれてるみたいだし、一件落着ですよ」 「……瀬理亜本人の行方は、まだ何も掴めていないのか」 「さあ。探偵を使って裏で探してはいるみたいですけど、どこで野垂れ死んでてもウチとしては全然構わないんで。むしろ、変に生きて見つかって週刊誌に騒がれる方が迷惑っていうか」  麻里亜の言葉には、姉に対する肉親としての情など欠片も存在していなかった。  理恩は、そのあまりにも軽薄で冷酷な言い放ち方に、微かな悪寒を感じた。  自分自身も瀬理亜を見下していた人間だ。だが、ここまで露骨に他者の命を軽視し、自分の体裁とSNSの「いいね」の数にしか興味を持たない女と、果たしてこの先、獅子王の家名を背負って生きていけるのだろうか。  運ばれてきたブラックコーヒーに口をつける。  いつもなら芳醇な香りと心地よい苦味を感じるはずの高品質な豆の味が、今日はなぜか、ただの焦げた灰のような最悪の味に感じられた。舌の上にザラザラとした不快な感触が残る。  目の前では、運ばれてきた巨大なパフェを前に、麻里亜が歓声を上げている。 「わぁ、すごーい! 理恩様、ちょっとこれ持っててください」  麻里亜にスマートフォンを押し付けられ、理恩は言われるがままにレンズを彼女に向けた。 「もっと上から! パフェの層が綺麗に見えるように!」  指示通りに腕を上げる。  スマートフォンの画面越しに見る麻里亜の作り物めいた笑顔が、ひどく歪んで見えた。  こめかみの奥で、ズンッ、と一際大きな痛みが弾ける。  その瞬間、理恩の脳裏に、不意にある記憶がフラッシュバックした。  有栖川の本邸を訪れた時のことだ。  応接室の片隅で、メイドのようにお茶を淹れていた瀬理亜の姿。  彼女は決して出しゃばらず、理恩の視界に無理に入り込もうともしなかった。声をかければ小さな声で事務的に答え、理恩が不機嫌な時は、まるで気配を消すようにただ静かにそこに佇んでいた。  無表情で、地味で、何を考えているか分からない。  だが、彼女が淹れてくれるお茶はいつも完璧な温度で、茶葉の控えめな香り
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第46話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実⑥

(……こんな疲れる女より、あの大人しくて自己主張しない地味女の方が、よっぽど扱いやすかった……)  理恩は、画面の中でポーズを取り続ける麻里亜を見下ろしながら、心の中で深く、重いため息をついた。  後悔というよりは、便利な家具をうっかり手放してしまったことに対する、極めて自己中心的で浅ましい未練だった。  だが、その未練すらも認めたくないプライドが、理恩の表情をさらに強張らせていく。 ◇ 日が落ち、街にネオンの光が灯り始めた頃。  二人は、六本木の裏路地にひっそりと佇む、完全予約制の高級フレンチレストランに足を踏み入れていた。  間接照明だけが仄かに照らす、重厚なマホガニー調のインテリア。他の客の顔が見えないように配置された広めのテーブル席。  完璧なエスコートで麻里亜を席に座らせた理恩だが、もはや体調は最悪のピークに達しようとしていた。  胃の奥底に、冷たくて重い鉛の塊が沈んでいるような感覚。首を少し動かすだけで、肩甲骨の裏側あたりでギシギシと嫌な音が鳴る。  目の前に置かれたクリスタルグラスのシャンパンの泡すら、今の理恩には毒の沼から湧き上がるガスのようにおぞましく見えた。 「素敵なお店……。理恩様、予約してくださって本当にありがとうございます」  麻里亜がうっとりとした表情で店内を見回している。  しかし、彼女の関心は料理や空間の余韻を味わうことには向かわない。  前菜として運ばれてきた、宝石のように美しいオマール海老とキャビアのコンソメジュレを前にして、麻里亜はすかさず自分のバッグから小さな円形のリングライトを取り出した。  カチッ、と白いLEDの光が、薄暗いテーブルの上を無遠慮に照らし出す。  理恩は思わず眉間を寄せた。 「……麻里亜。さすがにその光は、他の客の迷惑になる」  抑揚を殺した低い声で注意する。  だが、麻里亜はスマートフォンの画面から目を離さず、気のない返事をした。 「えー、でもこの暗さじゃ綺麗に撮れないですよ。ちょっとだけですから。それに、私たちが獅子王の人間だってわかれば、誰も文句なんて言ってきませんって」  傲慢
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第47話 完璧な御曹司の憂鬱と、映えない現実⑦

