All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 あなたが悪いんですのよ!

 株主総会の会場で、朔弥さんが事務局へ視線を向けた。 「議案採決に入る前に、御門香澄名義の議決権行使について確認します」  冴子の眉が動いた。  その時、役員席の一人が控えめに手を挙げた。 「議長。家庭内の問題を、この場で扱うのは適切なのでしょうか」  責める口調ではなかった。  むしろ、会場を乱さないための確認に聞こえた。  たぶん、同じ疑問を持った人は他にもいた。  過去の家族の話を、なぜ株主総会で。  私も、その線引きが必要だと思った。 「ご懸念はもっともです」  朔弥さんの答えは早かった。 「ですが、これは家庭内の問題ではありません。票の問題です」  冴子の口元が、わずかに上がった。 「香澄のことは、家庭の問題ですわ」 「いいえ」  朔弥さんは、即座に退けた。 「母が、姉は判断できる状態にないとして従前の委任を主張した以上、姉本人の委任撤回と新たな議決権行使をどう扱うか、この場で確認する必要があります」  これは、過去を暴くための時間ではない。  香澄さんの票を、誰の意思として扱うかの確認だった。  そこで久我さんが立ち上がった。  冴子が閉じたはずの香澄さんの票。  その票が、本人の意思として戻ってきた。  それだけでも、会場の空気は十分に変わっていた。  でも、久我さんが口を開いた瞬間、空気はもっと重くなった。 「香澄の意思は、これまでも『判断できない』という言葉で消されてきました。その確認に必要な範囲で、俺と香澄の話をします」  久我さんは、そこで一度言葉を切った。 「……俺は、御門の名前も、金も、家もいりませんでした」  会場が静まる。 「香澄がいればよかった。香澄が、自分の名前で笑っていられれば、それでよかった」  冴子の唇が、かすかに動いた。  でも、言葉にはならなかった。 「俺たちに子どもができたとわかった途端、香澄は御門に戻されました」  会場の空気が、そこで変わった。  子ども。  その一語が出た瞬間、さっきまで私の身体を理由にしていた人たちの視線が、冴子へ移った。 「静養のためだと言われた。香澄のためだと言われた。けれど俺は、夫なのに会わせてもらえなかった」  久我さんの声は、そこで一度だけ途切れた。 「次に会えた時には……もう子どもはいませんでした」  久我
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第82話 冴子が、自分で墓穴を掘ったのだ

「御門の事情、ですか」  久我さんは、冴子の言葉をゆっくり繰り返した。  声は荒くない。  けれど、その一言だけで、冴子のまばたきが遅れた。  さっきまで人を見下ろしていた顔に、初めて迷いが浮かぶ。  冴子が、言葉を待つ側になっていた。 「その言葉なら、何度も聞かされました。香澄のため。静養のため。御門のため。  でも、香澄本人の言葉だけは、一度も聞かせてもらえなかった。失望したのは、こちらです」 「あなたに、何がわかるというのです」  冴子が、すぐに言い返した。  まだ終わっていない、と言いたげな顔だった。 「香澄を乱したのは、あなたでしょう。御門から連れ出して、あの子にふさわしくない暮らしをさせて。母親の私が止めなければ、香澄はもっと」 「なら、本人にそう言わせればよかった」  久我さんの声が、冴子の言葉を切った。 「俺の前で、香澄本人に言わせればよかったんです。あなたとは会いたくない。あなたが悪い。御門に戻りたい、と」  冴子の唇が止まった。 「一度も聞かせなかったのは、なぜですか」 「……ひどい」  後方の席から、小さな声が漏れた。  声を出したのは、三十代くらいの、久我さんを知っている様子のない女性株主だった。 「すみません。議事と違うことはわかっています。でも、黙っていられません」  その人は久我さんではなく、冴子を見た。 「私にも家族がいます。