愛し続けた彼を、私は手放すことにした のすべてのチャプター: チャプター 211 - チャプター 220

267 チャプター

第211話

「このあと、何か予定があるのか? それなら、俺がそこまで送っていく」 慎一は紗月の言葉を聞かなかったかのように、帰ること自体を止める代わりに、当然のように自分が送るつもりで話を進めてしまった。 紗月はしばらく黙っていたが、これ以上言い争う気力もなく、そのことについては何も言わなかった。 帰るために部屋の中を一通り見回したところで、ようやく自分のバッグがどこにも見当たらないことに気づく。「私のバッグは?」「朝食を食べたら返す」 あまりにも平然とした答えに、紗月は思わず慎一へ視線を向けた。 慎一自身、もともと食事にそれほど強い関心を持つ人ではない。 忙しければ一食くらい抜いても気にせず、誰かと食卓を囲むことにも執着しないはずなのに、こういうときに限って、なぜか紗月には必ず自分と食事をするよう求めてくる。 今回だけではなかった。先日、慎一の会社にある休憩室で朝を迎えたときも、同じように紗月を引き止め、わざわざ一緒に朝食を取ろうとしていた。 かつて紗月が、一緒に朝食を食べたいと勇気を振り絞って願ったことがあるからだろうか。 あのときはあれほど冷たく拒絶したくせに、今になって自分から何度も同じ食卓へ座らせようとする。 まるで、とうに手遅れになった過去を少しずつ埋め合わせようとしているかのようだった。「……食欲がないの」 昨夜は夢ひとつ見ないほど深く眠ったのだから、本来なら体力も気力も多少は戻っているはずだった。 それなのに慎一を前にしているだけで、紗月の中に残っていた力が少しずつ抜け落ちていくように感じられる。 身体にはまだ重い疲労がまとわりつき、こうしてたった一言を口にするだけでも、ひどく体力を奪われるようだった。 慎一はすぐには何も言わず、そんな紗月をしばらく静かに見つめていた。 どうやら、このまま何も口にさせず帰すつもりはないらしい。 かといって、本当に食欲がないという紗月へ無理に食べさせるつもりもないのか、わずかに考えるような間を置いたあと、少しだけ譲歩するように声を落とした。「なら、座って少しだけ俺に付き合え。それが済んだら、送っていく」 紗月はとうとう抵抗することを諦め、うんざりしたように小さくため息をついた。 どうせバッグを返してもらえない以上、ここでいつまでも慎一と押し問答を続けていても仕方がない。これ以上言い争う
続きを読む

第212話

 源間は約束どおり、すでに紗月のために演技指導の講師を手配してくれていた。 その講師は源間のかつての同級生で、本人も俳優として活動しており、これまでいくつもの作品へ出演し、確かな実績を積み重ねているという。 撮影やほかの仕事が入っていない期間には、少人数の生徒だけを受け持ち、一人ひとりに合わせた集中的な演技指導も行っていた。 本来、その講師のレッスンを希望したからといって、すぐに予約を取れるわけではないらしい。 本人の俳優としての仕事を優先しているため、受講できるかどうかは運とタイミングに大きく左右される。 今回は紗月にとって、これ以上ないほど都合よく予定が重なった。 講師はちょうど一本のドラマ撮影を終えたばかりで、次の撮影現場へ入るまで、一か月ほどまとまった時間が空いているという。「友枝さん、明日からレッスンに通えますか?」 源間の言葉を聞いた瞬間、紗月の胸は大きく弾んだ。つい数時間前まで慎一に乱されていた気持ちも、その瞬間だけはきれいに消えてしまう。 もう一度芝居をするための準備を、本格的に始められる。そう思うだけで、スマートフォンを握る指先まで興奮でかすかに震えた。「はい、大丈夫です、監督。今日からでも通えます」「よかった。じゃあ、このあと先生の連絡先をメールで送ります。詳しいレッスンの時間は、直接先生と相談して決めてください」 紗月は何度も礼を告げながら、久しぶりに心からの喜びを噛み締めた。 慎一から与えられたものでも、取引の見返りでもない。もう一度芝居をしたいと願い、自分で踏み出した一歩が、ようやく次の道へ繋がり始めている。 それが何よりも嬉しかった。* 紗月はレッスンを受けるため教室へ足を運び、そこで初めて、源間が自分のために指導を頼んでくれた演技講師が八代千春だと知った。 源間の紹介は、いくら何でも謙虚すぎた。 八代千春といえば、デビュー作となったテレビドラマでいきなり助演女優賞を受賞し、続く二作目では早くも主演女優賞に輝いた実力派女優だ。 その後の女優としての歩みも華々しく、出演作にも役にも恵まれ、傍から見れば驚くほど順調にスターへの階段を駆け上がってきたように映る。 もちろん、それを単なる幸運の一言で片づけることなどできない。 人目を惹きつけずにはいられない華やかな容姿はもちろん、役に入
続きを読む

