All Chapters of 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで: Chapter 11 - Chapter 20

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10.また今度、の履歴

葬儀が終わったあとの家は、奇妙な静けさを持つ。人が大勢いた時間の熱が、急に抜け落ちている。昼のあいだ絶えず鳴っていた玄関の開閉音も、会話も、湯呑みを置く音もない。代わりに、廊下の奥で時計が秒を刻む音だけがやけに近い。線香の匂いもまだ薄く残っていて、喪服を脱いだあとの身体にまで染みついている気がした。母は泣き疲れて先に横になり、父も明日の細かい確認を終えると、何も言わず自室へ引っ込んだ。リビングの灯りだけが残され、ダイニングテーブルの上には片づけきれなかった書類と、黒縁の香典帳、それから紙袋に入ったままの美里の持ち物が置かれている。和希はしばらく、その紙袋を見ていた。今日一日、ずっと人の前に立っていたせいか、身体のほうは疲れているはずなのに、座ってしまうと逆に眠気が遠のいた。頭の芯が乾いていて、何かひとつでも手を止めると、その隙間から別のものが流れ込んでくる気がする。だから、確認しようと思った。あくまで事務的に。勤務先への連絡に必要なものがあるかもしれない。保険証や社員証、何か手続きに要る情報が入っているかもしれない。そういう理由を先に頭へ並べてから、和希は紙袋を引き寄せた。バッグは昨夜見たときと同じ、黒に近いネイビーの革だった。持ち手を掴むと、体温がないはずなのに、まだ誰かの手の癖だけが残っているような柔らかさがある。ファスナーを開けた瞬間、ふわりと生活の匂いがした。ハンドクリームと、化粧ポーチの粉っぽい匂い。それに、洗った布の清潔さが少し混じる。生きていた匂いだと思った。そう思った途端、和希は一瞬だけ目を閉じた。今日、祭壇の写真や白い花を見ているあいだよりも、こういう匂いのほうがよほど残酷だった。花は死者のために用意される。けれどこれは、昨日までの生活のためにそこにあった匂いだ。中身を一つずつ出す。ポーチ。ハンカチ。小さな鏡。口紅。鍵。財布。どれもきちんと使われていた痕跡がある。財布の小銭入れにはレシートが何枚か折れて入り込んでいて、ドラッグストア、コンビニ、駅ナカのベーカリー。どれも、誰にでもある日常の買い物ばかりだ。その当たり前が、和希にはこたえた。
last updateLast Updated : 2026-03-31
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11.実務の顔をした再会

葬儀が終わって三日目の午後、和希は会社の最寄り駅ではなく、ひとつ隣の駅で降りた。改札を出ると、平日の街は驚くほど普通に動いていた。オフィス街の歩道を、昼休みを少し過ぎた会社員たちが一定の速さで流れていく。コンビニの前には配送トラックが停まり、ビルの一階に入ったベーカリーからは焼いたパンの匂いが漏れていた。つい数日前まで、自分もその流れの中にいたはずなのに、いまは歩幅だけを合わせている別の生き物みたいな気がする。芳人から連絡が来たのは、昨夜だった。長くない文だった。今週、少し時間をもらえないか。妹さんの件で、確認したいことがある。それだけだった。ねぎらいの言葉はなく、会いたい理由も感傷には寄っていない。そのことに和希は腹が立ち、同時に断りきれなかった。昔の関係の残り火みたいなものが、たしかにどこかに残っているのかもしれない。けれどそれだけではなかった。葬儀の場で、芳人が何かを見ていたことを、和希はちゃんと感じ取っていた。親族の断片的な会話や、受付の紙の束や、美里の死因を曖昧に包む空気。あの男は、慰めに来た顔ではなく、別の顔でそこに立っていた。それが気に食わないまま、和希は指定されたホテルラウンジへ向かった。高層ビルの一階に入ったラウンジは、平日の昼間でも音が抑えられていた。グラスの触れ合う音も、コーヒーカップをソーサーへ戻す音も、小さく丸められて空調の中へ溶けていく。座席のあいだは広く取られ、濃い色の木のテーブルは角が少しだけ丸い。窓際から差し込む光も柔らかく、何もかもが整いすぎていた。こういう場所は、いまの自分に向いていないと思う。向いていないのに、芳人はこういう場所を選ぶのだと、和希はどこかで納得していた。先に来ていた芳人は、窓際ではなく壁際の席に座っていた。喪服ではない。だが濃紺のスーツはやはり暗く、そこだけ見れば葬儀の延長みたいにも見える。ネクタイは黒ではなく、ごく深いグレー。髪も襟元も乱れがない。喪の場を離れた途端、社会へ戻る人間の輪郭だった。和希が近づくと、芳人は立ち上がりかけて、結局軽く会釈だけした。「来てくれて助かる」その言い方に、余計な熱は
last updateLast Updated : 2026-04-01
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12.まだ火にはならない