もし自分が同じ立場で、夫にも会わせてもらえず、自分の言葉も外へ出してもらえなかったらと思うと……見ていられません」  女性株主の声が、そこで少し沈んだ。 「それを『本人のため』『家のため』と言われたら、きっと誰にも助けを求められません。私は御門を応援していました。名門だからこそ、厳しさも品格もある会社だと思っていました。でも、そういう考えの方が相談役として残るのなら、もう応援できません」  冴子は、まだ笑おうとした。 「ほほほ。御門の内情をご存じない方が、一時の感情だけで口を挟まないでくださる?」  女性株主は、ひるまなかった。 「私は株主です」  静かな声だった。  けれど、その一言で、会場の空気が変わった。 「御門を応援してきたからこそ、申し上げています。私も同じ立場だったらと思うと、黙っていられません」  ざわめきが、後方の席から前へ広がった
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第83話 私がいなければ選べない子

「香澄が、私に逆らうはずがないでしょう」  冴子の声はまだ、かろうじて笑っていた。  けれど、唇の端だけが持ち上がっていて、目は笑っていなかった。 「あの子は、わかっていないだけです。昔からそう。放っておけば、すぐに変な男や、変な考えに引きずられる」  久我さんは、何も言わなかった。  言わないことが、かえって冴子を追い詰めていく。 「だから私が見ていたのです。私が決めて、私が守って、私が御門にふさわしい形に戻してきたのです」  会場の空気が、さらに重くなる。  守る。  戻す。  その言葉の中に、香澄さん本人の意思はどこにもなかった。 「御門相談役」  朔弥さんが言った。 「それ以上は、御門香澄氏本人の意思を否定する発言になります」 「否定?」  冴子の目が、ぎらりと動いた。 「私が一番、御門のためを思っているのよ!」  その声は、もう上品でも、穏やかでもなかった。 「香澄も、朔弥も、あなたも! 誰もわかっていないだけですわ。御門を守ってきたのは私です。御門に泥を塗らせないように、家を乱されないように、私がどれだけ」  言葉が、そこで切れた。  記者席のペンが、一斉に走っている。  冴子は、ようやくそれに気づいた。  視線が揺れる。  助けを求めるように、一条側の席へ向いた。  けれど、そこにあったのは冷たい目だった。  一条澄麗は、表情を変えなかった。  唇の端だけをわずかに下げ、冴子を見ていた。  使えない駒を見切る目だった。  冴子の顔から、今度こそ色が消えた。 「……皆様には、失望しましたわ」  絞り出した声は、さっきより小さかった。  もう誰も、その言葉にひるまない。  冴子は、ぐっと顔を上げた。 「よくも……」  その目が、久我さんへ向く。  次に、朔弥さんへ向く。  最後に、私へ向いた。 「よくも……息子も、嫁も、婿も、そろって私に逆らうなんて! しかも、香澄まで」  冴子の唇が、細く歪んだ。 「あの子は、私がいなければ何も選べない子のはずなのに!」  会場が凍った。  控えていた相談役付きの秘書が、慌てて半歩近づいた。  けれど、冴子に振り払われて、それ以上は近づけない。  朔弥さんは、わずかに唇を引き結んだ。  つらそうだった。  母親が壊れていくところを
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第84話 空いていた席

