LOGIN同じ東京にいながら、妹を救えなかった。 美里が遺した手記に記されていたのは、新興宗教・白燈院が“救い”の顔で近づき、罪悪感に値札をつけ、祈りさえ搾り取っていく地獄のような仕組みだった。 妹の死の真相を暴くため、和希は再会した幼なじみの弁護士・芳人と手を組む。 だが、その協力は無償ではない。 冷静で、美しく、どこか危うい芳人は、復讐に取り憑かれた和希に容赦なく踏み込み、傷も罪も欲望も暴いていく。 これは、奪われた祈りを取り戻すための復讐劇。 けれどその先で待つのは、断罪か、破滅か、それとも罰ではなく誰かを選ぶための愛か。
View More雨は降っていなかったが、夜の東京には、濡れた舗道を思わせる光があった。
仕事帰りの人波が少しずつほどけていく時間だった。大通りから一本入ると、店の看板は急に減り、代わりに小さな事務所や低いマンションの灯りが静かに並ぶ。派手な音楽も、呼び込みの声もない。信号が変わるたびに、遠くで車の流れが薄く唸り、それがまたすぐに建物のあいだへ吸い込まれていく。
長浜美里は、スマートフォンを握ったまま立ち止まった。
地図アプリの青い点は、もう目的地の上に乗っている。画面を閉じてもいいはずなのに、指はそこから離れなかった。予約確認メールを開く。件名の下に並ぶ、日時と場所。白燈院 東京相談室。短い案内文。初めての方も安心してお越しください、という、少しも強くない言葉。
画面を閉じる。
また開く。
何度も見た文面なのに、いま改めて読むと、そこに書いてある場所は、自分とは無関係な誰かの行き先のようにも見えた。こんなところへ来る人は、もっと切羽詰まっていて、もっと迷いがなくて、もっと普通ではない人間なのではないかと、さっきから美里は何度目かの考えに戻っていた。
目の前の建物は、宗教施設には見えなかった。七階建てほどの細いビルで、一階には小さな設計事務所が入っており、ガラス越しに観葉植物とデスクライトが見える。二階に上がる外階段の脇に、控えめな案内板が立っているだけだった。白地に細い文字で、白燈院 東京相談室。下に、ご予約の方はこちらからお入りくださいとある。どこにも金色の装飾はなく、提灯も、読めない経文も、いかにもそれらしい匂いもない。
むしろ、静かすぎるくらい整っていた。
それが少し、怖かった。
帰ろうと思えば帰れた。
駅は歩いて十分もかからない。さっき通り過ぎたコンビニで温かい飲み物を買って、電車に乗って、自分の部屋に戻るだけだ。誰にも見咎められない。ここに来ようと決めたことだって、誰にも言っていない。予約をすっぽかしたところで、困るのは自分だけだ。いや、困るのも、たぶん今夜だけだろう。メールを消してしまえば、何もなかったことにできる。
それでも足が動かなかったのは、帰った先にあるものが、結局ここへ来る前の苦しさそのままだと分かっていたからだ。
部屋に戻れば、冷蔵庫の低い音がして、洗いきれていないマグカップが流しに残っていて、脱ぎ捨てたままのカーディガンがソファの端に引っかかっている。何も変わらない、いつもの一人暮らしの部屋。そこに入った瞬間、また同じことを考えるだろう。眠る直前まで。あるいは眠れないまま朝まで。
あのときのこと。
口に出せないこと。
誰にも言えないのに、頭の中ではいつまでも形を変えずに残っているもの。
それは、自分の中だけで考えていると、どんどん現実味を増した。罪悪感と呼ぶには、もう少し生ぬるい重さがあった。胸の奥に沈んだ鉛のようで、時間が経っても軽くならない。忘れようとしたぶんだけ、かえって輪郭が硬くなる。
美里はもう一度だけ、建物の案内板を見上げた。
二階の窓には、薄いレースのようなブラインドがかかっている。その向こうに、暖色の灯りがやわらかく滲んでいた。オフィス街の夜にしては、人の生活に近い色だった。冷たい蛍光灯ではなく、湯気の立つ部屋のような、白と木の匂いを想像させる光。
このまま引き返したら、きっとまたしばらくは何もできない。
そう思った瞬間、美里はやっと階段に足を乗せた。
二階までの数段が、ひどく長かった。
扉の前にも、派手な表示はない。すりガラスに細い文字で相談室とだけ印字され、その下に、予約名をお知らせくださいと書かれている。呼び鈴の横に小さな鉢植えがあり、葉の丸い緑が照明を受けて静かに光っていた。手入れが行き届いているのが分かる葉だった。先端が枯れていない。それだけのことなのに、そこに人の気配があった。
