愛し続けた彼を、私は手放すことにした のすべてのチャプター: チャプター 231 - チャプター 240

267 チャプター

第231話

「え……?」 あまりにも突然だったせいで、紗月は一瞬、言われたことの意味をうまく理解できなかった。 思わず隣へ顔を向ける。 篤司は前方の道路へ真っ直ぐ視線を向け、いつもと変わらない落ち着いた表情で運転を続けていた。 冗談を言っている様子でも、何となく口にしただけのようにも見えない。 その横顔をしばらく見つめてから、紗月はようやく礼を言わなければと思い出した。「……ありがとうございます」「紗月さんの演技には、人の心を動かす力があります。僕は素人だから、姉さんの言葉ほど説得力はないかもしれませんけど……」 一度、言葉を探すようにわずかな間が空く。 篤司自身、こういうことを誰かに伝えるのには慣れていないのかもしれない。それでも途中で誤魔化すことはなく、少し考えたあと、真面目な声音のまま続けた。「一人の観客として、僕は紗月さんの最初のファンになりたいです」 紗月は何度か目を瞬かせた。 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。 篤司もこうしたことを口にするのは初めてだったらしく、言い終えた途端、どこか落ち着かない様子で小さく咳払いをする。 そんな不器用な様子がおかしくて、紗月の口元には自然と柔らかな笑みが浮かんだ。 何より、篤司がこんなふうに真っ直ぐ自分のことを信じてくれている、その気持ちが純粋に嬉しかった。 紗月は胸の奥に広がる温かなものを感じながら、少しだけ背筋を伸ばし、改めて真剣な声で篤司へ告げる。「ありがとうございます、篤司さん。私、頑張りますね……私を信じてくれる、最初のファンのためにも」* 車内には穏やかで心地よい空気が流れており、紗月の気分も久しぶりにすっかり落ち着いていた。 やがて車は、紗月が新しく暮らし始めたマンションの前でゆっくりと停まる。彼女がいつの間にか引っ越していたことについて、篤司は何も尋ねようとはしなかった。余計なことには踏み込まず、ただ紗月が車を降りようとしたところで、ごく自然な調子で声をかける。「紗月さん、今夜はゆっくり休んでください。……おやすみなさい」「おやすみなさい、篤司さん」 紗月は柔らかな笑みを浮かべたまま車を降りた。 ドアを閉めたあともその場に少しだけ立ち止まり、車外から篤司へ手を振る。篤司の車が夜道の向こうへ遠ざかっていくのを見届けてから、マンションへ入ろうと振り返った瞬間、エントラン
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第232話

 またしても、契約を盾にした脅しだった。 慎一はまるで、この契約そのものが紗月の望んだものだと決めつけ、頑なにそう信じ込んでいるようだった。 そもそも最初に契約夫婦という形を持ちかけてきたのは慎一のほうで、それも自分の会社の評判を守るためだったことなど、今ではすっかり忘れてしまったかのように。 後になって、紗月が慎一へ頼らざるを得ない事情を抱えたのは事実だった。 それでも、あまりにも都合よく重なった一連の出来事は、今思えばまるで慎一が最初から仕掛けていた罠のようにも感じられる。 紗月にはほかの道を選ぶ余地など残されていなかった。 逃げ場を失い、自分からその中へ身を投じるしかなくなっただけなのに、いざ契約を交わしてしまえば、すべてが紗月自身の望みだったかのように扱われる。 どれほど理不尽だと思っても、今さら誰かに訴えたところでどうにもならない。 連日の忙しさと慎一とのやり取りで積み重なった疲労は、もう紗月から考える力まで奪いかけていた。これ以上、同じことを何度も説明し、理解してもらおうとする気力さえ残っていない。「慎一、篤司さんは私の友達よ。あの契約に署名した以上、決められたことはきちんと守る。でも、あなたも何度も何度も私の邪魔をしないで」 紗月はできる限り感情を抑え、十分に真剣なつもりで告げた。 それでも慎一には、その言葉の意味がまるで伝わっていないらしい。 彼の耳には、紗月が篤司を庇い、必死に言い訳をしているようにしか聞こえていなかった。「なんだ。そんなにあの男が好きなのか?」 慎一は冷えきった目で紗月を見つめた。 胸の奥に燻っていた苛立ちを、そのまま彼女へぶつけるように。「それとも……もう寝たのか?」 紗月の表情がわずかに強張ったことにも構わず、慎一はさらに言葉を重ねる。「お前は昔から、男なしではいられなかったからな。子供の頃に俺を好きになってから、ずっと俺の後をついて回っていただろう」 その言葉を耳にした瞬間、紗月は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。 息をすることさえ忘れたように大きく目を見開き、信じられない思いで慎一を見つめる。 慎一の言う「子供の頃」とは、一体いつからのことなのか。 彼は、いつから紗月の気持ちに気づいていたのだろう。 これまでずっと、自分だけが必死に隠してきたつもりだった想いを、慎一はどこ
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第233話