 議事は、そこから早かった。  早かった、というより、もう誰も冴子の笑いに乗れなくなっていた。  事務局が香澄さん名義の書類を確認し、代理人の立ち会いと本人確認の記録が読み上げられる。  細かな手続きの言葉は、会場の空気に沈んでいった。  けれど、一つだけははっきりしていた。  香澄さんの票は、冴子のものではなかった。  私の職務権限停止については、否決。  父の事務所に関する疑義は、即時の処分ではなく、第三者を交えた調査へ。  資料改変と写真提出の経緯についても、同じく調査対象に加えられることになった。  そして、冴子の相談役としての権限は、一時停止。  その時、会場の扉の向こうがざわめいた。 「お離しなさい!」  職員の制止する声が重なる。  次の瞬間、会場の扉が、勢いよく開いた。  冴子が、職員の腕を振りほどくようにして、入口まで戻ってきた。  髪は大きく崩れ、上着の肩もずれていた。  扇子はどこかに落としたのか、手には何もない。  憎いと思っていた。  今も、許せるわけではない。  それでも、崩れた髪と、空いた手を見た時、哀れだと思った。  人を従わせる声しか、もう残っていないように聞こえた。  だからといって、助ける気にはなれなかった。  それでも、声だけは、いつもの命令口調だった。 「認めませんわ! こんな議事、認めません!」  朔弥さんは、入口の冴子を見た。 「隠すことを、会社のためとは呼びません」 「朔弥さん。このような形で、御門の内情を外へさらすことが、本当に会社のためになるとお思いですか」 「私生活と写真をこの場へ持ち込んだのは、あなたの側です。最初に始めたのは、あなたでしょう」  短い言葉だった。  職員が、すぐに両脇を取る。  続きの言葉は、閉じる扉の向こうへ押し戻された。  扉が閉じると、冴子の声も途切れた。 「本日の議事は、以上です」  朔弥さんが告げる。  その声で、張りつめていた空気がようやくほどけた。  誰かが資料を閉じる。  誰かが椅子を引く。  誰かが隣の人と低く言葉を交わす。  その全部が、現実に戻ってくる音のようだった。  私はしばらく、立ち上がれなかった。  勝った。  たぶん、そう言っていいのだと思う。  でも胸の中にあったのは、勝利の
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第85話 俺は、守り方を間違えてきた

 会場の後方では、久我さんが事務局の人間と書類の確認をしていた。  真尋、と呼ばれた気がして振り向く。  朔弥さんが、近くまで来ていた。  総会中の社長の顔ではない。  けれど、夫の顔と呼ぶには、まだ少し硬かった。 「大丈夫か」  その言葉に、私は小さく笑った。 「今日、何回聞かれたでしょう」  朔弥さんの眉が、わずかに下がる。 「答えなくていい」 「いえ」  私は首を振った。 「大丈夫ではないです。でも、立てています」  朔弥さんは、すぐには何も言わなかった。  その沈黙が、前とは違った。  ただ、受け取っている。 「そうか」  短い返事だった。  それだけなのに、足元が確かになる。 「真尋」  名前を呼ばれて、私は彼を見た。  朔弥さんは、すぐには続けなかった。  何かを言おうとして、いったん飲み込む。  総会の場で、あれだけ迷いなく言葉を選んでいた人が、私の前では言いよどんでいた。 「……施設で、姉に会ってから」  そこでまた、言葉が止まった。 「ずっと考えていた」  朔弥さんは、私から目を逸らさなかった。 「俺は、何を守ったつもりでいたのか」  姉。  私。  そして、御門という家。  どれも同じように守れるものではなかったのだと、彼はようやく言葉にしようとしていた。 「姉のことも、君のことも」  朔弥さんの声が、わずかに掠れた。 「俺は、守り方を間違えてきた」  会場のざわめきが遠くに聞こえた。 「今日も、途中で前に出そうになった。全部こちらで潰せばいいと思った」  言葉の端に、抑えた怒りが残っている。  冴子さんへ。  澄麗さんへ。  たぶん、自分自身へ。 「守るつもりがあれば、伝えなくてもいいと」  彼は、自分の間違いに気づいていた。  いや、今になってようやく、気づき始めたのかもしれない。 「はい」  私は彼を見た。 「たとえ守るつもりがあっても、伝えてくれなければ、私は守られていることすら分かりません」  一度、言葉を切る。 「……だから、辛かったです」  朔弥さんの目が、わずかに揺れた。 「すまなかった」  短い謝罪だった。  でも、逃げるための言葉ではなかった。 「俺はずっと、先に手を回すことが守ることだと思っていた」  会場のざわめ
