All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 91 - Chapter 100

100 Chapters

第91話 甘やかされる夜

 ベッドの端に座ったまま、私は朔弥さんの袖をつかんでいた。  部屋の明かりは消え、街の光だけが足元に差していた。  さっき自分が言った言葉が、まだ耳の内側に残っていた。  ――あなたが欲しいです。  朔弥さんの動きが止まった。  喉がゆっくり上下した。  生唾を飲み込んだのだと、気づくまでに少し時間がかかった。  そのわずかな動きだけで、男の欲が音もなく揺れたのだと、はっきりわかった。  その時、カーテンの隙間で、小さな光がはねた。 「真尋?」  朔弥さんがすぐに気づく。 「……いえ」  気のせいかもしれない。  車のライトか、向かいの窓に反射しただけかもしれない。  そう思おうとした瞬間、体がふわりと倒れた。  朔弥さんに肩を押され、背中がやわらかいシーツに沈む。  袖をつかんでいた手は、そのまま彼の胸元に触れた。  布越しに伝わる熱と硬い筋肉の感触が、掌にじんわり染み込んでくる。  彼が息をするたび、胸板のかすかな動きまで手の中に伝わった。 「……真尋」 「はい」 「さっきの言葉、取り消さないでくれ」 「取り消しません」  そう答えると、彼の目元がわずかにゆるんだ。  総会で壇上に立っていた人が、今は私を見下ろしている。  その差に、心がついていかない。  朔弥さんの手が、私の髪に触れた。  乱れていた髪を、ゆっくり耳にかける。指先のやさしい感触が、耳の裏をくすぐるように熱を走らせた。  その熱が首筋まで降りてきて、肌の内側までじんわり火照る。 「今日の私、どうでしたか」 「凛々しかった」 「……それ、褒め言葉ですか?」 「そのつもりだ。それに……きれいだ」  思っていたよりまっすぐに言われて、返事に困った。  彼は少しだけ笑った。  その笑い方が優しくて、たまらなかった。  心臓に悪い。  でも、嬉しかった。  会社の資料でも、妻としての役割でも、子供を産めるかどうかでもなく。  ただ私を見て、きれいだと言われることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。  熱が一気に下腹へ落ちていく。  じわりと、奥の方まで重く沈んでいく。  朔弥さんが身を起こし、ネクタイを外した。  さっきまで私の手に触れていた布が、彼の指先でほどける。  喉元が少しずつ露わになるのを見て、目をそら
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第92話 互いを選んだ朝、知らない相手からの通知

 目が覚めた時、部屋の中はまだ薄暗かった。  カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。  御門の屋敷ではない。  総会前に、朔弥さんと過ごしていた部屋。  私が一人で戻るはずの場所。  そのベッドの上で、私は彼の腕の中にいた。  この人と朝を迎えたことは、何度かある。  けれど、こんな朝は知らなかった。  同じ部屋で目を覚ましているのに、以前とは違う。  背中にある体温が、遠いものではなく、私を包むものとしてそこにあった。  思わず布団を引き上げると、背中側で朔弥さんが小さく身じろぎした。 「起きたのか」  声が近い。  寝起きのせいか、いつもより少し低くて、やわらかかった。 「……起きました」 「体は」 「大丈夫です」  反射でそう答えてから、少し考える。  今朝は、大丈夫なふりをする必要がない気がした。 「少し、眠いです」  朔弥さんの腕が、私を抱き寄せた。 「なら、もう少し寝ろ」 「朔弥さんは」 「起きる」 「仕事ですか」 「違う。朝食を作る」  私は思わず振り返った。  近すぎて、すぐ目の前に少し寝癖のついた顔がある。  それが見慣れなくて、なんだか笑いたくなる。 「作れるんですか」 「失礼だな」 「前に作ってくれたことはありますけど」 「あるだろう」 「今回は焦がさないでくださいね」  言った瞬間、頬をむに、とつままれた。 「焦がさない」 「本当ですか」  そう返すと、朔弥さんが少しだけ目を細めた。  つままれた頬が変な形になっているのが自分でもわかって、笑ってしまう。 「何が食べたい」 「急に聞かれると困ります」 「トーストなら焼ける」 「それは作るに入りますか」 「入る」  真顔で言うから、また笑ってしまった。  昨夜、あんなふうに抱きしめられた人と、朝になってトーストの話をしている。  その落差が幸せだった。  朔弥さんは体を起こし、ベッドサイドに置いてあったシャツに袖を通した。  その背中を、私は布団の中から見ていた。  昔も、同じ背中を見たことがある。  けれど、その頃の私は、手を伸ばしていいとは思っていなかった。  今は違う。  伸ばせば、届く。  そう思えるだけで、朝の光まで違って見えた。 「真尋」  呼ばれて、視線を上げる
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第93話 撮影時刻は、三分前だった

