凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ― のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

30 チャプター

第11話

篠田先生の鋭い視線が、室内の顔ぶれをぐるりと見回す。「いいか、どの作品も桁違いの代物だ。万が一傷でもつけようものなら、お前ら個人の賠償はおろか、このアトリエごと吹き飛ぶと思え」その言葉に、室内は水を打ったように静まり返った。「篠宮、ですか?」誰かが息を呑むようにつぶやいた。「どの篠宮ですか?」と翔太が尋ねる。「あの……篠宮グループの?」「他にどの篠宮があるんだ」篠田先生がギロリと睨む。「向こうは正真正銘の化け物だ。粗相のないように頼むぞ」実花は手元の資料に目を落とし、内心聞き流していた。篠宮グループ。P国を拠点に世界中に巨大なネットワークを張り巡らせる多国籍企業だ。この海浜市を牛耳るような名家でさえ、彼らの前では顔色を窺うしかない。ただ、その当主の存在は分厚いベールに包まれていた。表舞台に出ることは極端に少なく、顔写真すらネットには出回っていない。一年の大半を海外で過ごしているとも、一族内の権力闘争が複雑すぎて身を隠しているとも噂されていた。いずれにせよ、自分とは無縁の世界の話だ。「実花、残ってくれ」会議が終わり、他のメンバーが退出する中、篠田先生に呼び止められた。広い会議室には二人きりになった。「あの『浮光(ふこう)』の連作、あれも持っていくぞ」「えっ」実花は思わず顔を上げた。「でも、あれはまだ未完成だと先生が……」「持っていくと言ったら持っていくんだ。新鋭アーティストのコーナーに展示する」篠田先生は不満げに鼻を鳴らした。「私が未完成だと言ったのは、私の基準が高すぎるからだ。あんなもん、世間に出せば十分通用する。大体、私の愛弟子が描いた絵が三流なわけがないだろう」その強引な論理に、実花は反論の言葉を失った。「つべこべ言わずに準備しろ」篠田先生は湯呑みの茶をすすると、ニヤリと笑った。「もし売れたら、スタッフ全員に焼肉でも奢れ」「……先生、それって先生だけが得するシステムじゃないですか」実花が苦笑いしながらツッコミを入れると、「当たり前だ」篠田先生は悪びれもせず、胸を張った。実花は思わずこぼれた笑みを隠さなかった。『浮光』は数年前に描いた作品だ。当時のそれは、卓越した技巧こそ光っていたが、血の通った感情はどこにもなかった。けれど結婚後、創作から離れていた間も、折に触れてはその旧稿を取り出し
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第12話

男が卑猥な手つきで葵の手首を掴もうと、ずいっと身を乗り出す。その瞬間、実花の瞳に冷徹な光が走った。彼女は男の手を力任せに突き飛ばし、葵を庇うように前に出る。「彼女に、触らないで」「おっ?」実花の顔を見た途端、男の目が一層ギラギラと輝いた。「なんだよ、よく見りゃこっちの方がもっと極上じゃねえか!」この日の実花は、深紅のベルベットのロングドレスを身に纏っていた。無駄のないカッティングが、彼女のしなやかな腰のラインを描き出している。装飾品は一切なく、ゆるくまとめられた長い髪から、白く長い首筋と鮮明な鎖骨が覗いていた。その姿に当てられたのか、背後にいた二人の男までもがにやにやと近づき、退路を塞ぐように取り囲んだ。夜の街はネオンが明滅し、車は絶え間なく行き交うが、彼女たちの窮地に気づいて立ち止まる者など一人もいなかった。「……実花、ついさっきあそこで、警備隊のパトロールを見たわよね」葵がわざと声を張り上げた。すると男は腹を抱えて笑い出した。「警備隊?この辺は俺たちのシマだぞ。こんな裏通りまで、しゃしゃり出てくる奴なんているわけねえだろ!」だが、男の笑い声は不自然に途切れた。いつの間にか、路地の入り口に一台の小型パトロールカーが音もなく停車していた。商業施設のロゴが入ったその車は、強烈なヘッドライトで彼らを真正面から照らし出している。車から降りてきた二人の警備員は、手にトランシーバーを握り、隙のない足取りで近づいてきた。「何をしている?」先頭の警備員が眉をひそめ、冷ややかな声を響かせた。「女性に付きまとっているのか」男たちの顔から、さーっと血の気が引いた。「いや、誤解っすよ!」一人が引きつった笑いを浮かべて手を振る。「友達同士で、ちょっとからかってただけで……」「からかっていた?なるほど」警備員は鼻で笑った。「なら、詰め所まで来てからしっかり聞かせてもらおうか」言い逃れようとしたリーダー格の男が、「俺らはべつに――」と口を開きかけた瞬間、警備員が一歩踏み込み、無言のまま威圧的なプレッシャーをかけた。男は弾かれたように口を噤んだ。男たちは顔を見合わせ、ブツブツと恨み言をこぼしながらも、反抗する素振りは見せずにパトロールカーへと連行されていった。「……嘘、こんな奇跡ある?」葵は目を丸くして立ち尽くしていた。
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第13話

