All Chapters of 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで: Chapter 21 - Chapter 30

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20.差し出す手

ソファに腰を下ろしたまま、和希はしばらく動かなかった。部屋は静かだった。棚の上の小さな時計が、規則正しく秒を刻む。ローテーブルの上のグラスには手をつけていない水があり、表面だけが淡く光っている。芳人は向かい側に立ったまま、何も急かさない。その沈黙が、かえって和希を追い詰めた。もっと分かりやすく欲しがられたほうがよかった。命令されるか、見下されるか、露骨に値踏みされるか。そういう形なら、自分が何をしに来たのかを、もっと単純に割り切れた気がする。だが実際には違った。部屋は整いすぎていて、芳人も静かで、約束だけがそこにある。その静けさの中で、自分の意思でここへ来て、自分の意思で帰らないことを選んでいる事実だけが、和希の胸に残る。和希は膝の上に置いた手をゆっくり握った。払うのだ、とあらためて思う。美里のために動くなら、自分だけが何も失わずに済むはずがない。そんな理屈は誰にも求められていないのに、和希の中ではそれだけが妙にまっすぐだった。代価がなければ前へ進めない。美里が最後まで自分を守っていたと知ってしまった今、自分だけが手を汚さず、痛みだけを訴える側にいることがどうしても許せなかった。和希は顔を上げないまま言った。「……どうすればいい」声は低く、乾いていた。芳人は答えなかった。その沈黙に、和希の中で何かが決まる。待っているだけでは駄目だと思った。ここまで来て、さらに相手の指示を待つのでは、自分が何を差し出そうとしているのかが曖昧になる。だから和希は、自分から動いた。上着はもう脱いでいる。次に、シャツのいちばん上のボタンへ手をかけた。指先だけが妙に正確だった。震えていないわけではない。だがその震えを見せまいとするほど、動きだけが無駄なくなる。ひとつ外す。次にもうひとつ。布が擦れる音が、静かな部屋の中で小さく鳴った。誘っているのではない。準備をしているだけだ。やるべきことを済ませるみたいに、自分を処理しているだけだ。その感覚が、和希自身にもはっきり分かった。羞恥はある。喉の奥
last updateLast Updated : 2026-04-10
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21.覚えさせる指

芳人はしばらく和希を見ていた。顔を背け、肩だけを固くして、早くしろと投げるように言った和希を、そのまま飲み込むような視線では見なかった。むしろ、ひどく冷静に観察していた。ここへ来た理由が欲望ではないことも、差し出しているつもりで実際には自分を切り離そうとしていることも、全部見抜いている目だった。「立て」低い声で言われ、和希は一瞬だけ動かなかった。命令されること自体は想定していたはずなのに、その短い一言がひどく現実味を持った。和希は舌打ちしたい気分のまま、ソファから腰を浮かせる。立ち上がった瞬間、部屋の広さが変わる。整いすぎた空間の中で、自分の居場所だけがひどく不安定になる。芳人は手首を取った。強くではない。逃げようと思えば振りほどける程度の力だ。だがその力加減が、逆に和希の神経に障る。乱暴に引かれたほうがまだ分かりやすかった。これは丁寧すぎる。丁寧であることが、和希の中の理屈を狂わせる。「……痛くしろよ」思わず、そんな言葉が漏れた。自分でも何を言っているのかと思う。痛くしてほしいわけではない。乱暴にされたいわけでもない。ただ、そうでなければ納得できないのだ。罰なら罰らしい形をしていてほしい。そうでなければ、自分がここにいる意味が曖昧になる。芳人はその言葉に反応を返さなかった。ただ和希の手首を引き、ソファの端へもう一度座らせる。自分は正面ではなく、少し斜めの位置に立つ。その距離の取り方さえ、和希には逃げ場がない。押し倒されるわけではないのに、どこへも身を逃がせない角度だった。「力、入りすぎだ」耳元に近い低さで言われ、和希は反射的に肩をこわばらせた。その反応を待っていたみたいに、芳人の指が首筋に触れる。そこだけ、皮膚の温度が急に露わになる。和希は思わず息を止めた。止めたせいで、余計に呼吸が浅く乱れる。芳人はそこを見逃さない。首筋から耳の後ろへ、指先がごく静かに移動する。触れているか、いないかのぎりぎりの軽さなのに、その曖昧さがかえって神経に残る。和希は目を閉じた。見られ
last updateLast Updated : 2026-04-11
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22.罰にならない快楽

