篠田先生の鋭い視線が、室内の顔ぶれをぐるりと見回す。「いいか、どの作品も桁違いの代物だ。万が一傷でもつけようものなら、お前ら個人の賠償はおろか、このアトリエごと吹き飛ぶと思え」その言葉に、室内は水を打ったように静まり返った。「篠宮、ですか?」誰かが息を呑むようにつぶやいた。「どの篠宮ですか?」と翔太が尋ねる。「あの……篠宮グループの?」「他にどの篠宮があるんだ」篠田先生がギロリと睨む。「向こうは正真正銘の化け物だ。粗相のないように頼むぞ」実花は手元の資料に目を落とし、内心聞き流していた。篠宮グループ。P国を拠点に世界中に巨大なネットワークを張り巡らせる多国籍企業だ。この海浜市を牛耳るような名家でさえ、彼らの前では顔色を窺うしかない。ただ、その当主の存在は分厚いベールに包まれていた。表舞台に出ることは極端に少なく、顔写真すらネットには出回っていない。一年の大半を海外で過ごしているとも、一族内の権力闘争が複雑すぎて身を隠しているとも噂されていた。いずれにせよ、自分とは無縁の世界の話だ。「実花、残ってくれ」会議が終わり、他のメンバーが退出する中、篠田先生に呼び止められた。広い会議室には二人きりになった。「あの『浮光(ふこう)』の連作、あれも持っていくぞ」「えっ」実花は思わず顔を上げた。「でも、あれはまだ未完成だと先生が……」「持っていくと言ったら持っていくんだ。新鋭アーティストのコーナーに展示する」篠田先生は不満げに鼻を鳴らした。「私が未完成だと言ったのは、私の基準が高すぎるからだ。あんなもん、世間に出せば十分通用する。大体、私の愛弟子が描いた絵が三流なわけがないだろう」その強引な論理に、実花は反論の言葉を失った。「つべこべ言わずに準備しろ」篠田先生は湯呑みの茶をすすると、ニヤリと笑った。「もし売れたら、スタッフ全員に焼肉でも奢れ」「……先生、それって先生だけが得するシステムじゃないですか」実花が苦笑いしながらツッコミを入れると、「当たり前だ」篠田先生は悪びれもせず、胸を張った。実花は思わずこぼれた笑みを隠さなかった。『浮光』は数年前に描いた作品だ。当時のそれは、卓越した技巧こそ光っていたが、血の通った感情はどこにもなかった。けれど結婚後、創作から離れていた間も、折に触れてはその旧稿を取り出し
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