運転席側のドアが開き、和真が姿を現す。仕立ての良いダークコートを羽織り、黒髪を隙なくオールバックに整えたその佇まいは、相変わらず非の打ち所のない「高貴な実業家」そのものだった。隣り合う実花と葵の姿を認めると、和真は微かに目を見開いた。「……こんなところで、何をやってるんだ?」問いかける彼の背後から、車内から甘えるような細い声が響く。「和真くん……」続けて降りてきたのは、凛だった。厚手のコートに身を包み、大きなマフラーに埋もれた顔は、病的なまでに青白く、いかにも守ってあげたくなるような儚さを演出している。和真は即座に振り返ると、壊れものを扱うような手つきで彼女の腕を支えた。「気をつけろ、足元が滑る」そのあまりに露骨な献身ぶりに、隣で葵が「ふん」と鼻で冷笑を漏らした。そこでようやく、和真は実花の乱れた髪や、少し着崩れたドレスに目を留めた。「……一体、どうしたんだ。その格好は」「別に。食事のついでに、少し絡まれただけよ」実花が淡々と答えると、和真は不快そうに眉を寄せた。「絡まれた?誰にだ」「警備員が連れて行ったわよ」実花を庇うように一歩前に出て、葵が吐き捨てる。「あんたに心配してもらう必要なんてないわ」和真は葵の皮肉を気にする様子もなく、ただ実花に向き直った。「……怪我はないのか」「ないわ」「そうか、ならいい」実花の唇から、自嘲気味な笑みがこぼれた。彼はいつもこうだ。表面的な言葉で気遣いを見せても、その心がこちらに向くことは決してない。――どうして、以前の私はこんな安っぽい優しさに騙されていたのだろう。凛は和真の袖をそっと引き、消え入りそうな声で言った。「和真くん、実花さんはさっき怖い思いをしたんだから、送ってあげて。私は運転手に送ってもらうから大丈夫よ」「……一人で平気か?」和真が案じるように覗き込む。「ええ」凛は健気に微笑んでみせた。「そんなに遠くないし、もう子供じゃないもの。向かいの薬局で薬を買って、ちゃんと先生に言われた通りに飲むわね」和真は躊躇した。先ほど付き添った診察で、医師からは彼女の体質が弱く、特に妊娠初期の三ヶ月は何があっても無理をさせてはいけないと念を押されていたのだ。「実花、少し待っていてくれ。凛の薬を買って彼女を送り届けてから、お前を送る。どうせ同じ方向だろう」
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第14話