 翌朝、寝室のベッドの上で、私はスマートフォンの画面からしばらく目を離せなかった。 『御門の奥様は、今度は病院通いですか』  短い一文。  それだけなのに、朝の光まで薄くなった気がした。 「真尋」  隣にいた朔弥さんが、私の名前を呼ぶ。  病院。  ついさっき、二人で話したばかりの言葉だった。  けれど、このメッセージは夜の間に届いている。今の会話を聞かれたわけではない。  そう考えても、気持ち悪さは消えなかった。 「見せてくれ」  朔弥さんが手を伸ばした。  私はスマートフォンを差し出した。  彼の目が画面の上を走る。次の瞬間、口元から朝の名残が消えた。 「全部見ていいか」 「はい」  通知を開くと、本文はもう少し長かった。 『御門の奥様は、今度は病院通いですか。次はどなたの腕を借りるのでしょうね』  最後に、笑っているような記号が一つ。  たったそれだけで、総会の時の写真が浮かんだ。階段で足を滑らせ、城戸さんに支えられた瞬間。切り取られ、意味を変えられ、人前に晒された写真。  今度は、私の体のことを覗き込もうとしている。 「削除するな」  朔弥さんが言った。 「もちろんです」  自分でも驚くほど早く答えていた。 「消したら、なかったことにされます。スクリーンショットを撮ります。受信時刻も、番号も残します」  言いながら、手順を確認するように操作した。  昨日までの私なら、まず気味の悪さに負けていたかもしれない。でも今は違う。怯むより先に、腹が立った。  私の通院を、私の弱みとして使おうとしている。  そんなものに、私の体の話を渡したくなかった。 「城戸さんとの写真を撮った人と、同じでしょうか」 「断定はできない。ただ、写真を使った相手なら、この文面を見て喜ぶだろうな」 「……誰だか、わかりますか」  問いかけた瞬間、澄麗の顔が浮かんだ。  総会の最後に見た、あの壊れたような顔。  あの人が次に何をするのか、わからない。  そう思った時の怖さが、まだ胸の奥に残っていた。  けれど、名前にする前に、朔弥さんの顔が固くなった。 「まだ、決めつける段階じゃない」  その切り分け方に、私は頷いた。  言うべきか、言わないでおくべきか。  澄麗の名前が、喉の奥で止まっていた。 「病院は、予
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第94話 停電の中で、誰かが私を押した

