All Chapters of 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

 「奥様、今夜、会社に関わる重要な会食がございます。社長より、奥様にも必ずご出席いただくよう申しつかっております」 電話の向こうから聞こえてきた声には覚えがあった。今朝、朝食を届けに来た秘書のものによく似ている。 秘書は最初から最後まで「契約」という言葉を一度も口にしなかった。 それでも、会社に関わる重要な会食であり、慎一からも必ず出席するよう指示されているとまで言われれば、紗月には契約上の役目を果たすよう念を押されているとしか思えなかった。 スマートフォンを握る指先に、無意識のうちにわずかな力がこもる。 すぐそばには、慎一との関係を疑い始めたばかりの凛子がいる。余計なことを悟られないためにも、少なくとも表情だけは何事もないよう平静に保たなければならなかった。「分かりました」「奥様、現在いらっしゃる場所をお教えいただけますでしょうか。すぐにお迎えの車を向かわせます」 紗月は余計なことを尋ねることなく、今いる場所だけを簡潔に伝えた。 十分ほどして久我の車が到着したとき、紗月はてっきり慎一も乗っていると思っていた。 けれど、開かれたドアの向こうに彼の姿はなく、車内にいたのは久我だけだった。紗月一人を迎えるために、わざわざここまで来たようだ。 後部座席へ乗り込んだ紗月に、久我はいつもと変わらない穏やかな笑顔で挨拶をする。「奥様、こんばんは。社長はまだ会議中ですので、先に奥様を会食の会場までお連れするよう言われています。社長は会社から直接向かうそうです」 紗月は小さく頷き、それ以上何も尋ねなかった。 車が走り出してからもしばらくは無言のまま、窓の外を流れていく夕暮れの街並みをぼんやりと眺めていた。 静かな車内で何気なく昼間のことを思い返しているうちに、源間たちと歩いていたときに見かけた、どこか見覚えのあるあの車がふと脳裏をよぎる。 あのときは気のせいだと思い、それ以上深く考えなかった。それでも今になって思い返すと、なぜか妙に引っかかった。「久我さん。今日、社長はずっと会社にいたんですか?」「それは……」 何気なく尋ねただけのつもりだった。久我がほんの一瞬、言葉を詰まらせたことで、紗月はかえって彼の反応を意識してしまう。 ためらいと呼ぶにはあまりにも短い沈黙だった。それでも、妙な引っかかりを覚えるには十分で、胸の奥が理由もなくざわつい
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第202話

「貸し切り……」 慎一の言葉の意味がすぐには飲み込めず、紗月は小さな声でその言葉をもう一度繰り返した。 聞き間違えたわけではないと分かっていても、どうしてそこまでする必要があるのか理解できず、その顔には隠しきれない戸惑いが浮かんでいる。 似たような場面なら、ドラマの中で何度か見たことがあった。 裕福な人物が愛する相手を喜ばせるために、あるいは好きな人と誰にも邪魔されず二人きりの時間を過ごすために、大金を惜しげもなく投じて店を丸ごと貸し切る。 物語の中なら、それなりにロマンチックな演出として受け入れられたのかもしれない。 いざ同じことが自分の身に起きてみれば、紗月にはあまりにも現実離れした行為にしか思えなかった。 驚きこそすれ、胸を打たれることなど少しもない。 まして今の自分と慎一は、そんな特別な時間を過ごすような関係ではないのだ。「どうして……?」「何だ。気に入らないのか?」 思い描いていたものとは違う反応を返されたのか、慎一はごくかすかに眉を寄せた。 紗月の戸惑った顔をしばらく見つめたあと、何かを誤魔化すようにわずかな沈黙を挟み、もっともらしい理由を口にする。「ここは会員制だが、俺の顔を知っている人間が来ないとは限らない。せっかくお前と食事をするのに、途中で余計な人間に邪魔されたくなかった。それだけだ」 その説明なら、紗月にもまだ納得できた。 慎一ほど顔の知られた人間なら、食事中に誰かから声をかけられることもあるのだろう。 紗月は小さく頷き、それ以上尋ねることはしなかった。 