All Chapters of 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで: Chapter 31 - Chapter 40

58 Chapters

30.考えなくていい時間

日付が変わる頃には、和希はもうまともに考える力を使い切っていた。白燈院の予約導線。相談メール。深夜の検索履歴。削られていった生活費。食費の痩せ方。通帳の数字。コンビニの少額決済。どれも一つずつなら処理できるはずのものなのに、全部が頭の中で同時に回り続けていた。美里の字で書かれた「兄さんに頼れと言われた」という一文まで、そこへ何度も混じる。事務所の時計はもう深夜を指していた。ブラインドの向こうの街の灯りも、最初よりまばらになっている。紙の束を整理する音も、キーボードの音も、いつの間にか止まっていた。芳人がノートパソコンを閉じる気配がしても、和希はすぐに顔を上げられなかった。視線は机の上の明細の束に落ちたままだ。数字を見ているのに、もう頭に入ってこない。ただ白い紙の上に、黒い文字が等間隔で並んでいるだけに見える。その整った並び方さえ、いまは神経を逆撫でする。「今日はもう終わりだ」芳人の声が低く落ちた。和希は返事をしなかった。終わりだと言われても、頭の中は終わらない。むしろ手を止めた瞬間から、昼間に見たもの全部がまた濃くなる。美里の部屋の匂い。冷蔵庫の卵。伏せたままのグラス。改札前の明るさ。相談所へ続くメールの文面。気づけば呼吸が浅くなっている。「帰るか」芳人はそう言ったが、その問いに和希はすぐ答えなかった。帰れば、自分の部屋にひとりになる。洗面台の前で顔を洗い、灯りを消して、目を閉じても閉じなくても、検索履歴の時間が浮かぶだろう。午前二時十三分。二時二十七分。三時十一分。誰にも言えない 苦しい。消えたい。そういう語を、美里がひとりで打っていた夜の長さを、自分ひとりで受けることになる。いま、それができる気がしなかった。「……帰っても、たぶん寝れない」和希はようやくそう言った。声は、自分で思っていたより素直だった。強がるための余力ももうない。芳人はしばらく何も言わずに和希を見た。その沈黙に、和希は少しだけ苛立つ。分かりきったことを見抜いた顔で黙られるのが嫌だった。けれど今は、その苛立ちさえ長くは続かない。
last updateLast Updated : 2026-04-20
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31.会社の名札

昼を少し過ぎた頃、芳人の事務所の窓には、白すぎる秋の光が斜めに差し込んでいた。夜の調査と違って、昼の光の下では、書類も端末も輪郭がはっきりしすぎる。机の上に並べたファイル、社員証、名刺入れ、スケジュール帳、会社の封筒。どれも昨日までは、ただの勤務先の持ち物に見えただろう。だが今は、その一つひとつが、美里の私生活へ続く別の入口みたいに思えた。和希は美里の社員証を指先で持ち上げた。細いストラップのついたプラスチックのケースに、証明写真が収まっている。少しだけ口元を引き締めた、仕事用の顔だった。私服でも、実家でも、兄と飯を食う時でもない、美里が会社で使っていた表情。名札の下には社名と部署名があり、その下にフルネームが整った活字で印字されている。社員証ひとつで、急に「働いていた人間」になるのが嫌だった。美里はもちろん働いていた。そんなことは分かっている。毎日会社へ行き、取引先に頭を下げ、メールを返し、会議に出ていたはずだ。だが兄として知っていたのは、その大枠だけだった。忙しい、疲れた、最近少ししんどい。そういうぼんやりした輪郭しか持っていなかった。社員証に印字された部署名や、首から下げていた名札の重さまでは、何も知らない。「勤務先の端末は、ログインできる範囲だけ見る」芳人が、向かいの机から言った。ノートパソコンを開き、メモ用のファイルを立ち上げたまま、声だけが低く届く。「私用と業務の境目が曖昧になってるところを拾う。最初から私的な男を探すんじゃなくて、仕事の流れの中で浮く相手を見る」和希は社員証を机の上へ戻した。「分かってる」そう返しながらも、胃の奥は少しだけ硬かった。白燈院までは、まだ「苦しんだ妹」と「搾取した側」という構図で見られた。けれど勤務先を辿れば、その手前にいるもっと俗な現実が出てくる。会社、取引先、担当者。そこにただの男がいる気配がする。それが、和希には妙に嫌だった。美里の私用ノートパソコンの中には、会社用メールを確認するためのウェブ画面の履歴が残っていた。完全な社内端末ではないが、業務を家に持ち帰る時に使っていたのだろう。ログイン状態が切れていなか
last updateLast Updated : 2026-04-21
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32.優しかった男

