All Chapters of 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで: Chapter 41 - Chapter 50

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40.怒りを、届く言葉に

会議室の白い光は、芳人の事務所の照明よりもさらに平板だった。壁も、机も、椅子も、余計な色を持っていない。長方形のテーブルの中央に、美里のノートのコピー、検索履歴の抜粋、交通ICの利用明細、送金記録、倉田とのやり取り、白燈院東京相談室と西峰別院、白焔霊峰寺の資料が、種類ごとに揃えて置かれている。紙の角はきちんと重なり、付箋の色だけがそこに控えめな差異をつくっていた。和希は、その整い方が少し嫌だった。美里が壊れていった順番が、こうして種類ごとに分類され、並べ替えられていくことが、まるで苦しみまで整頓されていくみたいで耐えがたかった。だが同時に、その整い方がなければ、もう自分では何も見られないことも分かっていた。感情のままでは、とっくにどこかで机を蹴り飛ばしていたかもしれない。だから、ここへ座っている。佐伯真由は、和希が思っていたより静かな女だった。年齢は三十代の後半か、四十に届く手前か、そのくらいに見える。濃い色のジャケットに細いフレームの眼鏡。髪はきっちりまとめているが、事務的な冷たさを前に出す人間の結い方ではない。机に肘をつかず、資料を一枚ずつ読む姿勢がきれいで、だから余計に感情を煽る余地がなかった。支援団体の相談室を兼ねたこの会議室で、佐伯は最初から必要なことしか言わなかった。「時系列、もう一度確認します」その声もまた、低すぎず、高すぎず、誰かの感情を不用意に刺激しない温度に調整されていた。和希は、そういう人間が少し苦手だと思った。正しい温度で、正しい順番で、正しい言葉を出せる人間。美里のノートの中身も、倉田の卑怯さも、白燈院の構造も、全部そこへ乗せられてしまう気がするからだ。佐伯は、紙の束を手前へ引き寄せた。まずは都内相談室への最初の導線。深夜の検索履歴。予約確認メール。秋山志保の署名。次に西峰別院への移動と支払いの増額。月例供養、継続祈祷、特別法要。さらに白焔霊峰寺の案内冊子、宿泊修法の説明、総本山への誘導。そして別線として、倉田健介との勤務先経由のやり取り、中絶前後の迷い、押し切られた希望、切られたあとの空洞。それらを一通り見終えるまで、佐伯はほとんど喋らなかった
last updateLast Updated : 2026-04-30
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41.黒瀬徹

佐伯真由が「感情を証拠に変えましょう」と言ったあと、会議室の空気は少しだけ変わった。何かが軽くなったわけではない。むしろ逆で、怒りの行き先が急に増えたぶんだけ、部屋の白い光がさらに冷たくなったように和希には思えた。机の上には、もう十分すぎるほど資料が並んでいる。白燈院東京相談室への予約確認メール、西峰別院の案内文、白焔霊峰寺の冊子、美里の検索履歴、送金記録、交通ICの利用明細、倉田とのやり取り、そしてノートのコピー。そのどれもが一人の女の苦しみを示しているのに、佐伯はそこからさらに別の層を拾い上げようとしていた。「支払いの流れを、相談履歴と重ねます」佐伯がそう言って、付箋のついた束を手前へ寄せた。和希は椅子の背に深くもたれなかった。深く座ってしまうと、そのまま何も考えずに沈みそうだったからだ。疲れてはいる。だが、疲れたままでも目は開いている。いま見なければならないものがあると、どこかで分かっている。芳人は佐伯の向かいでノートパソコンを開き、すでにいくつかの表を並べていた。送金日、支払名目、相談記録の日時、交通履歴、メールの送受信時刻。今までも照合してきたものだ。だがここでは、見方が少し違っていた。苦しみの流れとしてではなく、管理されているかどうかを確かめるための見方だった。最初に佐伯が抜き出したのは、白燈院側から送られてきた案内メールの一部だった。件名はあくまで穏やかで、相談や供養の顔をしている。だが本文の下に小さく添えられた送金案内の記載だけが、いま見ると妙に硬い。振込先の口座名義が毎回少しずつ違うのだ。都内相談室の名義、西峰別院の名義、そして宗務局名義。施設ごとに別れているように見える。だが、振込後の確認先として必ず同じメールアドレスが残っている。「ここ、同じです」佐伯が指した先には、事務処理の連絡先として記されたアドレスがあった。shomu…という文字列のあとに、白燈院本部を示すドメインが続いている。和希は画面を見たまま言った。「相談室の金も、別院の金も、結局ここへ集まるってことですか」佐伯は即答せず、別の紙を横に並べる。
last updateLast Updated : 2026-05-01
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42.戻れない夜

