Mag-log in同じ東京にいながら、妹を救えなかった。 美里が遺した手記に記されていたのは、新興宗教・白燈院が“救い”の顔で近づき、罪悪感に値札をつけ、祈りさえ搾り取っていく地獄のような仕組みだった。 妹の死の真相を暴くため、和希は再会した幼なじみの弁護士・芳人と手を組む。 だが、その協力は無償ではない。 冷静で、美しく、どこか危うい芳人は、復讐に取り憑かれた和希に容赦なく踏み込み、傷も罪も欲望も暴いていく。 これは、奪われた祈りを取り戻すための復讐劇。 けれどその先で待つのは、断罪か、破滅か、それとも罰ではなく誰かを選ぶための愛か。
view more雨は降っていなかったが、夜の東京には、濡れた舗道を思わせる光があった。
仕事帰りの人波が少しずつほどけていく時間だった。大通りから一本入ると、店の看板は急に減り、代わりに小さな事務所や低いマンションの灯りが静かに並ぶ。派手な音楽も、呼び込みの声もない。信号が変わるたびに、遠くで車の流れが薄く唸り、それがまたすぐに建物のあいだへ吸い込まれていく。
長浜美里は、スマートフォンを握ったまま立ち止まった。
地図アプリの青い点は、もう目的地の上に乗っている。画面を閉じてもいいはずなのに、指はそこから離れなかった。予約確認メールを開く。件名の下に並ぶ、日時と場所。白燈院 東京相談室。短い案内文。初めての方も安心してお越しください、という、少しも強くない言葉。
画面を閉じる。
また開く。
何度も見た文面なのに、いま改めて読むと、そこに書いてある場所は、自分とは無関係な誰かの行き先のようにも見えた。こんなところへ来る人は、もっと切羽詰まっていて、もっと迷いがなくて、もっと普通ではない人間なのではないかと、さっきから美里は何度目かの考えに戻っていた。
目の前の建物は、宗教施設には見えなかった。七階建てほどの細いビルで、一階には小さな設計事務所が入っており、ガラス越しに観葉植物とデスクライトが見える。二階に上がる外階段の脇に、控えめな案内板が立っているだけだった。白地に細い文字で、白燈院 東京相談室。下に、ご予約の方はこちらからお入りくださいとある。どこにも金色の装飾はなく、提灯も、読めない経文も、いかにもそれらしい匂いもない。
むしろ、静かすぎるくらい整っていた。
それが少し、怖かった。
帰ろうと思えば帰れた。
駅は歩いて十分もかからない。さっき通り過ぎたコンビニで温かい飲み物を買って、電車に乗って、自分の部屋に戻るだけだ。誰にも見咎められない。ここに来ようと決めたことだって、誰にも言っていない。予約をすっぽかしたところで、困るのは自分だけだ。いや、困るのも、たぶん今夜だけだろう。メールを消してしまえば、何もなかったことにできる。
それでも足が動かなかったのは、帰った先にあるものが、結局ここへ来る前の苦しさそのままだと分かっていたからだ。
部屋に戻れば、冷蔵庫の低い音がして、洗いきれていないマグカップが流しに残っていて、脱ぎ捨てたままのカーディガンがソファの端に引っかかっている。何も変わらない、いつもの一人暮らしの部屋。そこに入った瞬間、また同じことを考えるだろう。眠る直前まで。あるいは眠れないまま朝まで。
あのときのこと。
口に出せないこと。
誰にも言えないのに、頭の中ではいつまでも形を変えずに残っているもの。
それは、自分の中だけで考えていると、どんどん現実味を増した。罪悪感と呼ぶには、もう少し生ぬるい重さがあった。胸の奥に沈んだ鉛のようで、時間が経っても軽くならない。忘れようとしたぶんだけ、かえって輪郭が硬くなる。
美里はもう一度だけ、建物の案内板を見上げた。
二階の窓には、薄いレースのようなブラインドがかかっている。その向こうに、暖色の灯りがやわらかく滲んでいた。オフィス街の夜にしては、人の生活に近い色だった。冷たい蛍光灯ではなく、湯気の立つ部屋のような、白と木の匂いを想像させる光。
このまま引き返したら、きっとまたしばらくは何もできない。
そう思った瞬間、美里はやっと階段に足を乗せた。
二階までの数段が、ひどく長かった。