夕方の光が事務所のブラインド越しに細くなったころには、机の上の紙の束は、もう「勤務先の書類」ではなく「美里の周囲にいた人間の痕跡」に見え始めていた。社員証。名刺。スケジュール帳。業務用メールの控え。私用の端末に残っていた、勤務時間外の短いやり取り。そのどれもが、最初は仕事の延長にしか見えなかった。取引先の担当者と、窓口を任されていた若手社員。社外のやり取りとしてはやや頻度が多いが、まだ不自然と断じるには弱い。和希はそう思おうとした。そう思って、少しでも物事を単純な怒りの形に変えたかった。だが、倉田健介という名前の周辺だけは、紙をめくるたびに嫌な温度を帯びていった。和希はスマートフォンに残っていたやり取りを、画面を複製したデータのほうで追っていた。件名のある正式なメールから、社外メッセージアプリの短い文へ少しずつ移っていく。最初は本当に業務だ。資料ありがとうございます。日程変更可能でしょうか。先方への共有は本日中に行います。文面は整い、美里の返信も丁寧で、余計な隙はない。その整った往復の中に、ほんの少しだけ別の言葉が混ざり始める。今日、顔色悪かったけど大丈夫資料の件は急がなくていい。ちゃんと休んで帰れた?そのたびに、美里は最初、やはり業務の体裁を崩さず返している。ありがとうございます。少し疲れていただけです先ほど帰宅しました。お気遣いありがとうございますすみません、ご心配おかけしました何もおかしくない。何もおかしくないはずなのに、その「気遣い」の入り方だけが、少しずつ業務の線を越えていく。見積や日程のあとに、体調を気遣う一文がつく。会議のお礼のあとに、帰宅確認が入る。ほんの一行。ほんの一言。それだけのことが、じわじわと距離を変えていく。和希は、あるやり取りのところで指を止めた。金曜の夜、二十二時を少し回った時刻だった。業務の件名はなく、本文だけが残っている。今日は無理させて悪かった温かいもの飲んで、すぐ寝ろ
last updateLast Updated : 2026-04-22
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33.少しだけ産みたかった

夕方の光が完全に落ちる前に、事務所の空気だけが先に冷えていった。机の上には、すでにいくつもの束ができている。白燈院関連の支払い。相談導線のメール。勤務先と倉田のやり取り。交通履歴。削られていった生活費の流れ。そこへさらに、芳人が別のフォルダを開いた。美里のスマートフォンと、ノートパソコンのメモアプリを同期したバックアップの断片だった。完全に残っているものばかりではない。削除されたメモ、保存されなかった下書き、途中で閉じた入力欄の残り。断片的で、順番も混じっている。けれどその断片のほうが、かえって生のまま残ることがある。「こっち見ろ」芳人が画面を少し回した。和希は椅子を引き寄せ、ディスプレイへ視線を落とした。最初に見えたのは、メモアプリの一覧の中に残っていた、ごく短いタイトルだった。どうする消す病院それだけの、何の説明もない題名。美里は、誰にも見せるつもりのないものほど、名前をつけないまま保存していたのかもしれない。あるいは、名前をつける前に気持ちのほうが先に溢れて、ただ開いては閉じていただけなのかもしれない。芳人が「病院」とだけあるメモを開いた。そこには日時と駅名、クリニック名の断片が並んでいた。婦人科の初診予約確認メールの文面も、その下に貼りつけられている。初診のご予約ありがとうございます。ご来院の際は保険証をご持参ください。診察内容により、お時間をいただく場合がございます。何の感情もない、普通の予約メールだった。白燈院の相談予約と同じくらい、普通の文面。だからこそ胸に来る。美里はここにも、ちゃんと自分で辿り着いていたのだ。検索して、予約して、日時を控えて、駅名をメモしている。それはつまり、最初から何もかもを諦めていたわけではないということだった。和希は次の行を読んで、指を止めた。産みたいとか思ったらだめなんだろうかその一文だけが、ぽつんと残っていた。芳人は何も言わない。けれど和希には、その沈黙の重さが分かった。いま、二人とも同じ文を見ている。たった一行。誰に
last updateLast Updated : 2026-04-23
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34.切ったのは、生活を守るため

