All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 でも……あなたは御門の人です

「でも……あなたは御門の人です」  それ以上は言わなかった。  でも、今私を追い詰めているのは御門だ。結婚も、家族も、仕事も、私の帰る場所まで、全部奪おうとしている。  その家の人に、隣に立つと言われても、すぐに信じられるはずがない。 「違う」  即答だった。  でも、すぐに朔弥さんは唇を引き結んだ。 「……いや、前はそうだった」  朔弥さんの腕に、少しだけ力がこもった。 「俺は御門の人間として、御門の側に立っていた。母さんの言うことを疑いきれなかった。家を守ることと、お前を守ることを、同じだと思っていた」  息が止まる。 「でも本当は……姉さんの時に、戦うべきだった」  香澄さんの名前が、胸の奥で静かに揺れた。 「……信じていいんですか」  聞いた瞬間、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。 「今さら、そんなことを……」 「今さらでも聞け」  朔弥さんは、私の言葉を遮った。  その音が、はっきり大きくなっていた。 「全部信じろとは言えない」  そんなことを、真顔で言う。 「信じられないことは、まだあると思う」  朔弥さんは、私から目を逸らさなかった。 「前にお前は、俺が感情を言葉にするのが苦手だって言ったな」  息が止まる。 「その通りだ」  朔弥さんの声は、低く掠れていた。 「それで考えた。俺は……」  そこで一度、言葉が止まった。  朔弥さんは、私から目を逸らさなかった。 「俺は、お前が好きだ」  胸が跳ねた。 「手放したくない。守りたい。……それだけは、信じてほしい」  少しだけ、泣きそうなのに笑いそうになった。 「……なんですか、それ」 「だから、嫌なんだ」  朔弥さんは、どうしようもないくらい真剣な顔で言った。  隠しきれなかった感情が、そのまま言葉に出ていた。 「お前が一人で終わらせようとするのは、嫌だ」  その言葉に、私はもう何も返せなかった。  負けたのは、たぶん私だった。  完全に許したわけではない。  戻ると決めたわけでもない。  それでも、嫌われるための言葉を続けることは、もうできなかった。  私は、小さく息を吐いた。 「……嫌いになってくれた方が、楽だと思いました」 「無理だ」  即答だった。  あまりに早くて、胸が詰まる。 「少しは考えてくださ
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第42話 電話の向こうで、何かが割れる音がした

 泣き止んだ、とは言えなかった。  涙はもう頬を流れていない。ただそれだけで、喉の奥はまだ痛かった。  開いたままの社長室から、白い灯りが廊下にこぼれている。  誓約書のことが、胸の底に重く沈む。  澄麗に差し出した紙。父の事務所も、城戸さんも、御門も巻き込むと暗に告げられた、あのやわらかな脅し。  言えば、朔弥さんは怒るかもしれない。私のために動いてくれるかもしれない。  でも今それを見せたら、隣に立つと約束してくれたばかりの彼を、また御門と私の間に立たせてしまう。  それが、ひどく残酷なことのように思えた。  それに、卑怯な気もした。  口外しないと約束して署名したものを、自分が苦しくなったからといって、すぐ彼に見せるのは。  その時、手の中のスマートフォンが震えた。  画面に表示された名前を見た瞬間、息が詰まる。  一条澄麗。  朔弥さんの視線も、同じ場所に落ちた。 「出なくていい」 「出ます」 「真尋」 「逃げたら、あの人の言う通りに動いたことになります」  指先は震えていた。それでも、私は画面を押した。 「……はい」 『真尋さん。うまくいきました?』  心配する声ではなかった。  きれいで、やわらかくて、どこにも刃など見えない。だからこそ怖い。 『朔弥さんも、納得してくださいました?』  うまく。  その言葉の下に、父の事務所の名前が沈んでいる。城戸さんの会社も、私の仕事も、私の信用も。 