扉の前にも、派手な表示はない。すりガラスに細い文字で相談室とだけ印字され、その下に、予約名をお知らせくださいと書かれている。呼び鈴の横に小さな鉢植えがあり、葉の丸い緑が照明を受けて静かに光っていた。手入れが行き届いているのが分かる葉だった。先端が枯れていない。それだけのことなのに、そこに人の気配があった。
美里は息を吸って、指先で呼び鈴を押した。
すぐに足音がして、内側で鍵の外れる音がする。わずかに開いた扉の隙間から、やわらかな空気が流れ出てきた。香りはほとんどない。強いていえば、木の新しい匂いと、清潔な布の匂いがした。
扉を開けたのは、三十代前半くらいの女性だった。ベージュの柔らかなブラウスに、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。きちんとしているのに、威圧感がない。髪は低い位置でゆるくまとめられ、顔立ちはどこにでもいそうなほど穏やかだった。
その普通さに、美里は少しだけ肩の力が抜けた。
「こんばんは」
女性は声までやわらかかった。
「ご予約の方でしょうか」
その問いに返事をしようとして、美里の喉はひどく狭くなった。たったそれだけのことなのに、名前を言うまでに一拍かかった。誰にも言えなかったことを抱えたままここへ来た自分が、名前を名乗った瞬間、何か取り返しのつかない側へ入ってしまう気がしたからだ。
「……長浜、です」
自分の声が思っていたより掠れていた。
女性は表情を変えず、小さく頷いた。
「長浜美里さまですね。お待ちしていました」
待っていました。
その言葉だけで、胸の奥が不意に揺れた。
責められなかったことに、美里はあまり慣れていなかった。もちろん、誰かに露骨に責められたわけではない。ただ、あのことについては、仮に打ち明けたとしても、結局どこかで顔を曇らせられるだろうと知っている。驚かれるか、困られるか、善意の言葉で遠ざけられるか。そのどれかだと思っていた。
だから、まるで予定通りの来訪を迎えるように、自分の名前を受け取られただけで、涙腺の裏が熱くなった。
「どうぞ、中へ」
女性に促されて一歩入ると、足音がふっと変わった。床は硬いタイルではなく、少し柔らかさのある素材らしく、ヒールの音が響きすぎない。白を基調にしながら、壁の一部や棚に明るい木目が使われている。広すぎない空間に、背の低いソファが二脚と、小さな丸テーブル。カウンターの上には受付用の端末があるが、病院のような無機質さはなかった。照明は明るすぎず暗すぎず、顔色を責めない色をしていた。
宗教施設というより、少人数制のカウンセリングルームか、女性向けの相談サロンに近い。
壁に掲げられているパネルを見て、美里は思わず足を止めた。
心の相談。
大切な存在との別れに悩む方へ。
一人で抱えなくていい痛みがあります。
そこに、救済だの浄化だの、強い言葉は書かれていなかった。霊験や奇跡を謳う文句もない。何か超常的なものにすがる場所というより、ただ、話してもいい場所だと言われているようだった。
その控えめさが、美里には都合よかった。
自分は頭のおかしいことをしに来たのではない。
ただ相談に来ただけだ。
ただ、誰にも言えなかったことを少しだけ話しに来ただけだ。
その言い訳を、自分自身に許したかった。
「こちらへどうぞ。少しだけお待ちいただきますね」
受付の女性に案内されて、窓際のソファに座る。クッションは柔らかすぎず、身体を預けても沈み込まない。冷えた指先を膝の上で重ねていると、女性が湯気の立たない白い湯呑みのようなカップを運んできた。
「白湯です。熱くないので、よければ」
白湯。
その選び方まで妙にやさしかった。甘い香りのする飲み物でも、過剰に気遣った高級茶でもない。ただ喉を刺激しない温度の湯。
「ありがとうございます」
そう言って受け取ると、ほんのりとした温かさが指先に移った。冷えていたことに、そのとき初めて気づく。口をつけると、ぬるい温度が喉にすべり落ちた。味はしない。だからこそ、身体の内側だけが静かにほどけた。
