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第5話

Author: 林 安奈
雅紀はバックミラー越しに彼女を見て、ハンドルから手を離し、眉間を揉もうと手を伸ばしたが、また下ろした。

「君の質問に答えなかったからか?」

由依は首を横に振った。もう同じ話を何度も蒸し返す気力がない。問いただすことにも、疲れてしまった。

眠れない夜を何度も過ごすうち、彼は本当にもう自分を愛していないのではないか、と取り憑かれたように考えることさえあった。きっとそうだから、嘘をつく手間さえ惜しむのだろう。

「椿が戻ってきたんだ」

雅紀は言った。

「病気になって、それで連絡してきた」

その説明はあまりにも遅すぎたし、あまりにも淡々としていた。

二か月も経ってから口にされたそれは、かえって取り繕っているようにしか聞こえない。

「彼女に会いたいなら、場を設けるが」

彼はさらに言った。

由依はきっぱりと拒絶した。

「何か勘違いしてない?わざわざあんなあざとい女と仲よく握手して、病状でも語り合って、そのあと何事もなかったみたいにできた妻を演じ続けるとでも?」

「彼女はそんな人間じゃない」

雅紀が言葉を遮った。眉間には深いシワが寄り、口調も強くなった。

由依の心はさらに冷え込んだ。

彼は、椿のことを少しでも悪く言われるのが耐えられないのだ。

「じゃあ何なの?」

由依は問い詰めた。

「夜中にこそこそメッセージ送って、隠れて電話しなきゃいけないような、大事な妹ってこと?」

雅紀はため息をついた。

「俺が悪かった」

「悪いに決まってるでしょ」

由依は言った。

「何も言わなくても、家に帰ってきて何もなかったようにすれば、全てはもう水に流せるって思ってるわけ?」

「そんなこと思ってない」

「じゃあどう思ってるの?」

彼はまた黙り込んだ。薄い唇を一直線に結び、再び車を走らせた。

これが雅紀という男だ。

彼の中では、いつだって言葉より行動のほうが重い。動いて片づけられることなら、口では語らない。

けれど由依が欲しいのは、そのたったひと言の本音だ。

本当に、つまらない。

家に着くと、雅紀はいつものように身をかがめて、下駄箱から彼女のスリッパを取り出し、足元に置いた。

それは彼が二年間続けてきた習慣だ。

由依はそれを足で蹴りのけ、裸足のままゲストルームへと向かった。

手がドアノブに触れた瞬間、後ろからついてきた雅紀にドアに押し付けられ息継ぐ隙もないほど激しいキスを浴びせられた。

いつもより、ずっと優しいキスだ。

由依が顔を背けて避けようとすると、彼は彼女の耳に、そして顎にキスをした。

「由依」

彼は何度も彼女の名前を呼んだ。ひどく掠れた声だ。

「離れないでくれ。俺が悪かった、謝るから」

由依は目を閉じた。全身を覆っていた刺のような気持ちは、その三度の掠れた懇願で脆くも崩れ去った。

彼は彼女のことを嫌なほど理解している。彼女が強情な反面、情にほだされやすいことを知っているのだ。

彼女は心の底から彼を愛しており、彼がこんなに脆い姿を見せるのを決して放っておけないからだ。

彼女はなすがままに、コートを、そしてセーターを脱がされた。

寒さに身震いすると、雅紀は彼女を横抱きにして、大股で寝室へと向かった。

由依はベッドに落とされ、次に瞬間彼の大きな影が覆い被さってきた。

「雅紀」

彼女は手を伸ばして彼の顔に触れた。

「私のこと、愛してる?」

彼は答えず、さらに甘くねっとりとしたキスで、彼女の言いかけた言葉を全て塞いだ。

その夜、彼はいつも以上に激しく、そしていつも以上にやさしかった。何度も何度も、彼女の体に自分の痕跡を刻みつけた。

最後には、顔を濡らしているのが汗なのか涙なのか、由依自身にも分からなくなっていた。

翌日目を覚ますと、隣は空っぽだった。由依は手探りでスマホを取り出し、時間を確認した。六時十五分。

彼は四時間も寝ていないはずだが、その体内時計は目覚ましよりも正確だ。

ダイニングテーブルの上には、朝食が用意されている。目玉焼きに、トースト二枚。それにまだ温かいミルク。

その横にはメモが添えられていた。

【朝礼がある。夜は迎えに来るから、一緒に実家で飯を食おう】

由依は一口も手をつけず、それらを全部まとめてゴミ箱に捨てた。そして寝室に戻り、クローゼットを開けた。

雅紀の服が半分を占めている。見事なまでに黒、白、グレーばかりで、制服と普段着が種類ごとにきちんと掛けられている。

もう半分は由依のものだ。

色とりどりのスカートやセーターは、この静かな色合いの世界へ無理やり入り込んだ騒がしさのように見えた。

二人は、中身から外見、美的感覚から性格に至るまで、まるで違う世界の住人だ。

由依はまたスーツケースを引っ張り出し、自分の荷物をまとめ始めた。

半分ほど片付けたところで、スマホが鳴った。

「お嬢様、どこにいるの?まさかまたあのクソ男に丸め込まれて、帰ったわけじゃないよね?」

「うん」

