All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 届かなかった手紙

 ロビーの隅にある面談室へ移っても、香澄は久我の手を離さなかった。  丸テーブルには、職員が置いていった湯呑みが二つある。湯気はもう薄い。 「手紙、本当に届いていなかったのね」  香澄が言うと、久我は首を横に振った。 「一通も」  短い返事の中に、何年分もの空白があった。  会いたい。  あの一行を書くまでに、何度も便箋を替えた。  帰りたい、と書けば、久我は御門へ来てしまう。  けれど、来たところで、あの家は会わせてくれない。  助けて、と書けば、久我はきっと、助けられなかったことを一生抱える。  だから、いちばん短くした。  会いたい。  それなら、ただの妻のわがままに見えると思った。  それなら、外へ出してもらえると思った。  けれど、その一行も届かなかった。 「誰に渡した」  久我の声は静かだった。  責めるためではなく、事実を聞く声だった。  香澄は、すぐには答えられなかった。  母の言葉をまだ疑えなかった、若い弟の顔が浮かぶ。 「……朔弥に」  久我の手に、わずかに力が入った。 「そうか」  それだけだった。 「怒らないの」 「怒っている」  久我は答えた。 「でも、今ここで俺が怒っても、香澄の手紙は戻らない」  香澄は黙った。 「それに、あいつは……」  久我はそこで言葉を切った。  何かを思い出しているようだった。 「朔弥が手紙をどうしたか聞けば、信じられると思う?」  香澄が尋ねると、久我は目を伏せた。 「わからない」  正直な返事だった。  母はいつも、聞く前に答えを置いた。  香澄のため。  御門のため。  静かに過ごすため。  答えだけが先にあり、香澄の言葉はあとから消された。  朔弥は、最初から母と同じだったわけではない。  母に叱られても泣けずに、あとで香澄の部屋の前に立っていた。  香澄が扉を開けると、何も言わずに袖を掴んだ。  でも、大人になった朔弥は御門の側にいた。  香澄の手紙を渡されて、結局、久我には届かなかった。  その二つを、同じ人の中にどう置けばいいのか、まだわからない。  だからこそ、聞かずに決めたくなかった。 「だから、聞きたい」  久我は頷いた。  聞く。  そこまで決めてから、ふと気になった。 「誰から、私の
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第72話 弟の罪

 施設の前でタクシーを降りると、先に来ている車があった。  黒い社用車ではない。  御門の家の車でもない。  それでも、降りてきた人を見ればすぐにわかった。  朔弥さんだった。  彼も、私を見て足を止めた。  一緒に来たわけではない。  同じ場所に、別々に来た。  その事実が、施設の白い壁よりもはっきり目の前に立った。 「真尋」 「お疲れさまです」  仕事の挨拶みたいな言葉が先に出た。  朔弥さんは、少しだけ眉を動かした。  けれど、責めなかった。 「来てくれて、ありがとう」 「私も呼ばれたんです」 「うん」  短い返事だった。  そのあと、沈黙が落ちた。  言いたいことは、たぶんお互いにいくつもあった。  どうして一緒に来なかったのか。  どうして迎えに行かなかったのか。  どうして待たなかったのか。  どうして、まだこんな距離にいるのか。  けれど、どれも今ここで最初に口にする言葉ではなかった。  まだ、一緒に来られるほど近くはない。  でも、来ないほど遠くもなかった。  入口の自動ドアが開き、久我さんが出てきた。  彼は私たちを見て、一度だけ頭を下げた。  まだ信用されたわけではない。  けれど、ここまで案内することは決めてくれている。 「香澄が待っています」  久我さんが先に扉を開ける。  私と朔弥さんは、半歩遅れて中へ入った。  香澄さんは窓際の椅子に座っていた。  膝の上には、薄い毛布がかかっている。  けれど、私たちを見る目は、静かにはっきりしていた。  