All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 真尋との子どもなら、欲しいと思ったことはある

 久我さんとは、病院の裏手で連絡先を交換した。  正確には、私が私用のアドレスを伝え、久我さんが名刺を差し出した。  久我建築設計事務所。  名刺の角は少し折れていた。さっきの騒ぎで曲がったのか、元から曲がっていたのかはわからない。 「香澄さんのことを、教えてください」  私が言うと、久我さんはすぐには頷かなかった。 「御門の中にいる人間を、簡単には信用できません」 「それで構いません」  むしろ、その方がよかった。  簡単に味方になられても、私はたぶん信じられない。 「私も、あなたをすぐに信用するつもりはありません。でも、香澄さんに何が起きたのかは知りたいです」  久我さんは名刺入れを閉じた。 「香澄を利用するなら、許しません」 「そんなつもりはありません」  言ってから、少しだけ息を整えた。 「もしできるなら、助けたいです」  久我さんの目が動いた。 「でも、簡単に約束していい話じゃない。だから、今は約束はしません」  久我さんの目が、ほんの一度だけ揺れた。  返事の代わりに、彼は私の顔を見た。 「検査を受けるんですか」 「受けました」 「辛いなら、逃げてもいいと思いますよ。御門から」  意外な言葉だった。  私は少しだけ笑った。 「逃げるつもりでした。でも、朔弥さんとともに御門家と戦うと決めました」  言い終えた瞬間、朔弥さんの手が私の肩に回った。  強く引き寄せるのではなく、そこにいると知らせるような力だった。  久我さんは、その手を見た。  それから、朔弥さんの顔を見た。 「……少し、意外でした」 「何がですか」 「あなたは、御門の男だと思っていた」  朔弥さんの指が、私の肩でわずかに止まった。 「御門のために、女を道具にする側の人間だと」  久我さんは何も言わなかった。  でも、さっきよりは少しだけ、私を見ていた。 ***  病院の中へ戻ると、待合の空気はまだ硬かった。  受付の人は何も言わず、番号札を確認してくれた。看護師に「大丈夫ですか」と聞かれ、私は「大丈夫です」と答えた。  本当は、大丈夫ではなかった。  それでも、ここで帰れば、冴子の望む形になる。  朔弥さんは隣に座っていた。  私のスマートフォンを覗き込むことも、先回りして受付へ何かを言うこともしなかった
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第52話 あなたの身体は、あなたのもの

 番号が呼ばれ、診察室へ入った。  そこにいたのは、前に私を診てくれた女医ではなかった。  白髪交じりの男性医師が、画面に表示された検査結果に目を落としている。 「本日は担当を変更しております」  最初の一言で、背中が冷えた。 「御門様から、将来の妊娠に向けた確認と伺っています。プロラクチンの値が少し高めですので、ご家族でご相談いただく形がよろしいでしょう」  プロラクチン。  聞き慣れない言葉だった。  けれど、医師が続けた「妊娠しにくさにつながることがあります」という説明だけは、胃のあたりに沈んだ。  さっき、私は言った。  今の状態では欲しくない、と。  それは嘘ではない。  御門家のために産むなんて、絶対に嫌だった。  なのに、可能性が少し遠のいたかもしれないと聞いた瞬間、思ったより苦しかった。  私は、本当は欲しいのかもしれない。  御門の跡継ぎではなく。  誰かに確認される身体の証明でもなく。  いつか、自由になれた場所で。  朔弥さんと、そういう未来を考えられるなら。  なのに、私の身体はそれを裏切ろうとしている。 「結果は私に説明してください」  医師は顔を上げた。 「もちろんご本人にもご説明します。ただ、ご家庭で共有される前提と伺っておりますので」 「共有には同意していません」  診察室の空気が、少しだけ固まった。  医師は笑った。困った患者をなだめるような笑い方だった。 