All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話 幸せになると思ったのに

 昨日、澄麗は榊原さんを「理央」と呼んだ。  あなた、まだ私との契約書を持っているの。  あの言葉は、廊下にいた私たち全員の耳に残ったと思う。  契約書とは何か。澄麗と榊原さんの間に、どんな約束があったのか。  あのあと、廊下の角で澄麗が榊原さんの腕を取った。榊原さんは振りほどかなかった。二人の口元だけが小さく動き、こちらへ声は届かない。  城戸さんは二人を追わなかった。  ただ、閉じた応接室の扉の前で、見たことのない顔をしていた。  契約書とは何だろう。  榊原さんは偶然ここに来たのではない。  誰かに頼まれ、何かを引き受けて、私の仕事の隣に座った人なのかもしれない。  目を閉じると、澄麗の視線が戻ってくる。腹へ落ちた目。私の担当も、城戸さんとの窓口も引き受けられると即答した、榊原さんの早すぎる「可能です」。城戸さんの前で、昨夜の嫉妬を口にしてしまった自分の声。  幸せになると思ったのに。  どうして、こんなに追い詰められているんだろう。  考えないようにしても、眠れなかった。 ***  明け方、朔弥さんが寝室の明かりをつけた。 「真尋」  私はベッドの端に座ったまま、返事をしなかった。スマートフォンの画面には、開きっぱなしの勤務条件案が白く光っている。 「寝ていないのか」 「少しは寝ました」 「嘘だ」  朔弥さんは端末を伏せ、私の肩にカーディガンをかけた。 「今日は仕事を休め」  その言葉で、頭の中のどこかが硬くなった。 「休んだら、榊原さんに私の仕事が奪われます」  朔弥さんは、少し驚いた顔をしてから言った。 「渡せばいい。君が戻れば元通りになる」 「戻れるんですか」  朔弥さんが黙った。  香澄さんも、最初はそう言われたのではないかと思った。  体のために休め。家で預かる。仕事も外の人間関係も、あとで戻せばいい。  あとで。  そのあとが、来なかった人がいる。 「香澄さんにも、同じことを言ったんですか」  朔弥さんの手が止まった。 「真尋」 「体のためだと言って休ませて、家の中に閉じ込めて、どこにも出れなくしたんじゃないんですか」 「俺は君にそんなことをしない」 「……今の私には、同じに聞こえます」  一瞬、朔弥さんの視線がさまよった。  だから、言ってから、ひどいことを言った
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第112話 やっぱり城戸さんは、私に嘘をついたの?

 その日の昼過ぎ、城戸さんは予定どおり御門本社へ来た。会議後、本社の廊下で、私は彼を呼び止めた。「一条さんと榊原さんは、以前から知り合いですね」「知っているのは、二人の間に契約があるらしいということだけです」「榊原さんを庇っているんですか?」「逆です。信用していないから、私の目の届くところへ置いています」 そうだったのか。 榊原さんを近くに置いたのは、信用しているからではない。 そう聞けば、一応、筋は通る。「では、一条さんとの関係は」「まだ確認中です。高瀬さんに憶測を話すつもりはありません」 城戸さんは腕時計を見た。「今日ここへ来たのも、それを本人に聞くためです」 その時、榊原さんが廊下の角から現れた。城戸さんは彼女に気づくと、私との会話を切った。「榊原さん、行きます」 正面玄関ではなく、非常用エレベーターのほうへ向かう。 人目を避けている。 私はその背中を見送った。城戸さんが榊原さんの歩幅に合わせ、社員の視線が届きにくい側へ彼女を入れる。 仕事上の配慮だと言われれば、そう見える。 でも、本当に警戒しているだけなのだろうか。 二人は、もっと親しいように見えた。 城戸さんは嘘をつかない。 少なくとも、私はそう信じてきた。 今も、信じていいのだろうか。 あの人を好きだった。 たぶん、そう呼んでよかったと思う。『助かりました。高瀬さんがいてよかったです』 そのメールを読んだ時、私は久しぶりに、会社にいていい気がした。 城戸さんは、そういう言葉をくれた人だった。 