All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 見るまで死ねないなぁ

 父の言葉が、病室に残っていた。  信じることは、黙って待つことではない。  その言葉を繰り返していると、父が薄く目を開けた。 「今日は仕事だろう。忙しいのに悪かったな」 「半休を取っていたから」  言ってから、少しだけ迷った。 「……病院で」 「病院?」 「どこか悪いところがあるわけじゃないの。その……」  言おうか迷った。  でも、父には話したいと思った。  御門家から、産めるかどうかを見られてきたこと。  跡継ぎの話として、私の体を扱われてきたこと。  最初は、子どもという言葉そのものが嫌だったこと。  なるべく冷静に話していたはずなのに、父は怒っているように見えた。  声を荒げたわけではない。  眉を吊り上げたわけでもない。  ただ、点滴のついていない方の手が、シーツの上で強く握られていた。  子供を欲しいと思った瞬間に、御門の言葉に負ける気がしていた。  でも最近、少しだけ変わってしまった。  御門のためではなく。  誰かに急かされたからでもなく。  焦げたパンを見て笑う朝が続くなら、その先にもう一人いてもいいのかもしれない、と。 「私を守ってくれようとした女医さんの新しいクリニックへ行っていたの」  私は父の顔を見た。 「開院祝いを渡すのと……子どものことを相談するために」  私は父の手を見た。  点滴の管が、白いシーツの上で細く曲がっている。  家族がいなくなること。  家族が増えるかもしれないこと。  その二つが、同じ日に胸の中でぶつかっていた。  言いかけて、やめた。  父は、その間を見逃さなかった。 「今、家族の話をしようとしただろう」  思わず黙った。  父は、昔からそういうところだけ鋭い。 「……私、子どもが欲しいかもしれないって思ったの」  こんな病室で。  こんな時に。  でも、父に聞かれたから、言えた。 「御門のためじゃなくて。跡継ぎとか、家とか、そういうことじゃなくて」  父は黙って聞いていた。 「この先、私が私のままでいられるなら。朔弥さんと、ちゃんと選べるなら。そういう未来も、欲しいかもしれないって」  そして、父が倒れたという文字。 「でも、父さんが倒れて……家族って、増えるかもしれないものでもあるけど、いなくなるかもしれないものなんだって、
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第62話 敵の手はそこまで伸びている

 父の病室を出ると、廊下の白さが目に痛かった。  父の言葉が、耳に残っている。  信じることは、黙って待つことではない。  その通りだと思ったのに、端末を開く手はすぐには動かなかった。  朔弥さんからの連絡は、まだない。  御門へ戻ると言った背中。あとで話す、と残された言葉。あれを信じたい気持ちは、まだ消えていない。  ただ、信じたいからといって、何も聞かずに待つ理由にはならなかった。 「真尋ちゃん」  声をかけられて振り向くと、宮田さんが廊下の端に立っていた。父の事務所で長く働いている人だ。結ばれた髪が、今日は乱れている。  手には、茶封筒があった。 「コピー、取ってきた。原本は事務所で保管するね。先生にも、そう伝えてある」 「ありがとうございます」  封筒は薄かった。  けれど、指に乗る重さは紙の量とは違っていた。  廊下の椅子に腰を下ろし、封筒を開ける。  御門ホールディングス総務法務部。  その名前を見た瞬間、病院の白い壁が少し遠くなった。  下には、担当役員名が入っている。  古い名前だった。御門の役員名簿で何度も見たことがある。冴子さんがまだ「奥様」として社内に顔を利かせていた頃から、会食や式典の写真に必ず写っていた人だ。  内容は、丁寧だった。  父の事務所に対し、御門ブライダル案件に関する資料作成経路、閲覧範囲、外部共有の有無について確認を求める。必要に応じ、損害賠償請求も検討する。  