「皆様、最初は不安になられますから」  皆様。  その言葉で、もうここでは駄目だと思った。  私は患者ではなく、御門家から持ち込まれた確認事項として扱われている。 「担当の先生は、どうされたんですか」  朔弥さんが聞いた。  医師の目が、ほんの少しだけ揺れた。 「急な都合で外れております」 「出よう」  朔弥さんが言った。  命令ではなかった。  でも、迷いはなかった。  私も頷いた。  診察室を出ると、廊下の奥から女性の声がした。 「高瀬さん」  振り返ると、四十代くらいの女医が立っていた。  前に私を診てくれた医師だった。  眼鏡の奥の目は疲れていた。けれど、私を見る目はさっきの医師とは違っていた。 「本来、私が担当する予定でした」  女医は、周囲を一度だけ確認してから声を落とした。
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第53話 なぜ、あの女なの

 病院の会計前ロビーは、夕方の光で白く薄まっていた。  澄麗は自動販売機の脇に立ったまま、少し離れた椅子の並びを見ていた。  見ようとしていたわけではない。  けれど、目に入ってしまった。  真尋が、朔弥の手に触れている。  包帯ではない。小さな絆創膏を、赤くなった手の甲へ丁寧に貼っていた。顔を寄せすぎることもなく、泣きそうな顔をすることもなく、ただ当然みたいに世話を焼いている。  朔弥は、その指先を見ていた。  見つめる、というより、逃したくないみたいに。  そして低く何かを言う。  真尋の耳が、少しだけ赤くなる。  その瞬間、澄麗はそばの柱に爪を立てた。  爪先が、白い柱の角をかく。  薄い音がして、淡いピンクのネイルが端から剥がれた。  澄麗はそれを見なかった。  違う。  そういうふうに誰かを見る顔を、澄麗は知っている。  家の集まりでも、会食でも、仕事の場でもない。  男が、自分のものにしたい相手だけを見る時の顔だ。  私の方が若い。  私の方が美しい。  私の方が家同士の釣り合いも取れている。  御門にふさわしい子を産めるのも、御門の隣に立って綺麗に見えるのも、どう考えても私のほうだ。  それなのに。  なぜ、あの女なの。  傷ついた顔をして、無愛想で、愛想もないくせに、肝心なところで退かない女。  家にとって都合がいいわけでもない。社交の場で映えるわけでもない。  なのに朔弥は、あの女だけは手放せない。  澄麗は微笑んだ。  崩れるのは、ここではない。  こんな病院のロビーで、負けた女みたいな顔だけはしたくなかった。  けれど、負けているのだと、もう認めるしかなかった。  朔弥は選ばないのではない。  もう選んでいる。  真尋を捨てられないのではない。  捨てる気がないのだ。  その事実が、ひどく屈辱だった。 ***  夜、冴子の私室はいつもどおり乱れがなかった。  花は白。紅茶は適温。照明は柔らかい。  話している内容だけが醜い。  壁際のテレビでは、人気俳優と女子アナの破局が報じられていた。  少し前まで、理想の二人ともてはやされていた人たちだ。画面の中では、笑顔で並ぶ写真が何度も流れている。 「結局、こういうお二人でも別れるんですのね」  澄麗は画面を見たまま
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第54話 応接室で、私を追い出す話が進んでいる

 週末の御門家は、以前より静かに見えた。  けれど、その静けさは、何も起きていない静けさではなかった。  どこかで、私抜きの何かが行われている。  当面、平日は会社近くの仮眠部屋に戻り、週末だけ御門の家へ入る。  そう二人で決めてから、最初の週末だった。  昼食のあと、私は客間へ戻る途中で足を止めた。  応接室の扉が、少しだけ開いていた。  朔弥さんは、さっき電話で廊下の奥へ出ていった。  取引先からの急ぎの連絡だと言っていた。  一人になったから、聞こえたのだと思う。  中にいるのは冴子と、取締役の一人だった。  