All Chapters of 妹を殺した教団に復讐するはずが、愛を教え込まれた~罰ではなく、おまえを選ぶまで: Chapter 61 - Chapter 70

84 Chapters

60.並べられたもの

会議室の机は、もう一人の人間の身体みたいに見えた。長方形の天板の上へ、資料が隙間なく並べられている。鳴海が持ち出した帳簿のコピー。内部共有用の勧誘文言一覧。相談所から別院、総本山へ至る導線を整理した図。送金先の一覧と、親族会社へ流れた金の痕跡。御影清花のテレビ出演歴と雑誌記事の抜粋。黒瀬徹の会計処理に関するメモ。美里のノートのコピー。そして録音データを書き起こした紙。どれも紙でしかない。紙でしかないはずなのに、その上には、もう何人分もの呼吸と躊躇と恥が貼りついているようだった。芳人は机の一辺に立ち、資料を流れごとに分けていた。相談導線。勧誘文言。金の処理。内部共有。被害実例。その区分けに迷いがない。佐伯は反対側で、ノートパソコンの画面と紙を往復しながら、どこを先に表へ出すべきか、どう並べれば外で通るかを検討している。二人とも感情の話はしていない。何が違法勧誘の立証に効くか。どの資料が相互補強になるか。どこで黒瀬と御影を同じ構造の中に置けるか。その話だけをしている。事件線は確かに前へ進んでいた。和希にも、それは分かった。今まで集めたものは、ただの断片ではなくなりつつある。録音は単独でも強い。鳴海の証言は構造を補う。帳簿と送金履歴は金の流れを示す。勧誘マニュアルと家族導線の共有台帳があれば、御影のやわらかい言葉が個人の裁量ではなく、組織の手順だったことも見えてくる。ここまで来たのだと、頭では理解できる。理解できるのに、身体のほうはひどく静かに拒み始めていた。和希は会議机の端に座り、手元に置かれた美里のノートのコピーを見ていた。原本ではない。色も薄く、筆圧も少し平らになっている。なのに、そこに書かれていた言葉だけは、嫌なほど鮮明だった。産みたいと思ってしまった。でも現実的じゃないと言われた。誰にも言えない。苦しい。消えたい。コピーされた紙の上では、それらはただの記述に見える。けれど和希にとっては違う。それは妹が最後まで隠したかった傷であり、他人の机の上に置かれるための言葉ではなかった。中絶。不倫。供養への依存。兄を巻き込みたくないという恐怖。それら全部が
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61.妹は事件じゃない

「録音と手記を並べれば、家族導線の立証がかなり強くなる」その言葉が落ちたあとも、芳人の声は変わらなかった。いつもと同じ、感情を置かない低さのまま、資料の位置だけを整えていく。録音の書き起こし。美里のノートのコピー。検索履歴。相談所への予約メール。そこから別院へ移る導線図。全部が机の上で一つの流れとして繋がっていた。佐伯も、それを否定しない。「違法な寄附誘導の動機線としては強いです」画面を見たまま、静かに言う。「中絶後の罪悪感と供養依存、それから家族への接触提案。この流れが録音で裏づく。相談内容が営業資料化されて、最終的に親族導線へ変換された構造を示すには、かなり有効です」有効。その言葉だけが、妙に乾いて耳に残った。和希は机の上の紙を見たまま動かなかった。動けなかった。さっきから胸の奥で冷えていたものが、もう冷たさでは済まなくなっている。中絶後の罪悪感。供養依存。親族導線。どれも今ここでは正しい言葉なのだろう。外へ出すためには、そういう整理が必要なのだろう。頭では分かる。分かるから余計に苦しかった。そこにあるのは、美里が誰にも知られたくなかったものだ。産みたいと思ってしまったこと。産めなかったこと。不倫だったこと。中絶のあと、何かに縋らないと息が続かなかったこと。兄に知られたくなくて、それでも最後には兄の名まで引きずり出されかけたこと。それら全部が、今、机の上で関連資料になっている。芳人はさらに言った。「録音は単独でも使えるが、手記と並べた方が説得力が上がる。兄への依存誘導が、偶発的なやり取りじゃなくて、本人の状態を踏まえた勧誘だったと見せられる」本人の状態。和希は、そこでようやく息をした。浅く、短く。喉の奥が少しひりつく。美里の状態。妹の傷。妹の恥。妹が最後まで守ろうとした秘密。それを、本人の状態という一言で括られることが、たまらなく耐えがたかった。「兄への接触提案は、心理的支配の立証にも使えま
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62.弁護士の理屈