 紗月も、とうとう堪忍袋の緒が切れた。 頭の奥では、またずきずきと脈打つような痛みが始まっていた。鈍い痛みが一度響くたび、押し殺していた苛立ちまで少しずつ膨らんでいく。 目の前で相変わらず傲慢な態度のまま自分を見下ろしている慎一へ両手を伸ばし、その身体を思いきり押し退けた。「朝倉社長、私たちは契約上の夫婦でしかないでしょう。本当の夫婦じゃない。たとえ私が本当にほかの男性と関係を持ったとしても、あなたに口を出される筋合いなんてない」「紗月、俺たちの契約には、そんなふうには書かれていない」「だったら、そんな契約、撤回すればいいでしょう」 紗月は一歩も退かず、慎一を真っ直ぐに見据えた。 これ以上脅されることも、契約を盾に好き勝手言われることも、もう我慢したくなかった。「賠償を求めるなら、全部払うわ」 その言葉を慎一へ叩きつけるように言い放つと、紗月はほとんど逃げるようにマンションの中へ駆け込んだ。 背後から慎一が追いかけてくるような気がして、足は自然と速くなる。 振り返る余裕もなく、エレベーターを待つ数十秒さえ惜しく感じ、そのまま階段へ駆け込んだ。 息を切らしながら一段ずつ駆け上がり、ようやく自分の部屋まで辿り着く。 玄関の扉を閉め、震える手で鍵をかけた瞬間、紗月はようやく堪えていた息を大きく吐き出した。 張りつめていた糸が切れたように全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。 激しく上下する肩をどうにか落ち着かせながら、冷たい玄関の床へ座り込み、しばらく動くことさえできなかった。 先ほどは腹を立てた勢いのまま、思ってもいないことまで口にしてしまった。 冷静になった今になって思い返せば、あまりにも衝動的だった。 本当に慎一が契約を撤回したらどうなるのか。考えるより先に口から出てしまった言葉の重さが、遅れて胸へ圧しかかってくる。 もし契約がなくなれば、凛子の縁談が再び持ち上がるかもしれない。 その可能性へ思い至った途端、先ほどまでの怒りが一気に引いていき、代わりに言いようのない不安が胸の奥へ広がった。 紗月は慌ててスマートフォンを取り出した。激しく脈打つ胸元を片手で押さえながら、凛子の名前を探し、そのまま電話をかける。 呼び出し音が一度鳴りきるよりも早く、凛子はすぐに電話へ出た。 受話口の向こうから聞こえてきたのは、いつもと変わら
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第234話