受付の女性は、必要以上に話しかけてこなかった。問診票のようなものも今は出されず、名前の確認以外、何も問われない。カウンターへ戻ったあとも、キーボードを叩く音は控えめで、空調の音に紛れてしまうほどだった。どこかで時計が鳴ることもない。静かだが、息が詰まる静けさではない。誰かの小声や紙の擦れる音が、ごく薄く空間に溶けている。
それなのに、美里は急に泣きそうになった。
人のいない場所でなら、もう何度も泣いていたはずなのに、こういうところでは逆に持ちこたえられなくなる。電車の中でも、職場のトイレでも、外ではずっと大丈夫な顔を作ってきた。何でもない声で電話に出て、愛想よく笑って、締め切りの確認をして、コンビニで夕飯を選ぶような顔で生きてきた。
なのに、ここではまだ何も聞かれていない。何も打ち明けていない。ただ座って、名前を呼ばれ、白湯を出されただけだ。
それだけで、ずっと張っていた糸が少し緩む。
たぶん、責められないと分かったからだった。
あるいは、まだ責められていないだけなのかもしれない。それでも、今この瞬間だけは、何かを説明する前にすでに減点されている空気がない。そのことが、かえって苦しかった。
美里は視線を落とし、カップの縁を見つめた。白い陶器の曲線が、灯りを受けて柔らかく光っている。こんなふうに静かな場所に、自分がいていいのだろうかと思う。自分が持っているものは、もっと乱れていて、もっと汚れていて、こういう白い部屋には似合わないはずなのに。
帰りたい、と思う。
同時に、帰りたくない、とも思う。
このまま名前を呼ばれず、ただ座っているだけなら楽なのに、とも思うし、早く誰かに聞いてほしい、とも思う。
矛盾した気持ちが胸の中でせめぎ合い、白湯を飲み下した喉のあたりを行き来する。
もし、話してしまったらどうなるのだろう。
全部ではなくても、一番重いところを少しでも口にしたら、その瞬間、目の前の人の表情は変わるのだろうか。やっぱりそうですか、という顔をされるのか。それは大変でしたね、という優しい声で、けれど心の奥では線を引かれるのか。
それでも、ここまで来た。
その事実だけが、かろうじて美里を座らせていた。
スマートフォンが膝の上でかすかに震えた気がして、慌てて画面を見る。通知はない。幻のような感覚だった。ここ数か月、何かに急かされている気配が身体から抜けなくなっている。支払いの日付、未読のメール、もう見たくない名前、履歴の残る番号。確認しなければならないものばかりだった。
だが今、画面に映っているのは、自分のぼんやりした顔だけだ。ガラスの黒に、白い照明が細く筋を作っている。
兄に連絡すれば、と思わなかったわけではない。
その考えを思い浮かべるだけで、美里の胃の奥は鈍く縮んだ。兄の顔はすぐに浮かぶ。真っ直ぐで、優しくて、だからこそ言えない。もし聞かれたら、きっと困らせる。軽蔑はしないかもしれない。責めないかもしれない。余計に、それがつらい。自分のしたことを、自分より大切に抱えさせるのは嫌だった。
誰にも言えない。
その結論ばかりが先にあり、それでも一人ではもう抱えきれなくて、だからここに来た。
美里はゆっくり息を吐いた。
視界の端で、受付の女性が立ち上がるのが見えた。近づいてくる足音はやはり響きすぎない。
「長浜さま」
柔らかな声で名前を呼ばれ、美里は反射的に背筋を伸ばした。
「お待たせいたしました。ご案内しますね」
立ち上がろうとして、膝が少し重いことに気づく。長く座っていたわけでもないのに、身体のほうが先に緊張しているらしい。カップをテーブルへ戻すとき、指先がわずかに震えた。女性はそれを見ても何も言わなかった。ただ、ごく自然な動作で前を歩き出す。
通路の先には、個室らしい扉がいくつか並んでいた。どれも白い扉に小さなプレートがついているだけで、病院の診察室にも、会議室にも見える。最奥の一室の前で女性が立ち止まり、静かにノックをした。
内側から、どうぞ、という落ち着いた声が返る。
それだけで、美里の心臓がひとつ大きく鳴った。
「こちらへ」
扉が開く。
個室の中も、外の待合と同じように白と木で整えられていた。大きな机ではなく、向かい合うように置かれた一人掛けの椅子と、小さな低いテーブル。窓際には細葉の植物が置かれ、照明はやはり柔らかい。閉じた空間なのに圧迫感がないのは、壁際に余計なものがないからかもしれなかった。