でも、朔弥さんへ向かう気持ちとは違う。 それなのに、面白くなかった。「真尋。あの背中を、いつまで見ているつもりだ」 すぐ耳元で声がした。 耳の後ろがぞくりとした。 肩を揺らして振り返ると、朔弥さんの顔が近い。「会社です」「知っている。だから触れていない」「充分近いです」「これでも我慢している」「今は喧嘩中です」「喧嘩をすれば、好きではなくなるのか」 そんなことを聞かれるとは思わなかった。「そういう話ではありません」「俺はならない」「私だって、嫌いになったとは言っていません」 口にしてから、目を逸らしたくなった。 けれど、朔弥さんは耳元から離れない。「なら、今夜は逃げるな」「逃げていません」「朝から一度も、まともに俺を見
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第113話 笑えなくなった人

 城戸さんの車が高層マンションへ入り、助手席から榊原さんが降りる。  二人が住人専用エントランスへ消えるまでを写した写真が社内の匿名チャットに出て、三日が経った。  写真はすでにチャットから消されていた。けれど、誰が保存し、どこへ転送したかまではわからない。  城戸さんと榊原さんの関係が、担当者選びに私情が入ったという噂へ変われば、両社の仕事にも影響する。今のところ社外から問い合わせはない。それでも、油断はできなかった。  その夜、御門と城戸ホテルズの共同案件に関わるメンバーの会食が、都内のホテルで開かれた。  会場へ入った私は、城戸さんの隣にいる榊原さんを見た。  黒いドレスに、銀色の耳飾り。髪を下ろした彼女は、会議室にいる時とは別人のように綺麗だった。  近くを通る人が足を緩め、何人も榊原さんを振り返る。  城戸さんが彼女を見る目まで、いつもより熱を帯びている気がした。 「お似合いですわね」  澄麗が私の横へ来た。 「城戸さんと榊原さん。仕事のできる方同士は、並んだ時にも無理がありませんもの」  では、私と朔弥さんには無理があると言いたいのだろう。 「人の並びを決めるのがお好きですね」 「自然に見えるものを申し上げただけですわ。真尋さんも、これで安心なさったでしょう?」 「何をですか」 「城戸さんには、もっとふさわしい方がいらしたとわかったことを」  口調は柔らかい。言っていることは、私が城戸さんを狙っていたという決めつけだった。 「一条さんは、ご自分にふさわしい方をまだ見つけられないのですか」  澄麗の唇が止まった。  その時、私の腰へ腕が回った。 「真尋。遅い」  朔弥さんが私を自分の隣へ引き寄せた。  澄麗の目が、腰に回った彼の手へ落ちる。 「席へ行くぞ」 「まだご挨拶が」 「済んだだろう」  朔弥さんは澄麗を見もしなかった。  すぐには歩き出せなかった。澄麗の顔から、いつもの笑みが消えていたからだ。  口元だけを持ち上げようとして、失敗する。もう一度笑おうとした時には、頬が引きつっていた。 「朔弥さん。真尋さんは例のお写真で動揺なさっていますの。あまり無理にお連れするのは――」 「妻のことは俺がわかっている」  朔弥さんはそこで初めて澄麗を見た。 「君が決めることではない」  澄麗の指
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第114話 選ばれなかった女

 一条澄麗は、会場を出ても榊原理央の腕を離さなかった。 「城戸に気に入られたのは結構よ。だったら、どうしてあの女はまだ朔弥さんの隣にいるの」  ホテルの廊下には、まだ会食の客がいた。  理央は澄麗の手を見下ろした。 「一条様。業務は契約どおり進めています」 「どこが契約どおりなの」 「高瀬さんの担当は減り、城戸さんとの窓口も私へ移っています」 「でも、朔弥さんはまだあの人を庇ってる」  会場で腰を抱かれた真尋が浮かぶ。  どうしてなの。  私のほうが若い。私のほうが美しい。家柄だって、真尋より上だ。  朔弥の隣にふさわしいものは、私のほうが全部持っている。  それなのに、どうして朔弥さんは私を見ないの。  澄麗は理央の腕を握り直した。