「……ご連絡ありがとうございます」  自分の声が思ったより落ち着いていて、少しだけ驚いた。 「先日の件は、なかったことにしてください。あの内容では進めません」  電話の向こうで、何かが割れる音がした。  それから、静かになった。  ほんの一秒か、二秒。  けれど、その沈黙だけで背筋が冷えた。 『そう』  澄麗さんの声は、変わらずやわらかかった。 『なら、あるべき姿にしないといけませんわね』  怒鳴られたわけではない。  脅されたわけでもない。  それなのに、胃の奥がぎゅっと縮んだ。 『真尋さんがそうお決めになったのなら、私も私の立場で動くしかありません』 「……立場、ですか」 『ええ。戻すべき場所に、戻すだけです』  あるべき姿。  戻すべき場所。  その言葉の中で、私はもう邪魔なも
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第43話 言葉じゃなく、守るところを

 スマートフォンを握る指の力は、まだ抜けなかった。 澄麗さんの声は、まだ耳の奥に残っている。 あるべき姿。 戻すべき場所。 その言葉と一緒に、電話の向こうで何かが割れた音がよみがえる。 私を朔弥さんの妻の座から落とすために、あの人はどこまで準備しているのだろう。「真尋」 朔弥さんが呼んだ。 私は顔を上げる。「一人では行きません」 先に言った。「でも、私の代わりに決めないでください」 朔弥さんは、すぐには答えなかった。 その沈黙を、前なら怖いと思ったかもしれない。 今は、まっすぐ伝わったかを見るために待てた。「わかった」 短い返事だった。「それから、私が言えないことを、力ずくで聞き出そうとしないでください」「しない」「私も、黙って消えません」 そこで初めて、朔弥さんの目が少しだけ揺れた。「一緒に戦おう」 甘い言葉ではなかった。 許してくれという言葉でもなかった。 だからこそ、簡単には頷かなかった。「戦う相手が多すぎます」「わかってる」「御門家も、澄麗さんも……もしかして、一条家も」 朔弥さんが、わずかに眉をひそめた。 否定しない。 それだけで、私の推測が外れていないのだとわかった。「それから、あなたも」 朔弥さんの顔から、血の気が引いた。 意地悪を言いたかったわけではない。 でも、ここを曖昧にしたまま隣に立つことはできなかった。「御門家は、あなたの家族です」 御門冴子は、私にとっては義母でも、彼にとっては母親だ。 御門家は、私を苦しめた場所でも、彼が生まれて育った家だ。 守ると言うのは簡単だ。 でも、その相手が家族になった時、人は簡単に言葉を変える。「……もし、御門家と私を選べと言われたら」 朔弥さんは、そこで一度だけ息を止めた。「真尋を選ぶ」 欲しかった言葉のはずだった。 けれど、欲しかったからこそ、簡単には受け取れない。「言葉だけなら、今は受け取りません」「それでいい」 朔弥さんは逃げなかった。「見せる。今度は、言葉じゃなく、真尋を守るところを」 それでも私は、まだ信じるとは言えなかった。 ただ、今の彼は、私が向けた言葉を受け止めた。 私はスマートフォンを上着のポケットに入れた。 手元に置いたままだと、澄麗さんの声まで握りしめているようで嫌だった。 朔弥さん
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第44話 真尋の唇は、少しだけ苦かった

 真尋の唇は、少しだけ苦かった。  涙の味だと気づいた瞬間、朔弥は胸の奥を掴まれたような気がした。  泣かせたのは自分だ。  守るためだった。  御門から遠ざけるためだった。  一条を刺激すれば、真尋にも、真尋の父の事務所にも火が飛ぶ。そう判断した。  判断しただけで、真尋には言わなかった。  知らせれば、真尋はまた自分で背負う。そう思って黙った。  結果、真尋は一人で消えようとした。  あなたもです。  真尋はそう言った。  言い返せなかった。  守っていたつもりだった。けれど沈黙していたせいで、真尋には何も伝わっていなかった。むしろ、選ぶ権利を奪っていた。  馬鹿なのは、どちらだ。  