All Chapters of 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで: Chapter 51 - Chapter 58

58 Chapters

50.ファイル名

画面の片隅にある小さな名前は、さっきから何も変わっていないのに、時間だけがそこへ吸い寄せられていくようだった。白い一覧の中で、その一行だけが妙に浮いて見える。規則正しく並んだ英数字の列に混じった、手で触れた痕跡。短い。意味を説明するほど整っていない。けれど機械が自動でつけたものではないと分かる程度には、人の迷いが残っている。和希は画面を見つめたまま、まばたきの回数が減っていくのを自分でも感じていた。ファイルが一つ見つかっただけだ。まだ中身は何も分からない。音声とは限らない。そう思おうとするたび、逆に胸の奥の感覚だけが固くなる。芳人は隣で操作を止めていた。さっきまで速く動いていた指が、今はキーボードの上に軽く置かれているだけだった。急かさない。その沈黙が、かえってこの一行の重さを認めているように思えた。和希は喉を一度だけ鳴らした。乾いているのに、唾を飲み込む音がはっきりした。事務所の空気は静かすぎて、呼吸の浅さまで音になりそうだった。「……開けるぞ」言ったのは和希自身だったが、声はひどく低かった。芳人は短くうなずいた。カーソルをその行へ合わせる。クリック一回で済む動作なのに、指先が思うように落ちない。遺書ノートを開いたときと、同じ感覚だった。触れた瞬間、それがただのデータではなくなる。美里が最後に残したものかもしれない、と分かってしまう。まだ見てもいないのに、すでに後戻りできない気配だけが先にある。和希は一度マウスから手を離した。掌に薄く汗が滲んでいる。気づかなければよかったと思うほどではない。ただ、見つけてしまった、と思った。それがいちばん近かった。証拠を発見した、ではない。手柄でも前進でもない。沈んでいたものに、偶然手が触れてしまっただけの感じだった。暗い水の中で、底に沈んだものの輪郭を指先でなぞってしまったときみたいに、知りたくなかった重みが遅れて伝わってくる。和希はもう一度、マウスを握った。クリック。ファイル情報が右側に開く。音声。再生時間は長くない。数分もない、短い記録だった。その
last updateLast Updated : 2026-05-10
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51.兄に頼れ

和希は、再生ボタンの上に置いた指を、しばらく落とせなかった。画面の中では、小さな三角の記号が何の感情も持たずに光っているだけだった。押せば音が出る。たったそれだけのことなのに、その先に待っているものが、もうただのデータではないと分かっていた。ファイル名の短さ。中途半端な日時。送らない、という言葉の置き方。どれもが、これを残したときの美里の孤独を、見なくても伝えてしまっていた。指先が、ようやく下りた。最初に聞こえたのは、ほとんど意味を持たない雑音だった。小さく擦れる音。布が動く気配。机か鞄のどこかに端末を置いたらしい、硬いものへ軽く触れる鈍い音。少し遅れて、空調の低い唸りが奥で続いているのが分かる。人のいる室内だ。静かすぎず、だからといって生活音に紛れるほど気楽でもない。声を潜める必要がある場所の空気だった。和希は、最初の数秒だけで、もう息が浅くなった。作り物ではない。そう分かる。整っていない。録音しようと構えた人間の手つきではなく、迷いながら端末をどこかへ忍ばせたような不安定さがある。その雑な始まりが、かえって痛かった。美里はたぶん、最後までこれを誰かに聞かせるつもりだったのか、自分だけのために残すつもりだったのか、決めきれなかったのだろう。空調音の上から、女の声が滑り込んできた。思っていたよりずっと静かだった。「……お気持ちは、よく分かります」やわらかい声だった。年齢のはっきりしない、聞き慣れた相談員の声色。否定から入らない。最初に必ず相手の痛みを受け止めるふりをする。和希は、その響きだけで胃の奥が縮むのを感じた。御影の言葉と同じ系統の声だった。強くない。だから逃げにくい。録音の中で、紙をめくるような音がした。「でも、ここで止めてしまうのは、あまりにも惜しいんです」少し間があく。「ここまで頑張ってこられたのに、途中で手を離したら、あの子は落ち着く場所を失ってしまいます」和希の肩が、目に見えない何かで強く掴まれたみたいに固まった。あの子。誰を指してい
last updateLast Updated : 2026-05-11
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52.守られていた兄の限界

