「奥様、今夜、会社に関わる重要な会食がございます。社長より、奥様にも必ずご出席いただくよう申しつかっております」 電話の向こうから聞こえてきた声には覚えがあった。今朝、朝食を届けに来た秘書のものによく似ている。 秘書は最初から最後まで「契約」という言葉を一度も口にしなかった。 それでも、会社に関わる重要な会食であり、慎一からも必ず出席するよう指示されているとまで言われれば、紗月には契約上の役目を果たすよう念を押されているとしか思えなかった。 スマートフォンを握る指先に、無意識のうちにわずかな力がこもる。 すぐそばには、慎一との関係を疑い始めたばかりの凛子がいる。余計なことを悟られないためにも、少なくとも表情だけは何事もないよう平静に保たなければならなかった。「分かりました」「奥様、現在いらっしゃる場所をお教えいただけますでしょうか。すぐにお迎えの車を向かわせます」 紗月は余計なことを尋ねることなく、今いる場所だけを簡潔に伝えた。 十分ほどして久我の車が到着したとき、紗月はてっきり慎一も乗っていると思っていた。 けれど、開かれたドアの向こうに彼の姿はなく、車内にいたのは久我だけだった。紗月一人を迎えるために、わざわざここまで来たようだ。 後部座席へ乗り込んだ紗月に、久我はいつもと変わらない穏やかな笑顔で挨拶をする。「奥様、こんばんは。社長はまだ会議中ですので、先に奥様を会食の会場までお連れするよう言われています。社長は会社から直接向かうそうです」 紗月は小さく頷き、それ以上何も尋ねなかった。 車が走り出してからもしばらくは無言のまま、窓の外を流れていく夕暮れの街並みをぼんやりと眺めていた。 静かな車内で何気なく昼間のことを思い返しているうちに、源間たちと歩いていたときに見かけた、どこか見覚えのあるあの車がふと脳裏をよぎる。 あのときは気のせいだと思い、それ以上深く考えなかった。それでも今になって思い返すと、なぜか妙に引っかかった。「久我さん。今日、社長はずっと会社にいたんですか?」「それは……」 何気なく尋ねただけのつもりだった。久我がほんの一瞬、言葉を詰まらせたことで、紗月はかえって彼の反応を意識してしまう。 ためらいと呼ぶにはあまりにも短い沈黙だった。それでも、妙な引っかかりを覚えるには十分で、胸の奥が理由もなくざわつい
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