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第4話

Author: 林 安奈
「由依!しっかりして!」

翔太の声が、由依を回想から引き戻した。

血の気のない彼女の顔を見て、彼は心配そうに眉をひそめた。

「どうしたんだ?」

由依はスマホを押し除けた。

「思い出したの」

「何を?」

由依が手短に事の顛末を話すと、翔太もすぐに思い当たったらしく、腹を立てて声を荒げた。

「だからあいつ、言えなかったんだ。こんなの、口にするのも汚らわしい話じゃん!」

何が兄と妹だ、恋愛ドラマの主人公だとでも思っているのか?本当に実の妹だと思っているなら、何があったって奥さんにちゃんと話せるはずだ。

「雅紀の奴、頭おかしいんじゃないのか!自分が結婚してるってこと忘れてるだろ?その妹とあんなふうに絡んで、いったい何がしたいんだ。スリルでも欲しいのか?」

由依も聞いてみたい。彼はいったい何がしたいのか、と。

翔太は彼女がずっと黙っているのを見て、また昔みたいに情に流されかけているのだと思ったらしく、さらに火を注いだ。

「よく考えろよ。あいつは昔、あなたにきつかったでしょ?今じゃ可愛い妹分がいるんだ、これからもっと冷たく当たるに決まってる」

実を言うと、由依は以前、雅紀にきつく当たられるのが嫌いではなかった。

家のしつけはゆるく、由依は小さいころからかなり自由に育った。雅紀と付き合っていた頃、一度バーへ遊びに行って連絡を忘れたことがあった。雅紀は彼女を見つけられず、翔太のところに直接電話をかけて問いただしたのだ。

真っ黒な顔で迎えに来た彼は、彼女をボックス席から引っ張り出し、そのまま車に押し込んだ。帰り道はずっと無言。家に着くと玄関のドアに押しつけるようにして、容赦なく説教した。