朔弥さんが、一歩だけ前に出た。 「姉さん」  声が掠れていた。  香澄さんのまぶたが、わずかに動いた。 「朔弥」  名前を呼ばれた瞬間、朔弥さんの顔が崩れた。  社長でも、御門の後継者でもない。  姉の前で、どう立てばいいのかわからない弟の顔だった。  香澄さんも、すぐには次の言葉を出さなかった。  窓際の薄い光の中で、弟の顔を確かめるように見ている。  責めたいことも、聞きたいことも、きっといくつもある。  それでも今、目の前にいるのは、御門の男ではなく、長い間会えなかった弟だった。 「知らない顔になったみたい」  香澄さんが、かすかに笑った。 「でも、声はあまり変わらないのね」  朔弥さんは、
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第73話 御門の通用門

「久我さんは、私が会いたくないのだと思っていた」  香澄さんの言葉が部屋に落ちたあと、湯呑みの湯気だけが細く揺れていた。  香澄さんは窓際の椅子に座ったまま、朔弥さんを見ていた。  責めるためではなく、長い間閉じられていた扉の前に、ようやく立った人の顔だった。 「俺たちは、互いにそう思わされていた」  久我さんの声から、温度が消えた。 「お前は、知っていたのか」  それは朔弥さんに向けられた声だった。 「俺が御門へ行っていたことも。香澄が連絡しようとしていたことも」  朔弥さんは、すぐには答えなかった。  膝の上に置いた手が、ゆっくり握られる。いつものように表情を消そうとしているのに、指の関節だけが白かった。  長い沈黙が落ちた。  朔弥さんは一度、久我さんを見た。  それから香澄さんを見る。  どちらに向けて答えればいいのか、迷っている顔だった。  いや、違う。  誰に向けても、答えた瞬間に何かが壊れるとわかっている顔だった。  唇が動いた。  けれど、声は出なかった。 「……知っていたこともあります」  やっと出た声は、掠れていた。  久我さんの目が細くなる。 「知っていたこと?」 「全部では、ありません」  言い訳に聞こえた。  たぶん、朔弥さん自身にもそう聞こえたのだと思う。  彼は一度、唇を結んだ。 「でも、知らなかったことにはできません」  香澄さんは動かなかった。 「あの手紙」  その一言で、朔弥さんの肩が強ばった。 「あなたは、どうしたの」  部屋の空気が、そこで変わった。  私は、膝の上で重ねた手を見た。  説明されなかったこと。  選ばせてもらえなかったこと。  守るためだと言われ、あとから理由だけを渡されたこと。  香澄さんに起きたことは、昔の御門の話だけではなかった。形を変えて、私の前にもあった。 「朔弥に渡したのは、一度だけよ」  香澄さんが言った。 「全部をこの子のせいにしたいわけじゃない」  久我さんは何も言わなかった。怒りを飲み込むように、唇を結んでいる。 「でも、あの一通は、あなたに頼んだ」  香澄さんの視線が、朔弥さんに戻る。 「渡さなかった」  朔弥さんが言った。  短い返事だった。  短すぎて、かえって部屋に響いた。  久我さんの
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第74話 今日は、一人にしてくれ

「……あなたが」  香澄さんが、ようやく口を開いた。  ロビー脇の面談室は、急に狭くなったように感じた。  磨かれた床の向こうから、職員の台車の音がかすかに聞こえる。  外ではいつも通り、誰かが受付で名前を呼ばれている。  その普通さが、かえって残酷だった。 「そう言ったの」 「はい」 「……あの時、御門の通用門で」  久我さんが、絞り出すように言った。  苦しげに顔が歪んでいた。  責めたいのに、責めれば香澄さんの傷まで広げてしまう。そんな顔だった。  朔弥さんは逃げなかった。  逃げなかったからこそ、許されるわけではなかった。 「母さんに言われたことを信じました。姉さんを刺激してはいけないと。久我さんを遠ざけることが、姉さんを守ることだと」  そこで言葉が止まった。  