「あいつは昔から物分かりがいい。後で説明すれば分かってくれるさ。今は君の体が一番大事だ」和真は自分に言い聞かせるように呟き、凛をなだめた。「ええ……」凛は殊勝に頷いて視線を落としたが、その瞳の奥には、確かな勝ち誇った色が浮かんでいた。一方、実花と葵が歩き出して五分もしないうちに、葵のバッグの中でスマホが悲鳴のような着信音を上げた。「うわ、最悪。クライアントからだわ。至急会社に戻れって……」葵は通話を切ると、申し訳なさそうにスマホを実花に見せた。「ごめん、実花!家まで送るって言ったのに」「いいのよ、仕事なんだから」実花は首を振り、逆に親友の背中を押した。「早く行きなさい。遅れると大変でしょう?」「タクシー呼ぼうか?」葵は言いながら、すでに配車アプリを操作しようとしている。「いらないわ」実花は前方の夜道を指差した。「すぐそこだもの。この辺の様子も知っておきたいし、ゆっくり歩いて帰るわ」「……本当に気をつけてね。着いたら必ずラインしてよ!」葵を見送った後、実花は小さく息を吐いた。夜の風は冷たく、街路樹から落ちた枯れ葉をカサカサと鳴らして通り過ぎていく。実花はコートのボタンを留め直し、一歩、また一歩と歩道を進んだ。ポケットの中でスマホが震える。取り出すと、和真からのあの一行――「先に寝ていろ」というメッセージが画面に浮いていた。その冷淡な文字列を一瞥し、実花は再びスマホをポケットに放り込んだ。その時、足元にふっと力が入らなくなった。先ほど男たちに絡まれた際、強く突き飛ばされた。あの時に足を捻ったのだろう。歩くほどに足首がズキズキと痛み始め、実花は抗いがたい鈍痛に顔をしかめた。彼女は路肩に立ち止まり、痛みが引くのを待ってから、びっこを引きながら再び歩き出した。少し離れた場所で、あのベントレーが音もなく、彼女の速度に合わせて距離を保っていた。助手席の山崎は、ルームミラー越しに後部座席の様子を伺った。「ボス、彼女、足が……」山崎は躊躇いがちに切り出した。「追いかけて、声をかけてきましょうか?」運転席側の窓際に肘をついた男は、ハンドルに添えた片方の指先でリズムを刻みながら、遠ざかる細い背中を見つめていた。「余計な真似をするな」「……ですが、先ほども警備を回されましたし……」「言ったはずだ。独断で
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第15話

「その足で、一体どこへ行けるって言うんだ」ふらつく彼女の後ろ姿を見据え、湊の声はさらに一段と冷え込んだ。「乗れ」と、それは有無を言わさぬ命令だった。「同じ台詞を二度言わせるな」実花は足を止め、彼に背を向けたまま唇をきつく噛み締めた。「お気遣いなく」ぽつりと口を開く。「自分ひとりで帰れますから」彼に借りを作るのだけはどうしても嫌だった。言葉を言い捨てるなり、彼の脇を強引にすり抜けようとする。しかし、足を踏み出した瞬間だった。足首を鋭い刃物でえぐられたような激痛が走り、視界が唐突に暗転した。しまった——ぐらりと景色が歪み、抗う間もなく全身の重心が崩れ落ちていく。宙を舞う身体。倒れ込むその刹那、背後で「実花!」と鋭く呼ぶ湊の叫びが耳を打った。直後、力強い両腕が彼女の身体をしっかりと捉え、その広い胸の中へと包み込む。実花は本能的に身体を強張らせた。頭の中が真っ白にショートし、呼吸の仕方すら忘れてしまう。ずっと昔に知っている、けれど今はどこか冷酷で底知れない大人の男の香りが、夜のひんやりとした空気と混ざり合って彼女を絡め捕った。指先に痺れるような感覚が走る。彼女がパニックから抜け出せないうちに、湊はひょいと横抱きに彼女を抱え上げ、迷いのない足取りで車へと向かった。「開けろ」「はい!」運転手の山崎が弾かれたように飛び出し、慌ててドアを開け放つ。広々とした後部座席のレザーシートに下ろされて、実花はようやく強張った意識の底からわずかな冷静さを取り戻した。反射的に彼から距離を取ろうと身を引っかけたが、それすらも過剰な反応に思えて不自然に動きを止める。彼をまだ意識しているなどと、欠片でも悟られるわけにはいかなかった。実花は深く息を吸い込み、胸の奥で荒れ狂う感情を力ずくで押さえつけた。シートに背筋を伸ばして座り直し、隣に乗り込んできた湊へ、凪いだ水面のような静かな視線を向ける。「助けていただき、ありがとうございます——浅見さん」あえて完全に他人の距離を置いた、冷ややかで礼儀正しい声だった。湊は隣に座る彼女へと視線を向けた。薄暗い車内、その瞳に宿る感情を読み取ることはできない。ただ、固く結ばれた唇がわずかに動こうとしたものの、「浅見さん」という余所余所しい呼びかけに遮られ、言葉は飲み込まれたようだった。車内を重
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第16話