慎一と二人きりになったところで、積極的に話したいことがあるわけでもない。 前菜が運ばれてくるまで、窓の外へ顔を向け、眼下に広がる煌びやかな夜景を眺めることにした。 高層階から見下ろす街には無数の明かりが散りばめられ、遠くまで続く光の海が夜の闇を鮮やかに彩っている。 ぼんやり眺めているつもりだった紗月も、いつしかその美しさに目を奪われ、時間を忘れるように物思いへ沈んでいた。 スーツを思わせる端正な制服に身を包んだスタッフが、前菜と赤ワインを静かに運んできたことで、紗月はようやく我に返った。 何気なく顔を戻した瞬間、正面から慎一の視線とぶつかる。 どうやら彼は、紗月が夜景に見入っているあいだも、ずっとこちらを眺めていたらしい。 見つめていたことに気
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第203話

 ほとんど会話らしい会話もないままメイン料理を食べ終えると、最後にデザートが運ばれてきた。 紗月と慎一のワイングラスは、いつの間にかどちらも空になっている。その瞬間を見計らっていたかのように、今度はシェフ自らが二人のテーブルを訪れた。 料理は口に合ったかと丁寧に感想を尋ね、二人の返事に満足そうな笑みを浮かべたあと、店からのサービスだと言って、それぞれに特製のカクテルを差し出す。 目の前へ置かれた二つのグラスは、見た目からしてまったく違っていた。 どうやら紗月と慎一では、それぞれ異なる味に仕上げられているらしい。 紗月のグラスに注がれていたのは、細かな光の粒を無数に散りばめたような、透き通る美しいピンク色のカクテルだった。 店内の柔らかな照明を受けるたび、グラスの中で淡い輝きが揺れ、宝石を溶かし込んだようにも見える。 慎一の前に置かれたグラスを満たしているのは、それとは対照的な深い青色だった。 暗い夜空に無数の星を散りばめたような深い青色で、わずかに揺れるたびに細かな光がきらめき、グラスの中に小さな宇宙が広がっているように見えた。「こちらの二杯には、お二人がこれからもずっと寄り添っていられますように、という願いを込めました。お二人の愛が末永く、いつまでも幸せに続きますように」 二つのグラスをそれぞれの前へ置き終えると、シェフは心から祝福するような柔らかな笑顔を浮かべ、そう説明した。 店を丸ごと貸し切り、二人きりで食事をしている男女を見れば、恋人同士だと思うのも無理はない。 おそらくシェフも、慎一が大切な女性のために特別な夜を用意したのだと考え、わざわざ二人のためにこんな意味を込めたカクテルを作ってくれたのだろう。 けれど、その祝福は今の二人にはあまりにも似つかわしくなく、紗月は聞いているだけで何とも言えない居心地の悪さを覚えた。「私たちは、そういう関係では……」 誤解されたままにしておくことができず、紗月は反射的に否定しようと口を開く。「ありがとう」 最後まで言わせるつもりはなかったらしい。慎一は紗月の言葉へ重ねるように礼を告げ、穏やかな微笑みを浮かべたまま、その先をさりげなく遮った。 シェフは二人の間に流れたわずかな違和感にも気づかなかったのか、満足そうに一礼してその場を離れていく。 紗月は何か言いたげに慎一を見たものの、彼に
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第204話

 慎一の腕に抱き留められていることさえ、今の紗月にはまともに分かっていないのだろう。 足元はひどく覚束なく、慎一に身体を支えられていなければ、自分一人で立っていることさえ難しそうだった。「平気……」 力の抜けた声で何度そう繰り返されても、慎一の不安が消えることはなかった。 むしろ今にも崩れ落ちそうな紗月の様子を目にするほど、支える腕には無意識のうちに力がこもっていく。 逃がすまいとするように細い身体を自分のそばへ引き寄せ、ほとんど抱えるようにして車まで連れていき、二人で後部座席へ乗り込んだところで、ようやくわずかに身体を離した。 運転席にいた久我は、二人がかなり酒に酔っていることにとうに気づいていた。 すぐに車を降りて数歩近づき、紗月を支えようと手を伸ばしかけたものの、慎一に片手の仕草だけで制され、黙って引き下がる。