All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 御門家の跡継ぎを作るのは、嫁のいちばん大事な仕事ですもの

 翌朝、食卓に座った瞬間、嫌な予感がした。  義母の隣に、一条澄麗が座っていた。  淡い色のワンピースに、小ぶりのパール。あれだけ空気を掻き回しておいて、朝から当然みたいな顔で収まっている。  義母の前に、見慣れない封筒が置かれていた。病院のロゴ。婦人科。胸の奥が冷えた。 「真尋さん」  義母は、いつもの穏やかな声で言った。 「来週の火曜、午前十時に予約を入れておいたわ」  私は箸を置いた。 「……何の、ですか」 「検査よ」  天気の話みたいな口調だった。 「年齢のこともあるし、ここまでお子さんに恵まれないのなら、一度きちんと確認しておいたほうが」  澄麗が小さく息をついた。 「御門家の跡継ぎを作るのは、嫁のいちばん大事な仕事ですもの」  やわらかい声だった。常識を口にしただけです、という顔まで完璧だった。  言葉が、皮膚を切っていく。  ここまでお子さんに恵まれない。  私に何か足りないみたいに聞こえる。 「……今、その話をするんですか」  声は平たかった。  義母は微笑んだまま、封筒を少し押した。 「今だからこそ、でしょう」  全部わかった。  追い払いたいのだ。  でも、御門家が若い女に乗り換えたせいにも、朔弥さんが私を切ったせいにもしたくない。  だから、私の側に理由がほしい。  私に問題があったから。  私が産めないかもしれないから。  だから仕方なかったと、話を整えたいのだ。  体面と家の看板のために、最後に私の身体を使う。  喉の奥が、すっと冷えた。 「なるほど。私に理由がある形にしたいんですね」  一瞬だけ、空気が止まる。 「そんな言い方はしていないわ。ただ、きちんと確認しておいたほうが、あとで誰も困らないでしょう」  誰も。  そこに、私は入っていない。 「離婚したいなら、そうおっしゃればいいのに」  私が言うと、さすがに朔弥さんが顔を上げた。 「真尋」  低い声だった。守るためじゃない。この場をこれ以上露骨にしないための声だとわかる。 「どうして、私の体で理由を作るんですか」  義母は息をついた。困った子を見るみたいな顔だった。 「あなた、ずいぶん感情的になっているのね」  人をここまで追い詰めておいて、感情的なのは私のほうらしい。 「感情的なのは、どちらでし
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第12話 私の体は、御門家のものではないはずなのに

 火曜の朝、私は一人で病院へ向かった。  婦人科のあるフロアは静かだった。  白い壁、柔らかい照明、控えめな足音。待合の椅子に座る女性たちはみんな、自分の体のことだけを抱えている顔をしている。そこに家の事情や体面や離婚の段取りを持ち込んでいるのが自分だけみたいで、急にひどく惨めになった。  受付を済ませて、番号札を受け取る。名前ではなく番号で呼ばれるだけで少しだけ息がしやすい。御門でも、高瀬でもなく、ただの患者として座っていられる時間が、思ったよりありがたかった。  膝の上で診察券を握りしめていた時だった。 「真尋さん」  その声に顔を上げた瞬間、背筋が凍った。  少し離れた席で、義母が雑誌を閉じるところだった。白に近いアイスグレーのノーカラージャケットに、スモーキーブルーの細身ワンピース。アクセサリーは小さな白金のピアスだけ。こんな場所にまで、ホテルのラウンジみたいな顔で座っている。 「……どうして、ここに」  思わず立ち上がりかけて、膝が椅子の縁に当たった。鈍い痛みが遅れてくる。  義母は、穏やかに微笑んだ。 「どうしてって。家のことですもの。結果はきちんと共有しておいたほうがいいでしょう」  家のこと。  やっぱりこの人は、そう言うのだと思った。私の体まで、まだ御門家の管理下にあるつもりでいる。その平然とした顔に、朝食の時とは違う種類の吐き気が込み上げた。 「共有、ですか」 「ええ。感情的になって受け答えを誤ってもいけないでしょうし、先生のお話もきちんと聞いておいたほうが安心でしょう?」  安心。  誰の。  聞くまでもなかった。 「私は一人で大丈夫です」  できるだけ低く言ったつもりだったけれど、喉の奥がひどく乾いていて、声が少し硬く掠れた。  義母は困ったように眉を下げる。 「もちろん診察室までご一緒するつもりはないのよ。ただ、家の者として結果は把握しておきたいだけ」  家の者。  その言い方が、どうしようもなく嫌だった。私は患者なのに、この人の口の中ではもう検査対象でしかない。  何か言い返そうとしたところで、番号が呼ばれた。 「三五番の方、診察室へどうぞ」  私は息を吸って、義母から目を逸らした。この場で揉めれば、待合の全員に見られる。義母はたぶん、それでも平気だ。こういう人は、騒ぐ側だけを感情的に
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第13話 あなたに聞かせる結果はありません