「由依!プライドはないの?薬でも盛られたか、それとも色仕掛け?」

「寝たんだ」

「……」

翔太は黙り込んだ。しばらくして、諦めきったような声が再び聞こえてきた。

「……まあいい、損はしてない。あの顔とスタイルなら、寝るごとに得してるようなもんだ。で、機嫌は直った?」

「全然」

由依は言った。

「夜、彼の実家へご飯に行くことになったから」

翔太はさらに黙り込んだ。その理由は由依にも分かっている。

雅紀の母、白石理恵(しらいし りえ)は、もともと由依のことが気に入らない。

雅紀はただの係長だが、その実家はかなりの資産家だ。

一族は商売をしており、Y市でも名の知れた家柄だ。しかし雅紀の父だけはどうしても警察の道に進みたがり、家も結局は折れるしかなかった。

理恵と父の橘彰人(たちばな あきと)との結婚は家の都合で決まったもので、夫婦の情は薄い。

雅紀がまだ幼い頃、彰人が殉職した。理恵はその後すぐに橘家から渡された株と見舞金を手に、華々しく再婚した。

だが、彼女は雅紀を連れて行かなかった。

幼い雅紀は橘家に残されたが、家には他にも子供たちがおり、両親のいない「よそ者」である彼が、あんな家で本物の愛情を注がれるはずもない。

定期的に口座に振り込まれる生活費を除けば、家政婦が彼の面倒を見ているだけだ。

雅紀は大人になり、家族の反対もあって刑事にはなれなかったが、それでも父と同じく警察の道を歩いた。

理恵はこの息子に対して関心などなく、ただ思い出した時や、年末年始、あるいはマスコミの前に出る時だけ、母親らしい役目を果たす程度だ。

彼を家に呼び寄せ、仲睦まじい親子の写真を何枚か撮り、そのあとで金だけは多めに渡す。

由依が初めて理恵に会ったのは、婚約の前だった。

その上品な婦人は由依をアフタヌーンティーに誘い、彼女を頭の先から足の先まで品定めするように眺め回した。

「由依さんのご実家は、何をなさっているの?

雅紀は昔から頑固で、冷たいのよ。誰に似たのかしら。これから一緒にいるなら、大目に見てやってちょうだい。

彼の仕事は特殊で、家のことを顧みる余裕なんてないわ。そこは覚悟しておきなさいね」

由依は口では「はい、はい、そうですね」と相槌を打ちながら、心の中では何度も白い目を向いていた。

結婚式でも、理恵は政界の夫を連れて顔を出しただけで、まるで一般の参列者のようだった。由依に改めて挨拶を受けることもなかった。

毎年のお正月や行事のたびに、雅紀は彼女を連れて橘家の本家へ帰るだけでなく、理恵の元へも一度は顔を出した。

理恵は彼女に対して、いつだって冷淡だった。

それなのに、再婚相手の連れ子である椿には、まるで実の娘のように接している。

ある時、理恵がどう血迷ったのか、親戚が集まる部屋で椿の手を引きながらこう言ったことがある。

「やっぱり椿は聞き分けがいいわ。最近の外の女の子って、ろくでもない相手とつるんでばかりいる子もいるでしょう」

その言葉は、明らかに由依に当てつけられたものだった。

なぜなら由依はちょうど、その「ろくでもない相手」である翔太と買い物をし、戦利品を手に下げて帰ってきたばかりだったからだ。

由依はその場でちゃぶ台をひっくり返してやりたい衝動に駆られたが、雅紀が彼女を押し止めた。

それ以来、由依は滅多にその家へ行くことはない。

「行かないよ私」と由依は電話口で言った。

「そう!行く必要ないさ!」

翔太は電話の向こうで彼女を励ました。

「早く帰ってきな!衣食住全部面倒見てやるから!そんなとこで嫌な思いする必要ないって!」

由依は少し口角を上げ、電話を切った。半分片付けたスーツケースを見つめ、少し躊躇した後、再びそれを閉じてクローゼットの奥へと押し戻した。

夜の七時、雅紀は時間通りに帰宅した。彼女がまだパジャマ姿のまますっぴんでいるのを見て、思わず眉をひそめた。

「まだ支度してないのか?」

由依はソファに丸まったまま、顔も上げずに言った。

「行くなんて言った?」

雅紀はまたため息をつき、由依の隣に座ると、子猫をなだめるように彼女の手を握って軽く揉んだ。

「今日は母さんの誕生日なんだ」

由依は少しハッとした。覚えていなかった。いや、そもそも意識して覚えようとしたことすらなかった。

彼女が心から大切に思っているのは、雅紀一人なのだ。

彼の誕生日、二人が出会った記念日、結婚記念日は、どれもはっきりと覚えている。

しかし理恵のこととなると……

「何も用意してないわ」と彼女は言った。

「いらない。顔を出すだけでいい」

雅紀が当たり前のように言うので、由依は顔を上げ、彼をじっと見つめた。

行って何をするというのだろう。いつだってそうだった。母娘の仲睦まじさを横で見せつけられ、自分はそこで皮肉を浴びるだけ浴びて、帰り道に彼から口づけひとつでなだめられる。

そのみじめさを、彼が知らないわけではない。

由依はふと笑った。

「分かった。着替えてくる」
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