第213話

「篤司さん!?」 入ってきた人物の顔を見た瞬間、紗月は思いがけない再会に目を見開き、驚きのあまり真っ先にその名を呼んだ。 篤司のほうも、長らく顔を合わせていなかった紗月がここにいるとは、まったく想像していなかったのだろう。 もともと感情が表情に出にくい彼だけに、紗月ほど露骨な驚きこそ見せなかったものの、足を止め、珍しく両目をわずかに見開いたまま彼女を見つめている。「朝倉さん?」 千春もまた、二人が顔見知りだとは夢にも思っていなかったらしい。紗月と篤司を交互に見比べ、不思議そうに首を傾げた。「二人は、どこで知り合ったの?」 そう尋ねられた篤司は、考えるように二度ほどゆっくりと瞬きをした。 どこから説明すればよいのか迷っているのか、それとも紗月の事情を自分の口から話してもよいものか判断しかねているのか、すぐには答えようとしない。 その様子を見た紗月は、篤司が口を開くより先に、自分から千春へ説明した。「前に、あるドラマの撮影現場で……アシスタントとして働いていたことがあるんです。そのとき、篤司さんも同じ現場で働いていて、そこで知り合いました」「ああ、もしかして立花監督の現場? この子、仕事は真面目だったでしょう。私も新しい現場へ入るたび、監督や制作の人たちにあの会社を薦めているのよ」 千春の口ぶりからして、篤司の仕事ぶりについてはかなりよく知っているらしい。 話すときの気安さや、篤司も彼女を前にして特に気を遣っている様子がないことから見ても、二人がかなり親しい間柄であることはすぐに分かった。「千春先生と篤司さんは、どういうご関係なんですか?」 ますます気になった紗月は、つい遠慮することも忘れて尋ねてしまった。 すると千春は一瞬きょとんとしたあと、何がおかしいのか楽しそうに笑った。篤司のそばまで歩み寄ると、本人の反応など気にも留めず、遠慮のない仕草でその肩をぐっと自分のほうへ抱き寄せる。「私の実の弟よ」 あまりにもあっさりと告げてから、千春は二人の顔を見比べて、悪戯っぽく笑った。「私たち、よく似ているでしょう?」 篤司は姉に頼まれていた撮影用の小物を届けに来ただけらしく、用事を済ませると長居することもなく、紗月ともほとんど言葉を交わさないまま教室をあとにした。 紗月もその日のレッスンを終えると、自分の荷物を手早く片づけ、千春へ挨拶
続きを読む