「社長、奥様。お二人とも大丈夫ですか?」 後部座席へ収まり、バックミラー越しに久我と視線が合うと、慎一は片手を襟元へやり、窮屈そうにネクタイをわずかに緩めた。 酒は確かに回っているはずなのに、口から出た声には普段とほとんど変わらない厳しさがあり、意識も驚くほどはっきりしている。「問題ない……久我、紗月を……いや、俺たちをホテルまで送ったら、今日はもう上がれ」 一度は紗月だけを自宅へ送り届けようとしたのだろう。 名前を口にしたところで慎一はわずかに言葉を止め、考えを変えるように行き先を告げ直した。 指定したのはここからそう遠くないホテルで、慎一が以前から常宿にしており、年間契約でいつでも使える部屋を押さえている場所だった。 行き先が決まると、慎一はどこか気持ちが急いているように、一度緩めていた腕を再び紗月の腰へ回した。 紗月にはもう、周囲の状況をきちんと理解できるほどの意識が残っていないらしい。 耳元で慎一の声が響いても、何かを問い返すことも、拒むこともなく、ただぼんやりと目を伏せている。 車が走り出すと、その揺れに身を任せるように紗月の身体は少しずつ傾いていった。 やがて肩が慎一の胸元へ触れ、そのまま力なく身体を預けてくる。慎一は何も言わずにその重みを受け止め、腰へ回した腕を離そうとはしなかった。 ホテルの駐車場へ到着した頃には、紗月はすっかり慎一にもたれかかっていた。 車を停めた久我が確認するように後部座席を
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第205話

「どうして……こんなに、変なの……」 異常な火照りに頭の芯まで侵されているのか、紗月の思考はひどく鈍っていた。 自分の身体に何が起きているのか考えようとしても、まとまった思考にならない。 慎一はそんな紗月の様子をしばらく見つめたあと、反応の鈍い身体を軽々と抱え上げ、そのまま一緒に車を降りた。 腰を抱え込むようにしっかりと支え、自分の身体へ密着させたまま、最上階へ向かうエレベーターまでゆっくりと連れていく。 歩いている途中も、慎一は何度となく紗月の様子を確かめるように顔を覗き込んだ。 あまりにも距離が近く、身体を支えるために顔を寄せるたび、唇が熱を帯びた頬や唇の端へ触れそうになる。 腕の中にある紗月の体温も、無防備に預けられる柔らかな身体も、酒の回った慎一の理性を容赦なく揺さぶっていた。 それでも、今の紗月がまともに判断できる状態ではないことくらい、慎一にも分かっている。 込み上げる衝動を押し殺すように一度深く息を吐き、彼女の顔を覗き込んだ。「紗月、キスしたくないか?」 耳元でそう尋ねられても、紗月はすぐには反応しなかった。慎一が何を言っているのか、熱に浮かされた頭ではうまく理解できないらしい。 やがて意識を繋ぎ止めようとするように、ぼんやりと小さく首を振る。 今は慎一の問いに答えることよりも、身体の内側から絶え間なく込み上げてくる熱のほうが、ずっと耐えがたかった。「……身体が……熱い……」 苦しげに眉を寄せ、紗月は掠れた声でそれだけを途切れ途切れに訴えた。 慎一は何も答えず、腕の中にいる紗月をじっと見下ろした。 頬に触れたときから、すでにおかしいとは思っていた。熱いのは頬だけではない。抱き寄せた身体からは、服越しにもはっきりと伝わってくるほどの熱が絶えず滲んでいる。単に酒が回っただけで、ここまで激しく身体が火照るとは考えにくかった。 慎一の中では、その原因にもすでに心当たりがあった。今夜口にした料理もワインも、二人ともほとんど同じものだった。唯一違っていたのは、最後にシェフから出された、色も味も異なる二杯のカクテルだけだ。 慎一はわずかに目を細め、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す紗月の熱い頬を、指先でもう一度ゆっくりと撫でた。「……やはり、あのカクテルか」 低く落とされた声には驚きなどなく、むしろ自分の予想が当たったことを確か
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第206話