芳人と別れたあと、和希はまっすぐ実家へ戻った。寄り道をする気にはなれなかったし、会社へ戻るという選択肢も、最初から頭になかった。駅のホームで電車を待つあいだも、車内でつり革を握っているあいだも、芳人の声だけが妙にきれいに頭の中へ残っている。何か見つかったら、すぐ教えろ。気のせいで済ませるな。それは脅しでも忠告でもなく、ただ事実のように置かれた言葉だった。だからこそ和希は腹が立ったし、同時に、振り払えなかった。実家の最寄り駅へ着くころには、もう夜になっていた。街路樹の影が歩道へ薄く落ち、住宅街の窓のいくつかには食卓の灯りが見える。どこかの家から風呂の湯気が漏れてくるような匂いがして、犬の首輪が小さく鳴る音がした。何も特別ではない夜だ。その何でもなさが、かえって今の自分には遠かった。玄関を開けると、家の中は静かだった。母はもう休んでいるらしい。父もリビングにはいない。廊下の先でテレビの音がごく小さく聞こえ、すぐに消えた。靴を脱ぎ、和希は自分の部屋ではなく、客間として使っている和室のほうへ入った。仏間に近いその部屋は、今夜だけは遺品や書類を一時的に置く場所になっていた。押し入れの前に低い座卓があり、その上に香典帳、病院からの書類、葬儀社の封筒、それから美里のバッグと財布とスマートフォンがまとめて置かれている。昼間の光の中で見るより、夜の部屋の中のほうが、それらはずっと私的なものに見えた。和希は上着を脱ぎ、座卓の前へ座った。エアコンの風は弱く、障子の向こうで時々車が通る音がする。部屋の灯りは天井のひとつだけで、白すぎない色なのに、テーブルの上のものだけは妙にはっきり見えた。美里のスマートフォンの黒い画面。バッグの持ち手の曲がり方。財布の革の細かな擦れ。どれも、さっきまで使っていた物の顔をしている。芳人の言葉が、そこでまた戻ってくる。本当に何かあったのか。金のことか。相談先か。おかしいものは、美里の周囲に残っているのか。そう考え始めると、和希の視線は自然とテーブルの端へ動いた。前にバッグを見たとき、意味が分からないまま伏せて置いた白い
last updateLast Updated : 2026-04-02
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13.まだ生活の途中だった部屋

鍵は、美里の遺品の中にあった。管理会社には事前に連絡を入れてあり、警察での確認も済んでいる。部屋へ入ること自体は、もう何の問題もない。形式の上では。和希はその形式だけを頼りに、美里の住んでいたマンションの共用廊下を歩いた。平日の昼過ぎだった。東京の空は薄く曇っていて、外廊下の手すり越しに見える隣のマンションの窓も、どれも色が少ない。洗濯物が何枚か揺れ、どこかの部屋から掃除機の音がかすかに響いてくる。生活の音だった。何の特別さもない、平日の途中の音。和希は足を止めた。ドアの前に立つと、表札のない無機質な金属板と、ドアスコープと、郵便受けの細い口だけが見える。そこに美里の名前はない。けれど鍵穴の位置だけが、急にひどく私的に見えた。ここが本当に、美里の帰る場所だったのだと、その小さな穴が告げているような気がする。和希はポケットから鍵を出した。透明な保管袋から移し替えたあとも、キーホルダーにはまだ警察の細い紙札が巻かれている。美里が選んだのだろう、小さな無地の革片がついただけの、飾り気のない鍵だった。和希はそれを鍵穴へ差し込み、少し迷ってから回した。乾いた音がして、錠が外れる。それだけで終わりではないのに、扉の向こうに何かが待っている気配だけが先に和希の胸を圧した。片づけなければならない。そう思って来た。賃貸なのだから、いずれ荷物は出さなければならないし、生活の痕跡を整理しなければならない。今日はそのために来たのだと、何度も頭の中で繰り返してきた。扉を押し開ける。空気は思ったより澱んでいなかった。窓を長く閉め切った部屋の重さはあるが、腐った匂いではない。洗った布の匂いと、化粧品の甘すぎない香り、それに冷蔵庫の冷気が混ざったような、若い女の一人暮らしの部屋の匂いがした。死の匂いではなく、生活の匂いだった。和希は玄関の上がり框のところで、しばらく立ったまま動けなかった。靴をどこで脱ぐのか、一瞬迷った。妹の部屋なのに、そういうことさえ自分は知らない。来たことがないわけではない。引っ越した直後に一度、荷物の少ない部屋へ顔を出したことはある。けれどそれ以来、上がり込んだことはほとんどなかっ
last updateLast Updated : 2026-04-03
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14.兄さんへ、と書かれたページ