佐伯真由との面談が終わったあと、和希はすぐには席を立てなかった。白い会議室の机の上には、まだ資料が並んでいる。白燈院東京相談室の予約確認メール。西峰別院の案内。白焔霊峰寺の冊子。黒瀬徹の署名が残った内部連絡。美里の検索履歴。送金記録。倉田とのやり取り。どれももう、ただの紙には見えなかった。妹が壊れていった順番であり、その順番を誰かが管理していた証拠だった。椅子を引く音がして、佐伯が席を立った。芳人もノートパソコンを閉じる。会議室の外では、事務局の電話が短く鳴り、遠くのドアが開閉する音がした。世界はまだ普通に動いている。誰かの相談が終わり、誰かが資料を運び、誰かが帰宅の支度をする。そういう普通の流れの中に、自分だけがひどく取り残されている気がした。「今日はここまでにしましょう」佐伯の声は最後まで静かだった。和希は返事をしようとして、うまく声が出なかった。頷くことで代えた。佐伯はそれ以上何も言わない。労わりも、励ましも、安易な強さも寄越さない。その代わりに、机の上の資料を丁寧に揃え、必要なものだけを封筒へ入れた。その所作の端正さが、かえって和希にはつらかった。会議室を出ても、すぐには歩けなかった。エレベーターホールの白い壁に背を預けるほどではない。だが自分の足でちゃんと立っている感覚が薄い。自動販売機の青い光が床に落ちていて、夜のビルの空調音が低く流れている。何かひとつ大きなものを見たあとに来る静けさだと、頭のどこかでは分かる。けれど感情はまだ追いついていない。怒りはある。白燈院に対しても、倉田に対しても、黒瀬に対しても、はっきりとある。だがその怒りの上に、もっと重いものが乗っていた。妹は一か所で壊されたのではなかった。都内相談所で受け止められ、西峰別院で囲い込まれ、白焔霊峰寺という本物らしい霊場へ上げられていく。その裏では黒瀬のような人間が、相談記録と名簿と金を一つの表にして回していた。それはもう、誰か一人を憎めば終わる話ではない。普通の生活の延長で、少し調べて、少し怒って、少し泣けば済む範囲を、とうに越えている。和希はそこで初めて、自分がもう巻き込まれる側に入っているのだ
last updateLast Updated : 2026-05-02
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43.供物の夜