第214話

 二人は近くのカフェへ入り、向かい合って席に着いた。 一階で再び顔を合わせてからというもの、篤司はどこか緊張しているらしく、ずっと身体を固くしていた。その様子を見つめながら、紗月は小さく笑い、自分から話を切り出したほうがよさそうだと考える。 紗月が口を開きかけた瞬間、わずかに早く篤司の声が聞こえた。「友枝さん、あの事故があってから……一度も会えませんでした。そのあと仕事を辞めたと聞いて、消息もわからなくなってしまったので、ずっと心配していたんです……」 あの事故。 篤司は当時その場にいなかったため、実際に何が起きたのか、詳しい事情までは知らないはずだった。 血を流して倒れた紗月を目撃した人は大勢いる。あとになって、彼の耳にも何かしら話が入っていたのだろう。 篤司は、紗月が回復すればまた現場へ戻ってくるものだと思っていたらしい。 再会したら身体の具合を尋ねようと考えていたのに、紗月は事故のあと、一度も職場へ姿を見せないまま辞めてしまった。「はい……事故のあと、私は……」 そこまで口にしたところで、紗月の声は途切れた。 今でも、あの日のことを思い返したくはない。 長い人生の中でも、最もつらく、最悪だったと言っていいほどの記憶だ。触れようとするだけで、胸の奥に沈めたはずの痛みまで一緒に蘇ってしまう。 紗月の声や表情に滲んだ苦しさを察したのか、篤司は短く黙り、それ以上踏み込もうとはしなかった。 彼女を困らせまいとしたのだろう、少し不自然なくらい唐突に別の話を持ち出す。「友枝さんが姉のレッスンを受けているということは、もう出演する役が決まっているんですか? これから女優として活動するんですか?」「あ……はい。そうなんです」 まだそれほど親しくない相手を前に、自分がこれから女優として活動すると口にするのは、思っていた以上に勇気がいった。 夢を語ることに慣れていないせいか、紗月は自分でも驚くほど、自信を持って言葉にすることができなかった。 もともと紗月には、自分を過小評価してしまうところがある。 間違いだったとしか思えない三年間の結婚生活を経て、その傾向は以前よりも強くなっていた。自分の力で何かを成し遂げ、成功させることが、今の紗月にはひどく難しいことのように思えてしまう。 以前、すべての情熱と労力を注ぎ込み、ようやく完成させた企画でさ
続きを読む

第215話

 この一か月、千春が指導を引き受けている生徒は紗月一人だけだった。 彼女が組んだトレーニング計画に従い、紗月は週に六日教室へ通い、そのうち週に二度ほどは篤司とも顔を合わせていた。 レッスンで必要になる道具のほとんどは、千春が篤司へ頼み、稽古の内容に合わせて制作してもらっている。 紗月の了承を得たうえで篤司を教室へ残し、相手役として稽古に付き合わせることもあった。 紗月にとって、本格的な撮影現場へ参加するのは今回が初めてに近い。本番が始まれば、さまざまな役者を相手に、その場で呼吸を合わせながら演じなければならない。 同じ場面でも相手を変え、異なる反応を受けながら芝居をする経験は、これからの紗月にとって大きな助けになるはずだった。 もっとも、相手役を任された篤司は、演技を始めても普段とほとんど表情が変わらない。 どれほど真剣に取り組んでも台詞にはなかなか感情が乗らず、どうしても一本調子の棒読みになってしまう。 そのあまりの不器用さがおかしいのか、千春は毎回、途中で堪えきれなくなったように笑い出した。「篤司ったら、演技だけは相変わらずね。あはは……なんだか懐かしいわ」 千春の話では、幼い頃から篤司は姉のおままごとやごっこ遊びに、半ば強引に付き合わされていたらしい。 千春がその日の題目から物語まで自分で考え、篤司にも登場人物の一人を割り当てては、二人で芝居をして遊んでいたという。「姉さん……」 昔の話まで紗月に聞かされ、篤司は時折、姉には敵わないとでも言いたげに小さなため息をついた。 それでも本気で嫌がっている様子はなく、呆れたような表情の奥には、長年そうして姉に振り回されてきたことへの慣れと、どこか諦めにも似た親しさが滲んでいた。 表情そのものは相変わらず乏しいものの、一緒に過ごす時間が増えるにつれ、篤司が喜んでいる時や、少し困っている時、気が進まない時のわずかな違いを、紗月も少しずつ察することができるようになっていた。 篤司はきっと、本当はとても感情の豊かな人なのだろう。 ただ、それを表に出すことがひどく苦手なだけで、いつも静かで淡々とした顔の奥には、思っている以上にさまざまな感情が隠れているようだった。 * その日のレッスンが終わると、篤司は千春に背を向けるようにして紗月のそばへ寄り、彼女にだけ聞こえるほど声を落として尋ねた。
続きを読む