要するに、父を黙らせるための紙だった。  そして、父の事務所に疑義がある、という形を作れれば、その娘である私も同じ案件から外せる。  許せない。  ベッドで目を閉じていた父の顔を思い出し、そう思った。 「先生は、まだ事実確認の段階だからって」  宮田さんが言った。 「真尋ちゃんに心配かけるなって言ってた。でも、もうそんな段階じゃないと思ったの」 「その通りです。ありがとうございます」  私は紙を封筒に戻した。  父は、私に言うなと言った。  朔弥さんは、あとで話すと言った。  みんな、私を守る顔をして、私のいないところで話を進めようとする。  そのたびに、私は知らないまま選ばされる。  もう、嫌だった。 「宮田さん。この書面、写しを一部だけ預かってもいいですか」 「もちろん」 「父には、隠さない
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第63話 その資料は改ざんされていた

 城戸さんが指定した場所は、城戸ホテルズの本社でも、いつものホテルでもなかった。  駅から少し離れた古いビルの三階。  郵便受けに会社名はなく、部屋番号の横に小さなプレートが一枚だけ貼られていた。  KIDO。  それだけだった。  ドアの前で足を止める。  ここへ来たことを、朔弥さんは知らない。  言うべきだったのかもしれない。けれど、言えばきっと御門の話になる。  今は、それを待っていられなかった。  インターホンを押す前に、ドアが開いた。 「早かったですね」  城戸さんはスーツの上着を脱ぎ、ネクタイだけ緩めていた。仕事の延長なのに、会社ではない。その半端さが危うく見えた。 「ここは」 「個人で借りている作業部屋です。正式な会議室ではありません」 「それを私に見せていいんですか」 「よくはないです」  城戸さんは、あっさり言った。 「だから長居はしないでください」  部屋の中は狭かった。壁際に本棚と複合機、中央に小さなテーブル。窓にはブラインドが下りている。資料を見るためだけの部屋だった。 「こちらが、御門側から高瀬さん名義で送られた初回版」  城戸さんが左の紙を示す。 「こちらが、うちの内部共有フォルダに残っていた版です」  一見、同じ資料に見えた。表題も、日付も、作成者名も、私の名前も同じ。  けれど、数行読んだだけで、胃の底が冷えた。 「ここ」  私は右の資料を指した。 「運営保証の前提が変わってます」 「はい」 「この数字、私は入れていません」 「でしょうね」 「稼働率の見込みも変わっています。こちらは高めに。運営受託側のリスク説明は短く。代わりに、御門側の判断遅れが損失要因に見える文言が追加されている」  私は紙から目を離せなかった。  私が送った資料は、前提の甘さも責任の所在も曖昧にしないよう書いたものだった。  私の名前で、私の書いていない結論が作られている。 「御門側で差し替えられたんですか」 「それだけなら、まだ話は単純でした」  送信ログ。受領ログ。内部共有の時刻。  見慣れた業務の記録が、今日は足跡みたいに見えた。 「初回受領の時点では、高瀬さんの版と一致しています。その後、うちの共有フォ
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第64話 城戸の腕の中の妻

「高瀬さん」  視界が傾く。  転ぶ、と思った瞬間、城戸さんの腕が私の背中に回った。もう片方の手が膝の裏を支え、体が浮く。  抱きかかえられたのだと理解するまでに、呼吸ひとつ分遅れた。  城戸さんのシャツが頬の近くにある。  腕の力と体温が近すぎて、何を言えばいいのかわからなくなった。  城戸さんの目が、ほんの一瞬だけ変わった。  仕事相手を見る目ではなかった。  でも、名前をつける前に、彼はそれを消した。 「すみません」 「謝らないでください」  いつもより近い声だった。 「間に合ってよかった」 「……下ろしてください」 「もう少しだけ」  思わず顔を上げる。  城戸さんはそこで、自分の言葉に気づいたみたいに目を伏せた。 