愛し続けた彼を、私は手放すことにした のすべてのチャプター: チャプター 221 - チャプター 230

267 チャプター

第221話

 紗月は、彼女たちの話を盗み聞きするつもりなどなかった。 ただ、いかにも良家の令嬢らしく華やかに着飾った彼女たちが廊下を塞いでおり、先へ進めなかっただけだ。 来た道を引き返そうかと迷っているうちに、話題はいつの間にか自分にまで及んでいた。 当事者である紗月の胸には、何とも形容しがたい複雑な感情が広がっていた。 慎一が以前、ほかの女性を自分の傍に置いていたことは、世間にとっても特別な秘密ではなかったのだろう。 今の自分と慎一が、仲睦まじい夫婦を演じているだけだというのも、紛れもない事実だった。 紗月はむしろ、これを耳にしたのが今でよかったとさえ思った。 もしもう少し前――まだ慎一を愛していた頃に同じ会話を聞いていたなら、彼女たちが面白おかしく噂していたのは、きっと「朝倉社長夫人の報われない片思い」だったのかもしれない。 そう考えれば、今さら胸を痛めるようなことでもなかった。 これ以上、人の噂話へ耳を傾けるべきではない。 紗月がそう思い、宴会場へ戻ろうと踵を返しかけた瞬間、不意に腰を掴まれた。「……っ」 驚いた紗月の喉から、かすかな声が零れる。 ほとんど同時に、すぐそばから馴染みのある香りが漂ってきた。ここ最近、慎一が好んで纏っている男性用の香水だった。 紗月が顔を向けると、やはりそこにいたのは慎一だった。 彼は紗月の腰を抱いたままわずかに顔を伏せ、口元にごく薄い笑みを浮かべながら、すぐ近くから彼女を見つめていた。「し、慎一……」 いつから自分のあとを追ってきたのかはわからない。紗月が会場からいなくなったことに気づき、わざわざ探しに来たのかどうかも定かではなかった。「どうして外に出てきたんだ?」 二人の声は、廊下の向こうにいた令嬢たちの耳にも届いたらしい。彼女たちは声のするほうへ数歩進み、角の陰に立つ慎一と紗月の姿を見つけると、それぞれ異なる表情を浮かべた。 気まずそうに目を泳がせる者もいれば、思いがけない好機を見つけたとでもいうように、ぱっと目を輝かせる者もいる。「慎一……社長、お久しぶりです。最近はいかがお過ごしですか?」 先ほど、機会があれば自分から売り込みに行きたいと話していた令嬢が、真っ先に慎一へ声をかけた。 その視線は最初から最後まで慎一だけに注がれており、すぐ隣にいる紗月の存在など、まるで目に入っていないか
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第222話

 慎一の口から父親の話が出た途端、目の前の令嬢もようやく事態のまずさに気づいたのだろう。 先ほどまで媚びるような笑みを浮かべていた顔が、目に見えて強張った。 その場の空気も一瞬にして凍りつき、同行していた令嬢たちは互いに不安げな視線を交わすばかりで、誰一人としてすぐには口を開けなかった。 十数秒にも及ぶ重苦しい沈黙の末、一人の令嬢が恐怖を押し殺すようにして慎一と紗月へ頭を下げた。 真っ先に庇おうとしたところを見るに、おそらく永長家の次女とは最も親しい間柄なのだろう。「も、申し訳ございません、朝倉社長、奥様。この子はまだ若く、幼い頃から箱入りで育てられてきたものですから、少し世間知らずなところがあるんです。朝倉社長のことをとても素晴らしい方だと思っていて、今日ようやくこんなにお近くでお会いできたものですから、つい興奮してしまって、後先も考えず失礼なことを口にしてしまいました……本当に申し訳ございません」 彼女は何度も深く頭を下げ、必死になって謝罪を繰り返した。 ほかの令嬢たちも慌てて永長家の次女を引き寄せ、一緒になって慎一たちへ頭を下げる。 慎一が何か言うのを待つことさえ恐ろしかったのか、口々に謝罪の言葉を残すと、永長家の次女を連れて逃げるように廊下の向こうへ駆け去っていった。 騒がしかった辺りは急に静まり返り、広い廊下に残されたのは慎一と紗月の二人だけだった。「……」 紗月は何も言わなかった。 腰に回されたままの慎一の腕をそっと押し退け、一歩後ろへ下がると、二人の間にわずかな距離を作る。 先ほど腰を抱かれたとき、慎一の手には少し強すぎるほどの力が込められていた。 もうとっくに離れているはずなのに、掴まれていた辺りには、まだ彼の手のひらの熱も、指先の感触も、消えずに残っているような気がした。 意識してしまった途端、その感覚だけが妙に鮮明になる。 紗月に腕を押し退けられても、慎一は特に気を悪くしたようには見えなかった。わずかに顔を伏せ、少し距離を取った紗月の顔を静かに見つめる。「紗月、大丈夫か?」 どうやら、先ほどの一件について尋ねているらしい。 紗月には、慎一が具体的に何を気にしているのか分からなかった。 あんな言葉を投げつけられて傷ついていないかと、自分の気持ちを気遣っているのだろうか。 それとも、人前で庇ってやったのだか
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第223話