事務所の照明は、夜になるほど白く冷たく見えた。昼のあいだはまだ外光が混じっていたはずなのに、日が落ちてからは、机の上の紙も、ノートパソコンの縁も、コップの水の透明さまで、必要以上にはっきり見える。感情を挟む余地がない光だと和希は思った。だから今夜の調査には向いているのかもしれないし、向いていないのかもしれなかった。倉田とのやり取りを時系列で並べると、あるところから空気が変わる。それは、中絶の前ではなく、その直後からだった。和希はスマートフォンのメッセージ履歴と、メールの送受信、カレンダーの予約痕跡、それに産婦人科の来院確認メールの時刻を照らし合わせながら、紙に日付を落としていた。芳人は向かい側で、別の端末からバックアップの断片を拾い、欠けている部分をつなぎ合わせている。二人ともほとんど喋らない。必要なことだけを短く確認し、それ以外は画面と紙を見続けていた。最初に和希が気づいたのは、倉田の優しさが「消える」のではなく、「薄まる」ことだった。中絶の予約前後には、倉田からの文面がまだ近い。病院、ひとりで行かせない終わったら連絡して今日は無理しなくていい通知の断片だけで全文は残っていない。だが、その切れ端だけでも十分だった。付き添うつもりの言葉。終わったあとを気にする言葉。無理をするなという言葉。そこだけ切り取れば、責任感のある男にも見える。最低限、逃げずに立っている人間の文面に見える。和希はそれが余計に嫌だった。「付き添ったのか」低く呟くと、芳人が画面から目を離さずに答えた。「その可能性は高い」「最初は逃げなかったってことか」芳人はそこで初めて視線を上げた。「少なくとも、最初の段階ではな」最初の段階では。その言い方が、和希にはひどく冷たく聞こえた。だが事実なのだろうと思う。倉田は、完全な外道のように最初から姿を消したわけではない。そこがまた気持ち悪い。病院の予約を前にして、ひとりで行かせないと言える。終わったら連絡しろと言える。その程度の責任感はある。あるいは、責任感
last updateLast Updated : 2026-04-24
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35.殴っても戻らない

倉田の会社の入ったビルを地図で開いた瞬間、和希の中で何かが切れた。画面の上に表示されたのは、駅前のオフィス街にある、ごく普通の中規模ビルだった。低層階にはコンビニとクリーニング店が入り、上階にいくつかの企業が入居している。倉田の会社名はそのテナント一覧の中に、何の引っかかりもない顔で並んでいた。外から見れば真面目な会社だ。営業二課。主任。家族あり。休日は娘と過ごす。そういう情報が、いまや一つの男の輪郭としてはっきり固まっている。和希はその画面を見たまま、椅子を引いた。音が思ったより大きく鳴った。芳人が顔を上げる。だが和希はその視線を見なかった。机の上に散らばった紙も、ノートパソコンの白い画面も、もう目に入らない。ただ、駅名とビル名だけが、妙に具体的な現実として浮いている。触れられる距離だ、と思った。白燈院はまだ遠い。構造で、導線で、証拠を集めなければならない相手だ。だが倉田は違う。名前があり、会社があり、ビルがあり、毎朝そこへ通っている。顔のある男だ。会いに行ける。待ち伏せできる。腕を掴める。問い詰められる。殴れる。その想像が頭をよぎった瞬間、和希は立ち上がっていた。「和希」芳人の声が飛ぶ。和希は返事をしなかった。鞄も持たずにドアへ向かう。どこへ行くのか、自分でも説明できる気はしなかった。ただ、このままここに座って文字と履歴を見続けていたら、自分の中の熱が行き場を失う気がした。倉田に会う。会って、顔を見て、聞く。何を聞くのかもまとまっていない。なぜ美里にあんなことを言えたのか。少しだけ産みたかった希望を、どうして正しさの顔で潰せたのか。なぜ切ったのか。なぜ自分だけ元の生活に戻れたのか。そういう問いが、喉の奥で全部塊になっている。「どこ行く」今度は少し近い位置から、芳人の声がした。和希はドアノブに手をかけたまま言う。「分かるだろ」振り返らない。振り返ったら止まる気がしたからだ。「止めろ」その一言に、和希は初めて振り向いた。「何で」声が荒い。自分でも
last updateLast Updated : 2026-04-25
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36.何も考えなくていいように