その夜以来、由依は味をしめてしまったように、長い間わざと彼を怒らせるようなことばかりしていた。

たった一度だけ、例外があった。

由依は八方手を尽くし、一生分の運を使い果たすような思いで、ようやくコンサートのチケットを二枚手に入れた。

アリーナの最前列、ど真ん中の特等席だった。

開演五分前、雅紀の電話が鳴った。ほんの二、三言葉を交わしただけで、彼は立ち上がって帰ろうとした。

由依は引き止めた。椿には付き添う人がいないわけでもないのに、どうしてそんなに四六時中気にかけて、何から何まで面倒を見なきゃいけないのか、と。

そのとき雅紀も苛立って、「わがまま言うな」と言った。そして初めて人前で彼女の手を振りほどき、そのまま人混みの中へ消えていった。

耳をつんざくような音楽の中で、由依は隣の空っぽの席を見つめ、すっかり楽しむ気を失ってしまった。

終演後、タクシー乗り場には百人以上が並んでおり、終電も終わっていた。

由依は道端で足がしびれるほど待ち、真夜中になってようやく帰宅したが、家には誰もいなかった。

その後、彼が当直だったこともあり、再び家に帰ってきたのは三日後だった。言い訳も、謝罪もなかった。

ただ花束を一つ渡されただけで、彼女の機嫌は直ってしまった。

なんて情けない。

その時、ソファの隙間でスマホが震えた。手探りで取り出して見ると、従姉の桜井香奈(さくらい かな)からだ。

「もしもし、姉ちゃん」

「由依、雅紀さんと一緒にごはんに来て。今日ね、うちの人がズワイガニをたくさん買ってきたの。悠介もおばちゃんに会いたいって言ってるのよ」

由依は言った。

「彼は今日無理だと思う。忙しいから」

香奈は電話の向こうで笑った。

「ごまかさないで。さっき電話したのよ、今日は休みだって」

「……」

「何、また喧嘩したの?夫婦なんて一晩寝れば仲直りするでしょ。いいから、六時ね。遅れちゃだめよ」

電話が切れた。

由依はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

翔太が顔を覗き込んできた。

「行くの?」

「行かないわけにいかないでしょ?」

由依は口角を少し上げた。

「姉ちゃんのことは知ってるでしょ。すっぽかしたりしたら、ここまで乗り込んできて、引きずってでも連れていくから」

「……確かに」

二人が話していると、ドアの電子ロックを操作する音が聞こえた。

背の高い細身の若い男が、部屋着の上にダウンジャケットを羽織り、お菓子がたっぷり入った袋を二つ提げて入ってきた。

翔太の年下の彼氏、早川蓮(はやかわ れん)だ。まだ大学に通っている体育会系の学生である。

「由依さん、来てたんだ!」

蓮は白い歯を見せて太陽のように眩しく笑い、お菓子を置くと翔太に近寄ってキスをした。

翔太は嫌そうな顔をして彼を突き飛ばした。

「シャワーも浴びずに近寄るな、あっち行け」

蓮はへへっと笑い、怒ることもなく大人しくバスルームへ入っていった。

じゃれ合う二人を見ていると、由依は少し目頭が熱くなった。かつては彼女も、自分の恋も世界でいちばん誇れるものだと思っていた。

誰に対しても冷淡だった彼を、自分の愛で変えてみせたのだ。自分こそが、彼にとって唯一無二の例外だと信じていた。

彼女の表情を見て、翔太も心配になった。

「で、雅紀の奴は……」

「彼はどうでもいい」

そうは言ったものの、午後五時、雅紀からの電話は時間通りにかかってきた。

彼女は電話を切り、のろのろとメイク直しに向かった。

翔太は彼女の後ろをついて回り、世話焼きの母親みたいに小言を言った。

「あなたは本当に情に脆いんだから。何かあったらすぐ電話しろよ!またあいつのペースに飲まれないでね!」

由依はバッグを手に取り、振り返らずに手を振った。

「行ってくる」

下へ降りると、雅紀が車に寄りかかって彼女を待っている。背筋の伸びたその姿は、色褪せた冬の街並みの中で、まるで寒色系の絵画のようだ。

彼女が降りてきたのを見ると、彼はいつものように助手席のドアを開けた。しかし由依は後部座席のドアを開けて乗り込んだ。

雅紀は一瞬、瞳の奥を暗くしたが、結局何も言わずにドアを閉め、運転席に戻った。

由依は窓の外に顔を向けたまま、お互いに一言も口を利かなかった。

香奈の家に着き、ドアを開けると、クマのパジャマを着ている三歳の男の子が部屋の中から走り出してきて、由依の足にしがみついた。

「おばちゃん!」

由依は屈み込んで、彼を抱き上げた。

「悠介、また重くなったね」

小さな男の子は彼女の頬にキスをして、甘い声で言った。

「悠介、おばちゃんに会いたかった」

「おばちゃんも会いたかったよ」

由依は微笑み、彼を抱いたまま中へ入っていった。

雅紀はその後ろから、おもちゃと果物を手に提げてついていった。

香奈が出迎えて、それを受け取りながら、少し窘めるように言った。

「来てくれるだけでいいのに、またこんなに持ってきて。気を遣わなくていいのよ」

雅紀は淡々と頷いた。

「たいしたものじゃありません」

香奈の夫の小林健一(こばやし けんいち)が声を聞きつけ、エプロン姿でキッチンから出てきた。

「来たのか?さあ、早く手を洗って、ご飯にしよう」

食卓の雰囲気は、それなりに和やかだ。

健一は由依にカニを一杯剥いてくれ、皿いっぱいにカニの身をのせた。

「由依、痩せすぎだよ。もっと食べな」

香奈も同調して言った。

「そうよ、ほら、顔なんて一回り小さくなっちゃってるじゃない」

彼女は隣で黙っている雅紀に視線を向けた。

「雅紀さんもよ。仕事ばっかりしてないで、もっと由依のこと見てあげて。この子、胃腸弱いんだから、ちゃんと食事しないとだめよ」

雅紀は低い声で「はい」とだけ答えた。

彼は由依が一番嫌いな小松菜のお浸しを彼女の器に入れた。由依は器の中の小松菜を見つめたまま、箸をつけなかった。

悠介がカニを掲げながら、無邪気な声で尋ねた。

「おばちゃん、いつになったら弟を産んでくれるの?」

香奈は息子の頭を軽く叩いた。

「おしゃべりねえ」

彼女は由依に目を向け、急かすような視線を送った。

「あなたたちももういい歳なんだから、そろそろ考えなさいよ」

健一も相槌を打った。

「そうだな、早く子供を作って、悠介の遊び相手にもなるし」

由依は微笑むだけで、何も答えなかった。

何と言えばいいのだろう。自分が夢に見るほど子供が欲しいけど、夫が望んでいないとでも?

彼女は目を伏せ、汁物を飲みながらこの話題をやり過ごそうとしたが、雅紀が突然口を開いた。

「もうすぐです。考えてます」

香奈と健一は一瞬きょとんとした後、嬉しそうに二人を見た。

「本当?それはよかったわ!」

「やっぱりね。美男美女だから、絶対に可愛い子が生まれるよ」

由依は振り返って彼を見た。

雅紀は黙々と蟹をむいている。横顔の線は相変わらず硬く、さっきの言葉が本当にこの人の口から出たものなのか、信じられないほどだ。

香奈は大喜びで、妊娠したら何に気をつけるべきだとか、産後ケア施設は半年前から予約しないと間に合わないとか、途切れることなく話し始めた。

由依の耳には、もう一言も入ってこなかった。

彼女は箸を置き、姉に向かって言った。

「姉ちゃん、まだ何も決まってないんだから、そんなに盛り上がらないで」

香奈は不満そうに眉を寄せた。

「何も決まってないって何よ。雅紀さんがちゃんと言ったじゃない」

由依は再び雅紀に目を向けた。彼もまた彼女を見つめ返していた。その瞳は深く、何の感情も読み取れなかった。

二人は数秒間、見つめ合った。先に目をそらしたのは由依のほうだ。

帰り道、由依はずっと窓の外を見ていた。やがて車は、見覚えのある通りに差しかかった。

それは、大学の外にあるあの道だ。彼女が半年近く、彼を追いかけた場所だ

「椿なんでしょ?」

雅紀のハンドルを切る手がピタリと止まり、車は道端でゆっくりと停まった。

肯定も、否定もしなかった。しかし、その沈黙こそが答えだ。

由依は彼の横顔をじっと見つめた。街灯の光と影が、彼の彫りの深い顔を照らしては消えていく。

今見ても、心がときめいてしまう顔だ。しかしそのときめきだけでは、冷え切った五年間の空虚さを埋めることはもうできない。

彼女はふと笑った。

「雅紀、私たち、離婚しましょう」
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