 気分を高揚させる成分とはいっても、それ自体にさほど強い作用があるわけではなかった。 いわゆる媚薬のように理性を奪うものでもなく、慎一自身は同じカクテルを飲んだにもかかわらず、身体にこれといった変化を感じていない。 今、慎一の感情がこれほど昂ぶっているのは、薬のようなものに煽られたからではなかった。 つい先ほどまで自分を冷ややかに拒み続けていた紗月が、今は力を失い、何の抵抗もできないまま腕の中へ身体を預けている。 その事実だけで、胸の奥に押し込めていた欲が否応なく掻き立てられているのだ。 紗月にこれほど強い反応が現れたのは、おそらく彼女自身の体質によるものなのだろう。 もともと酒をほとんど口にせず、アルコールにも慣れていない。そこへ普段なら身体に入ることのない成分まで重なったせいで、わずかな量にもかかわらず、人一倍強く影響を受けてしまったのかもしれなかった。 慎一は紗月の腰へ回していた腕に、無意識のうちにわずかに力を込めた。 衣服を一枚隔てているというのに、掌には彼女の身体から滲み出すような熱がはっきりと伝わってくる。 夕食をとっていたあいだ、紗月は慎一を前にしても、ほとんど表情を崩さなかった。言葉にも眼差しにも、これ以上近づくことを拒むような冷たさがあり、慎一が何を言っても、どこか醒めた態度を崩そうとはしなかった。 そんな彼女が今はすっかり力を失い、慎一の胸元へ身体を預けている。 頬を赤く染め、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す姿には、普段の張りつめた面影などほとんど残っていなかった。 そのあまりにも無防備な姿が、慎一にはなぜかひどく可愛らしく映った。 普段なら意識したことさえないエレベーターの上昇が、今夜に限っては妙に遅い。 階数を示す数字は確かに一つずつ増えているというのに、目的の階までのわずかな時間がひどく長く感じられた。腕の中から絶え間なく伝わってくる紗月の熱にあてられたかのように、慎一自身の体温までじわじわと上がっていく。 ようやく目的の階へ到着すると、慎一は紗月の身体をしっかりと支えたまま、足早に部屋へ向かった。 カードキーを取り出し、ロックを解除して扉を押し開ける一連の動作にも、普段の彼には珍しいほど隠しきれない性急さが滲んでいる。 紗月を連れて室内へ入り、背後で扉が閉じた。 慎一は足を止めると、紗月の両腕を掴み、その
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第207話

 慎一への想いは、もう自分の手で消したはずだった。 少なくとも、そう信じていた。 それでも、二十年以上にわたる紗月の記憶には、あまりにも深く慎一という存在が刻み込まれている。 幼い頃から積み重ねてきた思い出も、胸を抉るほど苦しかった出来事も、その中にわずかに残された幸福な記憶も、どこを辿っても最後には目の前の男へ行き着いてしまう。 慎一がそばにいるだけで、それらは今夜のように何度でも身体の奥から引きずり出される。そのたび、もう塞いだつもりでいた傷口を再び抉られるように、紗月の心は痛むのだ。「紗月、身体がひどく熱い。苦しくないのか?」 紗月の胸に広がっている苦い感情など知らないまま、慎一はさらに距離を詰めた。もっとも、紗月自身、傷ついたときほどその感情を押し隠す癖がある。何も言わなければ、慎一に気づけるはずもなかった。 逃げ場を塞ぐように慎一の腕が紗月を囲い込み、二人の距離がさらに近づく。 紗月がどれほど感情を押し隠していても、慎一の瞳に浮かんでいるものだけは、隠しようもないほど露わだった。 それを見つめた紗月は、自嘲するようにゆっくりと唇を歪めた。笑ってしまいたかったのに、口元に浮かんだものは、どうしても笑みにはならなかった。 慎一は、本当に紗月の身体へ執着している。 結婚していた頃もそうだった。離婚し、偽りの契約によってもう一度夫婦を演じることになった今も、その一点だけは何ひとつ変わっていない。「慎一……そんなに、私としたいの?」 紗月は低い声で尋ねた。 