その椅子の向こうに、ひとりの女性が座っていた。
美里と同じように、過剰ではない色の服を着ている。年齢は三十代半ばくらいだろうか。整えられた髪、穏やかな目元、けれどただのやさしさだけではない、相手の顔を見て待つ人の静けさがあった。机も書類の壁もないその距離で、その人は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「こんばんは。秋山と申します」
秋山志保。
その名を聞いた瞬間、美里は、ここまで来てしまったのだと思った。
もう帰れる。いまならまだ、すみません、やっぱりやめますと言って扉を出ていくこともできる。誰にも引き止められないだろう。責められもしないだろう。きっとこの人は最後まで穏やかな顔のまま、どうぞお大事に、と言うだけだ。
それでも、美里の足はその場に止まったままだった。
部屋の空気は静かで、清潔で、やさしかった。
そのやさしさの前で、自分の抱えているものだけが、急に輪郭を持ちはじめる。これまでずっと胸の底で濁っていたものが、言葉になる前の形で、喉のあたりまで浮かんでくる。
この部屋で何かが変わる。
それが救いなのか、もっと深い場所への入り口なのかは、まだ分からない。
ただ、もう何も起きていないふりだけはできないと、美里はその白い部屋の中で初めて思った。
目を開けた時、部屋の中にはもう朝の気配が満ちていた。カーテンは半分だけ開いていて、その隙間から入る白い光が、床とテーブルの縁を静かに照らしている。夜の名残はまだ完全には消えていないのに、空気だけは確かに朝へ傾いていた。和希はしばらく動かず、その薄い明るさを見ていた。隣の気配はもう起きているらしい。シーツの皺の向こうに残る体温だけが、夜がたしかにここにあったことを示していた。小さな音がする。キッチンでカップが触れ合う音。湯が細く落ちる音。床を踏む足音。どれもごく小さいのに、不思議なくらい自然に耳へ入ってきた。以前なら、こういう朝の静けさはどこか居心地が悪かったかもしれない。体温の残り方も、カップの音も、窓から入る光も、どこか自分には早すぎるもののように思えただろう。けれど今は、強い違和感がない。ただ、朝が来ていて、自分はその朝の中にいるのだと、静かに分かる。和希は上半身を起こした。テーブルの上には、飲み終えたカップが二つ置かれている。どちらも底に少しだけコーヒーの色を残したまま、もう役目を終えた顔をしていた。特別な幸福の朝という感じではない。誰かの部屋で、ただ一日が始まりかけているだけの光景だった。芳人は背を向けてネクタイを締めていた。白いシャツの襟元に指を入れ、いつもの手つきで結び目を整える。その横顔は落ち着いていて、夜の余韻をわざわざ確かめようとはしない。和希はその背中を見ながら、胸の奥にある静かな重さを意識した。窓の外の光が、少しだけ強くなる。美里は、こういう朝をもう見ない。その事実が、不意に胸へ落ちた。痛くないわけではない。むしろ、いつでも少しは痛いのだろうと思う。けれど今の和希は、その痛みから目を逸らさなかった。逸らさずに、そのまま胸の内へ置いておける。もういない。それでも朝は来る。そして自分は、その朝をちゃんと生きるしかない。言葉にしたわけではない。けれど気持ちは、自然にその方向へ向いていた。芳人が時計を見て、ジャケットを手に取った。鍵の触れ合う小さな音がする。振り向いたが、長い確認はしない。
ドアが開いたとき、芳人は何も聞かなかった。深夜に近い時間だった。廊下の白い灯りを背に立つ和希を一目見て、ただ身体を半歩だけ引き、入れるための隙間を作る。それだけだった。どうしたとも、何があったとも言わない。和希もまた、言い訳のような前置きはしなかった。靴を脱ぎ、部屋へ入る。芳人の部屋は、前と同じ静けさを持っていた。けれど今夜、その静けさは和希を追い詰めなかった。整いすぎた家具の輪郭、低い灯り、窓の向こうの夜の薄い気配。どれも知っている。知っているまま、前とは違う場所のように見える。芳人はキッチンへ向かった。湯を沸かす、小さな音がする。