「足をつける前に、呼吸を整えてください」  言い直し方が、仕事の人に戻ろうとしている。  でも、戻りきれていなかった。  城戸さんは、私を階段の下に下ろすと、すぐに手を離した。  ほんの数秒だった。  それなのに、抱えられた感覚だけが、妙にはっきり残っていた。 「……重くなかったですか」 「重いと思う余裕はありませんでした」  そう言ってから、城戸さんは視線を外した。 「落としたくなかったので」  返す言葉が見つからなかった。 「高瀬さん」  城戸さんが、歩道の端で足を止める。 「今日のことは、必要になるまで誰にも話さないでください」 「朔弥さんにも?」 「判断は任せます。ただ、今すぐ話せば、御門の中で動く人間が出る」  それは、私が一番わかっていることだった。  だから余計に痛かった。 「わかりました」  その時、向かいの歩道で、小さな光が瞬いた気がした。  振り向く。  けれど、そこには通り過ぎる車のライトと、閉まりかけた店のシャッターしかなかった。  気のせいだ。  そう思おうとしても、さっき抱えられた感覚が、なかなか消えなかった。  だからこそ、朔弥さんに会いたかった。 ***  その頃、御門ホールディングス本社の社長室で、朔弥は一人、会議資料に目を通していた。  総務法務部から上がってきた報告書は、どれもよく似た言葉で固められている。  会社としてのリスク。  確認中。  慎重な対応が必要。  誰が何をしたのかを言わないための責任逃れの言葉
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第65話 あなたが黙って傷つくなら、その隣には私がいます

 二十時を少し回った頃、澄麗の端末に報告が届いた。  相手は、数日前に澄麗が依頼した別れさせ屋だった。  城戸圭介を煽り、高瀬真尋の動きを探り、御門朔弥に疑わせるために動かしていた相手だ。 『写真は送付済みです。高瀬真尋は仮部屋へ戻りました。御門朔弥は本社を出て御門家に向かっています』  後部座席で、澄麗は短い文面を二度読んだ。  写真そのものよりも、その後の報告のほうが価値があった。  期待していたより、よく動く人間だった。  使い方次第で、まだまだ役に立ちそうだ。  高瀬真尋は、城戸圭介に抱きかかえられた。  朔弥さんは、その写真を見た。  そして、二人は会っていない。  固い絆ほど、外からは壊れないように見える。  けれど、澄麗は知っていた。  疑いをひとつ挟めば、隙間はできる。  あとは、そこへ心配する顔で入り込むだけだ。  澄麗は端末を持ち直し、冴子へ電話をかけた。 『こんな時間にどうしたの』  冴子の声は、少し不機嫌だった。  けれど、澄麗は慌てなかった。 「申し訳ありません。ですが、総会前に気になることがございまして」 『また真尋さんのこと?』 「断定はできません。ただ、城戸様と高瀬さんが、夜にお二人で会っていたようです」  電話の向こうで、冴子が息を呑む音がした。 『城戸さんと? あの方、提携先でしょう』 「はい。ですから、私も心配で。朔弥さんのお立場を考えると、余計な噂にならなければいいのですが」 『余計な噂で済む話ではないわ』  冴子の声が、はっきり硬くなった。 『真尋さんは、いつもそう。自分だけは正しい顔をして、周りに迷惑をかけるの』 「お義母様。まだ決めつけるのは」 『あなたは優しいのね、澄麗さん』  欲しい言葉が返ってきて、澄麗は目を伏せた。 「私は、御門のために動きたいだけです」 『朔弥のそばにいてあげて。あの子は、昔から肝心なところで一人で抱え込むの』 「はい。私でよければ」  通話が切れた。  車内は暗い。  運転席との間には仕切りがあり、澄麗の顔を見る者はいない。 「ふふ」  押し殺していた笑いが、口元から漏れた。 「あはははは」  冴子はわかりやすい。  朔弥さんは、もっとわかりやすい。  怒鳴らない。  問い詰めない。  信じたい相手ほど、