和希は、喉の奥で自分の声が潰れたあと、しばらく何も言えなかった。部屋は静かだった。時計の音も、空調の風も、さっきまで確かにそこにあったはずなのに、いまは遠い。代わりに、自分の呼吸だけがやけに近い。浅く、うまく整わない。胸の上下を抑えようとするほど、余計に乱れる。口元を押さえた手首を、芳人は外さなかった。止めるでもなく、払うでもなく、ただそのままにさせたまま見ている。そこがまた、和希には耐えがたかった。乱暴にされるならまだ納得できた。力で黙らされるなら、罰だと思えた。だが実際には違う。芳人は奪い取るかわりに、和希が自分で崩れる瞬間だけを正確に拾ってくる。それが屈辱だった。和希は歯を食いしばり、目を閉じた。こうなるはずじゃなかった、と思う。差し出すつもりだった。払うつもりだった。美里のために動くなら、自分だけが何も失わずに済むはずがないと、その理屈でここまで来た。だから受けられると思っていた。痛みでも、嫌悪でも、屈辱でも、自分に向けて飲み込めると思っていた。けれど、いま起きていることは、その筋書きの上にきれいに乗ってくれない。身体だけが先に揺れてしまう。逃げたいわけではない。拒みたいわけでもない。ただ、受け入れたくないのに、神経のほうが勝手に反応してしまう。そのずれが、和希には何よりきつかった。罰なら、受けられる。でも、罰にならないなら話が違う。その認識が、遅れて胸に刺さる。和希は顔を背けたまま、もう片方の手でソファの端を掴もうとして、途中でそれをやめた。指先が行き場を失い、そのまま芳人のシャツの袖を掴む。縋るつもりではなかった。ただ、どこか固定できるものがほしかった。息が崩れたまま宙に浮いている身体を、とりあえず何かにつなぎ止めたかった。だがその仕草が、自分で思っていた以上に情けなかった。拒むでもなく、逃げるでもなく、耐えるために相手の服を掴んでいる。その事実に、和希は目を閉じたまま顔をしかめた。「……最悪だ」掠れた声でそう言うと、芳人
last updateLast Updated : 2026-04-12
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23.まだ抱かない

和希は、もう来るのだと思っていた。どんな形でもいいから、ここで終わるものが欲しかった。痛みでも、決定的な何かでも、もう言い訳できない線でもいい。曖昧な途中のまま浮かされているほうが、ずっと苦しい。そう思っている自分に気づいた時点で、和希の理屈はすでに崩れていた。だから、次を待ってしまった。ソファの端に座ったまま、呼吸だけが乱れている。指先はまだ芳人のシャツを掴んでいて、離すタイミングも分からない。自分の身体の内側に残っている反応が、和希にはほとんど異物だった。妹は死んだ。美里のノートはまだ机の上にある。白燈院を潰すための契約の続きとしてここにいる。そういう理屈の上にいるはずなのに、身体だけがそれと違う覚え方を始めている。そのことが、たまらなく嫌だった。だから和希は、半ば投げるように言った。「……早く終わらせろよ」声は掠れていた。命令でも懇願でもなく、ただこの宙ぶらりんな状態を切りたいだけの声だった。芳人はすぐには答えなかった。近い距離にいるのに、手はもう先へ進まない。和希はそれを一瞬理解できず、苛立ちだけが先に立つ。止まるな、と思う。ここまで来ておいて、なぜそこで止まるのか分からない。曖昧なままにされることのほうが、和希にはよほど残酷だった。「聞いてるのか」和希は顔を上げた。芳人の表情は、勝ち誇ってはいなかった。欲望に酔ってもいない。むしろ逆で、目の奥に苦いものを噛みしめているような硬さがあった。いま目の前にいる和希を、そのまま奪い切ることへの嫌悪を、自分の中でも処理しきれていない顔だった。それが和希には理解できず、余計に腹が立った。芳人はそこで初めて、低く言った。「今日はこれでいい」和希は意味を取れなかった。数秒遅れて、言葉だけが胸に落ちる。今日はこれでいい。終わりではない。だが最後までは行かない。そういう意味だと分かった瞬間、和希の中で何かが強く反発した。「……は?」芳人
last updateLast Updated : 2026-04-13
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24.身体だけが覚えている