美里は息を吸って、指先で呼び鈴を押した。
すぐに足音がして、内側で鍵の外れる音がする。わずかに開いた扉の隙間から、やわらかな空気が流れ出てきた。香りはほとんどない。強いていえば、木の新しい匂いと、清潔な布の匂いがした。
扉を開けたのは、三十代前半くらいの女性だった。ベージュの柔らかなブラウスに、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。きちんとしているのに、威圧感がない。髪は低い位置でゆるくまとめられ、顔立ちはどこにでもいそうなほど穏やかだった。
その普通さに、美里は少しだけ肩の力が抜けた。
「こんばんは」
女性は声までやわらかかった。
「ご予約の方でしょうか」
その問いに返事をしようとして、美里の喉はひどく狭くなった。たったそれだけのことなのに、名前を言うまでに一拍かかった。誰にも言えなかったことを抱えたままここへ来た自分が、名前を名乗った瞬間、何か取り返しのつかない側へ入ってしまう気がしたからだ。
「……長浜、です」
自分の声が思っていたより掠れていた。
女性は表情を変えず、小さく頷いた。
「長浜美里さまですね。お待ちしていました」
待っていました。
その言葉だけで、胸の奥が不意に揺れた。
責められなかったことに、美里はあまり慣れていなかった。もちろん、誰かに露骨に責められたわけではない。ただ、あのことについては、仮に打ち明けたとしても、結局どこかで顔を曇らせられるだろうと知っている。驚かれるか、困られるか、善意の言葉で遠ざけられるか。そのどれかだと思っていた。
だから、まるで予定通りの来訪を迎えるように、自分の名前を受け取られただけで、涙腺の裏が熱くなった。
「どうぞ、中へ」
女性に促されて一歩入ると、足音がふっと変わった。床は硬いタイルではなく、少し柔らかさのある素材らしく、ヒールの音が響きすぎない。白を基調にしながら、壁の一部や棚に明るい木目が使われている。広すぎない空間に、背の低いソファが二脚と、小さな丸テーブル。カウンターの上には受付用の端末があるが、病院のような無機質さはなかった。照明は明るすぎず暗すぎず、顔色を責めない色をしていた。
宗教施設というより、少人数制のカウンセリングルームか、女性向けの相談サロンに近い。
壁に掲げられているパネルを見て、美里は思わず足を止めた。
心の相談。
大切な存在との別れに悩む方へ。
一人で抱えなくていい痛みがあります。
そこに、救済だの浄化だの、強い言葉は書かれていなかった。霊験や奇跡を謳う文句もない。何か超常的なものにすがる場所というより、ただ、話してもいい場所だと言われているようだった。
その控えめさが、美里には都合よかった。
自分は頭のおかしいことをしに来たのではない。
ただ相談に来ただけだ。
ただ、誰にも言えなかったことを少しだけ話しに来ただけだ。
その言い訳を、自分自身に許したかった。
「こちらへどうぞ。少しだけお待ちいただきますね」
受付の女性に案内されて、窓際のソファに座る。クッションは柔らかすぎず、身体を預けても沈み込まない。冷えた指先を膝の上で重ねていると、女性が湯気の立たない白い湯呑みのようなカップを運んできた。
「白湯です。熱くないので、よければ」
白湯。
その選び方まで妙にやさしかった。甘い香りのする飲み物でも、過剰に気遣った高級茶でもない。ただ喉を刺激しない温度の湯。
「ありがとうございます」
そう言って受け取ると、ほんのりとした温かさが指先に移った。冷えていたことに、そのとき初めて気づく。口をつけると、ぬるい温度が喉にすべり落ちた。味はしない。だからこそ、身体の内側だけが静かにほどけた。
受付の女性は、必要以上に話しかけてこなかった。問診票のようなものも今は出されず、名前の確認以外、何も問われない。カウンターへ戻ったあとも、キーボードを叩く音は控えめで、空調の音に紛れてしまうほどだった。どこかで時計が鳴ることもない。静かだが、息が詰まる静けさではない。誰かの小声や紙の擦れる音が、ごく薄く空間に溶けている。
それなのに、美里は急に泣きそうになった。
人のいない場所でなら、もう何度も泣いていたはずなのに、こういうところでは逆に持ちこたえられなくなる。電車の中でも、職場のトイレでも、外ではずっと大丈夫な顔を作ってきた。何でもない声で電話に出て、愛想よく笑って、締め切りの確認をして、コンビニで夕飯を選ぶような顔で生きてきた。