芳人の指が首筋に触れたまま、和希は目を閉じていた。逃げない、と決めたはずなのに、身体は少しも落ち着いていない。呼吸は浅い。肩に入った力が抜けきらず、喉の奥だけがやけに熱い。触れられている場所から順に、皮膚が静かに意識へ上がってくる。それが前までなら屈辱だった。いまも嫌悪が消えたわけではない。けれど今夜のそれは、もっと別の重さを持っていた。都内相談室。西峰別院。白焔霊峰寺。黒瀬の名前。御影の顔の後ろにある巨大な仕組み。そこまで見てしまった以上、自分だけがまだ引き返せる側にいることが、和希にはどうしても耐えられなかった。芳人の手が、首筋から肩へ移る。強くはない。ただ、そこにいることを確かめるみたいな触れ方だった。その静かな温度のせいで、余計に自分の強張りが分かる。和希は無意識に息を詰め、すぐにそれに気づいて浅く吸い直した。「今ならやめられる」芳人の声が、すぐ近くで低く落ちた。最後の確認だと分かった。ここで頷けば、たぶん止まる。今夜はここで終わる。まだ何も越えないまま、明日へ持ち越せる。そういう逃げ道が、本当にまだ目の前にある。それでも和希は、目を閉じたまま小さく言った。「……やめるな」喉の奥で一度引っかかって、それでも言葉になる。「最後までやれ」声は掠れていた。怖くないわけではない。むしろ逆で、怖いからこそ掠れる。身体の奥はまだ硬く、反射的に逃げたくなる気配も残っている。けれど、それでも引かないと決めたのは自分だ。その一点だけで、和希はそこに座っていた。芳人はもう言葉を返さなかった。距離がさらに近くなる。ソファがわずかに沈み、和希は無意識に手を握った。指先が冷たい。シーツではなく、ソファの縁でもなく、掴んだのは目の前の芳人の腕だった。支えたいのか、突き放したいのか、自分でも分からない。ただ何かにつかまっていないと、身体の輪郭ごと崩れそうだった。その最初の瞬間、和希ははっきりと痛みを感じた。反
last updateLast Updated : 2026-05-03
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44.テレビの中の救済者

蛍光灯を半分だけ落とした事務所は、昼の顔を失うと、急に知らない場所のように見えた。外の通りを走る車の音が、ブラインドの隙間からかすかに滑り込み、壁際の書棚と会議机の脚に冷たく触れていく。深夜まではいかない、それでももう誰も戻ってこない時間だった。机の上には、美里の痕跡が、紙と光の形で広がっていた。大学ノートの薄い罫線、スマートフォンの検索履歴を書き写したメモ、予約確認の自動返信メールを印刷した紙、雑誌記事のスクリーンショット、動画サイトのサムネイル一覧を並べた画面。どれもそれだけなら、ありふれた生活の断片に見えるのに、こうして同じ机の上に集めると、どこかひとつの方向へ吸い寄せられているのが分かった。和希は椅子の背に浅くもたれ、ノートパソコンの青白い光を見つめていた。目が乾いているのに、まばたきをするのを忘れる。美里の名前が書かれたページが視界の端に入るだけで、胸の奥に鈍い棘が立つようだった。芳人は向かい側に座り、すでにいくつかのタブを開いていた。紙の端を揃え、検索結果を古いものから順に並べ、必要なものだけを別フォルダに落としていく。ひとつひとつの動きに無駄がなく、静かで、妙に几帳面だった。感情を抑えているというより、最初から感情を挟む余地を与えない手つきに見える。「白燈院の名前で引くと、後ろの組織に飛ぶ」芳人が画面を見たまま言った。「でも、美里さんが最初に見たのは、たぶんこっちじゃない」クリックの乾いた音がした。新しいページが開く。そこにいたのは、和装でも法衣でもなかった。淡い色のブラウスに、首元だけがきちんと詰まった上品なジャケット姿の女が、柔らかい照明の下で微笑んでいた。肩にかかる髪は艶を抑えて整えられ、化粧は薄い。背景には観葉植物とガラスの花瓶、昼の情報番組で見慣れたような、生活の匂いを消したセット。画面の隅には小さく、霊視鑑定士・御影清花というテロップが入っていた。和希は思わず、少しだけ身を起こした。もっと分かりやすく胡散臭いものを想像していた。大げさな数珠、紫の照明、低く響く音楽、視聴者の不安を煽るような芝居がかった間。そういうものを勝手に思い描いていたのに、画面の中の女は拍子抜けするほど静か
last updateLast Updated : 2026-05-04
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45.顔と運用