第216話

 慎一がここへ来るとは、紗月も思っていなかった。 まして、千春の教室が入っている建物の前で自分を待っているなど、まったく予想もしていない。目の前の状況をうまく理解できないまま、紗月はその場に立ち尽くした。 隣を歩いていた篤司も、紗月が足を止めたことに気づき、つられるように立ち止まる。 慎一は、どこにいてもひときわ人目を引く存在だった。 黙って立っているだけでも周囲を圧倒するような強い気配があり、篤司もすぐにその存在へ気づいたらしい。 やがて自分へ向けられている鋭い視線を感じ取ると、何も言わないまま慎一を見返した。 いつまでも動こうとしない紗月を見て、慎一のほうから二人へ歩み寄ってくる。 大きな歩幅で距離を縮める足取りは、普段よりも明らかに速かった。一刻も早く紗月のそばへ行きたいと焦っているようにも見える。 そんな性急な足取りとは裏腹に、慎一の顔には焦りも苛立ちも浮かんでいなかった。 紗月の目の前まで来ると、何事もなかったかのようにごく浅く口元を緩める。 その穏やかささえ感じさせる笑みが、なぜか紗月には言いようのない圧迫感を与えた。「紗月、どうしてこんなに遅くなったんだ」「どうして……」 紗月は訝しげに眉を寄せた。慎一がなぜここにいるのか、いまだにまるで分からない。「何度も電話したが、お前が出なかった。今日は仕事の会食に一緒に出てもらうと、前に話しておいただろう。だから迎えに来た」 そう言われて初めて、紗月は数日前、妻として会食へ同席してほしいと慎一から伝えられていたことを朧げに思い出した。 この数日は演技のレッスンに追われ、ほかのことへ気を回す余裕がほとんどなかった。 慎一に関わることを意識的に頭から遠ざけようとしていたせいもあるのだろう。 その予定まで、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。「あ……」 ようやく予定を思い出した紗月は、気まずそうに小さく声を漏らした。慌ててスマートフォンを取り出して画面を確認すると、慎一からの着信が何件も残っており、迎えに行くというメッセージまできちんと送られている。 完全に自分が忘れていたのだと分かり、紗月は隣にいる篤司へ申し訳なさを覚えた。 せっかく送ると申し出てくれたのに、このままでは何の説明もないまま断ることになってしまう。事情を話そうと篤司へ顔を向けかけたところで、慎一が一足
続きを読む

第217話

 今の紗月には、慎一との複雑な関係を篤司へ説明することができなかった。 契約結婚であることも、この場で簡単に口にしてよい話ではない。 せっかく家まで送ると言ってくれた篤司へ申し訳なさそうに謝り、そのまま建物の前で別れることになった。 篤司は余計なことを尋ねず、ごく小さく頷いた。慎一の態度に気分を害した様子もなく、紗月へ「また今度」と告げると、二人とは反対の方向へ歩いていく。 その背中を見送ったあと、紗月は慎一と一緒に車へ乗り込んだ。 車が走り出してもしばらく、慎一は何も言わなかった。建物からある程度離れた頃になって、ようやく静かな声で口を開く。「紗月。契約だけとはいえ、俺たちは名目上、夫婦なんだ。浮気は許されない。わかっているな?」 突然声をかけられたことにも、まるで当然のことのように浮気を禁じられたことにも驚き、紗月の頭は一瞬真っ白になった。 遅れてその意味を理解すると、あまりにも馬鹿馬鹿しく思えて、きちんと姿勢を正して隣に座る慎一へ呆れた視線を向ける。 紗月は篤司とどうにかなろうなど、一度も考えたことがない。 篤司自身もきちんと距離をわきまえている人で、この数週間で以前より親しくなったとはいえ、二人きりで過ごしたのは、再会した日にカフェへ入った一度だけだった。 それ以外に特別なことは何もなく、まして慎一から浮気を疑われるような振る舞いなど、した覚えはまったくなかった。 それにもかかわらず浮気を警告されたことで、紗月は身に覚えのない疑いをかけられたばかりか、自分まで軽んじられたような屈辱を覚えた。 慎一がどんなつもりで口にした言葉であろうと、到底受け入れられるものではない。 もしかすると、慎一は篤司に嫉妬しているのかもしれない。 今さら自分たちの関係でそんな感情を向けられたところで、紗月には可笑しいとしか思えなかった。「朝倉社長。私は以前、ほかの女性と距離を置いてほしいなんて、一度もあなたに求めなかったよね」 紗月自身は、冷たく突き放すつもりで言った。 慎一の耳には、まるで別の意味を持つ言葉として届いたらしい。わずかに片眉を上げると、口元に薄い笑みを浮かべる。「なんだ。あの頃は、ずいぶん気にしていたのか?」 かつて慎一がほかの女たちと親しげに振る舞っていたのは、もともと紗月へ見せつけるためだった。 今になって紗月の口から
続きを読む