冴子は、今も御門ホールディングスの相談役として席を持っている。  中にいる取締役は、御門の古い案件ではいつも冴子の顔色をうかがっていた人だ。会議では慎重な意見を言うのに、最後には必ず冴子の望む方へ票を寄せる。  私は引き返すべきだった。  でも、聞こえてしまった。  扉の向こうの二人は、私が廊下にいるとは思っていない。  その油断の分だけ、声は少しだけ軽かった。 「臨時総会は、一ヶ月後でよろしいかと」  取締役の声だった。 「社長には」 「正式には、まだ」  そこで少し沈黙が落ちる。  冴子の声は、穏やかだった。 「会社のために、皆さんが必要だと判断なさったのでしょう」 「はい。ただ、高瀬さんを総会直前まで刺激するのは」 「刺激する必要はありません」  冴子は、少し笑ったようだった。 「お身体のこともあります。ご本人のためにも、少し会社から離れていただく方がよいのではありませんか」  ご本人のため。  その言葉で、人はずいぶん乱暴なことができる。 「高瀬会計事務所への損害賠償請求も、同じ議題で」 「検討事項として置けば十分です。責めるのではなく、不安材料として」  指先が冷えた。  父の事務所。  私の仕事。  私の身体。  全部が、ひとつの箱に入れられようとしている。  取締役が、冴子の顔色をうかがうように続けた。 「一条の方には、先にお話を通しておきます。高瀬さんも、これで少しはおわかりになるでしょう」  冴子は止めなかった。  取締役の声が、さっきより低くなる。 「御門に歯向かったことを、後悔していただきましょう」  冴子はすぐには返さなかった。  止めるのかと
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第55話 御門を揺るがす臨時総会がやってくる①

 夜、平日の部屋へ戻ると、そこにはまだ生活感がなかった。  御門から逃げるためではない。  御門の中に残っているものを見るために、外で息をする場所を作る。  白い壁。低いテーブル。箱から出したばかりのマグカップ。  窓際には、昨日買った小さな加湿器があった。  御門の家ほど広くない。  けれど、息はしやすかった。  朔弥さんはキッチンに立っていた。  味噌汁の匂いがする。  鍋の蓋が小さく鳴るたび、私は御門で聞いた会話を思い出した。 「食べられそうか」  朔弥さんが椀を置いた。  豆腐とわかめ。ねぎは細かい。  昨日、私がねぎなら少し食べられると言ったのを、覚えていたのだろう。 「少しなら」 「少しでいい」  命令ではなかった。  それだけで、息が少し楽になる。  私は椀に手を添えた。  温かい。 「さっきの件、整理してもいいですか」  朔弥さんが頷いた。  私は味噌汁を一口飲んだ。  おいしいと思った。  こんな時にそう思えることが、少しだけ不思議だった。 「おいしいです」  言うと、朔弥さんが一瞬だけ目を伏せた。 「そうか」  それだけだった。  でも、耳のあたりが少し赤い。  また、可愛いと思ってしまった。 「昔、家にいた人に教わった」 「料理人の方ですか」 「いや。俺と姉の世話をしてくれていた人だ」  朔弥さんは、湯気の立つ椀を見た。 「母が忙しい日は、その人がよく作ってくれた。姉が泣いた日も、俺が熱を出した日も、なぜかこれだった」  御門家の味ではない。  けれど、朔弥さんの中に残っている味。  そう思ったら、椀の温かさが少しだけ違って感じられた。 「大事な味なんですね」  言うと、朔弥さんは椀の湯気を見たまま、短く頷いた。 「そうだな」 「その人は、今も?」  椀を持つ手が、ほんの少し止まった。 「……いない」  それ以上、朔弥さんは言わなかった。  私も、今は聞かなかった。  聞けば、今の話が戻れない場所へ行ってしまう気がした。  だから私は、椀から手を離し、さっき聞いた言葉へ戻した。 「社長には正式前。けれど、一条には先に話すと言っていました」  朔弥さ
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第56話 御門を揺るがす臨時総会がやってくる②