ノートの表紙にかかった指が、しばらく動かなかった。部屋は静かだった。冷蔵庫の低い音と、外を通る車の気配だけが、遠くで薄く続いている。机の前の椅子に座ったまま、和希は膝の上に置いたノートを見下ろした。表紙のグレーは、少し擦れて白っぽくなっている。大学ノートでもなく、高価な手帳でもない、どこにでもある紙の束。その軽さがかえって不気味だった。開けばいいだけだと思う。ただの家計メモかもしれない。買い物の記録かもしれない。仕事の走り書きかもしれない。そうだったらそれでいい。そうだったら、自分はいま考えすぎているだけだと笑えるかもしれない。けれどその「かもしれない」の奥で、違うかもしれないという感覚がじっと動かない。テーブルの上に広がった部屋の匂い、冷蔵庫の中の中途半端な食材、化粧水の残量、洗いかけのコップ。そういう生活の途中に、このノートも置かれていた。生活の延長に見えるものほど、そこへ別のものが紛れていたときの痛みは深い。和希はようやく表紙を開いた。最初のページには、何でもないメモが並んでいた。ドラッグストアで買うもの。洗剤、ティッシュ、乳液。下のほうに、駅前のクリーニング店の営業時間が走り書きで書いてある。次のページには、銀行の暗証番号ではないらしい数字の並びと、誰かの電話番号らしいもの。別のページには、会議の日付、取引先の名字、付箋に書き写したような短い言葉。どれも、美里が生きていた時間の断片でしかない。和希は少しだけ息を吐いた。何でもないノートなのかもしれない。そう思いかけて、次のページをめくる。そこにも、雑多な文字がある。美容院の予約候補日、ネット通販の注文番号、冷蔵庫に入っているもののメモらしい短い単語。字は美里のものだ。少し右上がりで、急いで書いたときには線が細くなる。兄として何度も見てきたわけではないが、年賀状や置き手紙で知っている癖だ。また一枚めくる。そこに、いったん空白があった。前のページまでの雑多な走り書きがふいに途切れ、半ページほど、何も書かれていない部分がある。そこで和希の指が止まる。空白の下に、次の文字がある。兄さんへ大き
last updateLast Updated : 2026-04-04
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15.守られていた兄

和希は、止まった指をもう一度だけ動かした。紙の端を押さえて、次の行を追う。指先は乾いているのに、ページの感触だけが妙に湿って思えた。実際に湿っているわけではない。ただ、ここから先に書かれているものの重さが、紙そのものの温度を変えているような気がした。「最初は、助けてもらえると思った」和希はその一文の下を見つめたまま、しばらく息を止めていた。最初は。その言葉があるということは、その先で何かが変わったということだ。助けだと思っていたものが、違うものへ変わった。そこまで理解した瞬間、机の上に伏せてあった白いカードや、美里のスマートフォンに残っていた見慣れない通知の名前が、急に同じ方向を向き始める。和希は唇を湿らせ、続きへ目を落とした。「ひとりで抱えてきたんですねと言われて、泣いてしまいました。責めませんと言われて、少しだけ楽になりました。苦しいのに悲しいと言う資格もないと思っていたから、苦しいですねと言われただけで、もう駄目でした」そこまで読んで、和希は目を閉じた。苦しいですね。その程度の、誰でも言えるような言葉で、美里は救われかけたのだ。誰にも言えないことを抱えている人間にとって、責められず、否定されず、苦しいものとして受け取られることがどれほど甘いか、和希には想像できる気がした。むしろ想像できてしまうから、その先が怖かった。ノートへ戻る。「罪悪感だと言われて、やっと自分の苦しさに名前がついた気がしました。見送れていないものがあると言われて、そうなのかもしれないと思ってしまいました。私は弱いだけじゃなくて、ちゃんと向き合えていないから苦しいのかもしれないと思いました」和希の喉の奥がひりつく。苦しさに名前をつけられることは、救いにもなる。けれどそれが間違った名前だったら、そこから先は全部、その名前に引きずられていく。美里はたぶん、その最初の甘さに掴まれたのだ。弱いから苦しいのではない、向き合っていないから苦しい。そう言われたら、きっと真面目な人間ほど、自分の苦しみの責任を自分へ返してしまう。
last updateLast Updated : 2026-04-05
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16.ノートを持って会いに行く