 凛子が約束してくれたおかげで、眠りにつく頃には、紗月の胸に残っていた不安も随分と和らいでいた。 このままなら、もう少しで撮影が始まってからの日々を思い描き、素直に楽しみにできそうな気さえしていた。 しかし翌朝、目を覚まして何気なくスマートフォンを確認した瞬間、昨夜ようやく取り戻したばかりの穏やかな気持ちは、あっけなく打ち砕かれた。 画面には、源間と千春から何件もの不在着信が残されていた。 その名前を目にした途端、理由も分からないまま心臓が大きく脈打ち始める。胸の奥がざわつき、昨夜ようやく落ち着いたはずの不安が、再び自分の意思とは関係なくじわじわと込み上げてきた。 源間からの電話だけなら、まだここまで胸騒ぎはしなかったかもしれない。 けれど、千春からも何度か着信が入っている。 しかも時刻を確認すれば、どちらも午前四時から五時頃だった。 普段ならまず電話をかけてくるはずのない、あまりにも不自然な時間だった。 紗月はスマートフォンを握ったまま、しばらくベッドの端に座り込んでいた。何かよくないことが起きたのではないかという予感ばかりが胸の内で膨らみ、じっとしているほど落ち着かなくなっていく。 しばらくしてようやく意を決し、折り返しの電話をかけた。 最初に源間へ電話したものの、呼び出し音が続くだけで、彼は出なかった。 余計に嫌な予感が強くなり、紗月は続けて千春へ電話をかける。 今度は、まるでずっと紗月からの連絡を待っていたかのように、ほとんど間を置かずに電話が繋がった。「千春先生、すみません。今起きたばかりで……。あの、着信が残っていましたけど、何か急用ですか?」「ああ、紗月。その……源間から、もう話は聞いた?」「まだ源間監督とは連絡がついていません」 電話の向こうにいる千春は、どうやら外にいるらしかった。 車の走る音や、人の話し声らしきものが遠くで混じり合い、時折、雑踏のようなざわめきまで聞こえてくる。 千春の声には、普段にはない迷いがはっきりと滲んでいた。 何かを伝えなければならないのに、どこまで話していいのか決めかねているような、慎重な間が何度も挟まる。 紗月は黙ったまま、その続きを待った。 しばらくして、千春はようやく言葉を選ぶように口を開く。「紗月、源間は今、少し立て込んでると思うから、しばらく連絡がつかないかもしれ
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第235話

 最初の報道へ便乗するように、その後も数えきれないほどのアカウントが次々と現れ、源間の新作ドラマにまつわる「内幕」を暴露し始めていた。 どの記事も投稿されたのは深夜から明け方にかけてで、時刻を追って確認してみれば、ちょうど源間と千春が紗月へ何度も電話をかけていた、その少し前の時間帯に集中している。 紗月にも、いったい何が起きているのか分からなかった。 どの記事にも「友枝紗月」という名前が直接書かれているわけではない。 それでも、そこで繰り返し取り上げられている人物が誰なのかは、少し事情を知っている者ならすぐに分かる内容だった。 源間の新作ドラマへの出演が決まった、ほとんど無名の新人女優。 演技を専門的に学んできた経歴もなく、芸能界で目立った実績もないまま、突然主要キャストの一人へ選ばれた女性。 以前、立花監督の映画のオーディションに合格しながら、自ら出演を辞退したことまで、記事にははっきりと書かれていた。 事実と虚偽が、悪意をもって巧妙に織り交ぜられている。 完全な作り話なら、紗月もまだそう言い切ることができたのかもしれない。けれど、そこには外部の人間なら簡単には知り得ないはずの情報まで含まれていた。 書いた人間は、紗月についてかなり詳しい事情を知っている。 そう気づいた瞬間、背筋に冷たいものが這い上がるような恐怖を覚えた。 記事では、その新人女優が身体を売ることで役を手に入れたのだと、まるで確認済みの事実であるかのように断定されていた。 源間についての内容は、さらに酷かった。 業界での立場や、自分が握っている仕事を利用し、出演を望む女優たちへ肉体関係を強要している。新作を撮るたびに外部から出資者を積極的に募ろうとしないのも、第三者の目を遠ざけ、自分の欲望を好きなように満たすためなのだと激しく非難されている。 源間の作品へ出演する女優たちは、彼が自分のために作り上げた「ハーレム」の一員にすぎない――。 あまりにも荒唐無稽な内容だった。 それなのに、記事の文章には一切の迷いがなく、すべてを直接見聞きしてきた人間が告発しているかのような確信に満ちていた。 事情を知らない人々にとって、その強い言い切り方は十分な説得力を持ってしまったのだろう。 源間の人柄も、これまでの仕事ぶりも知らない人間たちが次々と記事の内容を信じ、周囲の空気に便
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第236話