 城戸ホテルズの郊外施設へ向かったのは、通院を始めて二週間ほど経った日の午後だった。  総会後に止まっていた実務を、いつまでも止めたままにはできない。御門ブライダル側の担当者として、現地を視察する必要があった。  クリニックの前で撮られた写真については、あれから調べられるものをすべて調べた。  メッセージの番号。病院周辺の防犯映像。同じ時間帯に停まっていた車。院内から予約情報が漏れた形跡がないか。  けれど、手がかりは出なかった。  報告が届くたび、朔弥さんは何も言わずに端末を伏せた。  調査結果は空白のままで、彼の顔だけが少しずつ険しくなっていった。  朔弥さんは朝から、いつもより何度も予定表を見ていた。 「俺も行く」  玄関でそう言われた時、私は靴べらを戻す手を止めた。 「待ってください。今日は仕事ですから」 「仕事でも、郊外だろう」 「城戸さんも現場責任者もいます。私は一人で山奥へ行くわけではありません」  言い方が少しきつくなったのは、自分でもわかった。 「それとも、城戸さんと会うのが心配ですか」  思わず、言葉がきつくなる。 「そうじゃない。すまない」  朔弥さんはすぐに否定した。 「心配してくれるのは、うれしいです。でも」  そこで一度、息を置いた。  私が外に出るたびに全部ついていくなんて、どうかしている。  ここで曖昧に笑ったら、たぶん次も同じことになる。  私の予定が、いつの間にか、彼の許可と同じ意味を持ち始める。  それは違う。 「移動車の番号は送ります。到着したら連絡します。帰る時も連絡します」 「真尋」 「仕事まで、守られに行くつもりはありません」  朔弥さんの口が閉じた。  強く出られたら、私も強く返すつもりだった。けれど彼は、結局それ以上は言わなかった。 「……わかった。無理はするな」 「はい」  そう答えてから、私はまだ玄関に立ったままだった。  行ってきます、と言えば済む。  それなのに、足が一歩だけ戻った。  朔弥さんが少し驚いた顔をする。その顔が、朝から予定表ばかり見ていた人のものではなくなった。 「行ってきます」  私はそう言って、自分から背伸びをした。  唇が触れる。  短いキスだった。 「心配しすぎないでください」 「無理だな」 「そこは努力
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第95話 実は、あの美術館の日

「すみません」 非常灯がついた瞬間、城戸さんはすぐに手を離した。 私はすぐに背後を振り返った。 非常灯の薄い光の中で、施設の人たちが足を止めている。停電する直前、誰が私の後ろにいたのかは、もうわからなかった。「今、誰かに押された気がして」「押された?」 城戸さんは私の背後へ目をやり、そのまま廊下を見た。「誰か見えましたか」「いいえ」「……ありえなくはありません。この会場は、短期の派遣スタッフや外部業者の出入りが多い。知らない顔が混じっていても、気づきにくい」 城戸さんの視線が、出入り口から、廊下にいるスタッフたちへ動いた。 総会で出された、あの写真。 城戸さんも、同じものを思い出しているのかもしれない。「また写真を作るつもりだったのか、怪我をさせるつもりだったのか」 城戸さんはそこで一度、言葉を切った。「どちらにせよ、許せない」 その言葉に、敬語はなかった。 背後に誰かがいたかもしれないという不安が、それだけでいくらか和らいだ。 城戸さんは、いつでも私のために怒ってくれる人なのだと思った。*** 停電のあと、郊外施設のラウンジは、急に別の場所みたいになった。 午後の打ち合わせのはずだったのに、窓の外はもう夕方の色を失っている。雨は庭の敷石を叩き、ガラスの向こうを白く煙らせていた。 待機場所として案内されたのは、ラウンジの奥の小さな打ち合わせスペースだった。城戸さんと現場責任者、施設側の担当者、私。四人で雨の状況と代替交通を確認しながら、できる作業を先に進める。「停電?」 施設側の担当者が立ち上がる。 薄い緑色の明かりが壁を照らし、さっきまで仕事用だった空間に、妙な距離の近さが生まれる。「発電機に切り替わるまで、少しお待ちください」 担当者はそう言って、現場責任者と一緒に廊下へ出ていった。 部屋に残ったのは、私と城戸さんだけだった。 その事実に気づいた瞬間、私は椅子を少し引いた。 城戸さんも、同じように一歩離れた。「扉、開けておきます」 彼はそう言って、打ち合わせスペースの扉を半分開けた。 その距離の取り方に、私は少しだけ救われた。「ありがとうございます」「御門社長に説明しやすいようにしているだけです」「……そこですか」「大事でしょう」 真顔で言われて、思わず笑いそうになった。 城戸さんは
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第96話 城戸さんの表情は読めなかった