和希はソファの端に座り、テーブルの木目を見た。自分から来たくせに、喉の奥だけが少し乾いている。ここに来るまでの道で、何度も引き返すことはできた。メッセージだって、送らずに済ませることはできた。それでも来た。今夜は、それで十分だった。マグカップが目の前に置かれる。湯気がかすかに立っている。芳人は向かいではなく、少し離れた位置へ腰を下ろした。近づきすぎない。手も伸ばさない。その待ち方だけで、以前と違うのだと分かる。和希はカップに口をつけた。熱が舌に触れ、喉を落ちる。そのあいだ、芳人は何も言わなかった。沈黙は長かったが、重くはなかった。言葉を急かされないことが、今夜はむしろ必要だった。和希はしばらく視線を落としていた。手の中の熱、部屋の静けさ、芳人の気配。どれも近いのに、奪うような圧がない。そのことに、少しずつ呼吸が整っていくのを感じる。前は違った。最初の夜、自分は払う側だった。妹のため、復讐のため、自分を罰するため、そういう理由を重ねて、自分を差し出した。芳人に触れることも、その熱に沈むことも、全部どこかで代価の形をしていた。苦しい夜には麻酔として使い、壊れそうなときには自分を罰するために求めた。好きだからではない、と何度も言い聞かせながら、結局はその言い訳ごと芳人の方へ落ちていった。今夜は違う。その違いをどう言えばいいのか、さっきまでうまく分からなかった。だが、いまこうして黙って向かい合っていると、その言葉だけは、ようやく形になった。
部屋に戻ると、最初に聞こえたのは冷蔵庫の低い音だった。靴を脱ぎ、鍵を置き、ネクタイを緩める。どれも毎日の終わりに繰り返している動作なのに、今夜はそのひとつひとつが、少しだけ軽かった。軽いと言っても、何かが消えたわけではない。美里のことも、白燈院のことも、鳴海の乾いた声も、まだ身体のどこかに残っている。ただ、前のように、扉を閉めた瞬間に全部がいっせいに胸へ押し寄せてくる感じではなかった。部屋は静かだった。以前なら、その静けさはすぐに別のものへ変わった。何も音がしないだけで、自分の頭の中の声ばかり大きくなる。遅かった、救えなかった、もっと早く気づいていれば、という同じ場所を、何度でも思考が巡っていた。静かさは休まるためのものではなく、罪悪感が形を持つための器みたいなものだった。今夜も、静かではある。けれど、その静けさの底が少し違う。和希は上着を椅子の背にかけ、キッチンで水を飲んだ。冷たい水が喉を落ちる。窓の外では、遠くで車が一台通り過ぎた。部屋の中はそれきりまた静かになったが、息が詰まる感じは来なかった。代わりに、もっと別の感覚がじわじわと浮いてくる。何だろうと考えるより先に、ひとつの気配が頭に差した。芳人だった。会っていたときの顔ではない。給湯室で告げられた重すぎる言葉でも、訴状の前に座る弁護士の横顔でもない。もっとどうでもいい断片だった。駅前で紙カップを二つ持って待っていたこと。砂糖は入れないだろうと、当然みたいに無糖のコーヒーを渡した手つき。何も話さないまま、歩幅だけを合わせて隣を歩いた帰り道。別れ際の短い「またな」。その程度のことが、妙にはっきり胸に残っている。和希は流しの縁に片手をついたまま、少しだけ目を閉じた。今までの自分なら、こういう夜に誰かを思い出す理由は、もっと切迫していたはずだった。考えたくないから。眠れないから。壊れそうだから。埋めてもらわないと持たないから。そういう理由が先にあって、その先に芳人がいた。今は違う。今日、誰かに追い詰められたわけではない。録音を聞いた夜みたいに息が壊れているわけでもない。白燈院の文書を読
