Y市警視庁・交通総務課。桜井由依(さくらい ゆい)は待合室の椅子に腰を下ろした。右耳の奥では、まだキーンという耳鳴りが続いている。五分前、高橋翔太(たかはし しょうた)が止めるのも聞かずに車へ乗り込み、発進させた途端、居酒屋の前のガードレールに突っ込んだのだ。エアバッグは作動しなかったが、その反動で額をハンドルに強く打ち付けてしまった血の気を失った翔太は、彼女を車から引きずり下ろしながら怒鳴った。「由依、しっかりしろよ!ろくに帰りもしない男のために死ぬ気か!」由依の耳には、翔太の言葉など全く届いていなかった。彼女はただ虚ろな目で宙を見つめ、その手にはスマートフォンが固く握りしめられている。その画面は真っ暗だ。橘雅紀(たちばな まさき)に八回も電話をかけたが、相変わらず応答はなかった。ここ半年、こんなことは日常茶飯事になっていた。最初はまだ、自分を納得させる理由を見つけられた。現場に出ているのか、会議が長引いているのか。あるいはどこか遠くの寂れた道で、大きな事故の処理に追われているのだろう、と。でも、今回は違った。深夜で辺りが静まり返っていたせいだろうか、雅紀が電話に出た時、電話の向こうからかすかに別の声が聞こえたのだ。若い女の声。甘ったるい口調で、二言三言話したかと思うと、低くすすり泣く声に変わった。由依が「誰?」と口にするより早く、雅紀はさっと身を起こし、上着を羽織るなりそのまま出て行ってしまった。それから丸一日、LINEを送っても既読すらつかず、電話をかけてもコール音が虚しく響くだけだった。考えれば考えるほど腹が立ち、やけになって居酒屋で焼酎のボトルを半分もあおると、そのまま車のキーを掴んで店を飛び出した。そして結局、ここへ連行される羽目になった。「由依さん、これは……さすがに基準値を大幅に超えてますよ」当直をしているのは中村隼人(なかむら はやと)という若い警察官で、雅紀が直々に育てた部下だ。アルコールチェッカーに表示された数字を見て、彼は報告書にどうペンを走らせるべきか頭を抱えていた。「由依さん、係長ならさっき現場から戻ったばかりで、今こっちに向かってます」由依は椅子の背もたれに寄りかかり、ひどく酔った様子で首を傾げながら笑った。「留置でも罰金でも、好きにして」傍
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