録音が終わっても、和希はしばらく再生バーの最後の位置を見つめたまま動けなかった。画面の中では、もう何も流れていない。ただ、停止した波形だけが白い窓の中に残っている。事務所の空調は切ってあるはずなのに、耳の奥ではまだ、あの低い空調音と女のやわらかい声が続いている気がした。お兄さまに頼ることも供養です。ここでやめたら、あの子は救われません。巻き込みたくないんです。最後の一言だけが、何度も遅れて胸の中へ落ちてくる。和希は、端末の脇に置いた右手を引けなかった。指先がわずかに震えている。触れているのは冷たい樹脂の縁だけなのに、その向こうにまだ美里の声が閉じ込められている気がして、離したら本当に何かが終わってしまうようだった。呼吸の仕方が分からなかった。吸おうとすると胸の内側が狭くなる。吐こうとすると、喉の奥で何かが引っかかる。泣くのとも違う。息そのものがうまく続かない。肺の浅いところだけが忙しく動いて、肝心の奥まで空気が落ちていかない。こんなふうになるのは初めてではないはずなのに、今はそれが身体の反応だと理解する余裕すらなかった。美里は、本当に最後まで自分を外に置こうとしていた。頼らなかったのではない。頼れなかったのでもない。頼らせたくなかったのだ。兄は関係ないんです。巻き込みたくないんです。あの小さい声は、弱っていたのに、最後までそこだけは手放していなかった。追い詰められて、金を出せと言われて、兄の名前を出せと言われても、美里は庇っていた。もう自分一人では持てないところまで来ていたはずなのに、それでも兄を外へ押し出していた。その事実だけが、和希の中で刃のように冷たく光った。頼られなかった、ならまだ言い訳ができた。自分の知らないところで妹が勝手に閉じていたのだと、どこかで思えたかもしれない。けれど違う。美里は知っていたのだ。兄に言えば、兄は来る。金のことでも、相手のことでも、きっと黙っていない。その結果まで想像したうえで、自分を巻き込みたくないと、最後まで拒んでいた。和希
last updateLast Updated : 2026-05-12
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53.壊したい夜

芳人の部屋へ戻ってからも、和希の耳には録音の声が残りつづけていた。玄関で靴を脱ぎ、廊下を抜けて、いつものように灯りの少ないリビングへ入っても、何も変わらなかった。フロアランプの鈍い光も、整いすぎた家具の輪郭も、静けさも、今夜はひとつも役に立たない。むしろ静かなぶんだけ、美里の小さな声が部屋じゅうに染み出してくるようだった。兄は関係ないんです。巻き込みたくないんです。たったそれだけの言葉が、喉の奥から胸骨の裏へ、何度も何度も落ちてくる。止めようとしても止まらない。録音は終わったのに、終わっていない。女のやわらかい声も、空調の低い唸りも、全部まだ耳の中に残っていて、和希の頭の奥を途切れなく擦っていた。芳人は何も急がせなかった。上着を受け取り、テーブルの上の端末や資料を脇へ寄せ、グラスに水を注ぐ。動きはいつも通り落ち着いているのに、今夜はその静けささえ和希には遠かった。現実の音が全部、薄い膜の向こう側にある。「飲め」低く差し出されたグラスを、和希は受け取らなかった。手が空いていないわけではない。動かせるはずなのに、グラスへ伸ばすだけの動作が、自分のものと思えなかった。立っているのも座っているのも曖昧なまま、リビングの真ん中で呼吸だけが浅く乱れている。芳人がグラスをテーブルへ置く音がした。「風呂に入るか」和希は首を振った。声は出ない。身体を温めたところで何になるのか分からなかった。眠れない。落ち着かない。思考を止めようとしても、止まる場所がない。妹が最後まで兄を庇っていた、その事実だけが、刃物みたいに冷たく頭の中へ立ちつづけていた。芳人が少し距離を取って立つ気配がする。それが配慮だと分かることさえ、今の和希には苦しかった。何もかもが正しくて、何もかもが遅い。「和希」名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かがひどく乱れた。慰められたくない。眠らされるのも嫌だった。優しくされるのも違う。欲しいのはもっと別のものだった。考えるより先に身体のほうを壊してしまうもの。思考も記憶も後悔も全部、追いつけ
last updateLast Updated : 2026-05-13
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54.録音のあとに残る朝