事務所を出たあとも、和希の中ではまだ倉田の言葉が止まらなかった。現実的じゃない。お前のためにも。元の生活に戻るべきだ。どれも穏やかな文面だったはずなのに、いま思い返すと、白い壁に何度も叩きつけられるみたいに硬く響く。倉田の顔。会社の名札。家族がいるという紹介文。娘と過ごす休日。そういう普通の生活の輪郭の中に、自分だけ何もなかったことみたいに戻っていく男の後ろ姿が、頭の中で何度も繰り返される。そこへ美里の声が重なる。少しだけうれしかった。産みたいとか思ったらだめなんだろうか。兄さんに頼れと言われました。会いたかった。助けてほしかった。でも言えなかった。もう、どこからどこまでが誰の言葉なのか分からない。ただ全部が頭の中で同じ熱を持って騒いでいる。その熱に押されるみたいに、和希は駅からの帰り道をほとんど何も見ずに歩いた。芳人の部屋へ入ってからも、すぐには座れなかった。前にも来たことのある部屋だ。間接照明の色も、余計なもののないテーブルも、揃いすぎた本棚も変わらない。なのに今夜は、その整い方さえ神経に障った。自分の中はこんなにうるさいのに、部屋だけが静かすぎる。コートを脱ぐ。鞄を置く。ノートと明細の束が入った重みが、肩から離れても消えない。むしろ身体の内側へ沈んだみたいに残る。芳人は何も急かさなかった。水をひとつ置き、ソファを示し、それきり黙っている。その抑制がいつもなら腹立たしいのに、いまはそれに噛みつく気力も和希にはなかった。ソファへ腰を下ろす。深く座ったつもりが、身体は少しも休まらない。首の後ろが硬い。背中が重い。こめかみの奥だけがじくじくする。疲れているはずなのに眠気はない。目を閉じれば、すぐに別の画面が浮かぶからだ。深夜二時の検索履歴。白燈院東京相談室。倉田からのメッセージ。中絶の予約確認。少しだけ産みたかった、という一文。考えるのをやめたい、と思った。けれど自分ひとりでは止められないことも、もう分かっていた。
last updateLast Updated : 2026-04-26
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37.相談所の先に続いていた道

芳人の事務所の机は、いつの間にか地図を置くための広さになっていた。白燈院東京相談室の予約確認メールを印刷した紙、その隣に美里のノートのコピー、送金履歴、交通系ICの利用明細、スマートフォンの検索履歴を時系列に抜き出した一覧、そして駅名に丸をつけた路線図。今まで追ってきたものが、一枚一枚ではなく、流れとして目の前に並べられている。和希は、その紙を前にして座っていた。前なら、この量の情報を前にしただけで息が詰まっていたはずだと思う。美里の字が見えれば胸が痛み、検索語を見れば指が止まり、予約メールのやさしい文面を見れば怒りと吐き気で考えるどころではなくなっていた。いまも痛みは薄れていない。むしろ前より深いところへ沈んでいる気がする。ただ、それが深くなりすぎたせいで、もう整理しなければ自分が持たない。そういう冷たさで、和希は紙を並べられるようになっていた。立ち直ったわけではない。ただ、壊れたままでも手を動かさなければならない段階に来ただけだ。芳人は机の向かいに立ち、印刷した地図の端を指で押さえていた。事務所の白い照明は今日も容赦がない。外の空はまだ夕方の色を残しているのに、室内の光だけは最初から結論を求めるみたいに冷たい。「もう一回、移動だけで追う」芳人が低く言った。和希は頷いた。返事をする代わりに、交通履歴の束を引き寄せる。美里のIC利用明細は、駅名と時刻の羅列でしかない。日付、乗車駅、降車駅、残額。ひとつずつ見れば何の意味もない。ただの移動記録だ。だが相談所の予約メールと、供養料の支払い時刻と、スマートフォンの検索履歴を横に並べると、その何でもなさが不気味な輪郭を持ち始める。最初の頃、美里が向かっていたのは都内の相談室だけだった。会社帰りの夜。自宅最寄りから都心へ向かい、相談所のある駅で降り、九十分から二時間ほど滞在して戻る。乗換も少なく、移動時間も長くない。相談を受ける場所として見れば、むしろ自然だ。平日の仕事終わりでも通える距離。駅から徒歩圏内。予約確認メールの文面どおり、「無理のない範囲」で行ける設計になっている。そこまでは、もう和希も分かっていた。問題
last updateLast Updated : 2026-04-27
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38.西峰別院