ノートを胸に抱えたまま、和希はしばらく床から動けなかった。どれくらい時間が経ったのか分からない。冷蔵庫の低い音と、外を走る車の気配だけが断続的に聞こえる。カーテンの隙間から入っていた曇った午後の光は、少しずつ色を失い、机の上の影だけが長くなっていた。ノートは軽いはずなのに、腕の中で妙に重かった。ただの紙の束ではない。美里の最後の声だ。兄さんへ、と書かれた文字。会いたかった。助けてほしかった。でも言えなかった。その全部がこの数十枚の紙に押し込められている。遺書と言い切ってしまえばまだ形がある。けれどこれは、便箋でも封書でもなく、生活の途中にあった普通のノートだった。買い物メモや電話番号の続きに、迷いながら書かれた告白が続いている。その生々しさが、和希にはひどくきつかった。本当なら、誰にも見せたくなかった。自分だけで抱えればいいと思った。兄なのだから。最後まで守られていたと知ってしまった以上、せめてこのノートくらいは自分ひとりで受け止めなければならないのではないか。そういう考えが、何度も頭をよぎる。だが同時に、自分だけではもうこのノートの意味を持ちきれないことも分かっていた。美里が何に追い詰められ、どんな言葉で縛られ、どうして自分の名前がその中に出てきたのか。その全体を、自分ひとりの悲しみの中では受け止めきれない。怒りも、ショックも、自己嫌悪も、全部が一度に胸へ詰まっていて、どこから手をつければいいのか分からない。そしてその裂け目の中に、芳人の顔だけが浮かぶ。信頼しているからではない。会いたい相手だからでもない。今いちばん、感情ではなく現実の形でこのノートに触れられる人間が、あいつしかいない。その認識だけが、冷たくはっきりしていた。和希はようやく腕をほどき、ノートを膝の上に置いた。表紙の端に、美里の指の癖みたいなわずかな擦れがある。いまこの部屋の外へ持ち出せば、もう完全に自分だけのものではなくなる気がした。兄へ宛てて書かれた声を、兄以外の人間へ見せることへの罪悪感が、遅れて胸を刺す。「ごめん」誰に向けたのか分からないまま、小さくそう呟いた。
last updateLast Updated : 2026-04-06
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17.敵の輪郭

芳人がノートを閉じたあともしばらく、応接室の空気は動かなかった。法律事務所の夜は静かだった。ブラインドの向こうに街の灯りがあるはずなのに、室内からはそれがただの白い滲みにしか見えない。空調の音がかすかに続き、壁の時計の針だけが等しい速度で進む。和希の前には、閉じられたノートが置かれている。さっきまで美里の声だったものが、今は硬い表紙の下で沈黙している。その沈黙が、かえって重かった。芳人はノートに手を置いたまま、低い声で言った。「相談所。供養。継続的な支払い。やめようとした段階での恐怖の植えつけ。家族の資金への誘導。紹介の要求」言葉が一つずつ、机の上に置かれる。「構造としては明確だ」和希は眉を寄せた。「構造って」その単語だけで、もう腹が立つ。美里の書いたものは、そんな言葉で片づけられるものじゃない。会いたかった。助けてほしかった。でも言えなかった。そういう矛盾した声の集まりだ。それを、相談所だの誘導だの構造だのと、冷たい言葉に置き換えられること自体が耐え難い。芳人は和希の顔を見ていた。反発が来ることを最初から分かっている目だった。「苦しんでる人間を救うふりをして、罪悪感を商品にしてる」それは鋭かった。余計な修飾がないぶん、言葉そのものが剥き出しだった。和希の胸のどこかが、その一文でひどく強く反応する。反応するくせに、すぐには受け入れられない。「やめろ」和希は低く言った。芳人は止まらない。「『兄に頼れ』は、家族を資金源にする誘導だ。『同じように苦しんでる人を紹介しろ』は、被害者を勧誘装置に変えるやり方だ。やめれば供養が止まる、苦しみが長引くと示すのは心理的拘束だ」淡々としている。怒っていない。声も荒げていない。ただ、輪郭だけを正確に言い当てていく。その冷静さが、和希にはほとんど暴力に感じられた。「やめろって言ってるだろ」今度はもう少し強く出た。和希は無意識に身を乗り出していた。「美里のことを、そんなふうに整理するな」ノートへ手を伸ばし
last updateLast Updated : 2026-04-07
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18.契約