「何ですかそれ。せっかく私が楽しくデートしてるのに、水差さないでくださいよ」  尖った声が、静かな店内に微かに響く。 「誰のおかげで、有栖川の長女の代わりになれたと思っている」  理恩の口から、無意識のうちに氷のように冷たい言葉が滑り落ちていた。  空気が凍りつく。  麻里亜の目が限界まで見開かれ、持っていたスマートフォンがテーブルの上にカチャッと音を立てて置かれた。 「……っ、理恩様、今なんて」 「いや」  理恩は右手の親指と人差し指で、ズキズキと痛む眉間を強く抑え込んだ。 「すまない。本当に、少し体調が悪いんだ。……少し黙って、料理を食べよう」  それ以上言い争う気力すら、今の理恩には残されていなかった。  気まずい沈黙がテーブルを支配する。  麻里亜は露骨に不機嫌な顔をして、フォークの先でオマール海老の身を弄り始めた。金属のカトラリーが皿に当たる、カチャッ、カチャッという神経質な音が、理恩の頭痛をさらに加速させていく。  理恩は目の前のグラスに手を伸ばし、生温かくなったシャンパンを喉の奥に流し込んだ。  アルコールの匂いと、麻里亜の身体から絶え間なく立ち昇ってくる人工的なローズの香水が混ざり合い、胃袋の底を強烈に掻き回す。  吐き気。  めまい。  そして、どうしようもないほどの苛立ちと疲労感。 (ああ……本当に、失敗したかもしれない)  完璧な人生のシナリオを描いていたはずだった。  邪魔なゴミを捨て、最も華やかで見栄えのする花を手に入れたはずだった。  だが、その花は毒々しい匂いを放つだけの、触れる者を疲弊させるだけのプラスチックの造花だった。  理恩は薄暗いテーブルの上で、自分の震える指先をじっと見つめた。  有栖川の本邸の、あの埃っぽい応接室の片隅で、黙って首を垂れていた瀬理亜の姿が再び脳裏をよぎる。  彼女の周りだけ、いつも空気が澄んでいた。  匂いを持たない彼女。何も語らない彼女。  彼女がいなくなったことで、自分の完璧な世界が、ほんの少しずつ、確実な歪みを生じ始めている。  
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第48話 胸の傷と、夜の息苦しさ①

 深い夜の底に沈んだような、重く静かな時間がペントハウスを包み込んでいた。 分厚い遮光カーテンの僅かな隙間から、東京の街を彩るネオンの光が、細い糸のようにゲストルームの絨毯の上に伸びている。 私は、広すぎるキングサイズのベッドの中でふと目を覚ました。 肌触りの良い最高級のシルクのシーツが、微かにかいた寝汗を吸ってひんやりと肌にまとわりつく。仰向けのままゆっくりと瞬きを繰り返し、暗闇に目を慣らす。 エアコンの低い駆動音が、規則正しいリズムで耳の奥を撫でていた。 有栖川の本邸で、隙間風の入る屋根裏のような自室の硬いベッドで身を縮めていた長年の日々や、あの暗く冷たい地下室のコンクリートの床に投げ出されていた数日間に比べれば、ここは間違いなく天国のような寝心地のはずだった。 それなのに、どこか胸の奥がざわざわとして、深い眠りにつくことができない。 喉がひどく渇いていた。 サイドテーブルの上のデジタル時計は、午前二時半を回ったところを赤い光で示している。夕食の後、黎は「少し休む」とだけ言ってリビングに残り、私はそっとこの部屋に下がってきたのだ。 シーツをそっと押し退け、ベッドから抜け出す。 素足が毛足の長い絨毯に沈み込む感触を確かめながら、ドアへと向かった。金属製のドアノブに手をかけると、ひんやりとした冷たさが手のひらに伝わってくる。 カチャッ、と極力音を立てないようにノブを回し、廊下へと出た。 廊下の足元を照らすフットライトのオレンジ色の光が、大理石の床に一定の間隔で落ちている。 キッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出そうと歩き出したその時だった。「……っ、ぁ……」 静寂を切り裂くような、くぐもった呻き声が、リビングの方から漏れ聞こえてきた。 大理石の上で、足がピタリと止まる。 ハァ、ハァと、まるで空気が足りない場所で無理やり酸素を肺に押し込もうとするような、ひどく荒く、重い呼吸音。(黎様……?) 普段の彼の、あの地鳴りのような静かで力強
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第49話 胸の傷と、夜の息苦しさ②