第218話

 いっそう冷たくなった紗月の表情と、固く口を閉ざしたまま何も言おうとしない彼女を見つめ、慎一も遅ればせながら、自分が口にした言葉を後悔していた。 確かに、今のは言い過ぎだった。 慎一は幼い頃から、決して口が達者な人間ではない。 まして三年前、紗月が自分との結婚を無理に押し通したことを、慎一はずっと裏切りだと思っていた。 この三年間、紗月を不快にさせ、苦しめるためにしてきたことや浴びせてきた言葉の積み重ねで、いつしか彼女とは傷つけるような言葉を交わすことが当たり前になってしまっている。 紗月が流産したあとには、少しくらい優しくしてやろうと思ったこともあった。それでも、こういう時に限って頭で考えるより先に口が動いてしまう。 慎一自身が言い過ぎたと気づいた時には、もう取り返しのつかない言葉が紗月へ向けて放たれたあとだった。 だからといって、「悪かった」や「すまない」と素直に口にすることもできない。 先ほど自分が放った言葉を確かに後悔していながら、慎一は結局、紗月と同じように黙り込むことしかできなかった。 車内は再び、息苦しいほどの静寂に包まれる。 その沈黙を最初に破ったのは、車を指定されたホテルの正面まで走らせた久我だった。「社長、奥様。到着いたしました」「ああ」 慎一が短く応じると、すぐにホテルのドアマンが後部座席の扉を開けた。 先に車を降りた慎一は、ほんのわずかに迷ったあと、後に続いて降りようとする紗月へ手を差し出す。 紗月は差し出されたその手を、数秒ほど黙って見つめた。 頭に浮かんだのは、先ほど慎一から言われた「契約を結んだ以上、義務を果たせ」という言葉だった。 今さら拒むことさえ無意味に思えた。抗うことを諦めたように、紗月はそっと自分の手を慎一の掌へ重ねる。 触れた途端、慎一の指が逃がさないようにその手を包み込んだ。 紗月は何も言わず、彼に引かれるまま静かに車を降りた。 ホテルの中へ入ってからも、慎一が手を離すことはなかった。紗月も何も言わず、繋がれた手を振りほどこうともせずに、彼に引かれるまま隣を歩いていく。 おそらく、これが慎一の言う「仲睦まじい夫婦に見えるよう振る舞う」ということなのだろう。 重ねた掌から絶え間なく伝わってくる慎一の温もりを感じながら、紗月は取り留めもなくそんなことを考えていた。 エレベーターへ
続きを読む