なのに、ここではまだ何も聞かれていない。何も打ち明けていない。ただ座って、名前を呼ばれ、白湯を出されただけだ。
それだけで、ずっと張っていた糸が少し緩む。
たぶん、責められないと分かったからだった。
あるいは、まだ責められていないだけなのかもしれない。それでも、今この瞬間だけは、何かを説明する前にすでに減点されている空気がない。そのことが、かえって苦しかった。
美里は視線を落とし、カップの縁を見つめた。白い陶器の曲線が、灯りを受けて柔らかく光っている。こんなふうに静かな場所に、自分がいていいのだろうかと思う。自分が持っているものは、もっと乱れていて、もっと汚れていて、こういう白い部屋には似合わないはずなのに。
帰りたい、と思う。
同時に、帰りたくない、とも思う。
このまま名前を呼ばれず、ただ座っているだけなら楽なのに、とも思うし、早く誰かに聞いてほしい、とも思う。
矛盾した気持ちが胸の中でせめぎ合い、白湯を飲み下した喉のあたりを行き来する。
もし、話してしまったらどうなるのだろう。
全部ではなくても、一番重いところを少しでも口にしたら、その瞬間、目の前の人の表情は変わるのだろうか。やっぱりそうですか、という顔をされるのか。それは大変でしたね、という優しい声で、けれど心の奥では線を引かれるのか。
それでも、ここまで来た。
その事実だけが、かろうじて美里を座らせていた。
スマートフォンが膝の上でかすかに震えた気がして、慌てて画面を見る。通知はない。幻のような感覚だった。ここ数か月、何かに急かされている気配が身体から抜けなくなっている。支払いの日付、未読のメール、もう見たくない名前、履歴の残る番号。確認しなければならないものばかりだった。
だが今、画面に映っているのは、自分のぼんやりした顔だけだ。ガラスの黒に、白い照明が細く筋を作っている。
兄に連絡すれば、と思わなかったわけではない。
その考えを思い浮かべるだけで、美里の胃の奥は鈍く縮んだ。兄の顔はすぐに浮かぶ。真っ直ぐで、優しくて、だからこそ言えない。もし聞かれたら、きっと困らせる。軽蔑はしないかもしれない。責めないかもしれない。余計に、それがつらい。自分のしたことを、自分より大切に抱えさせるのは嫌だった。
誰にも言えない。
その結論ばかりが先にあり、それでも一人ではもう抱えきれなくて、だからここに来た。
美里はゆっくり息を吐いた。
視界の端で、受付の女性が立ち上がるのが見えた。近づいてくる足音はやはり響きすぎない。
「長浜さま」
柔らかな声で名前を呼ばれ、美里は反射的に背筋を伸ばした。
「お待たせいたしました。ご案内しますね」
立ち上がろうとして、膝が少し重いことに気づく。長く座っていたわけでもないのに、身体のほうが先に緊張しているらしい。カップをテーブルへ戻すとき、指先がわずかに震えた。女性はそれを見ても何も言わなかった。ただ、ごく自然な動作で前を歩き出す。
通路の先には、個室らしい扉がいくつか並んでいた。どれも白い扉に小さなプレートがついているだけで、病院の診察室にも、会議室にも見える。最奥の一室の前で女性が立ち止まり、静かにノックをした。
内側から、どうぞ、という落ち着いた声が返る。
それだけで、美里の心臓がひとつ大きく鳴った。
「こちらへ」
扉が開く。
個室の中も、外の待合と同じように白と木で整えられていた。大きな机ではなく、向かい合うように置かれた一人掛けの椅子と、小さな低いテーブル。窓際には細葉の植物が置かれ、照明はやはり柔らかい。閉じた空間なのに圧迫感がないのは、壁際に余計なものがないからかもしれなかった。
その椅子の向こうに、ひとりの女性が座っていた。
美里と同じように、過剰ではない色の服を着ている。年齢は三十代半ばくらいだろうか。整えられた髪、穏やかな目元、けれどただのやさしさだけではない、相手の顔を見て待つ人の静けさがあった。机も書類の壁もないその距離で、その人は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「こんばんは。秋山と申します」
秋山志保。
その名を聞いた瞬間、美里は、ここまで来てしまったのだと思った。