朝の光は、夜より残酷だった。カーテンの隙間から差し込む薄い白が、寝室の壁を平たく照らしている。輪郭だけがはっきりして、熱も逃げ場もない光だった。和希は目を開けたまま、その白さをしばらく見ていた。眠っていたのかどうか、自分でもよく分からない。意識が沈んだ時間はあったはずなのに、休んだ感覚がどこにも残っていなかった。身体の奥には、まだ二つのものが残っていた。録音の中の美里の声。そして、昨夜、自分が芳人に手を伸ばしたときに戻ってきた冷たい静けさ。考えたくないから触れた。壊れたくて、思考より先に身体を使おうとした。なのに、そこで止められた。拒絶されたというより、見抜かれたのだと思う。今の自分が欲しがっていたのは芳人ではなく、崩れることそのものだと。そのことが、眠れない夜の終わりにまで鈍く残っている。和希は寝返りを打たず、ゆっくり息を吐いた。喉が乾いている。胸のあたりも重い。録音を聞いたときの息苦しさは薄れているのに、その代わり、もっと冷えたものが肋骨の裏に沈んでいた。隣に人の気配はなかった。起き上がると、シーツの皺が鈍く広がっている。芳人の体温はもう残っていない。夜のあいだ同じ部屋にいたはずなのに、朝になるとそれが夢だったみたいに遠い。だが、遠いだけで消えてはいない。消えないから、余計に厄介だった。洗面所へ向かう。床が少し冷たい。鏡の中の自分は、目の下に薄い影を作っていた。顔を洗う。水が皮膚に触れても、はっきり目が覚める感じはしない。美里の声は、眠りの外側に置いてきたつもりでも、少し水音が止むだけですぐ戻ってくる。兄は関係ないんです。巻き込みたくないんです。蛇口を閉める。それだけで、静けさがひどく大きくなる。和希は鏡から目を逸らした。自分の顔をまともに見たくなかった。録音を聞いた兄の顔と、昨夜、壊れたくて芳人に縋った男の顔が、同じ輪郭の中に入っているのが耐え難かった。リビングへ出ると、コーヒーの匂いがしていた。芳人はもう起きていて、キッチンに背を向けていた。シャツの袖を肘までまくり、いつもの仕事の顔で動いている。カップを置く音も
last updateLast Updated : 2026-05-14
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55.鳴海芙美子という女

会議室の空気は、妙に乾いていた。弁護士事務所の応接スペースより一段奥にある小さな部屋で、窓は細く、外の光も白く薄かった。壁はくすんだ灰色、机は傷の少ない木目調、椅子は長く座ることを想定していない硬さをしている。中央に置かれた紙コップの水だけが場違いなくらい無防備で、閉まったドアの向こうの気配は驚くほど遠かった。和希は席についてから、ほとんど喋っていなかった。朝の冷えた覚悟だけを持ってここまで来たものの、身体の奥にはまだ録音の余熱が残っている。美里の小さな声。兄は関係ないんです、巻き込みたくないんです。その記憶の上に、新しい証言を重ねるのだと思うと、神経がまた細く尖っていくのが分かった。佐伯は机の端にノートを置き、鳴海と名乗る女の前に紙コップの水をひとつ寄せていた。芳人は和希の斜め横に座り、何も言わずに室内を見ている。その静けさが、今はありがたかった。ドアが閉まってからも、女はすぐには座らなかった。四十代に入るか入らないかくらいの年齢に見えた。黒に近い紺のジャケット、癖のないブラウス、髪も爪もきちんとしている。人前に出るために整えてきたのが分かる。けれど、その整い方だけがかえって痛々しかった。目の下にうっすら影があり、視線がまっすぐ相手へ定まらない。椅子を引く手つきまで慎重すぎて、座るというそれだけの動作に、自分の身体をどこへ置けばいいのか迷っている感じがにじんでいた。「鳴海芙美子さんです」佐伯が簡潔に言った。鳴海は小さく会釈した。声が出ないまま、唇だけがかすかに動く。喉が乾いているのが見て取れた。「無理に急がなくていいです」佐伯はそう言ったが、慰める調子ではなかった。場を甘くしない言い方だった。「ただ、今日は確認したいことが多い。話すなら、なるべく曖昧にしないでください」鳴海は紙コップへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。それからようやく一口だけ水を飲み、机の上に視線を落としたまま言った。「……はい」乾いた声だった。落ち着こうとしているのに、言葉の端だけが少しずつ剥がれていくような声だった。
last updateLast Updated : 2026-05-15
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56.許せない、でも