 凛子も、本当はひどく焦っていた。 記事を見つけた瞬間には深く考える余裕もなく、ほとんど反射的に紗月へリンクを送り、いったい何が起きているのかと尋ねてしまったのだ。 それでも、自分がこれから何をするべきかを決めると、凛子はもう一度「あまり心配しないで」と紗月を励ました。 その声にはまだ焦りが残っていたものの、少しでも紗月を安心させようとしているのが分かる。 そのまま慌ただしく電話を切ると、凛子はすぐに報道関係の知人たちへ連絡を取るため動き始めた。 通話が途切れ、部屋の中に再び静寂が戻る。 紗月は、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中に一人で立っていた。 スマートフォンをゆっくり下ろしたところで初めて、自分の手がずっと小刻みに震えていたことに気づく。 指先だけではなかった。 気づかないうちにその震えは腕へ、肩へ、身体の奥へと広がり、今では全身がかすかに強張っていた。 恐怖なのか、悔しさなのか、それとも怒りなのか。 一つひとつ名前をつけることさえできないほど多くの感情が、濁流のように押し寄せ、身体の隅々まで呑み込んでいく。 紗月は何もできないまま、静まり返った部屋をぼんやりと見つめていた。 その時、ふと胸をよぎるものがあった。 ――この感覚を、以前にも知っている。 どこだっただろう。 いつだっただろう。 すぐには思い出せず、紗月はしばらく立ち尽くしたまま記憶を辿った。 やがて、遅れて記憶のほうから追いついてくるように、一つの光景がゆっくりと脳裏へ浮かび上がる。 プロジェクトの発表を控えていた、あの日だった。 長い時間をかけて準備を重ね、十分な自信を持って慎一の会社へ向かった。 自分ならできると信じていた。 これまで積み重ねてきたものが、ようやく形になるのだと思っていた。 それなのに、会社のエントランスで待ち構えていた警備員に呼び止められ、訪問許可がないと告げられた。 その時点では、まだ何かの間違いなのだと思っていた。 けれど、そうではなかった。 長い時間をかけ、何度も修正を重ね、必死になって仕上げたプロジェクトは、無情にもほかの人間の手へ渡されていた。 積み重ねてきた期待も、努力も、そこで費やした時間も、すべてが一瞬にして灰になった。 最後に残ったのは、「裏切り」という言葉だけだった。 それが何の前触れもなく目の
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第237話

 もし本当に慎一が何かしたのだとしたら、昨夜から今朝までのわずかな時間で、これだけの騒ぎを起こしたことになる。 慎一なら、それくらいのことはできる。 そう思えてしまうこと自体が、紗月には何より苦しかった。 慎一の動きは、本当に早い。 紗月はそう思わずにはいられなかった。 震える指で連絡先を開き、慎一の名前を押そうとした。その時になって初めて、頬に冷たい感触があることに気づいた。 どうして濡れているのか分からず、紗月はぼんやりと手の甲で頬を拭う。 そこには、自分でも気づかないうちに流れていた涙が、はっきりと残っていた。 泣いているつもりなど、少しもなかった。 もう慣れたと思っていた。 何も感じていないつもりだった。 それでも身体だけは、紗月が自分で思っているよりもずっと正直に、傷ついていた。* 慎一は忙しいらしく、紗月が何度か続けて電話をかけて、ようやく気怠そうに応じた。 すぐに出なかったのは、わざと紗月を焦らせるためなのか。それとも、ここ数日ずっと自分の電話を無視されていたことへの、慎一なりの仕返しなのか。「何だ」「……あなたがやったの?」 受話口から聞こえてきた慎一の声は、機械を通したせいか、普段よりもさらに冷たく、感情の温度を失っているように聞こえた。 紗月は挨拶もせず、長々と問い詰めることもなかった。 ただ、押し殺した低い声で、それだけを尋ねる。 それはもう、質問というより、紗月の中ですでに形になりかけている結論を確かめるための言葉に近かった。 慎一は、何を聞かれているのか分からないとでも言いたげに、すぐには答えなかった。 一拍遅れて聞こえてきたのは、紗月にとってあまりにも聞き慣れた、冷ややかな笑いだった。 それでも、肝心の問いには答えようとしない。「どうした、紗月。昨日は契約を解消すると言っていたくせに、今朝はこんなに早くから電話してきて。もう後悔したのか?」「……」 紗月は下唇を強く噛みしめた。 たとえ電話越しであっても、慎一と言葉を交わしているだけで、身体の奥から激しい拒絶感と疲労が込み上げてくる。 いかにも慎一らしい、皮肉と傲慢さに満ちた言葉だった。 昨日までの紗月なら、そんな言い方に腹を立て、すぐに何か言い返していたかもしれない。 今はもう、そのための気力さえ残っていなかった。 怒ること
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第238話