事務所の空気は、夜が深くなるにつれて紙の匂いを濃くしていった。暖房を切って久しいせいで、窓際からじわじわと冷えが這い上がってくる。卓上のライトだけが机の中央を白く照らし、その外側は沈んだ色に沈み込んでいた。さっきまで開いていた御影清花の映像は閉じられ、ノートパソコンの画面には新しいファイルが立ち上がっていた。白い背景の上に、芳人が無言で線を引いていく。四角い枠、短い注記、矢印。ひとつひとつは単純なのに、増えていくほど逃げ道がなくなるような図だった。机の上には、美里の記録がまた並べ直されていた。検索履歴のメモ。予約完了メール。都内相談所の案内ページ。西峰別院の継続祈祷申込書。月例供養の案内文。総本山への特別法要移行を勧める封書。通帳のコピーと、クレジット決済履歴を一覧にした紙。御影の出演記事のスクリーンショットと、相談所の利用規約を印刷した束。その全部が、さっきまでは断片でしかなかったのに、今は芳人の手の下で、ひとつの骨組みに沿って置き直されていく。和希は向かい側の椅子に座ったまま、身動きせずそれを見ていた。眠気はとうに過ぎていた。頭は疲れているのに、神経だけが細く張り詰めている。美里のノートを読むたびに胸の奥で生々しく疼いていた痛みが、今は逆に少し遠のいていた。その代わりに、もっと冷たいものが静かに広がっている。芳人は紙の端を揃え、ペン先で画面の図をなぞるようにしながら言った。「流れを一回、感情抜きで並べる」その声は淡々としていた。説明というより、作業手順を確認するような言い方だった。「まず最初の接点は御影清花個人の名前だ。白燈院じゃない」芳人は画面の左端の枠に、御影清花と打ち込んだ。下に小さく、テレビ、雑誌、動画、相談企画、と並ぶ。「ここが顔」ペン先が止まる。「相談したい人間が最初に見るのは、教団でも寺でもなく、この人。品があって、感情を煽らなくて、テレビにも出てる。怪しさより先に信用が立つ」和希は、昼間見た映像の中の御影を思い出していた。低い声。整った言葉。相談者の痛みにすぐ名をつけず、まず寄り添うふりをする目つき。あれは祈りの顔ではなかった。宗教の看板を出さない代わ
last updateLast Updated : 2026-05-05
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46.救っているつもりの女

机の上の相関図はそのままに、芳人が横へ寄せた雑誌記事の束を、和希は一枚ずつ引き寄せた。コピー用紙の白が、卓上灯の光を受けてやけに冷たく見える。さっきまで線と矢印で眺めていた構造が、今度は柔らかな言葉の列に姿を変えていた。御影清花の名前が載った紙面は、どれも同じ空気をまとっていた。色数を抑えた上品なレイアウト。強い煽り文句はない。写真の中の御影はいつも穏やかで、口元に薄い微笑みを浮かべている。派手な霊能者のような威圧も、宗教家めいた押しつけもない。ただ、話を聞いてくれそうな顔だけがある。和希は最初の頁を読み返した。喪失を抱えた人に必要なのは、正しさより先に、痛みを否定されないことです。別の記事には、こうある。あなたは悪くありません。苦しみには、すぐに意味を与えなくていいのです。まずは、そこにある傷を見つめることから始めましょう。さらに別の相談者向けメッセージには、もっと簡潔な言葉が並んでいた。ひとりで抱えなくていい。見えない苦しみには、見えない形で寄り添う方法があります。置き去りにされた思いにも、手を合わせる場所はあります。どれも露骨な嘘ではなかった。少なくとも、言葉だけを取り出せば間違っていないように見える。喪失に苦しんでいる人間へ、真正面から石を投げるような文ではない。責める代わりに受け止める。裁く代わりに寄り添う。そういう顔をしている。それが、たまらなく嫌だった。和希は紙を持つ指先に力が入るのを感じながら、次の頁へ目を落とした。そこには、番組収録中に涙ぐむ御影の写真が小さく載っていた。事故で子どもを亡くした母親の相談を受けた場面らしい。キャプションには、相談者の痛みに思わず目を潤ませる御影氏、とある。わざとらしい、と切って捨てたかった。全部計算だと思えれば、どれだけ楽だっただろうと思う。けれど、画面越しに見た御影の口調や、こうして紙面に落ちた言葉を読み返していると、その全部を単純な演技だと言い切るには、どこか引っかかるものがあった。人の傷を覗き込む目つきがうますぎる。ただ真似しているだけの人間の上滑りした優しさとは、少し違う気が
last updateLast Updated : 2026-05-06
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47.眠れる場所