 味噌汁の湯気を見ていると、昔の台所を思い出す。  御門の家には、いつも誰かがいた。  使用人、料理人、運転手、家庭教師。  けれど、家にいた人間が全員、家族だったわけではない。  その人は、俺と姉さんの世話をしてくれていた。  料理人ではなかったのに、味噌汁だけは妙にうまかった。豆腐とわかめ。細く切ったねぎ。何も特別ではないのに、熱を出した日も、姉さんが泣いた日も、決まってそれを出してくれた。 「大事な味なんですね」  真尋にそう言われた時、すぐには返せなかった。 「そうだな」  それだけで済ませた。 「その人は、今も?」  椀を持つ手が止まった。  今も。  その言葉が、ひどく遠い場所から届いたように聞こえた。 「……いない」  それ以上は言わなかった。  真尋も、今は聞かなかった。  聞かれたら、答えられただろうか。  母が辞めさせた。  そう言うだけなら簡単だった。  でも、それでは足りない。  辞めさせたのは母だ。  見ていたのは俺だ。  止めなかったのも、俺だ。  あの人は、最後まで姉さんの味方だった。  御門の娘としてではなく、香澄という一人の女のそばにいた。  姉さんが久我さんに会いたがっていたことも、知っていた。  久我さんが何度も連絡を取ろうとしていたことも、たぶん知っていた。  あの日、俺は廊下の角で、あの人が小さな封筒を握っているのを見た。 「朔弥さま」  そう呼ばれて、立ち止まった。  封筒には、久我さんの名前があった。  姉さんの文字だった。 『会いたい』  中を見たわけではない。  でも、封筒の口から見えた一行だけで、十分だった。  姉さんは、会いたがっていた。  久我さんを拒んでいたわけではなかった。  俺はその封筒を受け取るべきだったのか。  久我さんへ渡すべきだったのか。  姉さんの部屋へ戻して、本人にもう一度聞くべきだったのか。  正しい答えは、今ならいくらでも並べられる。  けれど、あの時の俺は、母の声を先に聞いた。 「香澄を刺激しないで」  母は、荒げなかった。  いつもの声だった。  やわらかくて、間違っているように聞こえない声。 「あの人に会えば、香澄はまた揺れるわ。あなたは香澄を守りたいのでしょう」  守りたい。  その
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第57話 焦げた食パンとヨーグルト

 朝、仮部屋のテーブルには、焦げた食パンとヨーグルトが並んでいた。  焦がしたのは朔弥さんだ。  御門の家なら、朝食は黙っていても出てきた。  カップの位置も、果物の切り方も、誰かが先に決めていた。  ここには使用人がいない。  パンは自分たちで焼くし、ゴミ袋の替えも自分たちで探す。  昨日の夜、朔弥さんは洗剤の場所がわからず、私は加湿器の水を床にこぼした。  不便だ。  でも、誰かの手できれいに囲われているより、ずっとのびのびできた。 「社長」 「言うな」 「火加減は支配できなかったんですね」 「トースターに支配権はない」  真面目な顔で返されて、私は笑ってしまった。  すると朔弥さんは、ほんの少しだけ目を細めた。  私の笑い声を聞いている、というより、大事なものを見るような目だった。  そんな風に見られて、身体のどこかが甘く痺れた。  焦げたパンの匂いも、冷めかけたコーヒーも、その朝だけはなぜか悪くなかった。  臨時総会。  損害賠償。  身の程。  御門家で聞いた言葉を思い出す。  それでも、焦げたパンで笑える。  朔弥さんは焦げた端を削って、私の前に置いた。自分の皿には、黒いところが残っている。 「そんなことしなくても」 「俺が焦がした」 「私も食べられます」 「そういう問題じゃない」  不器用な優しさだった。  でも、前よりずっと受け取りやすい。  私はパンを半分に割り、朔弥さんの皿へ戻した。 「共犯なので」  朔弥さんは、その半分を見て、困ったように笑った。 