昨日、澄麗は榊原さんを「理央」と呼んだ。 あなた、まだ私との契約書を持っているの。 あの言葉は、廊下にいた私たち全員の耳に残ったと思う。 契約書とは何か。澄麗と榊原さんの間に、どんな約束があったのか。 あのあと、廊下の角で澄麗が榊原さんの腕を取った。榊原さんは振りほどかなかった。二人の口元だけが小さく動き、こちらへ声は届かない。 城戸さんは二人を追わなかった。 ただ、閉じた応接室の扉の前で、見たことのない顔をしていた。 契約書とは何だろう。 榊原さんは偶然ここに来たのではない。 誰かに頼まれ、何かを引き受けて、私の仕事の隣に座った人なのかもしれない。 目を閉じると、澄麗の視線が戻ってくる。腹へ落ちた目。私の担当も、城戸さんとの窓口も引き受けられると即答した、榊原さんの早すぎる「可能です」。城戸さんの前で、昨夜の嫉妬を口にしてしまった自分の声。 幸せになると思ったのに。 どうして、こんなに追い詰められているんだろう。 考えないようにしても、眠れなかった。 *** 明け方、朔弥さんが寝室の明かりをつけた。 「真尋」 私はベッドの端に座ったまま、返事をしなかった。スマートフォンの画面には、開きっぱなしの勤務条件案が白く光っている。 「寝ていないのか」 「少しは寝ました」 「嘘だ」 朔弥さんは端末を伏せ、私の肩にカーディガンをかけた。 「今日は仕事を休め」 その言葉で、頭の中のどこかが硬くなった。 「休んだら、榊原さんに私の仕事が奪われます」 朔弥さんは、少し驚いた顔をしてから言った。 「渡せばいい。君が戻れば元通りになる」 「戻れるんですか」 朔弥さんが黙った。 香澄さんも、最初はそう言われたのではないかと思った。 体のために休め。家で預かる。仕事も外の人間関係も、あとで戻せばいい。 あとで。 そのあとが、来なかった人がいる。 「香澄さんにも、同じことを言ったんですか」 朔弥さんの手が止まった。 「真尋」 「体のためだと言って休ませて、家の中に閉じ込めて、どこにも出れなくしたんじゃないんですか」 「俺は君にそんなことをしない」 「……今の私には、同じに聞こえます」 一瞬、朔弥さんの視線がさまよった。 だから、言ってから、ひどいことを言った
Read more