「……失礼しました」  女医は静かに言った。 「では、なおさら先にご本人の意思を確認します」  そのなおさらに、胸の奥がかすかにざわついた。  御門という名前だけで、線を引くべき相手だと思われたのだ。 「高瀬さん」  女医はペンを置いた。 「まず確認します。今日、検査を受けるかどうかは、ご本人が決めていいことです。受けたくないなら受けなくて構いません。途中でやめてもかまいません」  喉が詰まる。  ここに来るまで、受けるかどうかを自分で決めていいなんて、一度も考えなかった。  決められているものだと思っていた。 「……わかりません」  自分でも驚くほど、小さな声が出た。 「受けたくないわけではないです。でも、今日ここに来た理由は、たぶん私のためじゃありません」  女医は急かさず、少しだけ待った。 「離婚の話が出ています」  口にした瞬間、胸の奥がひりついた。 「それで、今になって急に検査をと言われました」 「なるほど」  短い相槌だった。慰めではなく、事情の輪郭だけを正確に掴む響きだった。 「どうして今なのかは、わかっています」  私は膝の上の手を見た。指先が少し白くなっている。 「追い出したいんです。でも、向こうのせいで離婚したことにはしたくない。だから、私の側に理由がある形にしたい」  言葉にしてしまうと、思った以上に醜かった。なのに少しだけすっきりした。きれいに見せようとしていたものの正体が、ただの悪意だと確認できたからだ。 「私に問題があったから。私が産めないかもしれないから。だから仕方なかった。そういう筋書きにしたいんだと思います」  そうしておけば、次に誰を隣へ置いてもきれいだ。  昨夜からこの家に出入りして、朝の食卓で『御門家の跡継ぎを作るのは、嫁のいちばん大事な仕事ですもの』と言ってのけた一条澄麗の顔が浮かぶ。  私が検査台に上がるあいだに、あの女はもう、次の正しい嫁の位置へ収まる準備をしている。  診察室は静かだった。女医は眉ひとつ動かさずに聞いていた。 「そう感じる理由は、十分にあるようですね」  その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。 「高瀬さん」  女医が、今度ははっきりした口調で言った。 「検査はできます。でも、これは誰かを納得させるためのものではありません。あなたご自身の体の
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第14話 次は、私の番なのかもしれない

 病院の帰り道、私はスマホを見なかった。  義母からは、家に着いたら話しましょう、とだけ短くメッセージが入っていた。朔弥さんからは何もない。あの人にとって、私の検査結果などどうでもいいことなのだろう。  帰宅した頃には、もう夕方だった。  玄関を上がると、使用人が一礼して私の鞄を受け取る。いつもどおりの所作なのに、今日はその目線の揺れまで気になった。病院へ行ったことも、たぶんもう家の中では共有されている。  リビングには義母がいた。穏やかな顔だ。相変わらず、悪意だけがきれいに隠れている。 「おかえりなさい」 「ただいま戻りました」 「では、結果を」  世間話の続きをするみたいな声だった。そういうところが、本当に嫌だった。 「お伝えしません」  義母の手が、ティーカップの持ち手の上で止まる。 「病院でも申し上げました。私の検査結果です」 「家のことなのよ」 「違います」  言い切った瞬間、喉の奥が震えた。怖くないわけではない。でも、今日の診察室で一度引いてもらった線を、ここで自分から消したくなかった。 「私の体のことです。少なくとも、最初に知るのは私であるべきでしょう」  義母は少しだけ黙った。 「最近、ずいぶん言うようになったのね」 「最近、ずいぶん決められすぎていたんです」  空気が張る。静かな家ほど、こういう時の沈黙が耳に痛い。 「朔弥には伝えるの?」 「私が必要だと思ったら」 「あなた一人の問題ではないのよ」  本来は夫婦の問題であるはずなのに、この家では最初から私だけが差し出されていた。 「だからこそ、なおさら順番があります」  私がそう言った時だった。 「母さん」  低い声が割って入る。  振り返ると、朔弥さんが立っていた。ネクタイを緩めたまま、ひどく疲れた顔をしている。 「その話は、もういい」  義母の眉がわずかに寄った。 「よくないでしょう。あなたも関係あることよ」 「俺があとで聞く」 「聞く必要があるなら、先に家として把握しておくべきです」  その言い方に、朔弥さんの目元がすっと冷えた。病院で女医が御門の名前に反応した時と、少し似ていた。何かを思い出した時の顔だ。 「把握しなくていい」  短く切られた言葉に、
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第15話 姉の部屋に逃げていた男の子