朔弥は、真尋の背中に回した手に力を入れすぎないよう意識した。  逃がしたくない。  その感情は、昔からあった。  ただ、それがここまで大きいものだとは思っていなかった。  城戸が真尋のそばに現れた時、自分の知らない場所へ行ってしまう気がして怖かった。  真尋が一人で終わらせようとした時は、息ができなくなった。  欲しいものほど、朔弥は別の言葉に置き換えてきた。  必要だ。  最善だ。  守るためだ。  そう言えば、自分の感情を差し出さずに済むと思っていた。 「手放したくない。守りたい。……それだけは、信じてほしい」  声にすると、ひどく頼りない言葉になった。  真尋の肩が、腕の中でかすかに揺れた。  顔を上げた真尋は、泣いたあとの赤い目で朔弥を見ていた。  許した顔ではなかった。  それでも、聞くことだけはやめない顔だった。  その目に、胸が締めつけられた。  全部、本音だった。  けれど、それでもまだ足りない。  こんなに好きになっているとは、思わなかった。  最初から、きれいな理由で選んだわけではない。  真尋は御門とつながりのある税理士の娘で、数字に強かった。会社を立て直すには、都合がよかった。  結婚にも合理があった。真尋にとっても悪い話ではないはずだと、勝手に決めていた。  その時点で、もう真尋の意思を軽く見ていた。  それなのに、今、腕の中で目を伏せている真尋を見ていると、合理だけでは説明できない記憶ばかりが浮かんだ。  初めて会った日、会議室には朔弥の顔色を見る人間ばかりが並んでいた。そ
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第45話 胸が少し、ふわふわした。こんな時だというのに

 その夜、私たちは御門家には戻らなかった。  会社の近くに、朔弥さんが深夜対応用に使っている部屋がある。役員用の仮眠先として処理されているから、経理の資料で見たことがあった。  部屋に入って、扉が閉まった瞬間、社長室で重ねたキスの熱がまだ体に残っていることに気づいた。朔弥さんが、何も言わずに私を抱きしめる。苦しくない強さだった。けれど、社長室の時より少しだけ、熱が近い。  私が顔を上げると、唇が重なった。短いキスだった。それでも、離れたあとの朔弥さんの目が、すぐには平静に戻らなかった。  熱っぽく見られている。そう気づいた瞬間、体が勝手にあの続きを思い出した。  本当は、抱かれたい気がした。でも、今日は落ち着かなかった。  私は、寝室の方へ視線を逃がした。 「……今夜は、一人で寝てもいいですか」  朔弥さんの呼吸が、少しだけ止まる。 「この間は、流されました。でも今は、落ち着かないから」  言いながら、顔が熱くなった。朔弥さんは、ほんの一瞬だけ残念そうな顔をした。隠そうとして、隠しきれていなかった。それが少しだけ可笑しくて、少しだけ胸に痛かった。 「わかった」  そこで終わると思ったのに、朔弥さんは少しだけ視線を逸らした。 「……片づいたら、いいか」  低い声だった。聞き返す前に意味がわかって、顔がさらに熱くなる。 「……はい。私も」 「そうか」  短い返事なのに、どこか満足そうだった。  彼はそれだけ言って、抱いていた腕の力を少しだけ緩めた。私は少し迷ってから、彼の手を取った。  朔弥さんは一瞬だけ驚いたように私を見て、それから、ぎゅっと握り返した。  その手の強さに、胸が小さく跳ねた。  まるで、結婚する前に二人で出かけたときみたいだった。  同じ部屋にいるのに、距離だけはきちんと残された。そのことに少しだけ安心して、少しだけ落ち着かなかった。  私は寝室を借り、朔弥さんはリビングのソファで眠った。 ***  翌朝、城戸さんから連絡が来た。短い文面だった。 『窓口から外れると聞きました。本当にそれでいいのか、少しだけ確認させてください。無理のない範囲で構いません』  無理のない範囲。その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。  御門家では、無理かどうかを私に聞く人は少ない。大丈夫ですね、と確認の形をした決定だけ