 紗月が会社へ到着した時、慎一はまだ会議中だった。 一階の受付には、すでに紗月を迎えるために待機している人物がいた。以前にも何度か顔を合わせたことのある、慎一の秘書だった。「奥様、社長より、こちらでお待ちして上までご案内するよう申しつかっております」 慎一が紗月を待たせる場所として指定したのは、自分の執務室ではなかった。 案内されたのは、以前にも何度か使ったことのある、最上階の豪華な休憩室だった。 秘書は紗月を休憩室の前まで送り届けると、そのまま立ち去ろうとした。けれど、数歩進んだところで何かを思い出したらしく足を止め、再び紗月へ向き直る。「奥様。社長から、もしシャワーをお使いになる場合は、クローゼットの中に奥様のサイズに合わせたお召し物と、必要なアメニティを用意してある、とお伝えするように言われております」 シャワー? 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 意味を飲み込んだ途端、あまりにも馬鹿げていると思った。 紗月の顔から、わずかに血の気が引いていく。 何も答えることができないまま、慎一が電話で口にしていた「誠意」という言葉の意味が、嫌でもぼんやりと輪郭を帯び始めた。 まさか。 そう思いながらも、それ以上は考えたくなかった。 少しでも深く考えてしまえば、あまりの滑稽さと惨めさに、胸の奥がまた痛み出してしまいそうだった。 幸い、秘書は慎一の言葉を伝えに来ただけだった。 話し終えてから数秒待っても、紗月が何も答えようとしないのを見ると、余計なことを尋ねることもなく、恭しく一礼してその場を立ち去った。 紗月は一人、休憩室のソファへ腰を下ろした。 室内は静かだった。 広々とした空間には、高級感のある調度品が整然と並び、大きな窓の向こうには街並みが遠くまで見渡せる。 それほど開放的で、息をする場所には困らないはずなのに、紗月には不思議なほど胸の奥が詰まるように感じられた。 待っている間の一分一秒が、やけに長い。 慎一の会議は、なかなか終わらなかった。 紗月は何を考えるでもなく、ソファに腰掛けたまま、ただぼんやりと時間が過ぎていくのを待ち続けた。 時計を何度も確認する気にもなれず、視線だけが意味もなく室内を彷徨う。気づけば、すでに三十分以上が経っていた。 ようやく、休憩室の外からかすかな物音が聞こえてきた。 このフロ
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第239話