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第86話 その目は、うつろで、底だけが暗かった

 御門本社のロビーは、総会前とは別の場所のようだった。  総会は終わった。  冴子さんの相談役としての権限は止まり、私の職務権限停止も否決された。  けれど、建物の空気は急に優しくなったわけではない。  朝はあれほどざわついていた受付まわりも、今は妙に声が低い。  外にいた報道関係者は、まだ完全には引いていないのだろう。  ガラスの向こうで、警備員が誰かを制しているのが見えた。  御門の内側で終わったことは、もう内側だけの話ではなくなっていた。  そのことを、ロビーにいる全員が知っている。  受付の前を通ると、総務のベテラン社員が深く頭を下げた。  今日の朝、私を見て目を泳がせていた人だ。 「高瀬さん」  呼び止められて、私は足を止めた。 「先ほどは、失礼いたしました」 「いいえ」  私は首を振った。 「あの場で普通にしている方が、難しかったと思います」  彼女は、少しだけ目を伏せた。  謝罪を受け取ることと、すべてをなかったことにすることは違う。  でも、今日の私はそれを責めるためにここにいるのではなかった。 「これから、調査でご迷惑をおかけします」  私が言うと、彼女は慌てたように首を振った。 「迷惑などではありません」  その声は、朝よりも低かった。 「記録は、総務で保管している範囲を確認しておきます」  その一言に、私は小さく頭を下げた。  味方になった、というほど単純ではない。  ただ、軽く扱われる女ではなくなった。  それだけでも、空気は変わる。  ロビーの奥で、澄麗さんが誰かと話しているのが見えた。  白いスーツは、少しも乱れていない。  さっき出口近くで見た、笑っていない目が嘘だったみたいに、きれいな笑みを浮かべている。  彼女の周りだけ、総会の余波が届いていないようだった。  冴子さんの高笑いも。  香澄さんの委任撤回も。  久我さんの言葉も。  全くかかわりがないという顔をしている。  それが、かえって不気味だった。  私と目が合うと、澄麗さんはゆっくり歩いてきた。 「お疲れさまでした」  声は、いつも通りやわらかい。 「今日は、本当に大変でしたね」  私は黙って彼女を見た。  気遣いではない。  労いでもない。  この人は、まだ終わったと思っていない。
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第87話 ようやく、君と二人になれる

 ロビーの奥で、澄麗がこちらを見ていた。  笑っていなかった。  その目は、うつろで、底だけが暗かった。  私が足を止めるより先に、朔弥さんが立ち止まった。  彼は一度、出口へ向けていた身体を戻した。踵を返す動きは静かだったのに、そばにいた社員たちの声が、ふっと細くなる。 「一条さん」  呼ばれて、澄麗の目に光が戻った。  すぐに、いつもの笑みが浮かぶ。 「朔弥さん」  声はやわらかかった。  でも、さっき見た暗さを、私はもう忘れられなかった。 「今日はお疲れさまでした。真尋さんも、ずいぶんお強くなられて」  褒め言葉の形をしている。  けれど、私を御門にしがみつく女に戻すための言葉だった。 「強くなったんじゃありません」  私は言った。 「黙って退くのを、やめただけです」  澄麗の笑みが薄くなる。 「そうですか」  彼女は私を見たまま、朔弥さんへ視線だけを流した。 「でも、守られる場所を間違えると、また傷つきますわ。人の心は、思ったより変わりやすいものですの」  聞こえたのは、たぶん私と朔弥さんだけ。  いつもの湿った悪意だった。  流そうとした瞬間、朔弥さんが、一歩前に出た。  え、と思う間もなかった。  彼は私の横に立ったまま、澄麗を見た。 「真尋にこれ以上、何かあったら許さない」  澄麗の笑みが、ゆっくり消えた。 