爪が黒いドレス越しに食い込む。 「雇われた分際で、言われたこともできないのね」 「一条様。お手を離してください」 「方法が生ぬるいわ。もう少し直接的でもいいのよ」  理央が初めて返事に詰まった。  ほんの一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。それから、澄麗の顔を確かめるように見る。 「直接的、とは――」 「理央さん」  追ってきた城戸圭介が足を速めた。 「大丈夫ですか」 「問題ありません」 「腕が赤くなっています」  城戸の視線が、澄麗の手へ落ちた。 「一条さん。離してください」 「あなたには関係ないわ」 「これ以上つかむなら、関係あります」  理央は澄麗の指を一本ずつ外した。  城戸は手を出さなかった。ただ、理央の腕に残った赤い跡を見ていた。 「ホテルの車を呼びます」 「結構です。自分で帰れます」  理央は城戸の申し出も断った。 「待ちなさい。話は終わっていないわ」 「明日も契約どおり業務を続けます。今夜の報告は以上です」  エレベーターの到着音が鳴った。  理央は一人で乗り込み、澄麗にも城戸にも頭を下げなかった。  城戸は扉が閉まるまで動かなかった。  理央を案じていたのか、騒ぎが収まるまで見届けただけなのか、その顔からはわからない。  澄麗には、どちらでもよかった。  城戸の注意を理央へ向ける。少なくとも、そこまでは狙いどおりに見えた。  城戸のことは、むしろ嫌いだった。  真尋の仕事を評価し、朔弥が手放そうとした真尋へ居場所を与える。いつ
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第115話 目だけが、らんらんと燃えていた

 会食から三日後、一条澄麗は会社に姿を見せなくなった。  御門との打ち合わせにも、城戸ホテルズの共同案件にも来ない。社内では、会食での騒ぎを聞いた一条家が止めたらしいと囁かれていた。  静かになったはずなのに、榊原さんだけは何度も会議室の扉を見ていた。 「榊原さん」  呼ぶと、彼女はすぐにこちらを向いた。 「一条様から、何か連絡はありませんでしたか」 「ありません。なぜですか」 「でしたら、結構です」  資料を閉じる袖口から、手首の上に赤黒い痕が見えた。指の形に並んでいる。 「その腕、澄麗さんですか」  榊原さんは袖を引いた。 「業務に支障はありません」 「そういうことを聞いたのではありません」 「では、お答えできません」  いつもどおり、必要なことしか言わない。  けれど私が席を立つと、榊原さんも立ち上がった。 「高瀬さん」  声をかけたまま、数秒黙る。 「一条様から呼ばれても、一人では会わないでください」 「何かあったんですか」 「まだ、私にもわかりません」 「わからないのに、警告するんですか」 「わからないからです」  私は、真意を見極めるように榊原さんをじっと見た。  この人が敵なのか、味方なのか。まだわからない。  それでも、今の警告を聞き流す気にはなれなかった。  榊原さんはそれ以上話さなかった。  午後からは、城戸ホテルズ新館で内覧がある。事務所を出る前、朔弥さんから電話がかかってきた。 『終わる時刻を送れ』 「運転手さんに連絡します」 『俺が迎えに行く』 「今日は会食ではありませんよ」 『関係ない』  三日前、澄麗の前で私の席を自分の隣へ移した人だ。まだ警戒が解けていないらしい。 「では、七時にお願いします」 『一人で外へ出るな。着いたら連絡する』  榊原さんと同じことを言う。  二人に心配されるほどのことなのかと、初めて考えた。  心配性だと思ったけれど、もしかしたら、朔弥さんの心配が正しいのかもしれない。  新館の内覧は、予定より早く進んだ。  八階の客室と宴会場を回り、最後に会議室で修正点をまとめる。城戸さんは支配人と話し、榊原さんは工程表へ変更を書き込んでいた。  一条家の名前は出なかった。澄麗から連絡もない。  考えすぎだったのかもしれない。  窓の外が暗