「そうだったな」  食べ終えても、朔弥さんはすぐには席を立たなかった。  昨夜、私たちは同じベッドで眠った。  眠った、だけではない。  御門のためでも、跡継ぎのためでもなく、ただ触れたいと思って触れた。  名前を呼ばれて、返事の代わりにしがみついた。  何度も確かめるように口づけられて、そのたびに、もう夫婦という言葉の陰に隠れなくていいのだと思った。  朝になって、そのことが急に恥ずかしくなる。  朔弥さんが私のカップを取ろうとして、指が触れた。  それだけで、昨夜の体温を思い出してしまう。 「すみません」 「なぜ謝る」 「いえ」  視線の置き場所に困って、私はカップの縁を見た。  朔弥さんは私を見て、
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第58話 株主総会で勝つために

 病院へ行く前に、もう一つだけ片づけることがあった。  仮部屋の小さなダイニングテーブルで、私は業務用の端末を開いた。 「株主総会で勝つために、外部の支援が必要になります」 「資金を入れるという話か」  朔弥さんの声が硬くなった。  当然だ。資金を入れれば持分は薄まり、社長としての権限にも影響する。 「いずれは必要です。でも、今ではありません」  総会前に資金を入れれば、一条側は必ず言う。  高瀬真尋が、御門を外へ売ろうとしている、と。 「もちろん、あなたの経営権を削る形にはしません」  朔弥さんの肩から、わずかに力が抜けた。  それから、短く頷く。 「今回は資金を入れる話ではなく、株主に判断材料を示すための外部支援が必要です」 「城戸はどうだ」  朔弥さんが言った。  私は顔を上げた。  朔弥さんからその名前が出るとは思っていなかった。 「城戸さん、ですか」 「ああ。ホテル側の提携先にも、再建案件を見る投資家にも顔がある。御門を買わせるためじゃない。正式な窓口を作るためだ」  嫉妬ではなく、社長として使えるカードを見ている顔だった。 「……その手がありますね」  城戸さんに連絡するなら、個人の連絡先ではない。  御門ブライダル案件で使っていた、記録の残る窓口だ。 「まずは、協力依頼してみます。受け取っていない資料を、受け取っていないと示せる形で残してもらうこと。外部提携先への窓口を、後で正式に紹介してもらえるかどうか」  今ここで、誰かの財布に助けてもらえば、一条は必ず言う。  高瀬真尋は、御門を外へ売ろうとしている。  その筋書きにだけはしたくなかった。 「再建計画そのものは、まだ出しません。城戸さんが先に知っていた形にされたくないからです」  私は画面に短く打ち込んだ。 『御門HDの件で、業務上の協力をお願いしたいことがあります。過去の受領記録と連絡経路、外部提携先への正式な接続について相談させてください』  送信する前に、朔弥さんへ画面を向けた。 「見ますか」 「見ない」  すぐに返ってきた。 「真尋が必要だと思うなら送れ」  指が止まった。  前なら、きっと見た。  そして私は、疑われているのだと思った。  今は違う。  私は送信ボタンを押した。  すぐに既読はつかなかった。
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第59話 変わったと思ったのに

 その時、端末が震えた。  宮田さんからだった。  父の事務所で昔から働いている人だ。 〈真尋ちゃん、落ち着いて読んでね〉 〈先生が倒れました〉 〈救急搬送されています〉  画面の文字が読めなくなった。  病院名は見えた。父の事務所から近い病院だった。 「真尋」  朔弥さんの声で、自分が立ち上がろうとしていたことに気づいた。  膝の紙袋が床に落ちる。クリニックで渡された説明書類が、鞄から少しはみ出していた。 「父が……」  声がうまく出なかった。  私は端末を朔弥さんへ向けた。 「倒れたって。救急搬送って、宮田さんが」  言葉にしても、現実にならなかった。  でも、端末の画面には同じ文面が残っている。 「わかった」  朔弥さんはすぐに受付へ向かった。