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第66話 外された会議で見つけた名前

 仮部屋に戻ってからも、妙な気配が消えなかった。  城戸さんのビルの前で、向かいの歩道に小さな光が見えた気がした。  振り向いても、誰もいなかった。  それなのに、見られていた感覚だけが残っている。  朔弥さんから連絡はなかった。  私も、連絡できなかった。  テーブルの上には、朝に焦がしたパンの端が残っていた。  流しには、朔弥さんが使ったマグカップが伏せられている。  あの時は笑えたのに、今はその黒い端から目を離せなかった。  今、会いたいのは朔弥さんだ。  それだけは間違いないのに。 ***  翌朝、会社で、私の名前は会議招集から外れていた。 「どういうこと……?」  画面には、御門ブライダル案件に関する緊急確認会、とある。  昨日まで私が主担当だった案件だ。予算も、関係者も、城戸側との交渉経緯も、私が一番把握している。  それなのに、参加者欄に私の名前はない。  代わりに、総務法務部の古い役員、冴子に近い管理部門の部長、澄麗の名前が入っていた。  画面を見ていると、背後で足音が止まった。 「高瀬さん」  管理部門の部長だった。  困った顔をしているのに、目だけはもう決めていた。 「本日の緊急確認会ですが」 「招集から外れていました」 「ええ。高瀬さんは関係資料への直接アクセスを控えていただく方針です」  丁寧な言葉で、私は自分の仕事から締め出された。 「理由を伺っても?」 「高瀬さん個人の問題ではなく、会社としてのリスクです」  心血を注いだ仕事を取り上げる理由としては、ずいぶん軽い言葉だ。 「会社としてのリスクにしたのは、私ではありません」  部長の口元が固まった。 「そういう意味では」 「では、どういう意味ですか」  彼は視線をそらした。 「高瀬さんを外せば済む話だと、上からは」  そこまで言って、口を閉じる。 「上というのは、どなたですか」  答えはなかった。それが答えだった。 「……社長も、合意されています」  朔弥さんも。  たったそれだけの名前で、足元の感覚が変わった。  今朝まで、私はまだ、あの人に会いたいと思っていた。焦げたパンの端も、流しに伏せられたマグカップも、捨てきれないままだった。  前の朔弥さんなら、私に何も言わずに決めただろう。  でも、今は違
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第67話 なんて自分勝手なんだろう

 その重さを抱えたまま、私はしばらく端末を握って動けなかった。 御門香澄。 私が見つけたのは、香澄さん本人ではない。 御門の古い支払いの中に紛れた医療法人名と、添付書類に残っていた患者名だけだ。 それでも久我さんにとっては、何年も閉じられていた扉の隙間かもしれなかった。 軽く扱っていい名前ではない。 私は何度か文面を打ち直し、結局、短くした。『御門香澄さんの名前がある書類を見つけました。医療法人名も確認しています。お話しできますか』 送信してから、すぐに後悔した。 もっと慎重な言い方があったかもしれない。 先に朔弥さんへ伝えるべきだったのかもしれない。 けれど、朔弥さんからはまだ連絡がない。 ――社長も合意している。 部長の声が、また耳の奥で再生された。 朔弥さんがどこまで御門なのか、わからなかった。 画面が震えたのは、その時だった。 久我さんからだった。 通話ボタンを押すと、しばらく声がしなかった。「久我さん?」『……見つけたんですか』 低い声だった。 怒っているようにも、泣きそうなようにも聞こえた。 けれど、その奥に、ほんのわずかな熱があった。 探していたものに、やっと手が届いた人の声だった。「まだ、香澄さんご本人に会えると決まったわけではありません」『場所は』「医療法人名だけです。御門の古い支払いと、添付書類に名前が残っていました」『それでもいい。そこから追います。教えてください』 私は画面のメモを見た。 そのまま読み上げればいい。 けれど、その時、頭の中で別の数字が動いた。 