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第116話 朔弥さんは、あなたのものではありません

「非常ベルの最中にする話ですか」  澄麗は答えず、踏んでいた私の端末を蹴った。  端末は踊り場を滑り、壁にぶつかって乾いた音を立てた。拾おうとした私と端末の間へ、澄麗が一歩踏み出した。 「あなたが、わたくしを避けるからでしょう」 「呼ばれていませんでしたから」 「私が呼んだら、また朔弥さんへ言いつけるつもりだったくせに」  澄麗が手にしているスマートフォンは、画面の端がひび割れていた。 「会食でのことなら、私からは何も言っていません」 「嘘よ!」  澄麗の声が壁に当たり、何度も響いた。 「あなたが泣きついたから、朔弥さんも、お祖父様まで、わたくしを悪者にしたのよ! 三日も家から出してもらえなかった。端末まで取り上げられて、朔弥さんには近づくなと言われたわ!」 「それを決めたのは、私ではありません」 「あなたのせいで決められたのよ!」  澄麗がさらに近づく。  非常ベルが鳴りやんだ。急に静かになった階段で、澄麗の荒い呼吸だけが聞こえる。 「あなたは、何も知らないのね」  澄麗は笑った。さっきよりも口角が上がっているのに、目はぎらついたままだった。 「わたくしが初めて朔弥さんに会ったのは、九歳の時よ。御門のお屋敷へ招かれて、慣れない草履で転んだの。みんなが見ているだけだったのに、朔弥さんだけが手を差し出して、ハンカチをくださった」  初めて聞く話だった。 「『立てるか』って。それだけよ。朔弥さんは、もう覚えていないでしょうね。でも、わたくしはあの時のハンカチを今も持っているわ」  澄麗の声が、わずかにやわらいだ。  けれど次の瞬間には、私を睨んでいた。 「母も、御門の方々も、いつかはわたくしが朔弥さんの隣に立つと言った。だから勉強したの。語学も、経営も、社交も。海外へ行ったのだって、朔弥さんの妻として恥ずかしくない女になるためよ」  ひびの入った端末を握る手に力が入る。 「朔弥さんは、わたくしの初恋の人なの。ほかの誰も好きにならなかった。ずっと、帰国したらあの方の隣へ行くのだと思っていたわ」  澄麗の目から涙が落ちた。 「それなのに、帰ってきたら、あなたがいた」  私を見ているのに、私のことなど見ていない。  澄麗が憎んでいるのは、自分が座るはずだった席にいる女だ。そこにいたのが誰でも、同じように憎んだのだろう。
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第117話 この子だけは連れて行かないで

 身体が後ろへ傾いた。 「あっ……!」  声が、階段の壁にぶつかって跳ね返った。 「真尋!」  下から朔弥さんの叫びがした。  誰かが短く悲鳴を上げる。ヒールが床を叩く音。手すりを探した爪が金属を引っかく、いやな音。  澄麗の顔が遠ざかった。  勝った顔ではなかった。自分が何をしたのか、まだ分かっていない人の顔だった。 「待っ……」  言葉にならない。  白い壁。黒い段差。踊り場の手すり。ぜんぶが斜めに流れて、どちらが上なのか分からなくなる。  手を伸ばした。  手すりは遠い。  お腹。  だめ。  この子だけは。 「真尋さん!」  階段の下から、榊原さんの声が裂けるように飛んできた。  一段目で背中を打った。 「うっ」  二段目で腰が跳ねる。 「いや……っ」  両腕でお腹を抱え込んだ。自分の身体より先に、ここを守らなければならなかった。 「高瀬さん!」  下から伸びてきた手が、私の腕をつかんだ。  榊原さんだった。  彼女は私を引き上げようとして、勢いに負けた。二人で踊り場へ倒れ込む。榊原さんの肩が壁へぶつかり、眼鏡が飛んだ。  私は彼女の身体の上へ落ちた。  全段を転がり落ちずに済んだ。  そうわかった直後だった。  腰の奥から、下腹へ、ぎゅうっと絞られるような痛みが走った。 「……っ」  声にならなかった。  反射的に身体を縮めようとして、誰に言われたわけでもないのに、もう動いてはいけない気がした。  下腹が重い。  痛い。  さっきまでそこにいた小さな命が、痛みの中で見えなくなる。  