 紗月は一瞬きょとんとしたあと、慎一の言葉の意味を頭の中で辿り、彼が口にした「あの男」とは篤司のことらしいとようやく気づいた。 なぜ今、この場で篤司の話が出てくるのかわからない。唐突すぎる話題にわずかに思考が止まり、紗月は訝しげに眉を寄せて反射的に聞き返した。「篤司さんのことを言っているの……?」「篤司、か。随分と親しげに呼ぶんだな」 篤司という呼び方は、どう聞いても名字ではなく下の名前だ。 紗月の口からあまりにも自然にその呼び名が出た瞬間、慎一は胸の奥に込み上げた不快感を抑えきれず、冷ややかな皮肉を返していた。 脳裏へ蘇ったのは、数日前に目にした光景だった。 紗月はあの男と楽しそうに言葉を交わしながら、肩を並べて階段を下りてきた。二人の間に気まずさや遠慮はなく、随分と親しい間柄に見えたことを、慎一は今でもはっきりと覚えている。 そこまで考えたところで、さらにもう一つの記憶が浮かび上がった。 篤司というあの男は、立花の撮影現場にいた頃から、すでに紗月と随分親しげにしていた。「そうか……あいつだったのか」 独り言のように低く零された呟きはあまりにも小さく、紗月の耳までは届かなかった。 紗月にとっては、こんな話題をこれ以上続けること自体がひどく煩わしかった。 この数日、連日のように慎一へ付き添い、さまざまな会食やパーティーへ出席させられているだけでも、すでに十分すぎるほど疲れている。 昼間の演技レッスンにもかなりの体力と集中力を使うため、身体には自分で思っていた以上に疲労が積み重なっていた。 休んでも抜けきらない重さが全身に残り、慎一とこうして余計な言葉を交わすことさえ、今の紗月にはひどく億劫に感じられる。 これ以上、自分の時間も気力も、慎一のために費やしたくなかった。「……私と篤司さんは、ただの友人よ。あなたが勝手に勘繰るなら、私にはどうしようもない」「友人、か」 慎一はその言葉を確かめるように低く繰り返し、紗月へ向ける眼差しをわずかに冷たくした。「紗月、お前と親しい男は、一人や二人じゃないだろう」 篤司に、優介。 どいつもこいつも、紗月との距離が近すぎる。 自分の知らないところで彼女の傍に立ち、親しげに言葉を交わし、当たり前のように距離を縮めている。そうした光景を思い浮かべるだけで、慎一の胸の奥には理由のつけようもない
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第224話