「高瀬さんには、御門の人との約束がある。俺は、そう聞いていました」 「御門の人と……?」 「だから、あなたは喫茶店には来ないのだと思った」  雨音が強くなる。 「私もです」  城戸さんが、初めてこちらを見た。 「私は、城戸さんにはほかの約束があると聞かされました」 「俺に?」 「ええ。だから私も、喫茶店には行きませんでした」  城戸さんは少し考えたあと、確かめるように言った。 「つまり、俺たちは二人とも、相手には別の約束があると思っていた」 「そういうことになります」  彼女が、二人とも少しずつ引くように、違う話を渡したのだ。 「……今さらですね」  城戸さんは短く言った。 「ええ。今さらです」  私はそう返した。  あの頃の私は、確かに城戸さんに惹かれていた。  名前をつける前に終わった、淡い恋だったのだと思う。  もし、あの日、二人で喫茶店へ行っていたら。  私の運命は、今とは違っていたのかもしれない。  でも、今、胸に残っているのは未練ではなかった。  誰かの都合のいい話で、ありえたかもしれない未来を奪われていた。  少し苦い、遅すぎる納得だった。 『人の心は、思ったより変わりやすいものですの』  ふいに、澄麗の声がよみがえった。  そうかもしれない。  あの頃、城戸さんに惹かれていた気持ちも本物だった。そして今、朔弥さんのところへ帰りたいと思う気持ちも、同じように本物だ。  どちらも、誰かに決めてもらうものではない。 「今の私は、朔弥さんのところに帰ります」 「わかっています」  返事は早かった。 「あなたが疑われるようなことはしません」  仕事の声に戻っていた。  でも、その横顔には、まださっきの苦さが薄く残っている。  私はそれに気づかないふりをした。  気づいても、受け取らない。  それが、今の私にできる誠実さだった。 ***  発電機が動き、照明が戻った頃、朔弥さんから電話が入った。  私はすぐに出た。 「真尋」 「大丈夫です。停電がありましたが、非常灯もついています。今は復旧しました」 「城戸は」 「同席しています」 「……二人でか」 「朔弥さん」  思わず声が険しくなった。  朔弥さんは、それを察したようだった。 「……すまない」  電話の向こうで
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第97話 最後まで読めない人

「配電盤の主電源が、手動で落とされていたそうです」  施設側の担当者は、私たちを受付横の小さな事務室へ通した。 「落雷では、なかったんですね」 「はい。別棟側の配電盤だけが落ちていました。漏電や過負荷ではなく、主幹のレバーが下げられていたそうです」  主幹のレバー。  雨でも雷でもない。誰かが従業員用通路の奥まで入り、扉を開けて、手を伸ばした。  そんなところまで。  思っただけで、背中が冷えた。 「外部の人間でも触れますか」  城戸さんが聞いた。 「通常は無理です。ただ、今日は搬入業者や清掃の出入りもありましたので……確認します」  担当者はそこで言葉を濁した。  城戸さんは何も言わなかった。  ただ、従業員用通路の奥を見ていた。暗くなった時間、誰がどこに立てたのかを考えているようにも、別の何かを飲み込んでいるようにも見えた。 「高瀬さん」  城戸さんは、そこでようやく私を見た。 「今は、決めつけないほうがいい」 「……はい」 「でも、偶然だとは思わないほうがいい」  配電盤のレバーを下げた誰かに、話の中身など必要なかったのかもしれない。  二人きりになった。  それだけで、スキャンダルになる。  でも、それだけなら停電だけで足りる。  背中には、押された感触がまだ残っていた。暗がりでよろめかせるために、誰かが私に触れた。  写真を撮るためだけではない。  私を転ばせて、怪我をさせるつもりだったのかもしれない。  ぞくり、とした。寒くもないのに、背筋が冷えた。  誰かが、私の体にまで手を伸ばした。  城戸さんが、感情のない顔で私を見ていた。 ***  代替車が到着したのは、日が暮れたあとだった。  郊外施設の玄関前で、施設側の担当者が傘を差してくれた。雨は少し弱まっていたけれど、庭の木々から落ちる雫が、足元の石畳を細かく濡らしている。  城戸さんは一歩離れた場所で、運転手の身分証と車両番号を確認していた。  そこへ、施設の担当者が近づいた。 「城戸様。先ほど、一条澄麗様からもお電話がありました。高瀬様はまだこちらにいらっしゃるか、と」  思わず二人を見る。  澄麗には、今日の訪問先も帰宅時刻も知らせていない。停電のことなど、知るはずがなかった。 「何と答えましたか」 「代替車をお待ちだと
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第98話 社長に言えない数時間