言い訳を足せば、少しは自分を軽くできたかもしれない。けれど、彼はそれをしなかった。  朔弥さんの視線は、香澄さんから逃げなかった。  逃げないまま、傷つけた相手の前に立っている。 「香澄は、会いたいと書いたんだな」  久我さんが言った。 「はい」 「お前は、それを持っていた」 「はい」 「それで俺には、会いたがっていないと言った」 「はい」  同じ返事が続くたび、朔弥さんの顔から何かが削られていくようだった。  香澄さんは、長い間、弟を見ていた。 「あなたも、私の言葉を聞かなかったのね」 「……はい」  返事は、ほとんど息だった。 「あなたは、今どう思っているの」  香澄さんの声は変わらなかった。 「私にしたことを。久我さんにしたことを」  そして、香澄さんの視線が私へ向いた。 「真尋さんにしたことを」  朔弥さんは、すぐには答えなかった。  膝の上の手が、もう一度握られる。指の節が白く浮いていた。 「……ひどいことをした」  それだけ言うのに、ずいぶん時間がかかった。  声は小さくなかった。  けれど、言い終えたあと、まだ続く言葉を噛み殺すように唇を結んだ。 「姉さんにも。久我さんにも」  そこで視線が落ちる。  逃げたのではない。もう一人の名前を口にするのを、ためらったのだとわかった。 「真尋にも」  私の名前は、ひどくかすれて出た。  その瞬間、朔弥さんの顔が歪んだ。  泣きそうだった。  けれ
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第75話 あの人に触れると、朔弥さんはおかしくなる

 施設を出ると、夕方の光が駐車場の白線を長く伸ばしていた。  久我さんは香澄さんのそばに残った。  朔弥さんは「一人にしてくれ」と言って、私より先に面談室を出ていった。  だから、もう会わないと思っていた。  けれど、車寄せの手前で足を止めた時、駐車場の端に彼の姿があった。  黒い車のそばに立ったまま、どこにも乗らず、誰にも電話をかけず、ただ端末を握っている。  私が立ち止まると、朔弥さんも顔を上げる。  同じ建物を出てきたのに、まだ同じ場所には立てていない。 「真尋」  呼ばれても、すぐには返事ができなかった。  聞きたいことも、責めたいこともある。けれど今それを始めれば、香澄さんの部屋で見たものが、ただの夫婦喧嘩にすり替わってしまう気がした。  香澄さんの前で頭を下げたこと。  手紙を止めたと、自分の口で言ったこと。  守ったのではなく、選ばせるのを避けたのだと認めたこと。  それは、罪だ。  なかったことにはならない。謝ったから消えるものでもない。  けれど、彼はそれを罪として受け止めている顔をしていた。  朔弥さんは、何か言われるのを待っている顔をしていた。  怒られると思っていたのに、まだ怒られない男の子みたいな顔だった。  ずっと、私より先に決めて、私より遠くを見ている人だと思っていた。  なのに今は、姉の前で立ち尽くしていた弟の顔が残っている。 「怒りません」  私が言うと、朔弥さんの目が揺れた。 「怒っていないわけじゃありません」 「うん」 「でも、怒っても意味がないと思います」  朔弥さんは、何も言わなかった。 「もう過ぎたことです。なかったことにはできないけれど、戻すこともできません」 「それに、あなたは十分に、自分のしたことの重さをわかっていると思います。私もあなたを信じると決めました」  朔弥さんが、何かを言おうとした。  けれど、口を開きかけただけで、何も言わずに閉じる。  許したわけではない。  全部を納得できたわけでもない。  それでも明日、同じ場所に立つと決めた。 「あなたは、変わっています。ゆっくりですけど。だから、私も変わります」  朔弥さんは、すぐには返事をしなかった。  痛い言葉を受け取り、救われかけて、それを奥歯で噛み殺しているような顔だった。 「あ
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第76話 株主総会の幕が上がる