 至近距離まで近づいた瞬間、私の鼻腔を強烈な匂いが殴りつけた。 普段彼から漂っている、獣の上質なウールのような匂いや、微かな鉄錆の匂いではない。 ドブの底に溜まった泥水が腐ったような、あるいは何かが真っ黒に焦げ付いて有害な煙を上げているような、ひどく不快で淀んだ匂い。それは、数日前に雨の路地裏で彼を拾った時、彼を覆い尽くしていたあの「死の匂い」に酷似していた。 あまりの臭気の強さに、思わず目がツンと痛み、生理的な涙が滲む。「……来るな」 黎の喉の奥から、ギリギリと絞り出すような低い声が漏れた。 その声はひどく掠れており、普段の絶対的な威圧感など微塵もない。ただ痛みに耐え、弱みを見せまいとする虚勢だけが痛々しく張り付いていた。「来ないでって……こんなに苦しそうなのに、放っておけるわけありません!」 私は彼の命令を無視して、ソファのすぐ脇の床に両膝をついた。 月光に照らされた彼の顔は、信じられないほど青ざめていた。彫刻のように端正な額には、大粒の冷や汗がびっしりと浮かび、鋭い眉間には深い皺が刻まれている。 縦に割れた黄金の瞳孔は焦点が定まらず、微かな痙攣を起こすように小刻みに震えていた。「……下界の、空気が……。この箱の中に結界を張っていても、隙間から染み込んでくる……穢れが、肺を……っ」 途切れ途切れの言葉とともに、黎はさらに強く自分の胸元を掴んだ。 メリッ、という嫌な音が鳴り、黒いシャツのボタンが弾け飛んだ。 開いた胸元から覗く肌を見て、私は息を呑み、完全に言葉を失った。 厚い筋肉に覆われた彼の左胸、心臓の真上あたり。 そこに、ひどく痛々しい裂傷の痕があった。だが、私を驚愕させたのはその傷跡そのものではない。 傷の周囲の皮膚が、人間のそれとは全く違う物質に変質していたのだ。 黒く、硬く、金属のような鈍い光沢を放つ、親指の爪ほどの大きさの「鱗」。 それが、幾重にも重なり合い
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第50話 胸の傷と、夜の息苦しさ③

 太い指先が、胸元の鱗を隠すように動こうとする。「こんな、硬くて冷たいだけの……悍ましい肌だ。俺は、化け物だからな」 彼の言葉の裏にある、深い自己嫌悪。 圧倒的な強者であるはずの彼が、今この瞬間、たった一人で暗闇の中で痛みに耐え、誰にも見せられない姿を隠そうとしている。 その隠された「弱さ」と「脆さ」に触れた瞬間、私の中にあった恐怖心や、得体の知れない存在に対する警戒心のようなものが、完全に音を立てて崩れ去った。 代わりに湧き上がってきたのは、喉の奥が熱くなるような、強烈な庇護欲だった。 この人は、私がいないと本当に死んでしまう。 理不尽に私を鳥籠に閉じ込めた恐ろしい支配者ではなく、今目の前にいるのは、痛みに耐えきれずに震えている、一匹の傷ついた獣なのだ。「……見苦しくなんて、ありません」 私の口から、無意識のうちに静かな声が零れ落ちていた。 私は床に膝をついたまま、震える右手をゆっくりと伸ばした。 黎の太い腕の隙間を縫うようにして、彼が開けた胸元の、その黒い鱗の群れに向かって。「なっ……何をしている。触るな……っ、穢れが、お前にまで……」 黎が制止しようと腕を動かすよりも早く、私の手のひらが、彼の左胸にピタリと触れた。 ヒヤリとした、硬い感触。 それはまるで、氷で冷やされた分厚い金属板に触れているかのようだった。彼の全身から発せられる火傷しそうなほどの熱とは正反対の、異常な冷たさ。 鱗の一枚一枚の縁が指の腹に当たり、その奥にある厚い筋肉の鼓動が、手のひらを通して私の腕へとダイレクトに伝わってくる。 ドクン、ドクンという、早鐘のような不規則な心音。「……っぁ……」 私が触れた瞬間、黎の身体が大きく跳ねた。 彼は限界まで目を見開き、私を弾き飛ばそうとするかのように腕に力を込めた。 だが、私はその腕を左手でしっかりと掴み、右
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