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第46話 社長夫人ではなく、高瀬真尋として

 城戸さんとは、駅近くのホテルラウンジで会うことになった。人目がある場所がいいと私が言うと、城戸さんはすぐに了承した。余計なことは聞かなかった。  約束の時間に着くと、城戸さんはすでに席にいた。スーツの上着を椅子の背に掛け、テーブルの上には資料がきれいに揃えられている。 「高瀬さん」  そう呼ばれて、私は息をした。社長夫人でも、朔弥さんの妻でもない。  高瀬さん。ただそれだけの呼び方に、ほっとする日が来るとは思わなかった。 「お時間をいただいてすみません」 「こちらこそ。窓口を外れると聞いて、黙っていられませんでした」  城戸さんの声は、責めるものではなかった。けれど、軽くもなかった。 「ご迷惑をおかけしました」 「迷惑ではありません」  城戸さんは、すぐに言った。 「あなたがいなかったら、この案件は一度止まっていました」  膝の上で、指が動いた。 「……買いかぶりです」 「違います」  穏やかな声だったが、言い切りだった。 「社長夫人だからじゃない。高瀬真尋の判断が必要なんです」  その一言で、胸の奥が熱くなった。泣きたいわけではない。でも、私の名前が、私のものとして呼ばれた気がした。  城戸さんは、資料を一枚こちらへ滑らせた。 「前回のように、こちらが受け取っていない資料を受け取ったことにされるのは困ります。だから、記録は残します」 「私も、そう思っていました」 「議事録、送信履歴、資料の版管理。こちらで確認できるものは保全します。高瀬さんとのやり取りは、すべて正規の業務ルートだったと示せるように」  城戸さんは、そこで少しだけ表情を緩めた。 「残念ですが、個人の連絡先も削除します。今後は業務用の連絡先へお願いします」  冗談めかした声だった。けれど、線を引いてくれているのだとわかった。  淡々とした実務の話だった。だからこそ、ありがたかった。気遣いの言葉より、今の私には記録の方が必要だった。 「そのうえで聞きます」  城戸さんが、私をまっすぐ見た。 「それでいいんですか」  膝の上の指が、少しだけ強張った。 「正直に言えば……御門家や一条家と戦おうかと思っています。朔弥さんと一緒に」  口にしてから、自分でも少し驚いた。  逃げるために戻るのではない。  黙って耐えるためでもない。  城戸さ
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第47話 冴子は、にぃ、と笑った

 金曜の夜、私たちはようやく御門家へ戻ることにした。  戦うには、御門家に戻るのが一番いいからだ。  ここで出ていけば、私は「疑惑から逃げた妻」にされる。父の事務所にも、城戸さんの会社にも、火種だけが残る。  それに、御門家の中にはまだ見えていないものがある。香澄さんのこと。冴子が何を隠しているのか。一条家が、どこまで御門の内側に入り込んでいるのか。  外からでは、届かない場所がある。  だから戻る。  御門の嫁としてではなく、自分の名前を勝手に使わせないために。  御門家へ戻る車の中で、私は何度かスマホを見た。  城戸さんから届いた業務メールは、もうフォルダに分けてある。父にはまだ連絡していない。朔弥さんは隣で黙っていたが、以前のように私の沈黙を都合よく受け取っている感じはしなかった。 「無理なら、今夜は戻らなくていい」  信号で車が止まった時、朔弥さんが言った。 「……お前が辛くなったら、相談してくれ」  命令ではなかった。  先に決める声でもない。  それだけで、前とは違うとわかった。 「戻ります」  自分でも、思ったより早く答えていた。 「戻った方が、見えるものがあります」  朔弥さんの手が、ハンドルの上で止まる。何か言いかけて、飲み込んだ。  止めない。  それだけで、息がしやすかった。 ***  玄関に入ると、御門家の空気はいつも通りだった。  磨かれた床。季節の花。音のしない廊下。  