 株主総会の会場は、御門ホールディングス本社の上層階に用意されていた。  受付の前で足を止めた時、ガラス越しに見える都心の空は薄く曇っていた。雨は降っていない。けれど、晴れているとも言えない。今日の私には、ちょうどいい天気だった。  ロビーには、いつもより人が多かった。  株主らしい年配の男性、金融機関の担当者、取引先の名刺を首から下げた人。  少し離れたところには、記者らしい人影もあった。  普通なら、株主総会に外の人間が入り込めるはずはない。実際、その人たちは受付の導線から外された場所にいて、会場へ向かう札も持っていなかった。  それでも、御門ホールディングスはそれなりに名前の知られた会社だ。  創業家、親子対立、後継者、外部提携先との疑惑。そこに一条家の名前まで絡めば、ただの社内手続きでは済まない。  誰かが漏らしたのか。  それとも、嗅ぎつけられたのか。  正式に記事にできるほどではなくても、大企業のお家騒動は、外から見ればわかりやすい見世物になる。  誰かが本社の空気を見に来るくらいの匂いにはなっている。  記者らしい一人が、こちらへ背を向けたまま電話をかけていた。  御門家の中の揉め事では、もう済まない。  そう思った瞬間、背筋が伸びた。  朔弥さんは迎えに来なかった。  昨日、そう言ったとおりだった。  真尋が来るかどうかは、真尋が決めることだから。  その言葉を思い出しながら、私は受付に名前を告げた。 「高瀬真尋です」  受付にいたのは、総務のベテラン社員だった。  何度も会議室の手配や来客対応でやり取りをした人だ。いつもなら、こちらが忙しそうにしていると「高瀬さん、今日も詰まってますね」と笑ってくれる。  その人が、今日は一瞬だけ目を泳がせた。  御門の嫁、社長夫人、問題の中心にいる女。そういう目だった。  高瀬真尋。  その名前を確認して、私は会場へ入った。  会場前の廊下で、城戸さんと目が合った。  一緒に来たわけではない。  彼は提携先の関係者として、別の受付から入ってきたところだった。距離を取ったまま、少しだけ足を止める。 「高瀬さん」  城戸さんの声は、いつもより抑えられていた。 「大丈夫ですか」  大丈夫です、と反射で答えかけて、やめた。  今日の私は、大丈夫だからここに
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第77話 反撃の証拠

 私は立ち上がった。  椅子が床をこする音が、思ったより大きく聞こえた。  会場の視線が、私に集まる。  写真を出された女。  社外の男に抱きかかえられていた女。  御門の重要資料を持ったまま私的な場所へ行った女。  たぶん今、私はそういう形にされている。  否定するのは簡単だ。  でも、それでは写真の印象だけが残る。  だから私は逃げない。 「会いました。ただし、その写真は階段で足を滑らせた私を城戸さんが支えてくださった時のものです」  ざわめきが広がる。  会社側の説明者席で、澄麗は冴子の隣に座り、気遣うような表情を浮かべていた。 「階段で、ですか」  澄麗さんがやわらかく首を傾げる。 「でも、お写真だけ拝見すると、とてもそうは……。高瀬役員を責めたいわけではありません。ただ、御門の大事な案件に関わる方ですから、皆様が心配なさるのも当然かと」  反論しようとしたとき、朔弥さんが口を開いた。 「一条さん。あなたは会社側の補足説明者です。個人の推測を述べる場ではありません」  澄麗の笑みがわずかに止まる。 「それに、この写真が恣意的に切り取られた可能性も否定できません」  会場の空気が変わった。  ただ抱き合っている写真なら偶然とも言える。  しかし、階段で転びかけた一瞬だけを切り取ったのだとしたら。  誰が。  何のために。 「そもそも私は公人ではありません。転びかけたところを、なぜあの角度で撮られていたのか。その点も不自然です」  冴子の扇子が止まる。  澄麗はなお心配そうな顔をしていたが、その目だけが一瞬逸れた。  