朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた、全身をひどく不快にさせ、理性まで押し流してしまいそうだった。「……慎一」 紗月は恋い慕う相手の名をかすかに口にし、ハンドバッグの中から苦労してスマートフォンを取り出した。 男に電話をかけようとしたその直前、ネットニュースの通知が、十数分前に届いていたことに気づく。 ――新進気鋭の若手女優・綾瀬由衣が、前事務所との契約終了を正式発表。ヴァレンティス・プロダクションへの移籍が決定……。 ヴァレンティス・プロダクション。 それは慎一のグループ傘下にある芸能事務所だった。 そして綾瀬を獲得した人物など、考えるまでもない。彼女の夫である、あの男しかいない。 込み上げる悔しさと嫉妬に、紗月は一瞬、目の前がくらんだ。それでも感情を押し殺しながら連絡先を開き、彼の番号へ電話をかける。 長い沈黙が続いた。 もうこのまま出ないのではないかと、そう思いかけた頃になって、ようやく通話がつながった。「……何だ」 男の声は冷えきっていて、不機嫌そのものだった。まるで紗月からの電話など、ひどく厄介なものだと言わんばかりに。「慎一、私……熱があるみたいで……。帰ってきて、そばにいてくれない……?」 慎一の向こう側はひどく騒がしかった。 熱に浮かされた頭でもわかる。煽るような音楽、歓声、そしてすぐ近くから聞こえるいくつもの声。「社長、朝倉社長、一杯どうですか!」 酒場だった。 騒がしい音と人の気配に満ちたその場所で、電話中だと気づいたのか、酒を勧めていた相手がふいに声を潜め、遠慮がちに問いかける。「……奥さまからですか?」「気にしなくていい」 慎一は鼻
Last Updated : 2026-03-21 Read more