 慎一がなおも追いかけてきて、自分を引き止めるのではないか。 そんな不安に駆られるように、紗月は言い終えるなり、ほとんど逃げるような足取りでエレベーターの前まで急いだ。 幸い、エレベーターはちょうどこの階に止まっていた。 ボタンを押すと間もなく扉が開き、紗月は吸い込まれるように中へ滑り込む。それでも安心することはできず、一度として顔を上げて慎一を見ようとはしなかった。 閉じるボタンへ伸ばした指先に無意識のうちに力が入り、何度も繰り返し押しながら、一刻も早くこの扉が閉じてくれることだけを願った。 ゆっくりと閉じていく扉の向こうに、慎一が追いかけてくる気配はなかった。 今日のパーティーは、ここ数日の集まりと比べても重要なものだった。 慎一ほどの立場にある人間が、何の断りもなく長時間席を外すわけにはいかなかったのかもしれない。 あるいは単純に、今回だけは紗月の言葉を聞き入れ、これ以上追いかけるつもりがなかったのだろうか。 理由が何であれ、紗月にとってはどうでもよかった。 ホテルを出てタクシーへ乗り込み、柔らかなシートへ深く身体を預ける。 窓の外では、夜の街を彩る無数の灯りが後方へ流れ、慎一のいる場所も少しずつ遠ざかっていく。その景色をぼんやりと眺めながら、紗月はようやく張りつめていた肩の力を抜き、心の底から安堵の息を吐き出した。 静かになった車内で、ふと脳裏に浮かんだのは、先ほど慎一が自分を抱き寄せ、庇うように口にした言葉だった。 もし、あれを以前の自分が聞いていたなら――どれほど嬉しかったことだろう。 慎一からほんの少し優しくされるだけで、その日の出来事を何度も思い返しては幸せな気持ちになれた。自分を庇ってくれたのだと知れば、きっと胸がいっぱいになって、眠れないほど喜んでいたに違いない。 あの頃は、ずっと欲しかった。 慎一から向けられる優しさも、自分を特別に思ってくれていると感じられる言葉も、彼の腕の中で守られることも。 どれほど望んでも手に入らなかったものを、よりによってすべてを諦めようとしている今になって、どうして与えようとするのだろう。 今さら遅すぎる。 今のような関係では、どれほど深い愛情を感じさせる言葉であろうと、慎一の口を通した途端、何もかもがひどく可笑しなものに聞こえてしまう。 かつてなら宝物のように胸へしまい込ん
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第225話

 自分が昨日口にした言葉が、効いたのかもしれない。 ここ数日、毎日のように会食やパーティーへ同行するよう求めてきた慎一から、その日は珍しく一度も連絡がなかった。 千春のほうにも夜から仕事の予定が入っていたため、今日の演技レッスンは普段より早い時間に終了した。 紗月が教室を出た頃には、外にはまだ明るい陽射しが残っている。 夕方へ差しかかろうとしている空は淡く澄み、ここ数日では久しぶりに、急いで次の予定へ向かう必要もなかった。 ようやく、心から気を抜いて過ごせそうな一日だった。 このまま家へ帰ってゆっくり休もうか、それとも久しぶりにどこかへ寄って帰ろうか。そんなことを考えながら歩いていたところで、手にしていたスマートフォンが突然震え、着信を知らせた。 その瞬間、紗月の頭に真っ先に浮かんだのは慎一だった。 理由もわからないまま心臓が大きく脈打ち、先ほどまで緩んでいた身体がわずかに強張る。 胸の奥には、何かに追い立てられるような落ち着かない不快感までじわりと広がった。 昨日あれほどはっきり連絡を控えてほしいと伝えたのに、また何か用事を言いつけるつもりなのだろうか。 紗月はわずかな緊張を覚えながら慌ててスマートフォンへ視線を落とした。 画面に表示されていた名前は、慎一ではなかった。 ――源間監督。 その名前を確認した途端、強張っていた肩から自然と力が抜けた。自分でも気づかないほど小さく安堵の息を零し、紗月はようやく落ち着きを取り戻して、そのまま通話へ出る。「監督? どうかしましたか?」「友枝さん、今夜は時間ありますか? 今日はレッスンが早く終わると聞いたので、出演者を全員集めて、簡単な顔合わせをしようと思ってるんです」「顔合わせですか?」「急な話ですみません。この先数日は大学の用事が立て込んでいて、どうしても手が離せないんです。今日を逃すと、次にまとまった時間を作れるのが一週間後になりそうで」「いいえ、監督。私は今日で大丈夫です。……出演者は、もう全員決まったんですか?」 今回のドラマのキャスティングについて、紗月はまだ詳しいことをほとんど聞かされていなかった。 演技レッスンが始まってからというもの、源間は自分の学業に加え、出演者の選定にも追われていた。かなり忙しい日々を送っているらしく、紗月と直接連絡を取る機会もほとんどない。 
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第226話