鳴海のその一言のあと、部屋の空気がわずかに変わった。紙コップのふちを握る女の指先は白くなっている。けれど震えているのは手だけではないらしかった。声の底にある乾いた緊張が、今さら隠しようもなく剥き出しになっている。それでも鳴海は逃げなかった。目を上げはしないまま、自分の言葉の続きを待っているようにも、次に来るものを受ける覚悟を決めているようにも見えた。和希はその女を見ていた。最初は救われたと思っていた。その告白が、嫌悪の輪郭を少しだけ狂わせた。狂わせたからこそ、余計に腹が立つ。最初から悪意だけで回っている仕組みなら、どれだけ楽だっただろうと思う。だが白燈院はそうではない。救われたと思った人間が、救う側の顔を覚え、そのまま次の誰かを運ぶ側へ回っていく。そのねじれが、目の前の女の表情にも出ていた。佐伯が短く言う。「具体的に」鳴海は小さくうなずいた。「相談記録は、相談所だけで止まりませんでした。法要に上げる見込みがある人、継続になる人、途中で離れそうな人、そういう情報は別院にも回ってきてました」「どんな形で」佐伯の問いは平坦だった。「一覧です。最初は、申込状況の確認表みたいな顔をしていました。名前、相談内容の要約、家族構成、支払い履歴、それから……傾向」傾向、という言葉で鳴海は少し息を止めた。「金の出し方の傾向です」和希の指先が机の下で強く組まれる。鳴海は声を落として続ける。「一回でまとまった額を出す人もいれば、少額でも何度も継続する人がいます。家族に言えない人は、自分だけで抱え込むぶん、長く払うことが多いとか。逆に、親族に相談できる人は、最初に強めの提案をしても通ることがあるとか。そういう……」そこで言葉が途切れる。自分が何を言っているか、口に出してから遅れて怖くなるような間だった。「営業資料みたいに、回してたんですね」和希が言った。声は低かった。怒鳴ってはいない。けれど鳴海の肩がその一言だけで小
last updateLast Updated : 2026-05-16
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57.黒瀬徹の手

鳴海が視線を落としたまま黙ると、会議室の空気はさらに薄く乾いた。誰もすぐには次の言葉を入れなかった。机の上には紙コップの水、佐伯のノート、閉じたままの資料ファイル。どれも動かない。けれど、止まっているのは物だけで、部屋の中の緊張だけはじわじわと形を変えていく。さっきまで和希の中で揺れていた怒りは、鳴海の最後の一言を境に、また別の冷たさへ寄りはじめていた。私も、同じことを別の人にしてました。その告白の重さはまだ残っている。だがそれと同時に、和希の意識はもう少し奥へ入ろうとしていた。鳴海のような人間をその位置に置いたものが何なのか。誰が、どうやって、祈りのふりをした仕組みをここまで整えたのか。その輪郭が、今ようやく具体の形で見えかけている。佐伯が低く言った。「会計の中身を話してください」鳴海はすぐには返事をしなかった。だが、さっきまでのように言葉の前で立ち止まり続けることもなかった。観念した人間の静けさが、かえって声を安定させているように見えた。「帳簿は、一つじゃありませんでした」和希はわずかに視線を上げる。鳴海は紙コップから手を離し、机の木目を見たまま続けた。「表向きの会計と、内部で回している一覧が別にありました。普通の供養金や法要料として処理するものと、そうじゃないものを分けてました」「そうじゃないもの、というのは」佐伯が確認する。「簿外のものです。相談所経由で現金化された分、特別祈祷の一部、紹介で入ってきた人の初回分、それから……親族会社へ流す分」その言葉が落ちた瞬間、部屋の温度がまた少し下がった気がした。和希は鳴海の顔を見た。女は視線を合わせない。だが言葉だけは逃がさないまま、さらに奥へ入っていく。「親族会社っていうのは、実体が曖昧なところもありました。印刷、清掃、施設管理、研修委託、そういう名目をつけて請求を回すんです。実際には一部しか動いてないのに、帳簿上はちゃんと出金してる形にして……」「資金移動ですか」「はい」
last updateLast Updated : 2026-05-17
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