私は資料の一枚目を前へ出した。 「ただし、城戸本部長と会って確認したのは私生活ではありません。私の名前で作られた資料です」  城戸さんが提携先の席から立ち上がる。 「城戸ホテルズ取締役、事業開発本部長の城戸です。  御門ブライダル案件では提携先として資料を受領していました。弊社で保全している受領記録と、共有フォルダに残っていた版に差分があります」  彼の声は淡々としていた。 「念のため申し上げますが、これは高瀬役員から個人的に頼まれて作った資料ではありません。弊社が通常業務として保全していたログです」  何人かの視線が写真から資料へ移る。  城戸さんは私を庇わない。  会社の
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第78話 朔弥さんが、私を庇った

 視線が朔弥さんへ集まった。  さっきまで私へ向いていた疑いが、形を変えて彼へ移る。  社長として。  夫として。  御門の後継者として。  どの立場を問われても、彼は答えなければならない。  冴子は、ゆっくりと扇子を机に置いた。 「社長は、高瀬さんのこうした行動を把握していながら、なお職務を継続させるおつもりだったのでしょうか」  声は荒くない。  けれど、会場の空気は冴子の言葉に合わせて少しずつ固くなっていく。 「外部提携先との私的接触。ご実家の事務所への疑義。体調面の不安。これらを抱えた方を重要案件に残すことが、御門ホールディングスにとって本当に適切だとお考えですか」  体調。  その言葉だけ、わずかに耳に残った。  澄麗が目を伏せる。心配している人の顔だった。  その白々しさに、腹が立った。  朔弥さんは、すぐには答えなかった。  沈黙が落ちる。  短いはずなのに、やけに長く感じた。  膝の上で重ねた手に、力が入る。爪が手のひらに当たった。  また、なのだろうか。  守るためだと言いながら、私のいないところで決める。  そして、御門のためだと言って、私を切る。  そんな考えが、胃のあたりに重く沈んだ。  朔弥さんは、議長席の前に置かれた資料へ一度だけ目を落とした。  私を見ない。  そのことが、妙に堪えた。  冴子の口元が、わずかに上がる。  勝ったと思った顔だった。  澄麗も、そっとまつげを伏せた。慰める準備をしている人の顔だ。  やめて。  まだ、何も終わっていない。  そう思った時、朔弥さんがゆっくり顔を上げた。 「疑いのあることと、事実として確認したことは分けるべきです」  声は落ち着いていた。  夫が妻を庇っているのではない。  御門の社長として、議事を戻すための言葉だった。 「高瀬真尋が城戸氏と会ったことは把握しています。理由も確認しています。階段で足を滑らせた件についても、写真と前後の事情を確認しています」  会場が小さく揺れた。  冴子の眉が、ほんのわずか動く。 「確認していた、ということですか」 「はい」  朔弥さんは短く答えた。 「切り取られた写真だけで、職務権限停止の根拠にするには足りません」  その一言に、手元の資料を見ていた役員が顔を上げる。
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第79話 笑う冴子

 株主総会の会場で、朔弥さんはそこで資料を一枚めくった。 「業績面でも確認します。相談役主導の新規投資案件は、直近の報告で赤字が続いています。一方、高瀬が実務を担った御門ブライダル再建案件は黒字化し、外部資金からも継続評価を受けています」  会場の空気が、また変わった。  写真でも、噂でも、体調でもない。  数字だった。  御門の名前を守ると言いながら、実際に会社の価値を削っているのは誰なのか。  その問いが、議場の床へ静かに広がっていく。  冴子は、しばらく朔弥さんを見ていた。  母親の顔ではなかった。  自分の思い通りに動かない後継者を、初めて公の場で見る人の顔だった。 「会社は、それだけではございませんの」  冴子は、ゆっくりと言った。 