赤ちゃん。  呼びかけたいのに、声が出ない。  ここにいる、と返してほしかった。  けれど返ってくるのは、下腹を締めつける痛みだけだった。 「高瀬さん。動かないで」  榊原さんの声が近い。  返事をしようとした。けれど、吸った空気が途中でつかえて、口だけが開いた。  階段の上で、澄麗がこちらを見下ろしていた。 「わ、わたくしは……」  壁へ手をつき、一歩下がる。 「真尋さんが、勝手に足を滑らせたのよ」 「違います」  榊原さんが、私の下から答えた。 「あなたが両手で押しました」 「嘘よ!」 「見ました」 「あなたはわたくしに雇われた人間でしょう!」  澄麗の叫びが階段に
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第118話 勝手に捨てないでください

 目を開けると、白い天井があった。  広い処置室。何人もの足音。聞き慣れない機械の音。  窓の向こうに、低い商業ビルの看板が見えた。  その奥に、駅前の歩道橋が小さく重なっている。  父が入院した時、何度も見た景色だった。  ここは、あの総合病院だ。  腰から下腹にかけて、重い痛みが残っている。 「高瀬さん。聞こえますか」  ベッドの横に、白衣の医師がいた。  名札に、産婦人科と書かれている。  その隣に、いつものクリニックの女医の顔が見えた。 「先生……何でここに」 「御門さんから連絡を受けました。あなたの経過を知っている医師として、同席します」 「赤ちゃんは」  自分の声なのに、ひどく掠れていた。 「これから確認します。まず、転落した時のことを教えてください」 「階段で、肩を押されました。何段か落ちて……榊原さんが受け止めてくれました」 「わかりました。今は検査に集中しましょう」  機械の画面へ、白と黒の影が映る。  前に見た時よりも、ずっと小さく感じた。  女医の手が止まった。  何も言わない時間が長い。 「先生」 「待ってください」  画面の中を指で示される。 「ここです」  小さな明滅があった。 「心拍は確認できます」  その一言で、張り詰めていたものが崩れた。  画面の中の小さな明滅が、急にただの点ではなくなる。  そこにいる。  まだ、ここにいる。  私のお腹の中で、必死に動いている。  落ちたのに。  血が出たのに。  あんなに痛かったのに。  この子は、まだ私の中にいてくれた。  涙がこめかみへ流れた。 「……生きているんですね」 「はい。ただ、出血があります。今は安静にして、変化を見ます」 「無事に生まれますか」  女医は簡単に頷かなかった。 「今、赤ちゃんは頑張っています。私たちもできることをします」  それ以上は聞けなかった。  処置が終わり、病室へ移される。  扉が開くなり、朔弥さんが入ってきた。ネクタイはなく、シャツの袖には階段の埃がついている。 「心拍、ありました」  彼はベッドの横へ来たまま、何も言わなかった。 「朔弥さん」  私の手を両手で包み、額へ押し当てる。肩が大きく上下していた。 「会社も、御門もいらない」  一瞬、何を言わ
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第119話 シーツの下に、生温かい感触が広がっている

 冴子は、すぐには次の言葉を出せなかった。  病室の空気が、ぴんと張ったまま動かない。  朔弥さんの手は、私の手を包んだままだった。  さっきまで会社も御門も捨てると言っていた人が、今度は逃げないと言った。  私たちが帰る場所を、御門のためではなく、私たちのために作ると。  その言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。  帰れる家。  ただ戻される場所ではなく、命令を聞くために立つ場所でもなく、私とこの子が安心して眠れる場所。  そんなものを望んでいいのだろうか。  御門に嫁いだ日から、どこかで諦めていた。  この結婚は条件で、この子は役目で、私はそのための身体なのだと、そう思わされてきた。  けれど朔弥さんは違うと言った。  