きれいに並べられているものほど、ここでは息が詰まる。  冴子は応接室にいた。薄い色の着物に、乱れのない髪。私たちを見ると、ティーカップに触れていた指をゆっくり離した。 「お戻りになったのね」  冴子の声は穏やかだった。 「……よくお顔を見せられましたね」  謝罪を求められているのだと、すぐにわかった。  私はソファの前で足を止めた。 「謝りに来たわけではありません」  冴子の笑顔が、戻るまでに間があった。 「そう。では、まだご自分の立場をおわかりではないのね」  立場。  御門家に来てから、何度その言葉を聞いただろう。妻としての立場。嫁としての立場。朔弥さんの隣にいる立場。  私自身の立場だけが、いつも後回しにされる。 「あなたのお父様のお仕事にも、城戸様の会社にも、御門との関係はございます」
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第48話 隣、いいか

 電話を切った冴子は、少しも声を荒げなかった。  汚い言葉は一つもない。  でも、逃げ道だけが丁寧に塞がれていく。  行かなければ、結果の受け取りを拒んだ嫁になる。  結果に何かあれば、御門にふさわしくない嫁になる。  どちらに転んでも、御門は悪くない。  私に理由があることになる。 「真尋」  朔弥さんが、私の名を呼んだ。  止める声ではなかった。代わりに、私が何を選ぶのかを待っている顔だった。  前なら、きっと先に決められていた。  行くな、と言われるか。行け、と言われるか。どちらにしても、私の返事は後回しにされていた。  今は違う。  違うからこそ、選ばなければならなかった。  戦うには、受けるしかない。  ――それに、どこかで知りたいと思っていた。  朔弥さんとの子ども。  それが、あり得るのかどうか。  御門家のためではなく、私自身のために。  結果を誰に渡すかも、何を受けるかも、私が決める。 「行きます」  朔弥さんがこちらを見る。 「御門家のために行くわけではありません」  私は膝の上で手を握った。 「私の身体のことを、私が確認するために行きます。私に理由があることにしたいなら、何を求められたのか、医師の前で私が聞きます」  それから、冴子を見た。 「ただし、私が同意しない検査は受けません。結果を御門家に渡すかどうかも、私が決めます」  冴子の笑顔が、ほんの少し硬くなった。 「……ずいぶん、強いことをおっしゃるのね」  冴子はカップを持ち上げた。中身はもう冷めているはずなのに、口元へ運ぶ所作だけは優雅だった。 「強くなったわけではありません」  私は答えた。 「勝手に弱いことにされるのを、やめただけです」  カップの底が、受け皿に小さく触れた。  その音だけで、冴子が気分を害したことがわかった。表情は崩れない。けれど、指先が持ち手から離れるまで、ほんのわずかに遅れた。  朔弥さんが、私の隣で息をついた。  安堵なのか、後悔なのかはわからない。 「明日は俺が連れていく」  冴子は彼を見た。 「あなたが行く必要はないでしょう。妻のことですもの」 「違う」  朔弥さんは、短く遮った。 「真尋のことだ」  その一言で、応接室の空気が変わった。  大げさな言葉ではない。
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第49話 御門が選んだ病院

 午前十時前、私と朔弥さんは冴子が電話を入れた産婦人科に着いた。  先日、簡易検査の結果を聞いてから、精密検査の結果はばたばたしたまま受け取れずにいた。  目的は、その結果確認、ということになっている。  入り口の自動ドアが開くと、消毒液の匂いと、やわらかなオルゴールの音が流れてきた。  待合には妊婦らしい女性が何人かいて、付き添いの男性が小さな声で話している。白い壁。淡い色の椅子。番号表示の電子音。  見た目だけなら、拍子抜けするほど普通の病院だった。 「この病院は、昔から御門と近い」  朔弥さんが、小さく言った。 「母さんがここを選んだなら、ただの予約じゃないと思った方がいい」  その言葉で、前に一人でここへ来た時のことを思い出した。  