「黒字であれば何をしてもよい。外から評価されたなら、御門の信用を傷つけてもよい。そういう話ではないでしょう」  朔弥さんは、そんなことを言っていない。  けれど冴子は、数字そのものには触れなかった。  代わりに、事実を別の言葉にすり替える。  黒字を、わがままに。  評価を、慢心に。  私の仕事を、御門の信用を傷つけるものに。 「高瀬さん。あなたはよく働いたのでしょう。けれど、御門の名を預かるという意味を、まだおわかりではない」  冴子の視線が、私を値踏みするように下りた。 「仕事ができることと、御門にふさわしいことは別です」  その一言で、議場の視線がまた私へ戻った。  私の仕事だけではない。  私自身を、そこに並べて測られている。 「朔弥さん」  冴子は、今度は朔弥さんを見た。 「あなたも、まだ青いわ。妻を守ったつもりで会社を危うくする。数字を並べれば人が納得すると考える。その程度の覚悟で、御門を任せることはできません」  母親が息子を叱る声ではなかった。  後継者としての器を、公の場で疑わせる声だった。 「香澄のことも同じです。あの子は、御門を離れたことで自分を保てなくなった。だから私が預かっているのです。判断を委ねれば、また傷つくだけ」  香澄さんの名前が出た瞬間、私は息を浅くした。  本人のいない場所で。  本人の苦しみを、本人を黙らせる理由にしている。  この言葉を彼女が聞いたら、どう思うだろう。 「あなたは香澄の件から何も学んでいない。御門を
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第80話 香澄が、私に逆らうはずがないでしょう

 冴子の「おほほほほ」という高笑いが、会場に薄く残っていた。  票。  結局、最後はそこへ戻る。  どれだけ私が説明しても、朔弥さんが手続きを守っても。  数えられた票が冴子の側にあるなら、それで終わる。 「高瀬さんには、これを機にお休みいただくのがよろしいでしょう。お身体のこともありますし」  労わるような言い方だった。  でも、その奥にあるものは労わりではない。  私を椅子から降ろす。  私の父の事務所を疑わせる。  朔弥さんの判断を曇ったものにする。  そして最後に、私の身体まで理由にする。  会社側の説明者席で、澄麗さんがそっと目を伏せた。  悲しんでいる顔だった。  でも、口元だけが、ほんのわずかにゆるんでいた。 「真尋さんも、これ以上無理をなさらない方が……」  許可された発言ではなかった。  けれど、咎めるには小さく、無視するにはよく通る。  何人かが私を見た。  心配ではない。  この女は、ここに残すべきではないのではないか。  そんな確認の目だった。  冴子は事務局へ目を向けた。 「香澄の分も、従前どおり処理してください。あの子は今、こうした場で判断できる状態ではありません」  当然のような言い方だった。  母が? 子を?  意に沿わない娘の票を使い、意に沿わない息子は代表の座から引きずり下ろすのだろうか?  いや、冴子ならやる。  朔弥さんの顔が、強張ったように見えた。  香澄さんの票が、本人のいない場所で利用されていく。  議事を進めようと、事務局の男性が立ち上がった。  その時だった。  会場後方の扉が開いた。  事務局の別の担当者が、封筒を手に入ってくる。  その後ろに、見覚えのある男が立っていた。  病院の廊下で、私たちを見た男。  御門の名前を憎むように口にした男。  久我さんだった。 「議長」  担当者が、朔弥さんへ声をかけた。 「御門香澄様名義の議決権行使について、従前の委任撤回および新たな委任状が提出されています」  冴子の扇子が、机の上で動きを止めた。  さっきまでそこにあった勝利の色が、すっと消える。 「……ほほほ」  冴子が笑った。  さっきと同じように笑おうとしているのに、扇子を握る指だけが白くなっていた。 「あり得ませんわ。香澄
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