私たちのために作る、と。  嬉しかった。  今すぐ泣き出して、ありがとうと言いたかった。  嬉しいのに、泣きそうなのに、下腹の痛みがそれを許してくれない。  冴子の唇が固く結ばれた。  今までの冴子なら、ここで私を見たはずだった。  嫁としての心得。御門の妻としての自覚。母親になるなら耐えなさい。  そんな言葉で、私を黙らせようとしたはずだった。  けれど、冴子が見ていたのは朔弥さんだった。  思い通りに育てた息子が、初めて自分の腕の中から出ていく。  その事実を、まだ受け入れられない顔だった。 「その言い方は何です。私は家族として心配しているのよ」 「家族なら、最初に真尋を見ろ」  朔弥さんの声は静かだった。  静かなぶん、逃げ道がなかった。 「腹の子の無事だけ聞いて、真尋の痛みを一度も聞かなかった」  冴子の頬が、わずかに引きつった。 「私は、御門の将来を考えて――」 「姉さんにも、そう言ったのか」  冴子が黙った。  その沈黙だけで、病室の温度が変わった気がした。  女医が病室へ戻ってきた。 「患者さんを休ませます。ご家族でも、今はお帰りください」 「私は御門の――」 「私の患者は高瀬真尋さんです」  女医は冴子を廊下へ出し、扉を閉めた。  扉が閉まった瞬間、張っていた糸がふっと緩んだ。  冴子の声が遠ざかっていく。  それだけで、病室の空気が少しだけ私のものに戻った気がした。  赤ちゃんを守るため。  御門のため。  家のため。  いくつもの正しそう
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第120話 一条様から依頼されたことを、すべて証言します

 冴子が病室を出ていって一時間もしないうちに、出血が増えた。  夜中の検査室には、機械の作動音だけが続いていた。  女医が画面の一点を拡大する。何かを探すように動いていた指が止まるまで、私は瞬きもできなかった。 「先生」 「心拍はあります」  肺に残っていた空気を、ようやく吐き出した。 「では、赤ちゃんは」 「生きています。ただ、出血が増えています。引き続き安静が必要です」  生きている。  その言葉に縋りつきたいのに、女医がつけた「ただ」が離れてくれない。  今は生きている。けれど、明日のことまでは誰も約束してくれない。  お腹へ手を当てても、まだ小さすぎて何もわからなかった。画面を見なければ、この子がここにいることさえ確かめられない。  それがたまらなく心細かった。  ベッドごと病室へ戻されると、朔弥さんが立ったまま待っていた。 「心拍はありました」 「そうか」  彼は大きく息を吐くと、壁へ手をついた。  座ればいいのに、しばらくそのまま動かなかった。私より先に崩れてしまわないよう、壁に支えてもらっているようだった。 「眠ってください」 「君が眠ったら眠る」 「私は眠っています」 「痛みで起きていただろう」  言い返せなかった。  眠ったふりをしていたことまで、気づかれていた。  朔弥さんはベッド横の椅子へ座り、私の手を握った。 「……姉さんの時も、俺は何もできなかった」  彼から香澄さんの話をするのは珍しかった。 「流産したと聞かされた時、母は最初に、次はいつ妊娠できるのかと医師に聞いた」  さっき病室へ来た冴子は、私の顔より先に検査表を見た。そして、赤ちゃんは無事なのかと聞いた。  同じだった。  香澄さんがいた場所に、今は私がいる。  知らずに重ねていた自分の手へ、力を込めた。 「姉さんは同じ部屋にいた。それなのに、誰も姉さんを見ていなかった」 「朔弥さんは?」 「俺も母を止められなかった」  朔弥さんは私から目をそらさなかった。  謝っているのは、今日のことだけではないのだと思った。何年も前から残っていた後悔まで、私を失いかけたことで引きずり出されたのだ。 「今日も、俺は何もできなかった」 「むしろ、あなたはずっと心配してくれていました。油断していたのは私です」 「君のせいじ
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