裏返された書き起こしの紙は、白い裏面だけを机の上に見せていた。たったそれだけのことなのに、その場の空気が一度、浅く止まる。佐伯は何も言わなかった。芳人もすぐには紙を戻さない。ただ、和希の手がまだ紙の端に触れたままなのを、静かに見ていた。和希は視線を落としたまま、息を整えようとした。怒鳴っているわけではない。机を叩いたわけでもない。なのに、胸の奥だけがひどくざらついていた。裏返したところで意味がないことくらい分かっている。証拠としての価値は変わらない。録音の中身も消えない。ただ、自分には今、それを文字の形で見続けることができなかった。芳人がようやく口を開く。「お前が嫌なのは分かる」声は低く、平らだった。慰める調子ではない。事実を置く言い方だった。「でも、白燈院が何をしたかを示すには、そこを外せない」和希は顔を上げなかった。上げなくても、芳人が机の向こうで紙の位置を整えながら話しているのが分かる。感情に巻き込まれず、必要な順で物事を並べていく手つきのまま。「録音は強い。ただ、録音だけだと個別のやり取りとして切られる可能性がある。手記があれば、その前段にある状態が見える。中絶後の罪悪感、供養への依存、家族を巻き込みたくないという拒否。それを踏まえたうえで、家族導線に乗せようとした構造が立つ」一つずつ、順番に。そこに迷いはない。だから、和希には残酷だった。「隠したままじゃ、向こうはまた同じことをする」和希の喉が小さく動く。それも分かっている。分かっているから、反論がただの感情論に聞こえてしまうのが苦しい。芳人は続けた。「御影の顔に縋った人間が、どうやって相談所に入って、どうやって別院へ流されて、どこで家族まで巻き込まれるか。その流れを示さない限り、白燈院はただの怪しい宗教団体で終わる。黒瀬の不正会計も、鳴海の供述も、それだけじゃ弱い」和希は机の木目を見ていた。視線を紙から逸らしても、芳人の言葉が頭の中へ冷たく入ってくる。怪しい宗教団体で終わる。それでは足りない。
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63.お前の罰になりたいんじゃない

会議室を出たあとも、和希の耳にはまだ芳人の最後の言葉が残っていた。隠して守れる段階は、もう過ぎてる。廊下の蛍光灯は白く、均一で、逃げ場がなかった。会議室の扉が閉まる音だけがやけに乾いて響き、その向こうに佐伯の気配が遠ざかる。資料の束も、録音の書き起こしも、美里のノートのコピーも、全部まだあの机の上にあるはずなのに、和希にはもう、自分の身体の内側にまで並べられているような感じがした。足は自然に給湯スペースのほうへ向いていた。狭い流し台と電気ポット、使いかけの紙コップの束、壁際の小さな冷蔵庫。夜の事務所の中でも、いちばん人の顔が消える場所だった。換気扇の低い音がしている。そこに立つと、ようやく誰にも見られていない気がした。和希は流し台の縁に片手をつき、うつむいた。呼吸が浅い。怒鳴ったわけでもないのに、身体の奥だけがひどく疲れている。美里を守りたいと思うことと、白燈院を崩すために美里の傷を出さなければならないこと。そのどちらも本当で、そのどちらも譲れないままぶつかって、胸の内側が擦り切れていた。背後で、足音が止まる。振り向かなくても、芳人だと分かった。一定の歩幅、迷わない止まり方、その気配だけで分かるくらいには、もう長くこの男の近くにいる。和希は振り向かなかった。「戻れ」低く言うと、自分でも驚くほど声が掠れていた。芳人は戻らない。返事もしない。ただ、すぐ後ろにいる。その沈黙が、会議室にいたときよりもずっと近く感じられた。「今、顔見たくない」それも本音だった。理屈で押し返されたことが苦しいのではない。正しいと分かっていることを、正しい順番で言われたことが、兄としてどうしようもなく痛かった。芳人は間違っていない。だからこそ、見ていると自分の浅さばかり浮き上がる。「分かってる」芳人がようやく言った。その声はまだ低かったが、会議室の中の声とは少し違っていた。立証可能性を切り分けていたときの平坦さではない。感情を消してはいないのに、無理に近づいてもこない声だった。和希は流し台の金属面に映る、自分のぼやけた輪郭を見た。ひどく疲
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64.愛ではなく執着