芳人の事務所で地図を見ていたときには、西峰別院という名前はまだ紙の上の一点にすぎなかった。都内相談室から西へ伸びる路線図の先、乗り換えを二度挟んだ郊外の駅。その先に、白燈院西峰別院と記された建物群がある。送金履歴の増額と、移動距離の変化と、案内メールの文面が、そこできれいに噛み合っていた。和希はその地図を見下ろしたまま、しばらく何も言えなかった。東京相談室だけなら、まだ分かる。仕事帰りでも寄れる。駅から近い。相談に行く場所として、ぎりぎり現実の範囲にある。だが西峰別院は違う。ここへ行くには、時間も、交通費も、意志もいる。少し苦しいから寄ってみる、では済まない距離だ。そこへ美里は何度か通っていた。それでも、和希は最初、別院という言葉に露骨な異様さを重ねていなかった。山奥の怪しい施設や、派手な宗教施設をどこかで想像していたのかもしれない。だが印刷した案内文を見れば、そのイメージはすぐに崩れた。白地に墨色の控えめな文字。西峰別院 月例供養のご案内ご事情により通常のご供養のみではお心が落ち着かない方へ個別のご相談も承ります穏やかな文面だった。花の写真も、堂内の静かな床も、外観の白い壁も、どれも整っていて、押しつけがましさがない。安っぽい霊感商法の匂いではなく、むしろ「ちゃんとした宗教施設」に見える。そこが、和希には逆に不気味だった。「行くか」芳人が低く言った。和希は顔を上げる。質問というより確認に近い声だった。資料だけで追えないわけではない。送金履歴も、案内メールも、地図もある。だが現地を見なければ分からない種類のものがあることも、和希にはもう分かっていた。「……行く」返した声は、思っていたより平坦だった。感情がなくなったわけではない。ただ、怒りや痛みが深くなりすぎて、逆に表面には出てこない。動かなければ持たないから動く。その冷えた感じが、今の和希には一番近かった。都心から西へ向かう電車は、最初のうちはいつもの東京の色をしていた。高いビル、広告の多いホーム、乗り降りの激しい
last updateLast Updated : 2026-04-28
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39.白焔霊峰寺

芳人の事務所へ戻った頃には、外はもう完全に夜だった。高台から見下ろした西峰別院の白い建物群が、まだ目の奥に残っている。都心から少しずつ離れ、送迎車の乗り場があり、石灯籠と供養塔が並ぶ、ちゃんとした宗教施設の顔。そこまででも十分に嫌だったのに、事務所へ戻って机の上に広げられた資料は、そのさらに先があることを静かに示していた。白焔霊峰寺。総本山の案内冊子の表紙には、その名が墨色で入っていた。紙質は安っぽくない。光沢を抑えた厚手の用紙に、霧のかかった山並みと、その中腹へ張りつくように建つ大きな伽藍が印刷されている。観光パンフレットほど軽くなく、宗教法人の公式刊行物として見れば何もおかしくない上品さだった。和希は椅子へ座る前に、その冊子をしばらく見ていた。白焔霊峰寺。白燈院の総本山。名前だけ見れば、どこか古い霊場にも聞こえる。新興宗教の施設というより、長い歴史を持つ山寺か、修験の道場みたいな響きだ。その印象の操作まで含めて、和希には気味が悪かった。芳人が机の中央へ冊子と印刷資料を揃える。「送付物のログに残ってた」低く言って、冊子を開いた。最初の見開きに出てきたのは、山門だった。石造りの大きな門ではない。黒ずんだ木の太い柱と、重い屋根瓦を支えた、いかにも古刹らしい山門だ。門前には杉の木立が並び、その奥へ長い石段が続いている。朝靄のような薄い霧の中に、僧形の影が小さく写り込んでいた。和希はそれを見た瞬間、嫌なものが胸に沈むのを感じた。本物に見える。それがまず、最初に来る感情だった。派手な装飾も、分かりやすい奇矯さもない。巨大な宗教施設にありがちな過剰な金色や大仰な御利益の文字もない。ただ、山門と石段と杉木立だけで、「ここには長く続いてきた霊場の空気がある」と思わせる写真になっている。ページをめくる。次は護摩堂だった。堂内の暗がりの中で護摩木が焚かれ、炎だけが高く立ち上っている。天井は高く、梁は太い。僧の読経らしき場面を写した写真では、手前に正座した参拝者たちの背中が整然と並び、その先に火と
last updateLast Updated : 2026-04-29
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