日付が変わる頃には、和希はもうまともに考える力を使い切っていた。白燈院の予約導線。相談メール。深夜の検索履歴。削られていった生活費。食費の痩せ方。通帳の数字。コンビニの少額決済。どれも一つずつなら処理できるはずのものなのに、全部が頭の中で同時に回り続けていた。美里の字で書かれた「兄さんに頼れと言われた」という一文まで、そこへ何度も混じる。事務所の時計はもう深夜を指していた。ブラインドの向こうの街の灯りも、最初よりまばらになっている。紙の束を整理する音も、キーボードの音も、いつの間にか止まっていた。芳人がノートパソコンを閉じる気配がしても、和希はすぐに顔を上げられなかった。視線は机の上の明細の束に落ちたままだ。数字を見ているのに、もう頭に入ってこない。ただ白い紙の上に、黒い文字が等間隔で並んでいるだけに見える。その整った並び方さえ、いまは神経を逆撫でする。「今日はもう終わりだ」芳人の声が低く落ちた。和希は返事をしなかった。終わりだと言われても、頭の中は終わらない。むしろ手を止めた瞬間から、昼間に見たもの全部がまた濃くなる。美里の部屋の匂い。冷蔵庫の卵。伏せたままのグラス。改札前の明るさ。相談所へ続くメールの文面。気づけば呼吸が浅くなっている。「帰るか」芳人はそう言ったが、その問いに和希はすぐ答えなかった。帰れば、自分の部屋にひとりになる。洗面台の前で顔を洗い、灯りを消して、目を閉じても閉じなくても、検索履歴の時間が浮かぶだろう。午前二時十三分。二時二十七分。三時十一分。誰にも言えない 苦しい。消えたい。そういう語を、美里がひとりで打っていた夜の長さを、自分ひとりで受けることになる。いま、それができる気がしなかった。「……帰っても、たぶん寝れない」和希はようやくそう言った。声は、自分で思っていたより素直だった。強がるための余力ももうない。芳人はしばらく何も言わずに和希を見た。その沈黙に、和希は少しだけ苛立つ。分かりきったことを見抜いた顔で黙られるのが嫌だった。けれど今は、その苛立ちさえ長くは続かない。
Last Updated : 2026-04-20 Read more