重すぎる言葉だった。お前の罰になりたいんじゃない。お前の最後になりたい。その一言は、和希の胸の奥へまっすぐ落ちた。まっすぐ落ちたのに、救いにはならない。むしろ逆だった。そこまで欲しいと言われることが、今の和希には息苦しかった。最後という言葉の中に、寄り添いより先に、閉じ込める響きを聞いてしまう。和希はしばらく黙ったまま、芳人を見ていた。給湯スペースの白い灯りの下で、芳人の顔は静かだった。静かなまま、もう引っ込められないものを口にしてしまった人間の顔をしている。そのことは分かる。分かるから、余計に苦しい。軽い言葉ではない。慰めのために適当に言ったのでもない。ずっと胸の奥に抱えていたものが、とうとう出てしまったのだと分かる。それでも、和希には受け取れなかった。最後になりたい。その言葉が、和希の中では別の形に聞こえてしまう。自分のところで終わらせたい。誰にも渡したくない。壊れる先まで抱え込みたい。そういう欲と、きれいな言葉が混ざっているようにしか思えなかった。和希は唇を少し開き、それから低く言った。「それは愛じゃない」芳人の目が、わずかに細くなる。和希は視線を逸らさなかった。今ここで目を逸らしたら、飲み込まれる気がした。「結局、お前は手放したくないだけだ」喉の奥がひりつく。それでも止めなかった。「俺が欲しいんじゃなくて、自分のものにしたいだけだろ」言い切ったあと、換気扇の音だけが低く回る。芳人はすぐには返さなかった。その沈黙が、和希にはひどくきつかった。怒鳴って否定してくれた方が、まだ楽だったかもしれない。だが芳人はそうしない。ただ、まっすぐ見てくる。その視線の重さだけが、和希の言葉の棘をそのまま返してくる。和希は、自分が完全に間違っているとは思えなかった。芳人の欲は本物だ。自分の壊れ方ごと抱え込みたいような、危うい熱がある。そのことは、もう十分すぎるほど分かっている。だから怖い。優しさだけなら、まだ縋れた。けれど芳人の中にあるのは、優しさだけではない。執着と独占が混
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65.反撃

会議室の空気は、朝からずっと乾いていた。窓の外は曇っていて、ビルの谷間に差す光も白く薄い。天井灯の冷たい明るさが机の上を均一に照らし、紙の縁やクリアファイルの角を、刃物のように細く光らせている。机の中央には、昨日までに積み上げた資料がすでにいくつかの束へ分けられていた。鳴海が持ち出した帳簿のコピー。勧誘マニュアル。相談導線図。送金履歴。御影清花のメディア露出。黒瀬の会計処理に関する控え。美里のノートのコピー。録音データの書き起こし。それらは昨日までは、痛みの残骸のようにも見えた。だが今朝は違った。もう誰も、それを感情の断片としては扱っていない。どこを起点に置き、どこで繋ぎ、どこを先に出すか。そのための束として、机の上に静かに並んでいる。和希は会議室の端の席に座り、正面の壁ではなく、机の木目だけを見ていた。芳人は斜め向かいにいる。黒いファイルを開き、資料の順番を入れ替え、必要な箇所へ付箋を貼っていく。その横顔は仕事のときのそれだった。昨夜、給湯スペースで交わした言葉の重さも、そのあとにできた決裂も、表面には一切出ていない。佐伯はノートパソコンを開き、提出資料の骨子らしいものを画面上で整理していた。こちらも感情を挟む余地のない動きだった。和希と芳人のあいだに、もう私的な気配はない。会話が必要なときだけ交わされる。視線も、資料と机の上を行き来するだけだ。そのことが楽なのか、苦しいのか、自分でもまだ分からなかった。ただ、以前のように、沈黙の裏に別の熱が潜んでいる感じはもうなかった。それが、ほんの少しだけ寒かった。佐伯が画面から目を上げずに言う。「鳴海さんの供述の整理は昼までに一度固めます。そのあと、録音と手記の位置づけをもう一段詰めたい」芳人が短く頷く。「黒瀬側の金の流れは、もう少し補強が要る。親族会社の実体確認も並行でやる」和希はそれを黙って聞いていた。話の内容は理解できる。理解できるからこそ、言葉が余計に乾いて聞こえる。供述。位置づけ。補強。どれも必要な語だ。だがその一つ一つが、美里の痛みを別の形へ変えていく音のようでもあった。そのとき、会議室
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66.自己責任という刃