本人にはそんなつもりなどないのに、カクテルの影響で力の抜けた声は普段よりもずっと甘く、柔らかな響きを帯びていた。慎一の耳には、その掠れた声音さえ、どこか甘い香りを纏っているかのように響いたらしい。「ふっ……そうだな」 慎一は小さく笑った。この場の空気に身を任せるように、否定も誤魔化しもせず、驚くほど素直に認める。「……」「俺たちは夫婦だろう?」 その一言に、紗月はわずかに眉を寄せ、唇を固く結んだ。「私たちは離婚したのよ、慎一」「お前は友人のために、もう一度俺と契約結婚したんじゃなかったのか?」 紗月は再び黙り込んだ。 このまま同じような押し問答を続けたところで、どうにもならない。慎一は引くつもりがないらしく、紗月自身も身体の奥から絶え間なく込み上げてくる異常な熱に苦し
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第208話

 慎一は数秒のあいだ、何かを確かめるように紗月の顔をじっと見つめていた。やがて低く沈んだ声で「分かった」と答える。 紗月を覆うようにしていた身体を離し、ベッドから下りると、まず部屋の主照明を消した。 室内が完全な暗闇に沈まないよう、寝室の片隅に置かれたフロアライトだけを残し、その光も最も弱い明るさまで落としていく。 先ほどまで隅々まで明るく照らされていた室内は、たちまち淡い闇に包まれた。 フロアライトから零れる柔らかな光はベッドの上までほとんど届かず、家具や慎一の姿も、薄闇の中にぼんやりと輪郭を残しているだけだった。 それでも、手を伸ばした先さえ見えなくなるような完全な暗闇ではない。その程度の明るさが、今の紗月にはかえってちょうどよかった。 紗月はベッドへ両手をつき、ゆっくりと上半身を起こしたまま、慎一が明かりを調節する一連の動作を黙って見つめていた。 身体の線へ美しく沿うよう仕立てられた上質なスーツは、ここまで紗月を抱きかかえてきたというのに、今もほとんど乱れていない。 少し距離ができ、室内まで薄暗くなったことで、先ほど間近で見た慎一の瞳の奥に渦巻く、隠しようもない激しい欲望も見えなくなっていた。 薄闇の中に浮かぶ端正な横顔と、どこまでも隙なく整えられた身なりだけを見れば、慎一はいつもと何ひとつ変わらない。 冷静で、余裕があり、誰にも容易には踏み込ませないような堂々とした佇まいをしている。 つい先ほどまで、あれほど露骨な熱を瞳に宿しながら自分を見つめていた男と、同じ人物だとは思えないほどだった。 まして、このあと自分と同じベッドで夜を過ごそうとしている男には、到底見えなかった。 紗月の指が、先ほど慎一に乱された服の裾を無意識に強く握りしめる。 唇を固く結び、自分だけを見据えながら一歩ずつベッドへ近づいてくる慎一を目にしているうちに、言いようのない緊張が胸の奥から込み上げてきた。 先ほどの自分の決断を、早くも後悔し始めていた。 逃げたいと思い、紗月が身体を動かしかけた瞬間、ベッドへ戻ってきた慎一に足首を掴まれた。「あ……っ!」 身体を突然下へ引かれ、紗月の唇から思わず小さな声が漏れる。 体勢を立て直す間もなく、慎一の身体が覆いかぶさり、紗月は再び彼の腕の中へ閉じ込められた。 照明が落とされたせいか、慎一の胸元はひどく暗く感じ
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第209話

 慎一の口づけはひどく性急で、このまま紗月のすべてを貪り尽くそうとしているかのように激しかった。 逃れようとする舌を執拗に追いかけては絡め取り、唇の内側だけでは飽き足らないとでもいうように、身体までも隙なく自分の腕の中へ閉じ込め、わずかな逃げ道さえ与えようとしない。「ん……」 触れていた慎一の手に、さらに強く力がこもったのが分かった。 紗月のドレスはほとんど剥ぎ取られるような勢いで大きく乱され、下着の留め具まで、迷いのない慣れた手つきであっけなく外されてしまう。 何にも遮られることなく素肌へ直接触れてきた掌の熱に、紗月はぞくりと背筋を震わせた。 こうして慎一と身体を重ねるのは、いったいどれほど久しぶりのことになるのだろう。 最後がいつだったのか、紗月にはもうすぐには思い出せなかった。 