あの時、診察室で女性医師はペンを置き、まっすぐ私を見た。 「検査は、誰かを納得させるためのものではありません」  穏やかだけれど、迷いのない声だった。 「結果についても、ご本人の同意なく第三者へお話しすることはありません」  その一言で、私は初めて、そう思っていいのだと知った。  私の身体のことは、私のものだ。  あの女医は、御門側ではなかった。  私の側に立ってくれた。  でも、病院そのものは違うのだろう。  御門の名前を聞いた時の、あのわずかな沈黙。  朔弥さんから聞いた香澄さんのこと。  御門家が、女の身体に何を背負わせてきたのか。  それを思えば、ここがただの病院ではないことくらい、もう推測できた。  だから私にとっては、検査結果を聞き、その結果を冴子がどう扱おうとしているのかを確かめるための場所だった。 「御門様から、事前に確認事項をお預かりしております」  受付の女性が、丁寧に言った。 「確認事項、ですか」 「はい。先日の精密検査の結果について、ご家族も含めてご説明を、とうかがっております」  ご家族も含めて。  誰の希望なのかは、聞かなくてもわかった。 「結果の説明は、ご本人にお願いします」  私が言うと、受付の女性は一瞬だけ目を瞬かせた。 「もちろんです。ただ、ご家族への共有についても」 「共有しません」  自分でも驚くほど、はっきり声が出た。 「私の身体のことです。私が聞きます」  受付の女性が、隣にいた年配の職員へ小さく顔を寄せた。
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第50話 金が欲しかったんじゃない

 病院裏の小さな駐車スペースまで出ると、さっきまでの視線が遠のいた。  それでも、胸のざわつきは消えなかった。  久我さんは植え込みの横で、乱れた襟元を直そうとして、途中でやめた。指先が震えている。  怒りが完全に引いたのではない。人目を外れて、ようやく言葉を選ぶ余裕が戻ったように見えた。 「……先ほどは、すみませんでした」  久我さんは地面を見て言った。 「病院で騒ぐことではありませんでした」  謝罪の形だった。けれど、疑いを解いた声ではなかった。 「久我さん」  朔弥さんが呼ぶ。 「真尋は、香澄姉さんを追い出していません」  久我さんはすぐには答えなかった。 「……そういう話になっているのか」  低く笑った。笑い声というより、息が漏れただけだった。 「俺が聞いた話とは違うな」  私は指を握ったまま、二人を見た。 「久我さんが聞いた話を、教えてください」  久我さんがこちらを見る。  まだ敵を見る目だ。 「聞いて、どうするんです」 「知らないまま、あなたに責められたくありません」  言ってから、声が少し震えていると気づいた。 「私は香澄さんの名前は知っています。朔弥さんのお姉さんで、御門家でその話を避けられていることも。でも、あなたが今言っている意味までは知りません」  久我さんはしばらく私を見た。  信じた顔ではない。  ただ、言い返す言葉を探す顔だった。 「……結婚してしばらくは、二人で暮らしていました」  久我さんは、病院の壁を見たまま言った。 「御門の実家に比べたら、粗末な家だったと思います。それでも香澄は、文句ひとつ言わなかった。狭い台所で笑って、幸せそうにしてくれていた」  声が少し掠れた。 「そのうち、香澄が妊娠して」  喉が動いた。 「そこからです。御門が、香澄を俺の妻ではなく、御門の娘として扱い始めたのは」  一度息を切った。 「香澄は、自分から出て行ったことにされました。体調を崩した。家で療養する。夫婦でいるより、御門で静かに過ごした方がいい。そう言われました」  家で療養。  御門家らしい言葉だった。 「でも、違ったんですか」 「違いました」  久我さんの声が荒くなりかけ、そこで止まった。  病院の壁を睨み、続ける。 「香澄は俺のところに戻りたがっていた。少な
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