芳人の「ただし、無償じゃない」が落ちたあと、応接室の空気がひどく静かになった。空調の風が、ブラインドの隙間をどこかで微かに鳴らしている。壁の時計は秒を刻み続けているはずなのに、その音だけが急に遠かった。机の上には、閉じられたままのノートがある。美里の字で埋まった数ページ。兄さんへ、と書かれた最初の一行。会いたかった。助けてほしかった。でも言えなかった。その全部を飲み込んだまま、いまはただの紙の束の顔をしている。和希は芳人を見た。「……どういう意味だよ」声は低かった。怒鳴る一歩手前の硬さだった。芳人はすぐには答えなかった。目を逸らしたわけではない。ただ、言葉を選ぶための沈黙だった。そこにためらいがあることくらいは、和希にも分かった。だがためらっているから何だという思いも、同じだけあった。「そのままの意味だ」ようやく出た声は、やはり低く平坦だった。和希は反射的に笑いそうになった。笑いではない。喉の奥で、乾いたものがひきつるだけだ。「ふざけるな」その一言で、応接室の温度がまた少し下がる。芳人は座ったままだった。逃げもしないし、取り繕いもしない。「ふざけて言ってるように見えるか」見えないから、余計に腹が立つ。和希は机の端に手をついた。立ち上がるべきか、そのまま殴るべきか、自分でも分からないまま体だけが前へ出る。ノートのすぐ横に、芳人の指がまだ置かれているのが見えた。その距離が耐え難かった。「妹のノート読ませた直後に、何言ってるか分かってるのか」「分かってる」「分かってて言ってるなら、余計に最悪だろうが」和希の声はそこでわずかに掠れた。怒りだけではない。さっきまで美里の文字に触れていた感情の残りが、まだ喉に引っかかっている。芳人はそこで初めて、ほんの少しだけ目を伏せた。「最悪だと思ってる」その返答は短かった。「こんな形で言うのは最低だとも分かってる」それでも言うのか、と和希は思う。
last updateLast Updated : 2026-04-08
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19.契約の続き

芳人の部屋へ向かう道のあいだ、和希は三度、帰ろうと思った。一度目は駅の改札を出たときだった。行き先のマンション名を頭の中で反芻した瞬間、それが現実の住所として輪郭を持ち、足が止まりかけた。二度目はエレベーターの中だった。階数表示の数字がひとつずつ増えていくたび、自分が何をしに行くのかだけが妙に生々しくなった。三度目は、玄関の前に立って、呼び鈴を押す直前だった。それでも、帰らなかった。帰れない、ではなく、帰らないと決めてここまで来たのだと、和希は何度も自分に言い聞かせた。欲望で来たわけではない。好意で来たわけでもない。美里のために動くと決めた。そのために自分は何かを払うのだと、どこかで納得してしまった。払わずに済む側に立つことが、いまの和希にはいちばん耐えがたかった。インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。芳人はもうシャワーも浴びたのか、昼間の事務所で見たときとは違う、濃い色のシャツに細いスラックス姿だった。だが緩んでいるようには見えない。家の中にいても、どこか仕事の延長みたいな整い方をしている。「入れ」短い声だった。和希は靴を脱ぎ、玄関を上がった。部屋の空気は静かで、少し乾いていた。芳人の自宅らしいというより、誰かの生活を余計なものごと削って整えた空間という印象が先に来る。低い書棚に法務関係らしい分厚い本が並び、ダイニングテーブルの上には何も出ていない。間接照明の色味も落ち着いていて、ソファのクッションまで角が揃っている。余計な色が少ないせいで、部屋そのものに逃げ場がない。和希はコートを脱ぎかけて、少しだけ手を止めた。芳人が無言で手を差し出す。その自然さが、和希には腹立たしかった。もっと露骨に見下すか、もっとあからさまに欲しがるか、そういう分かりやすい卑しさのほうがまだ楽だった。丁寧に扱われると、自分が何をしに来たのかの輪郭だけが曖昧になって、余計に苦しい。それでも和希はコートを渡した。芳人はそれを玄関脇のハンガーへかけ、戻ってくる。靴音まで小さい。「水でいいか」和希は一瞬、意味が分からなかった。「…&hell
last updateLast Updated : 2026-04-09
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