どれくらい時間が経っただろうか。ポンポンと無造作に頬を叩かれる感触で、意識が引き戻された。「着いたぞ」耳元で低く落ち着いた声がした。「いつまで寝てるつもりだ」実花の睫毛が微かに震え、鉛のように重い瞼をゆっくりと押し上げる。ぼやけていた視界が徐々にピントを結ぶと、そこには息を呑むほど整った男の顔がすぐ近くにあった。まだ半分夢の中にいた彼女は、無意識のうちにぽつりと呟いた。「お兄ちゃん……?」その一言が湊の機嫌をよくしたらしい。彼は「ああ」と短く応じてから、わざと平坦な声で言った。「誰だと思った?愛する旦那だとでも?」旦那、という言葉で実花の頭に冷水がぶっかけられたように意識が覚醒する。そうだ、ここは彼の車の中だ。そして目の前にいるこの底知れない男は、もう七年前の『優しいお兄ちゃん』などではないのだ。車内の空気が一瞬にして凍りついた。二人の間に、再び重苦しい沈黙が広がる。「……送っていただいて、ありがとうございます」実花はあからさまに距離を置いた声で口を割った。「そこの角を曲がって、路肩に停めてください」湊は彼女をじっと見つめ、ふっと皮肉げな笑みを漏らした。「たいしたもんだ。雨の道端に放置されても、まだあいつの肩を持つとはな」実花は膝の上の手をきつく握りしめた。「あなたには関係のないことです」「ほう?」湊は片眉を吊り上げた。「じゃあ誰に関係がある?お前自身か?」実花はそっと目を閉じた。「浅見さん。どんな事情があろうと、あなたとは一切無関係です」湊の喉仏が小さく上下した。やがて、氷のように冷ややかな声が落ちる。「勝手にしろ」彼は視線を外し、実花の足首を一瞥すると、スマートフォンを取り出した。「医者を呼べ」彼の視線につられて自分の足元を見ると、足首はぱんぱんに腫れ上がり、痛々しいほど赤く変色していた。しかし実花はすぐに目を逸らし、まるきり痛みなど感じていないかのように平然を装った。「結構です」凪いだ声で拒絶する。「端に寄せてください」「大人しく座ってろ。処置が終わるまでだ。その後はどこへでも勝手に行け」「必要ないと言っています」実花は顔を上げ、湊の目を真っ向から見据えた。「浅見さん、私は人に借りを作るような真似は嫌いなんです」街灯の光を背に受け、湊はその場に冷たい石像のように立ち尽くしていた。その佇まい
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第17話

玄関のセンサーライトが点灯すると、和真は無意識のうちにキッチンへ視線を向けた。しかし、いつもなら必ずそこにいるはずの影はない。以前の彼女なら、この時間にはとっくに起きていた。コーヒーメーカーが静かな音を立てて稼働し、家中に彼の一番馴染み深いコーヒーの香りが漂っているはずだった。だが、今朝はなにもない。和真は微かに眉をひそめ、脱いだジャケットをソファへ無造作に放り投げた。「実花?」返事はない。そのままダイニングへ足を踏み入れた。テーブルの上は綺麗に片付けられており、朝食もなければ、いつもの温かいスープもない。飾られている花でさえ数日前に生けられたもののままで、花びらはすでに生気を失い、萎れかけている。ドクンと、胸の奥で何かが重く沈んだ。「実花はどこにいる?」控えていた家政婦の佐藤に尋ねる。「実花様は……昨夜はお戻りになりませんでした」佐藤が申し訳なさそうに声を落とした。和真は一瞬動きを止める。「帰ってきていない?」「はい」彼はすぐさまスマートフォンを取り出し、実花の番号に発信した。コール音だけが虚しく響き、誰も出ない。眉間の皺を深く刻みながら、再ダイヤルする。結果は同じだった。じわじわと、苛立ちが皮膚を這い上がってくる。身を翻し、急ぎ足で寝室へと向かった。クローゼットも、ドレッサーも、普段のままそこにあった。よく着ていた服も、パッと見た限りでは一着も減っていない。すべてが、彼女の存在を証明するように残されている。和真はふうと大きく息を吐き出し、胸をなでおろした。昨夜は三浦葵と一緒に帰って行ったな。どうせ彼女のマンションにでも泊まっているのだろう。それでいい。どうせ実花は今、気分を害しているのだ。親友と一緒に羽を伸ばして、気が済むまで気晴らしでもすればいいさ。彼は自分の都合のいいように、いとも簡単に自身を納得させた。ベッドの縁に腰をかけると、スマートフォンを操作し、実花宛てにLINEのメッセージを打ち込む。【実花。気が済んだら、そろそろ帰ってこい】少し考えて、もう一文だけ付け足した。【他人の家にずっと居候するのも、迷惑だろう】実花はまだ、深い眠りの中にいた。意識の輪郭をなぞるように、昨夜見た湊の横顔が何度も浮かんでは消える。忘れたはずの名前、封印したはずの顔。七年の歳月を経て突如とし
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第18話