「朔弥さん、何をおっしゃっているの。わたくしは……」 「ずっと気が付かないふりをしてきました。だけど、もうそれはやめる」  朔弥さんは、淡々と言った。 「真尋を傷つけるために、会社を使うな。家を使うな。俺の名前も使うな」  澄麗の唇が、かすかに開いた。 「朔弥さん」 「あなたが何を望んでいるかは、もう見えている」  彼はそこで、言葉を切った。 「そのために真尋を壊そうとするなら、俺はあなたを止める。たとえ、一条家と事を構えることになっても」  一条家。  その言葉で、ようやく腑に落ちた。  彼が澄麗をかばっていたように見えたのは、彼女自身を選んだからではなかった。  一条家を敵に回した時、私に何が向くのかを知っていたからだ。  だからといって、傷つかなかったことにはならない。  でも、彼が何を恐れていたのかは、初めて見えた気がした。  彼がそんな言葉を口にしたの
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第88話 君を失うと思った①

 かちりと、部屋の鍵を開ける音が、やけにはっきり聞こえた。  朔弥さんが扉を開け、先に中へ入って明かりをつける。  その動きがあまりに自然で、ふと、ここで二人で過ごした時間を思い出した。  御門の屋敷ではない。  離婚騒ぎのあと、二人で過ごした部屋。  けれど、その時間は長く続かず、いつの間にかここは、私がまた一人で息をするための場所になっていた。  同じ玄関。  同じ靴箱。  同じ照明。  それなのに、朔弥さんが先に明かりをつけただけで、部屋の空気が少し違って見えた。 「疲れただろう」  朔弥さんはそう言って、私のバッグを受け取った。  それから、コートの襟に手をかける。 「これも」  背中からコートが離れるあいだ、私は妙にじっとしていた。  総会の会場で見た厳しい顔とは違う。  急かすでもなく、私が立っているのを確かめるような手つきだった。  朔弥さんはそれをハンガーに掛けると、今度は自分の上着を脱いだ。  ネクタイに指をかけ、結び目を少し緩める。  見慣れているはずの仕草だった。  なのに、この部屋で見ると、なぜか目をそらすタイミングを失った。 「座って」 「はい」  ソファに腰を下ろすと、思っていた以上に体が重かった。  勝った。  負けなかった。  言いたいことを、飲み込まずに言えた。  それでも、疲れていないわけではなかった。  冴子の笑い声。  澄麗の視線。  父の「よくやった」という声。  久我さんが、香澄さんの名前を取り戻した瞬間。  全部がまだ、体の中に残っている。  朔弥さんが水を持って戻ってきた。  私の前にグラスを置き、隣に腰を下ろす。  今日は、一人掛けの椅子へ逃げなかった。  そのことに気づいてしまって、私はグラスを持つ手元を見た。  近い。  肩が触れそうな距離。  でも、嫌ではなかった。 「飲めるか」 「はい」  水を少し飲む。  冷たさが喉を通って、ようやく自分がずっと張りつめていたことを思い知った。 「真尋」  名前を呼ばれて、顔を上げる。  朔弥さんが私を見ていた。  総会の時の、熱を帯びた視線とは違う。  もっと近くて、もっと直接的で、
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第89話 君を失うと思った②

「君を失うと思った」  低い声だった。  ソファに隣り合って座ったまま、朔弥さんの手は私の頬を包んでいた。  指の腹が熱い。  肩が触れそうな距離に、彼の体温がじんわりと押し寄せてくる。  総会の会場では、彼の視線を追うことしかできなかった。今は、指先の動きも、息遣いも、鼓動もはっきりと伝わってくる。近さが、遅れて体に染み込んでくるようだった。 「離婚届を見た時も、この部屋に君が一人でいた時も、今日、総会で真っ直ぐ前を向いていた時も。俺は何度も、遅すぎたと思った」  言葉が出なかった。  頬を包んでいた手が離れ、今度は私の手を取った。  