 紗月が到着した頃には、それほど広くない会議室の中は、すでに大勢の話し声で賑わっていた。 ここは源間が制作拠点として借りた臨時事務所で、紗月の姿を見つけるなり、彼はすぐに彼女を皆の前へ連れていき、改めて丁寧に紹介した。「こちらが友枝紗月さんです。綾乃役を演じていただきます」 特別に大人数というわけではないものの、ざっと見渡しただけでも十数人はいる。その場にいた全員の視線が一斉に自分へ集まり、紗月は珍しく、言葉がうまく出てこなくなるほど緊張してしまった。「み、皆さん、初めまして。友枝紗月です。本格的に作品へ出演するのは今回が初めてなので、撮影では不慣れな点も多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」 少しだけ声が上擦ってしまったことを自覚し、挨拶を終えた紗月は密かに恥ずかしくなる。 集められた俳優たちは、誰もが随分若く見えた。演じる役柄の年齢設定とも関係しているのだろう。紗月が挨拶を終えると、そんな緊張を気にする様子もなく、すぐにあちこちから明るい声が上がり、温かな歓迎を受けた。 若い者が多いせいか、人を迎え入れる時にもどこか勢いがある。特に役者を目指しているだけあって、初対面の相手にも物怖じせず話しかけられる、明るく社交的な性格の者が多いようだった。 紗月が勧められた空いている席へ腰を下ろして間もなく、何人もの共演者が自分から近づいてきた。「初めまして、よろしくお願いします」「綾乃役なんですね。僕も今回が初めてなんです」 そんな言葉とともに次々と名前を告げられ、紗月も一人ひとりの顔を覚えようとしながら挨拶を返していく。いくつもの楽しげな声が重なり合い、決して広くはない会議室の中は、先ほどまで以上の賑わいに包まれていった。 話を聞いているうちに、今も大学へ通っている者が少なくないことも分かった。紗月と同じように、本格的な撮影現場へ入るのはこれが初めてだという者もいて、経験こそまだ浅いものの、誰もが自分の夢に対する真っ直ぐな熱意と大きな希望を胸に抱いている。 これからどんな芝居をしてみたいのか。今回の役をどう演じたいのか。そんな話をする彼らの表情は生き生きとしていて、口にする言葉の一つひとつからも、間もなく始まる撮影への期待が溢れていた。 紗月もいつの間にかその明るい空気に引き込まれていた。 最初に感じていた緊張も少しずつ薄
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第227話

 源間は遠くへ行っていたわけではなく、どうやらずっと会議室の外で誰かと電話をしていたらしい。 紗月が何気なく扉を開けた瞬間、それまで隔てられていた源間の声が、先ほどよりもはっきりと耳へ届いた。「……話し合う余地がないというのは、どういうことですか? こちらはもう、いつでも撮影を始められる段階まで準備を進めているんです。一か月前に正式に契約を交わしたはずですよね。それを今になって、もう貸し出すことはできないと言われても……こちらとしても困ります」 普段の源間からは想像しにくいほど、声には焦りと苛立ちが滲んでいた。「こちらが求めているのは違約金ではありません。そちらとは今回が初めての取引でもないでしょう。これまで問題なくやってきたのに、何の説明もないまま一方的に契約を打ち切られては、こちらも納得できません」 源間と知り合ってからこれまで、紗月が彼に抱いていたのは、いつも落ち着いていて、多少のことでは動じないという印象だった。 忙しい時でさえ慌てた様子を見せることはほとんどなく、何か問題が起きても、まず冷静に状況を整理してから対処する。そんな彼がここまで苛立ちを露わにしている姿を見るのは、紗月にとって初めてのことだった。 よほど切羽詰まった状況なのだろう。 源間は紗月へ背を向けたまま、通話に意識を集中させている。彼女が扉を開けた音にも気づいていないらしく、一度としてこちらを振り返ろうとはしなかった。 腹を立てていることは明らかだった。それでも感情に任せて声を荒らげることはなく、相手と話し合えるだけの冷静さを保ちながら、一つひとつ言葉を選ぶように交渉を続けている。「やむを得ない事情というのは、具体的に何ですか? 契約を破棄しようとしているのは、そちらですよね。こちらは無理な要求をしているわけではありません。せめて納得できるだけの理由を説明してほしいと言っているんです。それすらできないというのは、さすがに……」 そこで言葉を切った源間は、電話の向こうから返ってくる話を聞くように黙り込んだ。 その横顔には、普段ほとんど見せることのない険しさが浮かんでいる。 紗月に、源間の電話を盗み聞きするつもりなどなかった。 彼が扉の外にいたことに驚き、一瞬その場に立ち尽くしたものの、通話中だとわかると、邪魔をしないよう静かに扉を閉め、そのまま会議室へ戻った。 
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第228話