マンションを出たあと、夜気は思っていたより冷たかった。それなのに、和希の皮膚の内側だけが妙に熱を持っていた。首元へ風が入るたび、そこだけ温度の感覚がずれる。シャツの襟を正しても、コートを着直しても、消えない。まるで服の下に別の薄い膜が一枚残っていて、それが身体の表面にぴたりと張りついているみたいだった。最低だと思う。芳人のことを、ではなく、まずそういう場所へ行き、そういう約束の続きを現実にした自分のことを。美里のノートを読んだばかりで、白燈院のことを追わなければならないと分かっているのに、今いちばん近いのが、自分の皮膚の内側に残っている違和感だということが許せなかった。駅までの道を歩きながら、和希は何度も首元を触りかけてやめた。触れたら、そこに何かが残っていることを認めることになる気がした。だが触れなくても、感覚は消えない。耳の後ろあたりへ、低い声の位置だけが妙に鮮明に残っている。手首の内側もそうだった。押さえられた力は強くなかったはずなのに、その軽さごと記憶されてしまっている。忘れたいのに、忘れようとするほど輪郭がはっきりする。電車に乗っても、窓に映る自分の顔は普通だった。ネクタイは外し、コートを着て、仕事帰りの男が少し疲れて帰るみたいな顔をしている。誰も見たところで、何かあったとは思わないだろう。妹のことを考え、眠れていない男にしか見えない。その普通さが、かえって気持ち悪い。見た目は何も変わらないのに、首筋と手首の奥だけが、もう元の位置に戻らない。和希は目を閉じた。怒っている。芳人に対しても、自分に対しても、こんなことをしている場合じゃないという思いに対しても、全部まとめて腹が立っている。ノートを見つけた夜の苦しさは消えていない。美里が最後まで自分を守ろうとしていたことも、兄さんに頼れと言われたことも、頭の中では一つも薄れていない。白燈院を潰さなければならない。そのために動くと決めた。それも変わっていない。なのに、いま胸にいちばん近いのは、美里の文字ではなく、自分の身体に残っている感覚のほうだった。それがたまらなく嫌だった。抱かれたわけでもないのに。
last updateLast Updated : 2026-04-14
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25.まだ帰ってこない部屋

鍵は、前に来たときと同じ重さのはずなのに、今日のほうがずっと指に食い込んだ。美里の部屋の前で、和希はしばらく鍵穴を見たまま動かなかった。共用廊下には昼の薄い光が斜めに差し込んでいて、手すりの向こうに見える隣のマンションの壁は、くすんだ白にしか見えない。どこかの部屋から洗濯機の低い振動が伝わってきて、少し離れた階では子どもの笑い声がした。生活の音だった。何も特別ではない、平日の途中の音だ。その普通さの中に、この扉だけがひどく私的に立っている。前に来たときは、部屋の中にある何かへ引きずり込まれるように入っていった。ノートを見つけるまでの時間は、どこか現実感が薄かった。だが今日は違う。調べに来たのだと、最初から意識している。何が残っていて、何が証拠になるのかを見に来た。そう思っているぶんだけ、扉の向こうにあるものが、もう美里の生活そのものとして見えてしまう気がした。和希は一度だけ息を吸い、鍵を差し込んだ。金属が擦れる乾いた音がして、錠が外れる。たったそれだけのことで、心臓が一拍遅く大きく鳴る。芳人は和希の少し後ろに立っていた。何も急かさない。ただ待っている。コートの袖口からのぞく手も、表情も、無駄に動かない。その静けさに助けられていることは分かる。けれど同時に、いら立ちの種にもなる。自分はまだ鍵を回すだけで喉が詰まるのに、芳人はもう「入ったあと」を考えている顔をしているからだ。扉を開ける。部屋の空気が、ゆるく外へ流れた。前回来たときより、少しだけ乾いている。けれど澱んでいるわけではない。洗った布の匂いと、化粧水の淡い香り、それに冷蔵庫の冷気が混じったような、一人暮らしの部屋の匂いがした。死の匂いではなく、昨日までの生活の匂いだ。和希は玄関の上がり框のところで、また止まった。靴をどこに置けばいいのか、一瞬だけ迷う。前にも同じように迷ったことを思い出して、そのことがさらに胸に刺さる。兄なのに、妹の部屋で靴を脱ぐ位置ひとつ知らない。知っていなくても兄妹でいられると思っていた距離が、いまはそのまま残酷さになって戻ってくる。「入るぞ」芳人の低い声が、後ろからごく短く届く。確認というより、
last updateLast Updated : 2026-04-15
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26.深夜の検索履歴