臨時総会。 私を会社から外す議案。 父の事務所への損害賠償請求。 冴子が当然のように数えている古い票。 そして、御門香澄という名前。「……久我さん」『何ですか』「香澄さんにも、株がありますよね」 電話の向こうの空気が変わった。 さっきまであった熱が、すっと引いていく。『それを、今言いますか』 声は荒くなかった。 だからこそ、冷たかった。『何でですか』「今度の株主総会で、私を会社から外す議案が出る可能性があります」 言った瞬間、喉の手前が冷えた。 香澄さんの居場所を伝えるはずの電話で、私は総会の話をした。 票の話をした。 久我さんが欲しかったのは、香澄さんへ続く線だった。 私が口にしたのは
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第68話 総会まで、信じると決めました

 電話に出るまで、数秒かかった。  画面の名前は、御門朔弥。  私がかけようとして、結局かけられなかった相手だった。 「……はい」 『真尋』  久しぶりに聞く声だった。  たった一日か二日のはずなのに、ずいぶん遠いところから届いたように聞こえる。 『連絡が遅くなった』 「遅いです」  責めるつもりはなかった。  でも、声は勝手に出ていた。 「私を案件から外すことに、社長も――あなたも合意していると聞かされました」  電話の向こうで、短い沈黙が落ちる。 「それを聞いて、私がどう思ったか、わかりますか?」 『……真尋』 「まただと思いました」 『違う』  すぐに返ってきた。 「何が違うんですか」 『言わなかったのは前と同じかもしれない』  否定されると思っていた。  けれど、朔弥さんはそこを認めた。 『お前のいないところで決めた。傷つけた。それは俺がしたことだ』  電話の向こうで、朔弥さんが短く息を吸った。 『でも、今度は御門のためじゃない』 「……え?」 『お前との未来のためだ』  その声の熱に、あの夜を思い出した。  仮部屋で、私に触れていいかと聞いた時の目。  欲しいものを押しつけるのではなく、私の返事を待っていた目。 『信じられないか』  信じられない。  そう言う方が、きっと簡単だった。  でも、社長室での言葉も。  御門で私の前に立った背中も。  父の病院で、あとで話すと言った時の目も。  仮部屋に残っていた焦げたパンとマグカップも。  全部が嘘だったとは、思えなかった。 『総会まででいい。信じてほしい』  総会までなら。  父の言葉がよみがえる。  信じることは、ただ待つことではない。 『どうだ』  朔弥さんの声が、わずかに緊張している気がした。 「……わかりました。今は信じます」  言ったあとで、自分の声の硬さに気づいた。 「でも、総会までです。待つだけはしません。確かめます」 『それでいい』  朔弥さんの声が、少しだけほどけた。 『本当は、お前に会いたい』  指先に力が入った。  会いたい。  その言葉を聞きたかった。  聞きたかったはずなのに、すぐには返せなかった。 「……私もです」  言ってしまうと、電話の向こうの空気がほんの少し変わった
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第69話 お前は勝ったあと何を守るんだ

 翌朝、父の事務所へ行くと、父は私の顔を見るなり眉を上げた。  父は前日の夕方に退院していたのに、朝にはもう事務所の机に座っていた。 「寝てない顔だな」 「寝ました。父さんこそ、退院してすぐ仕事なんて」 「私は座っているだけだ」  父はそう言って、温かいお茶を出してくれた。  事務所の古い湯呑みが、いつもと同じ場所にある。それだけで、少し息が楽になった。  私は総会で味方になりそうな人の名前を並べた。役員、金融機関、取引先、城戸さんがつないでくれた外部支援。  父は黙って聞き、時々、短く確認を入れた。要るものと要らないものを分けるのは早かった。 「外部資金は、今入れる話じゃないな」 「はい。