傍らに控える執事が、静かに言葉を添える。「ええ。佇まいから一挙手一投足にいたるまで、当時のお嬢様に生き写しでございます」「さらに調べろ」征二郎は断固とした口調で命じた。「私は、確実な答えが欲しいのだ」それだけ言い残すと、車は滑るようにその場を去っていった。実花は、そんな視線の存在に気づくはずもなかった。翌朝、空港は早朝から多くの人々で騒がしかった。実花はキャリーケースを引きながら前を歩いていたが、その足取りはいつもより心持ち遅い。半歩後ろを歩く翔太の視線は、先ほどからずっと、彼女の足元に向けられていた。「足、痛むのか?」不意に声をかけられ、実花は一瞬戸惑ったように顔を上げた。「ううん、それほどじゃ……」「やはり怪我をしていたか」翔太は彼女の言葉を遮るように言い切った。「無理をするな。貸せ」実花が止める間もなく、彼は自然な動作で彼女の手からキャリーケースを奪い取った。「重くないよ」「わかってる」彼はすでにスタスタとケースを押して歩き出している。「だが、今の君は力を入れるべきじゃない」保安検査場には長い列ができていた。しばらく立っていると、足首にじわじわと鈍い痛みが走り出す。実花は無意識のうちに小さく眉を寄せた。隣でそれを見ていた翔太は、何も聞かずに彼女を促して、隣のビジネスクラス専用のカウンターへと向かった。「行くぞ。俺の奢りだ。アップグレードしてやる」「えっ、いいよ。悪いし」「ずっと立って並ぶのは辛いだろ。ほら、行くぞ」彼は当然のことのように、手際よく手続きを済ませてしまった。検査を終え、荷物を整理した翔太が「少し待ってろ」と言い残して席を外した。数分後、戻ってきた彼の手には小さなスプレー缶が握られていた。「腫れに効くやつだ」彼はそれを実花に手渡した。「売店で見つけたから買っておいた。搭乗前にひと吹きしておけ」受け取った指先が、わずかに震える。「……ありがと、先輩」翔太は短く頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。搭乗を促すアナウンスが空港内に響き渡る。二つのスーツケースを軽々と押し、彼は前を歩き出す。その背中越しに、落ち着いた声が届いた。「急がなくていい。時間は十分にあるからな」彼の後に続いて一歩を踏み出す。不思議と、足首の痛みは先ほどよりもずっと和らいでいるような
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第19話