机の上に並べた端末のうち、最初に開いたのは美里のスマートフォンだった。和希は椅子に座り、画面の黒い反射の中に自分の顔を一瞬だけ見た。疲れているのか、寝不足なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からない顔だった。美里の部屋の匂いがまだそこにある。冷蔵庫の冷たい空気、化粧水の淡い香り、洗いかけの布の湿り気。そういう生活の匂いの中で、スマートフォンだけが白く光る。パスコードは、母の誕生日と美里自身の誕生日を二つ試して外れ、最後に和希の記憶にあった数字で開いた。昔、実家の宅配ボックスの暗証番号を変えたとき、美里が「忘れにくい数字にした」と笑っていたのを思い出した。そんなところまで、今は胸に刺さる。ロックが外れる。ホーム画面は驚くほど普通だった。天気アプリ、通販のアイコン、会社用のチャット、地図、動画配信、ドラッグストアのポイントアプリ。壁紙は特別な写真ではなく、淡いグレーの無地に近いものだ。誰かに見られることを想定した整え方だったのかもしれない。余計なものを見せない、少しだけ距離のある画面。「通知からじゃなくて、履歴を追う」芳人が背後から言った。和希は振り返らずに頷いた。「分かってる」声は低く乾いていた。自分でも驚くほど落ち着いている。その落ち着きが、かえって気味が悪い。妹のスマートフォンを開いているのに、手はちゃんと動く。アイコンを押し、画面を切り替え、必要な場所へ辿り着ける。そのこと自体が、少し嫌だった。ブラウザの履歴を開く。最初の数件は、予想通りだった。通販サイト。コンビニ受け取りの荷物照会。ドラッグストアの店舗検索。天気予報。乗換案内。仕事用と思われる業界ニュース。外から見える生活は、本当に普通だ。買い物をし、電車を調べ、天気を見て、ポイントを確認する。そういう、誰にでもある履歴が並ぶ。その普通さに、和希はわずかに安心しそうになる。けれどそのすぐ下で、時刻が変わった。午前二時十三分。検索語は短かった。中絶 供養和希の指がそこで止まった。画面の白さだけが急に強く見える。自分の
last updateLast Updated : 2026-04-16
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27.相談の顔をした入口

「これ……」和希の指は、予約確認ページらしき画面の上で止まったままだった。スマートフォンの白い光が、机の上の書類の端を青白く照らしている。美里の部屋の明かりは最初に入ったときより少し暗く感じた。窓の外はもう夕方に近く、カーテン越しの光は弱い。冷蔵庫の低い音と、芳人が立ったまま画面を覗き込む気配だけが、この部屋の時間を辛うじて前へ進めている。和希は履歴をひとつ戻した。相談サイトのトップページが開く。背景は白で、写真は淡い木目の机と、湯気の立つマグカップ、それから窓辺の小さな植物。宗教の匂いはほとんどない。寺院の名前も、経文も、金色の飾りも見えない。あるのは、やわらかい色で並んだ言葉だけだった。大切な存在との別れに悩む方へ。ひとりで抱えなくて大丈夫です。安心してご相談ください。和希は無意識に息を止めた。そこにある文言は、どれも優しかった。あまりに優しくて、逆に嫌だった。もっと露骨で、いかにも怪しいページならよかったのにと思う。派手な霊感商法の匂いがして、金の話が並んでいて、誰が見ても近づきたくないような顔をしていれば、まだ怒りの向け先が単純になる。美里はこんなものに引っかかるはずがない、と言えたかもしれない。だが、画面の向こうにあるのは違った。疲れた夜に検索欄へたどり着いた人間が、そのまま開いてしまいそうな顔をしている。眠れないまま、罪悪感と供養という語のあいだで揺れている人間が、ここなら話せるかもしれないと思ってしまうような顔だ。「宗教って顔をしてないな」芳人が低く言った。和希は答えなかった。答えられなかったというほうが近い。自分でもまさに同じことを思っていたからだ。「相談所に見せてる」芳人は続ける。「これなら行く」ごく短い断定だった。「助けを探してる人間なら、特に」和希は画面を見たまま、指先を少しだけずらした。予約案内へ進む。フォーム入力。日付選択。相談内容は簡単で構いません、と書かれている。うまく言葉にならない場合で
last updateLast Updated : 2026-04-17
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28.同じ東京