総会前にそれをやれば、御門を外に売ると言われます」 「なら、信用だ」  父は紙の端に丸をつけた。 「御門を立て直す価値があると、外からも見えている。その材料にする」  うなずく。けれど、並べた名前を見ても、まだ足りなかった。  あと一手。  心の中で、御門香澄という名前が浮かぶ。  父は、私の沈黙を見ていた。 「まだ一手あるのか」  私は湯呑みに添えた手を止めた。 「……あります」 「使いたくない一手か」  見抜かれていた。 「御門香澄さんです」 「御門の娘さんか」 「はい。香澄さんにも、株があります」  言葉にすると、紙の上の数字が急に重くなった。  私は父に、御門のために壊された女の話を簡単にした。 「でも、票として数えたくありません。彼女は、御門に利用されてきた人です。それを利用したら、私たちも向こうと同じになる」  そこまで言ってから、私は唇を噛んだ。 「……ただ、そうしたら負けるかもしれません。向こうは卑怯です。人の名前も、仕事も、家族も、何でも使う。父さんの事務所も、城戸さんの会社も、私の身体のことまで」  父は黙って聞いていた。 「こっちはそうしない。それで勝てるんでしょうか」 「勝てるとは限らない」  甘い言葉ではなかった。だから、背筋が少し伸びた。 「でも、同じやり方で勝ったら、お前は勝ったあと何を守るんだ」 「……香澄さんの名前は、使うなってことですか」 「本人のいないところではな。それは票集めじゃない。利用だ」  勝つことだけを見れば、香澄さんの名前は強い。でも、そのために先に使え
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第70話 ずっと探してた

 ロビーには、自動販売機の低い音がしていた。  昼の光がガラス戸から入り、白い床に四角く落ちている。  香澄は、その光の端で足を止めた。  ソファの端に、高齢の夫婦が座っていた。  夫らしい人が紙コップを渡すと、妻は受け取る前に相手の手をそっと押さえた。 「美味しいから、あなたが先に飲んで」  香澄が立ち止まったことに気づいたのか、妻の方がこちらを見た。 「ごめんなさいね、通り道だったかしら」 「いいえ」  香澄は首を横に振った。 「仲がいいんですね」  口にしてから、香澄自身が少し驚いた。  妻は夫を見て、照れたように笑った。 「長くいるだけよ」 「長くいるのが、いちばん難しいんだ」 「長くいると、何を覚えているものですか」  妻は少し考えてから、笑った。 「大事な日より、案外くだらないことね」  狭い部屋の冬を思い出す。  洗濯物を干す場所がないこと。味噌汁の具が昨日と同じだったこと。香澄が買ってきた安いスリッパを、久我がまじめな顔で「御門家御用達」と呼んで二人で笑ったこと。  御門の家では、何をしても意味を問われた。  誰のためか。家のためになるか。跡取りにつながるか。  けれど、あの狭い部屋では、意味のないことで笑えた。  それだけで、そこは二人の家だった。  子どもができたとわかった日も、久我は喜んだ。  何を買えばいいのか、どこへ引っ越せばいいのか、まだ何も決まっていない未来を勝手に話していた。  その人が、本当に香澄を捨てたのだろうか。  母は、そう言った。  久我さんもがっかりしたのよ。  男の人は、優しい顔で期待するものなの。  期待が消えれば、顔も変わるの。  香澄は、何度も否定しようとした。  けれど久我は来なくなった。電話も、手紙の返事もなかった。  捨てられたのだと思えば、待たなくて済んだ。  がっかりされたのだと思えば、もう一度信じて傷つかずに済んだ。  みんな、香澄が壊れたことより、産めなくなったことを見ていた。  なら、久我もそうなのだ。 「香澄」  呼ばれて、香澄は振り向いた。  ロビーの柱のそばに、男が立っていた。  久我だった。  少し痩せていた。  髪に白いものが混じっていた。  でも、香澄を見る目だけは、知っている人のものだった。  久
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