オークションの開始が近づき、スタッフたちの案内で招待客がメインホールへと流れ始めた。その時、入り口の方がにわかに騒がしくなった。ざわめきは波が引くように静まり、会場全体に緊張が走る。「来たわ」「誰が?」「あそこよ、見て」その場の視線が、吸い寄せられるように一点に集まった。重厚な空気の中に現れたのは、一人の男だった。濃紺のスーツを完璧に着こなし、寸分の狂いもなく締められたネクタイ。落ち着き払った足取りで歩く彼の背後には、秘書やスタッフが影のように付き従っている。高い天井から降り注ぐ照明が、彼の鋭い肩のラインを鮮やかに縁取った。「篠宮湊だ……」誰かが押し殺した声で囁いた。篠宮グループの当主、篠宮湊(しのみや みなと)。実花が顔を上げた。その顔を視界に捉えた瞬間、全身の血が引いていくような感覚に襲われ、呼吸が止まりそうになる。隣にいた翔太が彼女の異変に気づき、同じ方向に視線を向けた。「知り合いか?」実花は答えなかった。ただ、じっと男を見つめている。大勢に囲まれて立つ彼は、どこまでも傲慢で近寄りがたい空気を纏いながら、この華やかな社交の場を完璧に支配していた。時折、取り巻きの言葉に短く応じ、礼儀正しく、しかし突き放すように頷いて見せる。その一瞬、実花はすべてを理解した。湊。……篠宮湊。なるほど、そういうこと。名前も、身分も、すべて偽りだったのね。ふっと、実花の唇に笑みが浮かんだ。それは一瞬で消えてしまうほど淡く、それでいて自分自身を嘲笑うかのような皮肉な色が混じっていた。今回のイベントを裏で支える「最大のパトロン」を迎えに行こうとしていた翔太が、実花の微かな表情の変化に気づいて横目で見た。「何を笑っているんだ?」実花はすでに視線を外し、いつもの静かな表情に戻っていた。「別に、何でもないわ」耳元の髪をそっと整え、迷いのない足取りで一歩前に踏み出す。「行きましょう。私たちの『パトロン様』にお目通りしなきゃ」翔太は思わず苦笑した。「その呼び方、本人に聞かれたらどうするんだよ」「褒め言葉のつもりよ」実花はさらりと受け流し、二人は人だかりの絶えない会場の中心へと歩を進めた。湊は数人の招待客と談笑していたが、二人が近づくと自然に言葉を止めた。「篠宮さん」先に口を開いた
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第20話

彼女は彼を席へ促し、その隣に腰を下ろした。否応なしに距離が縮まり、彼がまとう冷ややかな香りがはっきりと鼻をかすめる。実花は無意識に体を半分ほど引き、視線を会場の別の場所へ向けたまま、決して彼を見ようとはしなかった。だが、湊の背中には目がついているかのようだった。ソファに深く腰を下ろすと、わずかに首を傾け、からかうような声を出した。「首でも寝違えたのか?」不自然に顔を背け続ける態度を皮肉っているのだ。「いいえ」実花は視線をゆっくりと戻し、淡々と応じた。「……何かご用がおありですか?」「そうか?」彼は鼻でふっと笑う。「なら、なぜ俺を直視しようとしない。俺が、君を取って食うとでも?」実花は怯むことなく、真っ直ぐに彼の視線を受け止めた。「見られない理由などありません」「作品についての『専門的』なご質問でしたら、何なりとお尋ねください」彼女は意図的に『専門的』という言葉に力を込めた。「ですが、それ以外のことにまで口を挟むのは、少々お節介が過ぎるのではないですか?」口に出した途端、自分でもハッとした。湊の顔を見るたび、どうしても攻撃的な言葉を返さずにはいられない。かつてはあんなにも『湊お兄ちゃん』の言うことなら何でも素直に聞いていたというのに。『お節介が過ぎる』という言葉は、湊の中にある何か秘められた記憶を鋭く刺激したようだった。彼が纏う空気が急激に冷え込み、表面に浮かんでいた薄ら笑いが一瞬にして消え失せた。「俺が君に、口出しなどできるわけがないだろう。……君は昔から、何でも自分勝手に決めてしまうのだからな」二人の間の空気が、凍りついたように張り詰める。実花は手のひらに爪を立てて痛みをやり過ごし、目を伏せた。――意味がわからない。最初に私を置いて勝手に出て行ったのはそっちのくせに。今更、傷つけられたような顔をして、誰に見せつけようとしているの。彼女はそれきり、固く唇を閉ざした。オークションの照明が鮮やかに灯り、司会者がステージに登壇した。隣り合って座る二人の間には、それぞれの思惑が渦巻く重苦しい沈黙が流れている。いよいよ、競りが始まった。次々と作品が運び込まれ、落札価格は着実に跳ね上がっていく。やがて実花の描いた『浮光』の番が回ってくると、司会者が作品情報を読み上げた。「新進気鋭のアーテ
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