 それから数日間は、何事もなく穏やかに過ぎていった。 クランクインの日が近づくにつれ、紗月はますます毎日のレッスンへ没頭するようになった。 普段以上に懸命に取り組む彼女の姿が気になるのか、篤司も変わらず週に二度ほど教室を訪れては、レッスンの邪魔にならないよう静かに用事を済ませ、そのまま帰っていく。 千春の弟である篤司は、どうやら姉に頼まれると断れない性格らしい。 顔を合わせる機会が増えるにつれ、紗月は彼が毎回小道具を届けるために来ているわけではなく、時には単に姉に頼まれた用事を済ませるためだけに足を運んでいることにも気づいた。 レッスンの合間に休憩している時、千春は時折、自慢するように自分の弟を褒めた。「篤司って、性格がいいでしょう? 小さい頃からずっとあんな感じなの。高校生になっても反抗期らしい反抗期すらなかったのよ。昔は少し覇気がないし、私に口答えもしなければ喧嘩もしないから、つまらない子だと思っていたけど、今になって考えると、ああいう性格って本当に貴重よね」 篤司について語る千春の声には、姉としての贔屓目や深い愛情だけでなく、なぜか紗月にも感じ取れるほどの、かすかな寂しさが混じっていた。「篤司さんは……本当にいい方ですよね。とても優しいです」 紗月が弟を褒めると、千春はまるで自分のことを褒められたかのように、嬉しそうな笑みを浮かべた。「ただ、うちの弟はあまりにも大人しすぎるのよ。自分から友達を作ろうともしないし、これまで女の子と親しくしているところなんて、一度も見たことがないの。姉としては、本当に心配で仕方ないわ」 ちょうどそんな話をしていた時、教室の扉が開いた。 ほとんど表情を変えない篤司が、買ってきたばかりのミルクティーを二杯手にして教室へ入ってきた。一杯を千春へ渡し、もう一杯はごく自然な仕草で紗月へ差し出す。「どうぞ」「あ……ありがとうございます、篤司さん」 少し意外に思いながらも、紗月は素直に受け取った。 千春の分は、彼女がわざわざ篤司に頼んで買いに行かせたものだった。その時、紗月の分まで買ってきてほしいとは一言も頼んでいない。どうやら篤司が自分で気を利かせ、ごく自然にもう一杯買ってきてくれたらしい。 紗月の手に収まったミルクティーを目にした千春は、途端に見るからに嬉しそうな笑みを浮かべた。弟と紗月を交互に眺めたあと
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第229話