 帰宅すると、朔弥さんは玄関まで出てきていた。  スーツの上着は脱いでいたけれど、ネクタイはまだ緩めただけだった。待っている間、何度も外へ出ようとして、踏みとどまったような顔をしている。 「遅くなりました」  朔弥さんは答えなかった。  私の顔から肩へ、濡れたコートの袖へと目を走らせる。 「怪我は」 「ありません」 「本当に?」 「はい」  彼の手が上がった。  けれど、袖に触れる前に止まる。 「……心配した」 「わかっています」 「責めたいわけじゃない」 「それも、わかっています」  私は靴を脱ぎ、彼を見上げた。 「今日のことは、全部話します。城戸さんと二人になったことも」  朔弥さんの眉が動く。 「でも、それを理由に仕事を減らしたり、城戸ホテルズの案件から外したりしないでください。私に黙って決めないで」 「今、それを言うのか」 「今だからです」  朔弥さんは黙った。 「……考えた」 「やっぱり」 「君が帰ってくるまで、何度も考えた」  止まっていた手が、ゆっくり下りる。 「でも、しない。君に黙っては決めない」 「信じていますか」 「信じている」  迷いのない返事だった。 「城戸さんといたことも?」  朔弥さんの顔が変わった。 「それは、信じるのとは別だ」 「別?」 「声が近かった」  まだ覚えていたらしい。 「停電で、同じ部屋にいました」 「わかっている。君を疑っているんじゃない」 「では、何に怒っているんですか」 「君のそばに、あの男がいたことに。それに……」  まだあるのか。  この人は、何を言いだすつもりだろう。 「帰ってきた君に、触れていいのかもわからない自分に」  予想外に可愛いことを言われて、私は笑ってしまった。 「笑うな」  朔弥さんは、ようやくネクタイをほどいた。  私は濡れたコートを脱ぎ、玄関脇のハンガーにかけた。 「私は帰ってきました」 「ああ」 「出かける時に、キスもしました」  言った瞬間、朔弥さんの目が揺れた。 「それを今言うのか」 「効くかと思って」 「効く」  短く言われて、今度こそ少し笑ってしまった。  朔弥さんは笑わなかった。  でも、さっきまで固まっていた肩が、ようやく下りた。  近づいてきた彼の手が、私の頬の横
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第99話 子どもがほしいと思うことに、疲れた