 慎一のその声、その態度。紗月が自分のために何かを差し出すのは当然だとでも言いたげな、あまりにも落ち着き払った様子。 それだけで、紗月にはもう十分だった。 やはり、慎一だったのだ。 昨夜、腹を立てた勢いで「契約を解消する」と口にした。その翌日には、まるで見せしめのように自分の仕事が妨害され、今こうして慎一は、追い詰められた紗月が最後には自分のもとへ戻ってくることを当然のように待っている。 自分の機嫌を取るために。 紗月が身体まで差し出して縋ってくると、そう信じて疑っていないのだろう。 そこまで思い至った瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。うまく息を吸うことさえできず、何か重いものに内側から押し潰されているように苦しい。 本当は、慎一へ電話をかけた時から、ずっとつらかった。 違っていてほしかった。 自分が考えすぎているだけで、慎一は何もしていないのだと、どこかでそう信じたかった。 かつて心の底から愛した人が、自分を追い詰めるためなら平然とこんなことまでできる人間だったなんて、認めたくなかった。 何年もかけて慎一へ捧げてきた気持ちも、彼のためならどれほど傷ついても構わないとさえ思っていた自分も、今となってはひどく愚かで滑稽なものに感じられる。 視界が、少しずつ滲み始めた。 紗月が何も答えないことなど気にも留めていないのか、慎一は変わらず余裕に満ちた様子で、向かい側のソファへゆっくりと腰を下ろした。 まるで、あとは紗月が自分から近づいてくるのを待つだけだとでも思っているようだった。 困り果てた彼女が最後には必ず折れ、自分の機嫌を取り、以前のように従う。 そんな確信すら、その表情からは透けて見える。 その姿が、紗月にはたまらなく憎かった。「どうして……そんなことができるの……」 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。 目の奥が熱くなり、今にも涙が零れ落ちそうになる。こんな顔を慎一に見られたくなくて、紗月は咄嗟に俯いた。 泣くようなことではない。 自分は何も悪いことなどしていない。 そう言い聞かせようとしても、胸の奥に広がった痛みだけは、どうしても消えてくれなかった。 何もしていないのに、罰だけはいつも狙い澄ましたように、寸分違わず紗月のもとへ降りかかってくる。 ようやく、もう一度夢を追いかけられると思った。 
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第240話

 紗月は、もうどうしようもないほど激しく泣いていた。 自分だって、こんなふうに泣きたいわけではない。 それなのに涙は少しも止まってくれず、ひとつ零れれば次から次へと溢れてくる。胸の奥に押し込めてきたものが一気に決壊してしまったようで、自分の感情がいったいどこで壊れてしまったのか、紗月自身にも分からなかった。 口では、仕返しをするなら自分だけを狙えばいいと言った。 けれど、実際に起きたことのすべてが、紗月にはあまりにも悔しく、心細く、どうしようもないほどつらかった。 慎一のように絶大な権力を持つ人間へ、自分が敵うはずなどない。 そんなことは最初から分かっている。 自分がどれだけ抵抗したところで、本気になった慎一がその気になれば、いくらでも紗月を追い詰めることができる。 それでも、だからといって、ここまで執拗に自分を追い詰めるのは、あまりにも卑劣ではないかと思った。 離婚さえすれば、すべて終わるはずだった。 慎一の傍を離れさえすれば、これ以上傷つくこともなく、自分の人生を少しずつ取り戻していけるのだと信じていた。 そのために、祖父へ助けを求めてまで、ようやく慎一との離婚を成立させた。 それなのに慎一は、いくらでも別の方法を使って紗月の足を掬い、逃げられないように引き留めてくる。 挙げ句の果てには、再びこんな契約まで結ばされてしまった。 紗月は今、自分がどうしてこれほど弱く、無力なのかということさえ憎かった。 もし慎一が傷つけようとしているのが自分一人だけなら、夢も、未来への期待も、すべて諦めることができた。 自分一人が傷つくだけなら、まだ耐えられる。 仕事を奪われても、何もかも諦めることになっても、それで大切な人たちを守れるのなら、きっと紗月は受け入れていただろう。 けれど、慎一が狙うのはいつも、紗月が大切にしている人たちだった。 自分ではなく、自分が失いたくないものへ手を伸ばしてくる。 だからこそ、何もせずに見過ごすことができない。「源間監督は何も悪くないのに……! あんな記事で監督の名誉まで傷つけて、自分が卑怯だと思わないの!?」 涙に濡れた声で、紗月は必死に慎一を責め立てた。 声は震え、ところどころ嗚咽に途切れてしまう。それでも言わずにはいられなかった。「私に仕返しがしたいなら、私のことだけ記事に書かせればよかった
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