仕事を終えたあと、和希は駅前の小さなコーヒースタンドで芳人と落ち合った。約束らしい約束はなかった。昼過ぎに、仕事が終わったら少し顔を見るか、と短いメッセージが来て、それに和希が、遅くなるかもしれない、とだけ返した。結局、少し遅れて着いたときにも、芳人は何も言わなかった。ただ、紙のカップを二つ持って店先の脇に立っていた。「こっち、熱いから気をつけろ」差し出されたカップを受け取る。砂糖もミルクも入っていない匂いがして、和希はそれだけで少しだけ息をついた。以前なら、そういうことに気づかれるのが嫌だったかもしれない。今は違う。気づかれていること自体より、それをわざわざ言葉にしないまま置かれる方が、胸に静かに残る。駅前はまだ人が多かった。会社帰りの流れが途切れず、信号のたびに小さな塊ができてはほどけていく。二人はそのまま歩き出した。行き先を先に決めるでもなく、ただ大通りを外れて、少し静かな裏道へ入る。芳人は、必要なことしか聞かなかった。「今日、佐伯から連絡はあったか」「来た」「鳴海は」「来週、また出るらしい」それだけで会話は途切れる。途切れても、埋める必要がない。以前の二人なら、その沈黙の裏にはいつも別のものがあった。緊張だったり、欲だったり、どちらかがどこまで踏み込むかを測る気配だったり。今はそういう棘が薄い。和希は歩きながら、横の芳人を見た。相変わらず、表情は大きく変わらない。ネクタイを少し緩め、上着のポケットに片手を入れたまま、歩幅だけを和希に合わせている。無理に近づいてくることもなければ、妙に気を遣った言葉を足すこともない。ただ、隣にいる。それが前と違うのだと、和希にも分かった。以前の芳人は、もっと分かりやすく引き寄せようとしていた。和希が崩れそうになれば、その重さごと自分の側へ寄せようとしたし、和希もまた、考えずに済むための熱としてそれに触れた。今は違う。芳人はもう、抱えて片づけようとしない。慰めの形へ誘導もしない。欲しがっている気配が消えたわけではないのだろうが、それを前へ出してこない。和希の方も、それを完全には言葉にでき
芳人の事務所で地図を見ていたときには、西峰別院という名前はまだ紙の上の一点にすぎなかった。都内相談室から西へ伸びる路線図の先、乗り換えを二度挟んだ郊外の駅。その先に、白燈院西峰別院と記された建物群がある。送金履歴の増額と、移動距離の変化と、案内メールの文面が、そこできれいに噛み合っていた。和希はその地図を見下ろしたまま、しばらく何も言えなかった。東京相談室だけなら、まだ分かる。仕事帰りでも寄れる。駅から近い。相談に行く場所として、ぎりぎり現実の範囲にある。だが西峰別院は違う。ここへ行くには、時間も、交通費も、意志もいる。少し苦しいから寄って
芳人はしばらく和希を見ていた。顔を背け、肩だけを固くして、早くしろと投げるように言った和希を、そのまま飲み込むような視線では見なかった。むしろ、ひどく冷静に観察していた。ここへ来た理由が欲望ではないことも、差し出しているつもりで実際には自分を切り離そうとしていることも、全部見抜いている目だった。「立て」低い声で言われ、和希は一瞬だけ動かなかった。命令されること自体は想定していたはずなのに、その短い一言がひどく現実味を持った。和希は舌打ちしたい気分のまま、ソファから腰を浮かせる。立ち上がった瞬間、部屋の広さが変わる。整いすぎた
白い花は、近くで見ると少しだけ冷たい。菊も百合も、会場の照明の下ではきれいすぎるほど整っていて、触れれば水気を含んだ花弁が指にひやりと張りつきそうだった。祭壇の前には、同じ高さに揃えられた供花が並び、そこへ細い香の煙がゆっくりと上がっている。煙は真っ直ぐではなく、空調の弱い流れに押されるように揺れ、会場全体へ薄く溶けていく。和希は遺族席の横に立ったまま、何人目か分からない会葬者へ頭を下げた。「本日はありがとうございます」その言葉は、もうほとんど反射だった。相手の顔を見て、会釈の角度を少し変え、香典を受け取り、係の人に渡し、ま
実家へ着いたときには、夜がすでに深くなっていた。駅からタクシーで十分ほどの住宅街は、見慣れているはずなのに、その夜はどこか色を失って見えた。街灯の白さが道路の端に細く落ち、並んだ家々の窓には、それぞれの生活の灯りがともっている。誰かが風呂に入り、誰かが夕飯の片づけをし、誰かがテレビを見ている。そういう普通の夜の中に、和希の実家だけが急に別の用途の家になってしまった気がした。玄関の灯りはついていた。インターホンを押す前に、鍵は開いた。父だった。ネクタイを外していないワイシャツ姿のまま、顔だけがひどく疲れている。泣いた顔ではない。むしろ逆だった