これまで失われていた時間をすべて取り戻そうとするかのように、慎一は長いあいだ紗月の唇を貪り続けた。 互いの呼吸がすっかり重く乱れ、息を継ぐことさえ苦しくなった頃、ようやく惜しむように口づけを解く。 濡れた唇はそのまま紗月の首筋へ押し当てられ、柔らかな肌を舐め、時折浅く歯を立てながら、ゆっくりと下へ辿っていった。 まるで紗月の身体のどこが敏感なのか、今もひとつ残らず覚えているかのように、慎一は彼女が震える場所を正確に捉え、そこへ繰り返し熱い口づけを落としていく。 もう身体のどこにも、慎一がもたらす熱から逃れられる場所はなかった。 触れられるたび、その感触は肌の表面だけに留まらず、身体の奥深くまで染み込んでくるようで、紗月は内側からじわじわと焼き尽くされていくような錯覚に陥った。 これほど熱を孕み、深い親密さを感じさせる触れ合いは、かつて慎一がまるで復讐でもするかのように紗月を抱いていた頃とは、あまりにも違っていた。 まだ本当の意味で慎一を受け入れてすらいないというのに、その手で触れられ、絶え間なく肌へ口づけを落とされているだけで、紗月は自分という存在そのものが跡形もなく溶かされてしまいそうになる。 身体は堪えきれないように小刻みに震え、与えられる悦びを抑え込む余裕もないまま、途切れることなく押し寄せる感覚に翻弄されていった。 意識まで遠くへ攫われそうになり、必死に呑み込もうとしていた吐息も、いつの間にか熱を含んだ甘い声となって唇からこぼれ落ちている。
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第210話

 慎一が約束したのは、たしかに「一度だけ」だった。けれど、その一度を始めるまでに、彼は手だけで何度も紗月を絶頂へと追い込んだ。 紗月の声が掠れ、繰り返し押し寄せた余韻によって全身がすっかり疲れ果てた頃、慎一はようやく彼女の中へ入ってきた。それからも、すべてが終わるまでには長い時間がかかった。 疲労で意識さえ止まりかけていた紗月は、慎一に抱き上げられ、浴室へ運ばれていくのを朧げに感じていた。温かな湯が火照った身体へ降り注ぐ中、ほとんど眠りに落ちながら、結婚したばかりの頃のほうがまだましだったかもしれないと考える。 あの頃の慎一は、紗月を抱くたびに目的だけを果たそうとするかのように、いつもすぐ本題へ入っていた。今夜のように、身体がもたなくなるほど執拗な前戯を続けたり、余計な愛撫を何度も重ねたりすることなど、一度もなかった。 そんなことをぼんやり考えているうちに、紗月の意識は深い眠りの底へ沈んでいった。身体があまりにも疲れきっていたせいか、眠りは驚くほど深く、夢ひとつ見ないまま夜が過ぎた。 目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。 いつの間にか身体には寝間着が着せられており、紗月は慎一の腕の中へすっぽりと抱き込まれていた。「起きたか?」 紗月がわずかに身じろぎした気配を察し、慎一が声をかける。 驚いて顔を上げると、慎一はすでに目を覚ましていた。片手にはタブレットが握られ、その画面には一枚の報告書が映し出されている。しばらく前から仕事をしていたらしく、端整な顔には寝起きらしい気怠さも、眠そうな色もまったく残っていなかった。 紗月は両腕を動かし、慎一の傍から離れようとした。ところが、その動きを見抜いていた慎一の腕に、何でもないことのように引き戻されてしまう。「……っ!」 胸の内に燻る苛立ちを抱えたまま、紗月は仕方なく慎一と視線を合わせた。 慎一はひどく機嫌がよさそうだった。口元にはわずかな笑みが浮かび、紗月を腕に抱いたまま少しだけ顔を伏せると、穏やかな声で告げた。「紗月、一緒に朝食を食べよう」 紗月は何度かゆっくりと瞬きをした。 目を覚ましたばかりで、まだ頭がうまく働いていない。ぼんやりとした視界の中に慎一の顔が映ると、そのまましばらく呆けたように見つめてしまった。 朝食は、ホテルの従業員がワゴンに載せ、部屋まで運んできたものだった。 
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