雨は降っていなかったが、夜の東京には、濡れた舗道を思わせる光があった。仕事帰りの人波が少しずつほどけていく時間だった。大通りから一本入ると、店の看板は急に減り、代わりに小さな事務所や低いマンションの灯りが静かに並ぶ。派手な音楽も、呼び込みの声もない。信号が変わるたびに、遠くで車の流れが薄く唸り、それがまたすぐに建物のあいだへ吸い込まれていく。長浜美里は、スマートフォンを握ったまま立ち止まった。地図アプリの青い点は、もう目的地の上に乗っている。画面を閉じてもいいはずなのに、指はそこから離れなかった。予約確認メールを開く。件名の下に並ぶ、日時と場所。白燈院 東京相談室。短い案内文。初めての方も安心してお越しください、という、少しも強くない言葉。画面を閉じる。また開く。何度も見た文面なのに、いま改めて読むと、そこに書いてある場所は、自分とは無関係な誰かの行き先のようにも見えた。こんなところへ来る人は、もっと切羽詰まっていて、もっと迷いがなくて、もっと普通ではない人間なのではないかと、さっきから美里は何度目かの考えに戻っていた。目の前の建物は、宗教施設には見えなかった。七階建てほどの細いビルで、一階には小さな設計事務所が入っており、ガラス越しに観葉植物とデスクライトが見える。二階に上がる外階段の脇に、控えめな案内板が立っているだけだった。白地に細い文字で、白燈院 東京相談室。下に、ご予約の方はこちらからお入りくださいとある。どこにも金色の装飾はなく、提灯も、読めない経文も、いかにもそれらしい匂いもない。むしろ、静かすぎるくらい整っていた。それが少し、怖かった。帰ろうと思えば帰れた。駅は歩いて十分もかからない。さっき通り過ぎたコンビニで温かい飲み物を買って、電車に乗って、自分の部屋に戻るだけだ。誰にも見咎められない。ここに来ようと決めたことだって、誰にも言っていない。予約をすっぽかしたところで、困るのは自分だけだ。いや、困るのも、たぶん今夜だけだろう。メールを消してしまえば、何もなかったことにできる。それでも足が動かなかったのは、帰った先にあるものが、結局ここへ来る前の苦しさそのままだと分かっていたからだ。部屋に戻れば、冷蔵庫の低い音がして、洗いきれていないマグカップが流しに残っていて、脱ぎ捨てたままのカーディガンがソファの端に引っかかっている。何
آخر تحديث : 2026-03-25 اقرأ المزيد