朔弥さんは、私の手をゆっくり持ち上げる。  指先に唇が触れた。  丁寧で、熱がこもっている。  唇の湿り気が、指の腹に残った。 「遅すぎたかもしれない」  彼が言う。 「でも、終わらせたくない」  その言葉を聞いた途端、目の奥が熱くなった。  泣きたくなかった。  今日は最後まで、強い顔をしていたかったのに。 「そんなこと、今言うんですか」 「今しか言えない」  朔弥さんは、私の手を離さなかった。 「真尋」 「はい」 「君に触れたい」  短い言葉だった。  飾りも、言い訳もない。  そのまま彼の熱が渡ってくるみたいで、声がうまく出なかった。 「……はい」  返事をした途端、彼の腕が私の背に回った。  引き寄せられる。  強引ではない。  でも、迷いはなかった。  肩が彼の胸元に触れて、スーツの生地越しに体温が染みてくる。  今日は一日中、ずっと一人で立っていた体が、その熱に溶かされていくような気がした。 「よく頑張った」  耳元で言われて、今度こそ目を閉じた。 「それ、言い方が子どもみたいです」 「ほかに浮かばない」 「朔弥さんらしいです」 「褒めているのか」 「たぶん」  小さく笑ったら、彼の腕に力がこもった。  抱きしめられる。  さっきまで会議室にいた人とは思えないほど、近い。  胸元が私の胸に密着し、彼の鼓動が直接伝わってくる。  近すぎて、言葉にしなくても伝わってくるものがある。  悔しさも。  後悔も。  それでも今、ここにいた
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第90話 あなたが欲しいです

「寝室に行く」  その言葉が耳に落ちた瞬間、体のどこかが跳ねた。  心臓が大きく鳴る音が、自分でもはっきりとわかった。  朔弥さんの腕の中で、私は何も言えなくなる。  彼の広い胸に体が密着し、熱い体温がじんわりと染み込んでくる。  両足が床から離れていると気づいた途端、余計に恥ずかしくなった。  腕に包まれた感触が、妙に甘い。  甘すぎる。 「歩けます」  とっさに言うと、朔弥さんは私を抱えたまま、ほんの少しだけ目を細めた。  その目が、熱を帯びている。 「知っている」 「じゃあ、下ろしてください」 「嫌だ」  あまりに短い返事だった。  それなのに、胸のあたりをまっすぐ撃ち抜かれたみたいになる。  今の朔弥さんは、総会の時よりずっと静かだ。  けれど、引かない。  私を守るために誰かを潰そうとする強さではなく、ただ、私を離したくない人の強さだった。 「重いです」 「軽い」 「そういう問題じゃありません」 「俺には、そういう問題だ」  返す言葉が見つからなくなった。  彼の首に回した腕を、少しだけ強くする。  それに気づいたのか、朔弥さんの口元がわずかに緩んだ。 「落とさない」 「そこは疑ってません」 「なら、いい」  よくない。  よくないのに、嫌ではない。  朔弥さんの首筋に触れた腕の内側へ、微かな脈の動きが伝わってくる。  廊下の短い距離が、妙に長く感じた。  ここでの生活は、御門に比べれば息がつけた。  それでも、寝室までの距離を意識したことはなかった。  疲れて帰った日には、狭い台所で簡単なものを作った。  彼が味噌汁を温め、私はテーブルを拭く。  食事のあと、どちらからともなく同じソファに座って、今日あったことを少し話した。  言い合いになる日も、会話が少ない夜もあった。  あの頃は近くにいたのに、こんなふうに運ばれたことは一度もなかった。  朔弥さんの腕の中は、落ち着かないほど近い。  でも、不思議と安心した。  体を預けるだけで、甘い熱がゆっくりと全身に広がっていく。  寝室の扉の前で、朔弥さんが一度立ち止まる。 「真尋」 「はい」  名前を呼ばれただけで、返事が少し遅れた。  彼の目が、近い。  熱を帯びた息が、わずかに肌に触れる距離だった。 「今夜
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