説明を後日に回し、タクシーを呼ぶ。  その早さに助けられたのに、私はその背中を見ながら、口の中が乾いていくのを感じていた。  父が倒れた。  父まで。  病室に朔弥さんを連れて行ったら、父は何と思うだろう。  御門社長。  父の事務所に確認を入れ、損害賠償請求をちらつかせている会社の人間。  そう見える人を、私が頼る。  それでも。 「朔弥さん」  名前を呼ぶと、彼が振り返った。 「来てほしいです。……私、一人では無理です」  朔弥さんは、すぐには答えなかった。  返事の前に、わずかな間があった。  その間に、さっき飲み込んだ迷いが戻ってきた。 「行く」  遅くはなかった。それでも、私の心にはその間が沈んでしまった。 ***  父が搬送されたという総合病院の受付で名前を告げると、宮田さんが待合の椅子から立ち上がった。目元が赤い。 「真尋ちゃん」 「父は」 「意識はあります。検査も終わって、今は点滴をしています。先生は、過労とストレスだろうって」  簡単な言葉で言われるほど、胃のあたりが重くなる。 「午前中、御門側からまた書面が来ていたの」  宮田さんは、言いにくそうに私を見た。 「前に出した資料の作成経路と、職員の閲覧範囲。それから、損害賠償の可能性について、顧問弁護士名で確認したいって」  私は目を閉じた。  やっぱり、止まっていなかった。  御門の廊下で聞いた言葉は、もう外へ出ていた。 「先生は、真尋ちゃんには言うなって。
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第60話 信じるというのは、黙って待つことじゃない

 朔弥さんは、まだ目の前にいた。  けれど、もう半分は御門へ戻っているように見えた。  病院の廊下で、朔弥さんのスマートフォンだけが何度も震えていた。画面には、御門側からの着信がいくつも残っている。父の病室の扉は閉まっていて、宮田さんは少し離れた椅子で茶封筒を抱えていた。  私が「なんで」と聞いたあと、朔弥さんはすぐには答えなかった。  その沈黙が、いちばん嫌だった。  言えない理由があるのだろう。  そう思えるくらいには、私はもう彼を知らない人ではない。  それでも、言ってくれないことに傷つかないわけではなかった。  やがて、朔弥さんが口を開いた。 「戻らないといけない」  正しい理由があるのだと思う。  たぶん、社長としては。  でも、理由を聞けないまま残されることが、私を傷つけないわけではない。 「真尋」  朔弥さんは一歩近づいた。 「あとで、ちゃんと話す」  その言葉が、胸の真ん中に落ちた。  信じたい。  信じたいのに。  どうして、今じゃないのだろう。 「今は、話せないんですか」  声は自分で思ったより小さかった。  朔弥さんの目が揺れた。 「悪い、急ぐ」  答えになっていない。  昔とは違う言葉だった。  それでも、私の手を離していく背中は、あの日と同じに見えた。 「すみません」  朔弥さんは、宮田さんに向き直った。 「書面の写しを、あとで真尋へ渡してください。原本は事務所で保管を。こちらから直接持ち出すことはしません」  宮田さんは、すぐには頷かなかった。  御門の人間を信じていいのか、迷っている顔だった。  当然だ。  朔弥さんは、それ以上迫らなかった。 「必要な確認は、正式な窓口から出します」  そう言って、私を見た。  何かを言いかけて、やめた。  またなの?  その言葉が、喉の手前まで来て、私は飲み込んだ。  朔弥さんは病院の出口へ向かった。  背中が角を曲がるまで、私は動けなかった。 ***  病室へ戻ると、父は目を開けていた。 「社長は」 「御門へ戻った」  短く答えると、父は少しだけ眉を動かした。  私の口調に、少し棘があることに気が付いたのかもしれない。 「そうか」  責める声ではなかった。  でも、何もわかっていない声でもなかった。
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