日付が変わるころ、ようやく机の上の紙がひとつの山に戻った。芳人の部屋は静かだった。事務所での作業を切り上げてそのまま流れ込んできたせいで、どこか仮の避難所のようでもあり、もう何度か出入りした場所らしい馴染みもあった。照明は落としてあり、リビングの隅にあるフロアランプだけが、床と低いテーブルの輪郭を鈍く浮かび上がらせている。外の道路を走る車の音も、この高さまで来ると、遠い波のようにしか聞こえなかった。ソファの前には、持ち帰った資料の一部がまだ残っていた。御影の番組発言を書き起こした紙、雑誌記事のコピー、美里の検索履歴の時系列、相談所から別院、総本山へ繋がる導線を書いた図。どれももう一度見返す気力はないのに、片づけてしまうにはまだ頭から剥がれきっていない。机の上から目を逸らしても、あのやさしすぎる声だけが耳の奥に残りつづけていた。あなたは悪くない。ひとりで抱えなくていい。その言葉が、慰めではなく、今夜の和希には逆に神経を擦る音のように思えた。美里がその声を聞いた夜を想像してしまったせいだった。責められなかったことに、どれほど救われたと思ったのか。どれほど簡単に、自分だけではもう持ちきれないものを差し出してしまったのか。その想像を止めようとするたび、かえって細部だけが濃くなっていく。和希はソファの端に腰を下ろしたまま、指先で自分の眉間を押さえた。頭が重い。けれど眠気とは違う。目の奥がじんと痛むのに、神経だけが薄く冴えている。こういう夜は分かっていた。布団に入っても眠れない。目を閉じるほど、紙の上の文字や動画の中の顔が、裏側に張りついて離れなくなる。芳人はキッチンで湯を沸かしていた。薬缶ではなく電気ケトルが小さく鳴るだけの簡素な音だったが、それでも無音よりはましだった。部屋の中に生活の動きがひとつあるだけで、張りつめきった神経が少しだけ現実へ引き戻される。「飲むか」振り向かないまま、芳人が言った。和希は返事をするより先に、曖昧にうなずいた。声を出すと、今の自分の疲れがそのまま音になりそうだった。しばらくして、湯気の立つマグカップが目の前に置かれた。甘くも強くもない、ただ温かい匂いがした。ハーブなのか
last updateLast Updated : 2026-05-07
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48.独占の気配