部屋を出るとき、和希は最後に一度だけ振り返った。ワンルームの中は、入ったときとほとんど変わっていない。流しに伏せたままのグラス、机の端へ寄せたレシート、開ききらないカーテン、充電器の先だけをベッドの方へ垂らしたコンセント。どれもさっきまでの生活の続きを待っている形のままで、そこにいた人間だけが抜け落ちている。その不自然さに、何度見ても慣れない。和希は鍵を回した。金属の乾いた音がして、扉が閉まる。その音のあとに、廊下の外気がひやりと頬へ触れた。冬の手前の夜気はまだ刺すほどではないが、汗ばんだ首筋に当たると少しだけ痛い。部屋の匂いをまとったままの身体に、外の空気が薄く重なる。芳人は何も言わず、和希の横に立っていた。エレベーターを待つあいだも、二人のあいだには沈黙だけがあった。上から降りてくる箱の音、階数表示の赤い数字、遠くで閉まる別の住戸の扉。そのどれもが日常の音で、このマンションのどこかでは今も誰かが夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の服を選んでいるのだろうと思う。そういう生活の密度の中で、美里だけが静かに途切れてしまった。一階へ降りると、通りはすでに夜の顔になっていた。マンション前の自販機の明かりが白く、歩道に薄い影を落としている。数歩先の角を曲がれば、最寄り駅へ向かう人の流れに紛れられる。和希は前に一度、この部屋へ来たときも同じ道を歩いたはずなのに、そのとき自分が何を見ていたのか思い出せなかった。ただ用があって、部屋へ行って、少し話して、帰った。それだけだ。駅までの道の街灯も、ドラッグストアの位置も、コンビニの場所も、全部いまさら初めて見るみたいに見える。芳人が、和希の半歩後ろから低く言った。「少し歩くか」和希は頷いた。返事をするほど喉が動かなかった。駅へ向かう途中、最初に目についたのはドラッグストアだった。美里の部屋にあったレシートと同じロゴが、明るい看板になって通りの端で光っている。入口には値引きの札が並び、洗剤やティッシュの山が店先まで出ていた。仕事帰りらしい女がひとり、カゴにシャンプーを入れている。若い男がレジ袋を提げて出てくる。どこにでもある夜の店だ。だからこそ、そこへ美里の影を
last updateLast Updated : 2026-04-18
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29.削られていった生活

机の上に並べた紙の束は、見た目にはたいした量ではなかった。通帳のコピー。クレジットカードの利用明細。交通系ICの履歴を印字した紙。財布の中に折れていたレシート。郵便で届いた利用通知。ノートや検索履歴のように感情を直接刺してくるものではない。数字と店名と日付が並んでいるだけだ。だからこそ、和希は最初、それらにだけは少し冷静でいられる気がした。芳人の事務所へ移したのは、そのほうが作業しやすいからだった。美里の部屋で続きをやるには、生活の匂いが近すぎた。冷蔵庫の中身や、机の上のマグカップや、洗いかけのタオルが視界に入るたび、数字を見る前に呼吸のほうが乱れた。だから必要なものだけを封筒に入れ、事務所へ持ち帰った。白い照明と、広すぎるほど整った机の上でなら、少なくとも先に記録を並べることはできると思った。実際、最初の三十分ほどはそうだった。和希は紙の束を日付順に並べ、同じ名称の支払いを抜き出し、IC履歴の移動と照合した。芳人は向かい側でノートパソコンを開き、支払先の法人名や所在地を静かに拾っていく。部屋にあるのはキーボードの小さな音と、紙をめくる擦れだけだった。仕事のようだと思う。いや、仕事のふりをしているのだと和希は自分で分かっていた。数字にしてしまえば、美里の苦しみを少しは遠ざけられる気がする。その逃げ方を、自分は昔からよく知っている。だが、数字は逃げ場にはならなかった。最初にまとまって出てきたのは、相談所に関わるらしい支払いだった。名称はどれも露骨ではない。相談室利用料、灯明会費、追想祈り、個別面談、会場奉納。高額請求というほどではない。一回ごとの額は、五千円、八千円、一万二千円。たしかに痛い。だが払えないほどではない。和希が月末に飲み会を一度我慢すれば出せる程度の額だ。営業企画の同僚が酔った勢いでタクシーを使ってもまだ余るくらいの、そういう中途半端な数字。だがそれが、月の中で何度も出てくる。九日、五千円。十一日、八千円。土曜の夕方に一万二千円。翌週の水曜、また五千円。そのあと、交通費。乗換駅の履歴。コンビニでの少額決済。ドラッ
last updateLast Updated : 2026-04-19
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