第219話

 会食の席では、同席している者たちが絶え間なく慎一と紗月を持ち上げ、二人の機嫌を取ろうとするような言葉を次から次へと並べていた。 慎一は紗月に「仕事の会食」だと説明していたものの、しばらく話を聞いているうちに、今回の席が慎一にとって対等な相手との商談ではないことがわかってきた。 頼まれる側にいるのは、あくまでも慎一だった。 目の前の者たちは朝倉グループとの提携をどうにか取りつけたい一心で、運ばれてくる料理にも、食事そのものにも、ほとんど関心を払っていない。 周囲がひっきりなしに喋り続ける中でも、慎一は相変わらず落ち着き払っていた。 耳障りなほどの賑やかさにも煩わされた様子を見せず、むしろ随分と余裕があるらしい。 時折、目の前に運ばれてきた料理へ視線を落としては、その食材や味わいの特徴を何気なく紗月へ教えてくる。 このレストランを選んだのも慎一だった。以前ここで食事をした際に料理が気に入り、紗月にも一度食べさせてみたいと思っていたらしい。 紗月は食事の間、ほとんど言葉を発しなかった。仕事の話には一切加わらず、自分が立ち入るべきではない話題として、きちんと一線を引いている。 話の矛先が紗月へ向き、聞いているこちらが気恥ずかしくなるほど大袈裟な褒め言葉を並べられることもあった。紗月はそのたびに当たり障りのない微笑みを返し、せいぜい「ありがとうございます」と短く礼を告げる程度だった。 ただ座って話を聞いているだけとはいえ、決して気楽な時間ではなかった。一時間ほど経つ頃には、紗月もすっかり疲れを感じ始めている。 もともと今日は朝から一日中レッスンを受けており、身体にはすでに重い疲労が溜まっていた。見知らぬ者たちを相手に笑顔を保ち続けなければならないこともあり、張り詰めた神経は普段以上に消耗している。「……」 紗月の顔にほんの一瞬浮かんだ疲労の色を見逃さず、慎一の眼差しがわずかに沈んだ。 すぐに目の前の者たちへ視線を戻し、低く落ち着いた声で告げる。「皆さんが気にされているプロジェクトの提携については、後日、担当者から正式な回答書を送る」 その言葉を受け、再び一斉にへりくだった礼や媚びるような言葉が飛び交った。 慎一はその一つひとつへまともに応じることもなく、ほんの二、三言だけで会食を切り上げる。 その場にいた者たちも、慎一の顔色を読むことに
続きを読む

第220話

 食事を終えて車へ戻ると、慎一はどこから取り出したのか、一つの箱を紗月の前へ差し出した。 箱の表面には、誰もが一目でわかる有名ブランドのロゴが刻まれていた。 紗月は差し出された箱へ視線を落としたものの、受け取ろうとはしなかった。 慎一も無理に渡そうとはせず、何も言わないまま自ら箱の蓋を開ける。中に収められていた腕時計を取り出すと、紗月の手を掴み、抵抗する隙も与えず、その細い手首へ自分の手で着けた。「私には必要ない……」「紗月。朝倉家の妻でいる以上、お前の身なりはそのまま俺の顔になる。必要かどうかは、お前が決めることじゃない」 本当に夫婦だった頃には、一度としてこんなことを言わなかった慎一が、今になってこうした口実を使うことだけは、ずいぶん上手くなっていた。 契約を持ち出しさえすれば、紗月には逆らう術がないとわかっているのだ。 紗月は俯き、手首に着けられた腕時計をしばらく見つめた。それは、これまで自分では一度も買ったことのないほどの高級品だった。 薄暗い車内でも、文字盤にあしらわれたダイヤモンドは眩い輝きを失わない。ほんのわずかに手首を動かすだけで、光を受けた石がきらきらと瞬き、角度を変えるたびに繊細な虹色の光を零した。 慎一は紗月の細い手首に収まったそれを眺め、ひどく満足しているようだった。「よく似合ってる」 低い声でそう告げると、慎一は続けて明日の予定を口にした。「紗月、明日も会食がある。俺が迎えに行くから、あまり遅くなるな」 紗月はゆっくりと顔を上げ、慎一を見つめた。 ほの暗い車内でも、手首を飾る宝石の輝きだけは鮮明に見える。 それなのに、自分へ向けられた慎一の瞳の奥に、どのような感情が隠されているのかまでは、どうしても見通せなかった。「朝倉社長、明日もご自分より格下の方々とのお付き合い?」 先ほどの言葉をわざとそのまま返すような紗月の問いに、慎一は気分を害すどころか、小さく笑った。 その目にはどこか意味ありげな色が浮かび、返した言葉にもわずかな含みが滲んでいる。「俺にとっては、必要な付き合いだ」 それから数日間、紗月は慎一に伴われ、夜ごとさまざまな会食やパーティーへ出席することになった。 本来、慎一ほどの地位にある人間が、いわゆる仕事上の付き合いにすぎない会食へ自ら足を運ぶことなどほとんどない。パーティーの招待状が
続きを読む
前へ
1
...
2021222324
...
27
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status