もう帰れる。いまならまだ、すみません、やっぱりやめますと言って扉を出ていくこともできる。誰にも引き止められないだろう。責められもしないだろう。きっとこの人は最後まで穏やかな顔のまま、どうぞお大事に、と言うだけだ。
それでも、美里の足はその場に止まったままだった。
部屋の空気は静かで、清潔で、やさしかった。
そのやさしさの前で、自分の抱えているものだけが、急に輪郭を持ちはじめる。これまでずっと胸の底で濁っていたものが、言葉になる前の形で、喉のあたりまで浮かんでくる。
この部屋で何かが変わる。
それが救いなのか、もっと深い場所への入り口なのかは、まだ分からない。
ただ、もう何も起きていないふりだけはできないと、美里はその白い部屋の中で初めて思った。
鳴海が視線を落としたまま黙ると、会議室の空気はさらに薄く乾いた。誰もすぐには次の言葉を入れなかった。机の上には紙コップの水、佐伯のノート、閉じたままの資料ファイル。どれも動かない。けれど、止まっているのは物だけで、部屋の中の緊張だけはじわじわと形を変えていく。さっきまで和希の中で揺れていた怒りは、鳴海の最後の一言を境に、また別の冷たさへ寄りはじめていた。私も、同じことを別の人にしてました。その告白の重さはまだ残っている。だがそれと同時に、和希の意識はもう少し奥へ入ろうとしていた。鳴海のような人間をその位置に置いたものが何なのか。誰が、どうやって、祈りのふりをした仕組みをここまで整えたのか。その輪郭が、今ようやく具体の形で見えかけている。佐伯が低く言った。「会計の中身を話してください」鳴海はすぐには返事をしなかった。だが、さっきまでのように言葉の前で立ち止まり続けることもなかった。観念した人間の静けさが、かえって声を安定させているように見えた。「帳簿は、一つじゃありませんでした」和希はわずかに視線を上げる。鳴海は紙コップから手を離し、机の木目を見たまま続けた。「表向きの会計と、内部で回している一覧が別にありました。普通の供養金や法要料として処理するものと、そうじゃないものを分けてました」「そうじゃないもの、というのは」佐伯が確認する。「簿外のものです。相談所経由で現金化された分、特別祈祷の一部、紹介で入ってきた人の初回分、それから……親族会社へ流す分」その言葉が落ちた瞬間、部屋の温度がまた少し下がった気がした。和希は鳴海の顔を見た。女は視線を合わせない。だが言葉だけは逃がさないまま、さらに奥へ入っていく。「親族会社っていうのは、実体が曖昧なところもありました。印刷、清掃、施設管理、研修委託、そういう名目をつけて請求を回すんです。実際には一部しか動いてないのに、帳簿上はちゃんと出金してる形にして……」「資金移動ですか」「はい」
鳴海のその一言のあと、部屋の空気がわずかに変わった。紙コップのふちを握る女の指先は白くなっている。けれど震えているのは手だけではないらしかった。声の底にある乾いた緊張が、今さら隠しようもなく剥き出しになっている。それでも鳴海は逃げなかった。目を上げはしないまま、自分の言葉の続きを待っているようにも、次に来るものを受ける覚悟を決めているようにも見えた。和希はその女を見ていた。最初は救われたと思っていた。その告白が、嫌悪の輪郭を少しだけ狂わせた。狂わせたからこそ、余計に腹が立つ。最初から悪意だけで回っている仕組みなら、どれだけ楽だっただろうと思う。だが白燈院はそうではない。救われたと思った人間が、救う側の顔を覚え、そのまま次の誰かを運ぶ側へ回っていく。そのねじれが、目の前の女の表情にも出ていた。佐伯が短く言う。「具体的に」鳴海は小さくうなずいた。「相談記録は、相談所だけで止まりませんでした。法要に上げる見込みがある人、継続になる人、途中で離れそうな人、そういう情報は別院にも回ってきてました」「どんな形で」佐伯の問いは平坦だった。「一覧です。最初は、申込状況の確認表みたいな顔をしていました。名前、相談内容の要約、家族構成、支払い履歴、それから……傾向」傾向、という言葉で鳴海は少し息を止めた。「金の出し方の傾向です」和希の指先が机の下で強く組まれる。鳴海は声を落として続ける。「一回でまとまった額を出す人もいれば、少額でも何度も継続する人がいます。家族に言えない人は、自分だけで抱え込むぶん、長く払うことが多いとか。逆に、親族に相談できる人は、最初に強めの提案をしても通ることがあるとか。そういう……」そこで言葉が途切れる。自分が何を言っているか、口に出してから遅れて怖くなるような間だった。「営業資料みたいに、回してたんですね」和希が言った。声は低かった。怒鳴ってはいない。けれど鳴海の肩がその一言だけで小