 通院を始めてからの数か月、私たちの生活には、カレンダーを見る時間が増えた。  あの夜の写真も、停電のことも、はっきりした答えは出ないままだった。  配電盤の主電源を落とした人間。  代替車の内側から、私を待っていた誰か。  そして、写真の中でカメラを見ていた城戸さん。  施設側からは、調査中という返事が何度か届いた。送迎会社の記録も、出入りした業者の名簿も確認された。朔弥さんは外部の調査も入れた。  それでも、名前は出なかった。  澄麗の影は、何度もちらついた。  けれど、影を証拠のように扱うことはできなかった。  わからないまま、日付だけが進んでいった。 ***  朝、起きて体温を記録する。  クリニックで卵胞の大きさを見てもらう。  排卵検査薬の線を確認する。  女医は、毎回、必要なことだけを淡々と教えてくれた。 「妊娠しやすい時期は、排卵日の当日だけではありません。排卵の前から数日間を含めて考えます」  診察室の机に置かれたカレンダーへ、女医が細いペンで印をつける。 「このあたりで、無理のない範囲で一日おきくらいを目安にしてください。毎日でないと駄目、という話ではありません。逆に、義務になりすぎると続きません」  その言い方に、私は少しだけ救われた。  御門の屋敷で聞かされた言葉は、いつも命令だった。  いつまでに。  そろそろ。  まだなの。  けれど、この診察室で聞く言葉は違う。  体の仕組みを知るための言葉で、私を責めるための言葉ではなかった。 「高瀬さんは三十一歳です。医学的には、今日明日で急に何かを決めなければならない年齢ではありません。ただ、気持ちの上で焦りが出るのは自然です」  女医はそう言った。 「数字と気持ちは、別に扱いましょう」  数字と気持ち。  その二つを分けていいのだと、初めて言われた気がした。  検査結果の説明も、同じだった。  私の排卵は大きく乱れているわけではない。ただ、周期によって少し読みづらい月がある。朔弥さんの検査にも、決定的な異常というほどではないけれど、数値に波があった。 「どちらか一方が悪い、という話ではありません」  女医はそう言った。 「少しずつ重なる要素がある、という見方をしましょう。だからこそ、お二人で確認していく意味があります」  悪
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第100話 今日は、子どものためじゃない

 その先を、朔弥さんは駐車場では言わなかった。  クリニックを出た帰り道、近くの公園の前を通った。  ベビーカーを押す若い母親と、三歳くらいの男の子が、植え込みのそばでしゃがみこんでいる。男の子が小さな葉を拾って、母親に見せた。  母親は笑って、それを大事なものみたいに受け取った。  ただそれだけの光景なのに、私は足を止めてしまった。  ほしい。  跡継ぎではなく。御門のためでもなく。  あんなふうに、誰かが拾った小さな葉を、意味のあるものとして受け取る時間がほしい。  そう思った直後に、香澄さんの顔が浮かんだ。久我さんと、そんな時間を持つはずだった人。それを、御門の言葉で奪われた人。  子ども、という言葉を聞くたびに、まず浮かぶのは幸せな未来ではなく、カレンダーにつけた印になっていた。  望んでいるのは、私のはずなのに。  家へ帰ると、その気持ちの上から、義務みたいなものがかぶさってくる。  この日。その前の日。その次の日。  朔弥さんと向き合う時間に、予定という名前がついてしまう。 ***  その夜のことだった。  寝室の明かりを落とす前、朔弥さんが隣に座った。  肩に触れられた瞬間、私はその手を払ってしまった。  ぱし、と乾いた音がした。  自分でやったくせに、すぐに後悔した。  朔弥さんは、払われた手を戻さないまま、じっと私を見ていた。 「すみません」 「謝らなくていい」  彼は少しだけ距離を取った。責めるでもなく、傷ついた顔を見せつけるでもなく、ただ私が息を戻す場所を空けるみたいに。 「今日はやめよう。無理しなくていい」 「無理ではありません」 「無理という顔をしている」  私が仕事で平気な顔をする時も、御門で笑ってやり過ごす時も、この人は気づくのが遅かった。  なのに、こういう時だけ、妙に鋭い。 「じゃあ、朔弥さんは」 「俺?」 「義務みたいだと思いませんか」  言ってから、少し後悔した。  でも、朔弥さんは笑わなかった。  彼は隣から腰を上げ、ベッドの前へ回った。それから私の膝の間に入らないぎりぎりの距離で、床に片膝をつく。  見下ろしていたはずの顔が、同じ高さになった。 「思うときもある」 「それでいいんですか」 「子どもが欲しいから触れる日と、君に触れたいから触れる日が、
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