「私生活上の重大な問題と精神的混乱を抱えており」芳人が読み上げたその一文は、紙の上では妙に整っていた。乱暴な言い方ではない。声も荒くない。だからこそ、余計に悪質だった。和希は机の端を掴んだまま、その文字が頭の中で別の言葉に置き換わっていくのを感じていた。不倫したから。中絶したから。壊れたのは本人のせいだと。宗教に縋ったのも、その弱さのせいだと。白燈院は、もうそういう話にしようとしている。佐伯が代理人文書の該当箇所を手元へ引き寄せ、鳴海から届いたメッセージの控えと並べた。画面には、急いで打ったらしい短い文が並んでいる。支部間で回されている統一文言。対応時の注意点。精神的に不安定な元信者による誤認。私生活上の問題と依存傾向。個人的事情を組織へ転嫁する言説には注意。どれも、外向けに丁寧に磨かれた言葉だった。「だいたい見えましたね」佐伯が言う。「本人の傷や私生活へ話を戻して、組織のやったことを薄く見せたいんでしょう。白燈院は相談に応じただけで、深く縋ったのは本人の側だった、という形にしたい」和希は黙ったまま、それを聞いていた。喉の奥が焼けるように乾いていく。佐伯の整理は正しい。向こうが何をしようとしているか、はっきり分かる。分かるからこそ苦しかった。美里の不倫も。中絶も。供養へ縋ったことも。最後まで兄を巻き込みたくないと拒んだことも。全部まとめて、美里ひとりの問題にされるのだ。白燈院がしたことではなく、もともと脆かった人間が勝手に沈んだだけだという話にされる。そういう形で、美里の人生そのものが使われようとしている。芳人が次の紙へ目を落とし、低く言った。「鳴海の話だと、中ではもっと露骨だ。『自責傾向が強い』『家族に言えない秘密を抱えている』『依存が深まりやすい』。そういう見方を、そのまま今の防御に使ってる」「最初から弱かった人に寄り添っただけだ、という顔をしたいんでしょうね」佐伯は画面を見たまま続ける。「本人の傷へ話を戻して、組織の責任を後ろへ下げ
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67.消されるもの

沈黙が落ちたあとも、会議室の空気は少しも緩まなかった。隠してても、守れないのかよ。自分で口にしたその言葉が、まだ机の上に残っている気がした。録音の書き起こしの白さ、代理人文書の整った文体、鳴海からのメモ。どれも動かないのに、その下では何かが確実に進んでいる。和希はそれを、皮膚のすぐ裏で感じていた。そのとき、芳人のスマートフォンが短く震えた。画面を見るなり、芳人の目がわずかに細くなる。その変化だけで、また新しい動きだと分かった。佐伯も同じらしく、何も言わずに視線を上げる。「鳴海だ」芳人が言った。通話ではなく、連続した短いメッセージらしかった。芳人は画面を追い、必要な箇所だけを声に出す。「支部の相談記録、一部が見られなくなった。アクセス制限が変わった。別院の供養台帳、先週まであった備考欄が差し替えられてる。旧版にあった家族関連の注記が消えてる」和希の背中に、冷たいものが走った。消えている。その言葉の重さが、今は前よりずっとはっきり分かる。ただ情報が隠されたのではない。美里のような人間がどう扱われていたか、その痕跡そのものが、今まさに削られているのだ。昨日までそこにあったものが、今日には最初からなかったような顔をされ始めている。佐伯がすぐに聞く。「旧版の控えは」「鳴海の手元に全部はない。部分的なスクリーンショットだけだ」芳人は画面を見たまま返した。「経理サーバーも権限が変わったらしい。閲覧ログの確認が入ってる。誰が、どの時間帯に、何を開いたかを洗い始めてる」会議室の温度が、そこで一段下がった気がした。祈りだの供養だのという顔は、もう完全に外側にしかない。中で起きているのは、もっと見慣れた種類の動きだった。記録を差し替える。権限を締める。持ち出した人間を炙り出す。先に口を塞ぐ。宗教法人というより、不祥事を隠そうとする組織の手つきに近い。むしろ、それに慣れている気配さえあった。和希は机の上の代理人文書から目を離せなかった。精神的に不安定な信者による誤認。
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68.兄としての最後の迷い