会議室の空気は、妙に乾いていた。弁護士事務所の応接スペースより一段奥にある小さな部屋で、窓は細く、外の光も白く薄かった。壁はくすんだ灰色、机は傷の少ない木目調、椅子は長く座ることを想定していない硬さをしている。中央に置かれた紙コップの水だけが場違いなくらい無防備で、閉まったドアの向こうの気配は驚くほど遠かった。和希は席についてから、ほとんど喋っていなかった。朝の冷えた覚悟だけを持ってここまで来たものの、身体の奥にはまだ録音の余熱が残っている。美里の小さな声。兄は関係ないんです、巻き込みたくないんです。その記憶の上に、新しい証言を重ねるのだと思うと、神経がまた細く尖っていくのが分かった。佐伯は机の端にノートを置き、鳴海と名乗る女の前に紙コップの水をひとつ寄せていた。芳人は和希の斜め横に座り、何も言わずに室内を見ている。その静けさが、今はありがたかった。ドアが閉まってからも、女はすぐには座らなかった。四十代に入るか入らないかくらいの年齢に見えた。黒に近い紺のジャケット、癖のないブラウス、髪も爪もきちんとしている。人前に出るために整えてきたのが分かる。けれど、その整い方だけがかえって痛々しかった。目の下にうっすら影があり、視線がまっすぐ相手へ定まらない。椅子を引く手つきまで慎重すぎて、座るというそれだけの動作に、自分の身体をどこへ置けばいいのか迷っている感じがにじんでいた。「鳴海芙美子さんです」佐伯が簡潔に言った。鳴海は小さく会釈した。声が出ないまま、唇だけがかすかに動く。喉が乾いているのが見て取れた。「無理に急がなくていいです」佐伯はそう言ったが、慰める調子ではなかった。場を甘くしない言い方だった。「ただ、今日は確認したいことが多い。話すなら、なるべく曖昧にしないでください」鳴海は紙コップへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。それからようやく一口だけ水を飲み、机の上に視線を落としたまま言った。「……はい」乾いた声だった。落ち着こうとしているのに、言葉の端だけが少しずつ剥がれていくような声だった。
朝の光は、夜より残酷だった。カーテンの隙間から差し込む薄い白が、寝室の壁を平たく照らしている。輪郭だけがはっきりして、熱も逃げ場もない光だった。和希は目を開けたまま、その白さをしばらく見ていた。眠っていたのかどうか、自分でもよく分からない。意識が沈んだ時間はあったはずなのに、休んだ感覚がどこにも残っていなかった。身体の奥には、まだ二つのものが残っていた。録音の中の美里の声。そして、昨夜、自分が芳人に手を伸ばしたときに戻ってきた冷たい静けさ。考えたくないから触れた。壊れたくて、思考より先に身体を使おうとした。なのに、そこで止められた。拒絶されたというより、見抜かれたのだと思う。今の自分が欲しがっていたのは芳人ではなく、崩れることそのものだと。そのことが、眠れない夜の終わりにまで鈍く残っている。和希は寝返りを打たず、ゆっくり息を吐いた。喉が乾いている。胸のあたりも重い。録音を聞いたときの息苦しさは薄れているのに、その代わり、もっと冷えたものが肋骨の裏に沈んでいた。隣に人の気配はなかった。起き上がると、シーツの皺が鈍く広がっている。芳人の体温はもう残っていない。夜のあいだ同じ部屋にいたはずなのに、朝になるとそれが夢だったみたいに遠い。だが、遠いだけで消えてはいない。消えないから、余計に厄介だった。洗面所へ向かう。床が少し冷たい。鏡の中の自分は、目の下に薄い影を作っていた。顔を洗う。水が皮膚に触れても、はっきり目が覚める感じはしない。美里の声は、眠りの外側に置いてきたつもりでも、少し水音が止むだけですぐ戻ってくる。兄は関係ないんです。巻き込みたくないんです。蛇口を閉める。それだけで、静けさがひどく大きくなる。和希は鏡から目を逸らした。自分の顔をまともに見たくなかった。録音を聞いた兄の顔と、昨夜、壊れたくて芳人に縋った男の顔が、同じ輪郭の中に入っているのが耐え難かった。リビングへ出ると、コーヒーの匂いがしていた。芳人はもう起きていて、キッチンに背を向けていた。シャツの袖を肘までまくり、いつもの仕事の顔で動いている。カップを置く音も