和希が完全に眠りへ落ちたのを確かめてからも、芳人はしばらく背中に置いた手を動かさなかった。浅い呼吸が、少しずつ深くなっていく。首筋に張りついていた硬さも、さっきまでとは違っていた。まだ緊張は残っている。それでも、起きていたときの和希の身体に常にあった、いつでも身を引けるような微かな反発が、眠りの中ではほどけていた。それが、芳人にはひどく珍しかった。和希は眠ることに向いていない顔をしている、と前から思っていた。目を閉じていても、どこかで起き続けている顔だ。身体だけが横になり、神経はずっと薄く張られたまま、少しの音でもすぐ現実へ戻ってきてしまうような眠り方をする。そういう人間が、今は自分の手の下でようやく沈んでいる。その事実に、胸の奥が静かに緩んだ。ただ、緩むだけでは終わらない。安堵とよく似た形で、もっと別のものが、その下にゆっくり満ちてくる。こんなふうに眠れるのが自分のそばだけならいい。外で無理をして、他人の前では張りつめたままの和希が、ここでだけ力を抜くなら、それでいい。そう思う声が、あまりにも自然に立ち上がる。芳人は一度だけ目を閉じてから、和希の肩に触れた。起こさないようにゆっくり体勢を変えさせると、和希は眉を寄せることもなく、ただわずかに身じろぎしただけだった。ソファでは深く眠れない。そう思い、芳人は片腕を背中へ差し込み、もう片方の腕を膝の裏へ入れた。持ち上げた体重は軽くはない。けれど抵抗がないぶん、驚くほど静かだった。眠ったままの和希は、起きているときよりずっと無防備だった。首筋が白く伸び、閉じた睫毛の影が頬に落ちている。こうして運ばれていることも知らずに、呼吸だけを規則正しく繰り返している。その無防備さを見ていると、胸の奥の安堵はさらに濃くなり、そのまま輪郭を変えていく。寝室の照明はつけず、リビングから漏れる淡い光だけで足元を確かめる。ベッドに下ろすと、和希は薄く息を吐き、シーツの上で自然に身体を丸めた。寒がるわけではないのに、眠るときだけ少し縮こまる癖があるらしかった。芳人は掛け布団を肩まで引き上げ、そのまましばらく見下ろした。頭が止まっている。それが分かった。
last updateLast Updated : 2026-05-08
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49.まだ残っている声

深夜の事務所は、昼間よりも機械の音がはっきり聞こえた。空調は切ってあるのに、デスクトップPCの排熱だけが足元にわずかな熱を溜めている。モニターの白い光が机の上を平たく照らし、紙の端やUSBケーブルの影を青白く落としていた。キーボードを叩く音が止むと、今度は外の車の走行音が遠くから薄く染み込んでくる。それすら途切れると、部屋の静けさは、水の底みたいに重くなる。和希はノートパソコンの前に座ったまま、画面から目を離せずにいた。これまで見てきたものだけで、もう十分だったはずだった。ノート、検索履歴、予約メール、送金記録、相談所から別院へ移る導線、御影の顔、黒瀬の運用。美里が何に縋り、どう囲われ、どこで削られていったのかは、痛いほど見た。もう新しい真実など、要らないとさえ思うくらいには。それでも今夜だけは、妙に神経が研がれていた。終わっていない。理由のない確信に近かった。説明できる根拠はない。ただ、まだ何かが残っている気がしていた。文章や数字や履歴の外側に、美里が最後まで手放さなかったものが、どこかに沈んでいるような感覚が、ずっと喉の奥に引っかかっていた。芳人は向かいの席で、古いスマートフォンと小型の外付けストレージを並べていた。美里が機種変更前に使っていた端末、クラウドの同期履歴、PCのバックアップフォルダ、予約送信メールの下書き領域、メモアプリの保存先。紙の資料を追うのとは違う、開いていない引き出しをひとつずつ探る作業だった。「クラウドは一回洗ったが、同期漏れがあるかもしれない」芳人が低く言った。「写真とテキストだけで見てると、音声系は後回しになりやすい。端末側にしか残ってないこともある」和希は小さくうなずいた。返事をするより先に、視線は画面の中のフォルダ構成を追っていた。日付ごとに並んだバックアップ。規則正しく見える名前の列。写真、動画、メモ、キャッシュ、添付ファイル。どれも無機質で、ここに美里がいるとは到底思えない。なのに、今夜はその無機質さの奥に、逆に何かが潜んでいる気がした。「佐伯から来てた一覧、開くか」芳人が別ウィンドウを立ち上げる。佐伯が昼のうちに整
last updateLast Updated : 2026-05-09
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