夜のマンションは、もう誰の帰りも待っていないように静かだった。共用廊下の白い灯りは、相変わらず平板で、どの部屋の前に立っても同じ色をしている。けれど和希には、この部屋の前だけ空気が少し薄い気がした。鍵を差し込み、回し、扉を開ける。その一つ一つの動作が、前より静かに感じるのは、自分の中で鳴っているものが大きすぎるせいだった。部屋の中は冷えていた。人のいない部屋特有の、時間だけが沈んでいく匂いがある。靴を脱ぎ、照明を点ける。明かりがついても、生活の気配は戻らない。テーブル、カーテン、棚、キッチンの端に置かれた使いかけの洗剤。どれも美里がここで暮らしていた痕跡なのに、今はもう、本人だけが抜け落ちた殻みたいに見える。和希はしばらく立ったまま、部屋の奥を見ていた。今日一日の速さが、まだ身体の中に残っている。鳴海の証言。差し替えられた記録。白燈院の代理人文書。精神的に不安定な信者。私生活上の重大な問題。個人的事情を教団へ転嫁している可能性。整いすぎた言葉が、頭の奥に薄く張りついている。その上から、録音の中の美里の声もまだ消えない。兄は関係ないんです。巻き込みたくないんです。それら全部を抱えたままここへ来ると、この部屋だけが妙に静かすぎた。外ではもう戦いが動き出していて、証拠も人も、迷っているあいだに消される場所まで来ているのに、この部屋だけはまだ、美里が一人で夜をやり過ごしていたころの時間に取り残されている。和希はテーブルへ歩き、椅子を引いた。そこに、ノートがある。もう何度も開いたノートだった。美里の丸い字で、途中から筆圧が揺れ、ところどころ消し跡が残り、言葉にしきれないものだけが少しずつ溜まっていったノート。その横に、スマートフォンも置く。録音データの入った端末ではない。だが、和希の指は無意識にそこへ伸びかけて、途中で止まった。再生すれば、また聞こえる。あの空調の低い音。紙の擦れる音。相談員のやわらかい声。そして、美里の、かすれて怯えた小さな声。聞かなくても、もう十分すぎるほど身体が覚え
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69.提訴前夜の決断

夜の会議室は、昼よりも紙の白さが強かった。机の上には、もう並べるべきものがほとんど揃っていた。鳴海の供述を整理したメモ。二重帳簿のコピー。送金先一覧。家族導線の共有台帳。勧誘文言の内部資料。御影清花のメディア露出をまとめた記事の束。黒瀬徹の名が出る会計処理の控え。美里のノートのコピー。録音データの書き起こし。どれももう、断片ではなかった。つなげれば一本の流れになる。御影の顔で入口を作り、相談内容を営業資料に変え、家族に頼れそうな人間へ印をつけ、黒瀬の手で金の流れへ接続する。その全体像が、紙の上ではほとんど完成していた。後は、どこまで出すか。どう出すか。その線引きだけが、最後に残っている。佐伯は机の端で資料の束を整えながら言った。「現実的な選択肢は二つです」声は低く、平坦だった。説明のための声で、和希の感情を揺らそうとする調子ではない。「一つは、個人の事情に関わる部分をできるだけ削って、組織構造と会計の不正を前面に出すやり方です。ただ、その場合は向こうに『本人の問題だった』と押し戻される余地が残る」芳人は何も言わない。資料をめくる音だけが小さく続く。「もう一つは、ノートと録音を含めて出すやり方です。不倫も中絶も、供養への依存も、家族への接触提案も、白燈院がどう人の傷を勧誘へ変えたかを一本で見せる。こちらの立証は強くなる」強くなる。その言葉はもう、前ほど和希の胸を逆撫でしなかった。痛くないわけではない。痛いままだ。けれど痛みの形が少し変わっている。昨日までなら、その言葉を聞くだけで妹の秘密が外へ晒される苦しさの方が先に立った。だが今は、その先に白燈院の代理人文書の一文がある。私生活上の重大な問題。精神的混乱。誤認。個人的な事情。あの整った文体で、美里の人生そのものを自己責任の物語へ押し戻そうとしていた。和希は机の上のノートのコピーを見た。原本ではない。けれど、その紙の上にはまだ、美里が誰にも言えなかった矛盾が残っている。少しだけ産みたいと思ってしまったこと。現実的じ
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