 紗月は、千春が自分と篤司を引き合わせようとしているのではないかと、以前から薄々感じていた。 ただ、肝心の篤司本人があまりにもそうしたことに疎く、姉が何を考えているのかなど、まるで気づいていないようだった。 紗月自身も、篤司に対して友人以上の感情を抱いてはいない。おそらく、篤司のほうも同じなのだろうと思っている。 彼の優しさや細やかな気遣いは、紗月にも十分すぎるほど伝わっていた。足を怪我した時にさりげなく仕事を回してくれたことも、帰りの足を気にかけてくれたことも、どれも篤司らしい不器用な思いやりだった。 それでも紗月は、それを自分だけに向けられた特別なものだとは思っていなかった。 篤司はもともと、人の困っている様子を見れば放っておけない性格なのだろう。 相手が紗月でなくとも、同じように気づかい、必要であれば迷わず手を差し伸べる。そういう生来の善良さを持った人なのだと、紗月は感じていた。 ただ、長年弟を見てきた千春の目には、少し違って映っているらしい。 篤司が時折、本人さえ意識していないようなところで紗月を気にかけたり、ほかの人には見せないような反応をほんのわずかに見せたりするたびに、千春は弟が紗月にだけ少し特別な態度を取っているのではないかと思うようになったようだった。 その日のレッスンが終わると、先に帰ろうとしていた篤司を、千春がすぐに呼び止めた。「篤司、今日は一緒にご飯を食べに行きましょう。紗月も一緒にどう? こんなに長くレッスンを続けてるのに、まだ三人で食事したことないでしょう?」 突然呼び止められた篤司は、少しきょとんとした顔で姉を見る。 何かを思い出したらしく、すぐに口を開いた。「姉さん、今夜は確か……」「私ももうすぐ撮影に入るから、この先は三人で集まれる時間なんて取れないかもしれないの」 篤司の言葉を最後まで聞く前に、千春は自然な調子で話を続け、そのまま紗月へ視線を向けた。「紗月もそうでしょう? クランクインしたら毎日忙しくなるだろうし、今までみたいになかなか会えなくなるものね」 言葉だけを聞けば、ただ三人で食事をしようと誘っているだけだった。 それでも紗月には、その言い方にどこか含みがあることが分かる。 残念ながら、篤司だけは姉の意図を少しも理解していなかった。 何かを勘繰る様子もなく、ただ素直に千春の話を聞い
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第230話

 篤司の答えを聞くと、千春はちらりと紗月へ目を向け、どこか意味ありげな笑みを浮かべた。 本当ならこのまま、紗月にもどんな男性が好みなのか尋ねてみるつもりだった。、けれど、そこまで聞いてしまえば、自分の意図があまりにも露骨に伝わってしまう気がして、さすがに思い直す。結局、その問いは胸の内にしまっておくことにした。 三人で囲んだ食事の席は、全体を通して穏やかで心地のいいものだった。 千春が篤司へ恋愛についていくつか質問したのも最初のうちだけで、その後はほとんど、芸能界のことや仕事にまつわる話をしながら時間が過ぎていった。「紗月もこれから、この世界に入っていくことになるでしょう。でもね、この業界って、実際はそんなに綺麗なところじゃないの。いろんな人がいるし、理不尽なことだって珍しくない。むしろ、日常茶飯事と言ってもいいくらいよ。私は運がよかったし、実家にも恵まれていたから、そこまで酷い目には遭わずに済んだけど……」 千春はそこで一度言葉を止め、少しだけ表情を改めた。 先ほどまでの柔らかな笑みは消え、紗月を見つめる眼差しには、年上の先輩としての真剣さが滲んでいる。「あなたが芝居に強い情熱を持ってることは、私にもよくわかる。でも、芸能界で生きていくことと、芝居をすることは、もしかしたらまったく別のものなのかもしれない」 好きだから頑張れることと、好きなものを守りながらこの世界で生き残っていくことは、決して同じではない。 千春はそれを知っているからこそ、紗月にはただ夢だけを見ていてほしいとは思わなかった。「この先、きっと嫌なこともあると思う。納得できないことだって、たくさん出てくるでしょう。だから……それでも、紗月が芝居を嫌いにならないでいてくれたらいいなって思うの」 ほんの少し間を置き、千春はやわらかく目を細めた。「私は本当に、紗月なら成功できると思ってるわ」 この数日間、千春は紗月という人間を、以前とは比べものにならないほど高く評価するようになっていた。 正直に言えば、最初は少しばかり懐疑的だった。 紗月の年齢で、それまで専門的に演技を学んできたわけでもない人間が、今になって芸能界へ入り、本気で女優を目指そうとするのは、やはり少し遅いのではないか。 本人がどれほど強く望んでいたとしても、現実はそう簡単なものではないと、千春はこの世界に長
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