 もし本当に、この家が妊娠した女を壊す場所なら。  次は、私なのかもしれない。  その考えが胸の奥へ落ちた瞬間、足先から血の気が引いた。けれど、怖いからといって目を逸らしたくはなかった。ここまで来てしまった以上、知らないふりのほうがよほど怖い。 「どういうことですか」  問いかけても、朔弥さんは答えなかった。  開きかけた扉の前へ一歩出る。私と部屋のあいだへ身体を差し込むように、わずかに立ち位置を変えただけだった。それなのに、拒絶としては十分だった。 「真尋。今はやめろ」  思わず笑いそうになった。うまく笑えた気はしない。 「今は? 今じゃなければ、いつならいいんですか」  廊下の空気が薄い。半開きの扉の向こうには、時間ごと閉じ込められたみたいな部屋がある。その前で、この人はまた、都合のいい言葉だけを選んでいる。 「説明できないなら、せめて隠さないでください」 「隠してるわけじゃない」 「では何ですか」  返ってきたのは、短い沈黙だった。 「その部屋には、もう誰も入らない」 「どうして」 「……香澄姉さんが、触れられたくないからだ」  初めて、姉の名前がはっきり出た。  小さい頃、朔弥さんと一緒に遊んでいた時期に、彼には身体の弱い姉がいると聞いた気がする。けれど、御門の家でその人の名前を聞いたことはなかった。  それだけのことなのに、指先が冷える。この家で消されていた人に、急に輪郭が与えられたからだ。 「触れられたくないものを、どうしてそのまま置いてあるんですか」 「片づけられなかった」 「誰が」  また黙る。  その黙り方が、答えみたいだった。 「何があったんです」  朔弥さんの指先が、かすかに動いた。 「あなたは、それを見て、何も思わなかったんですか」 「真尋」 「心が痛まなかったんですか」  その瞬間、朔弥さんの顔から血の気が引いた。  怒らせたのだと思った。けれど違った。  触れてはいけない場所に、素手で触れられた人の顔だった。 「痛まないわけがない」  低い声だった。ほとんど、息のような声だった。 「香澄姉さんは……俺を、可愛がってくれた」  初めて聞く声だった。  社長でも、夫でも、この家の長男でもない。もっと幼いものが、声の底に残っていた。 「俺が小さい頃、母さんに叱られると、
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第16話 私の体調は、本日の確認事項ではありません

 翌朝、会社に着いても、昨夜の廊下の空気はまだ体の奥に残っていた。  昨日、検査で半日抜けた分、机の上には確認待ちの資料が積み上がっていた。  本当なら、昨夜のうちに目を通すつもりだった。  けれど昨日の夜、私はあの部屋を見てしまった。  香澄さん。  朔弥さんの姉。妊娠して、何かが起こり、この家の表から消えた人。  妊娠した女は、壊れるまで管理される。  不要になった女は、静かに外へ出される。  形は違っても、この家ではどちらも同じなのかもしれない。  その思考を振り払うように、私はパソコンを開いた。  今日は城戸側との提携案件の事前確認がある。最終審査前の、大事な確認だった。  十時前、会議室へ向かうと、すでに一条澄麗がいた。 「真尋さん。本日の進行、少しだけ入れ替えておきましたの。朔弥さんも、先方にはまず御門らしさを感じていただいたほうがいいとおっしゃっていましたから」  小さな違和感が、指先に残った。 「進行を?」 「ええ。数字から入ると、どうしても重くなりますでしょう?」  確認しようとしたところで、会議室の扉が開いた。  城戸圭介が入ってくる。  濃いグレーのスーツ。無駄のない歩き方。目が合った瞬間、彼は仕事用の顔のまま、ほんの少しだけ声を落とした。 「高瀬さん。先日は、大丈夫でしたか」  一瞬、何のことかと思い、すぐにあの平手打ちの件だとわかった。 「……お見苦しいところを」 「そうは思っていません」  城戸は短く言った。 「連絡しようかと思いましたが、プライベートを聞くのも違うと思ったので」  その言い方が妙に城戸さんらしくて、胸の奥が少しだけ詰まった。 「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」 「なら、いいです」  それ以上は踏み込まない。  その距離感に、少しだけ息がしやすくなる。  それなのに、視線だけは、妙に熱を持っていた。  心配とも、確認とも少し違う。仕事の場に持ち込むには、ほんの少しだけ個人的すぎる目だった。 「まあ、城戸様はお優しいんですね」  やわらかな声が割って入る。  一条澄麗だった。 「真尋さん、昨日は検査でお疲れでしたものね。私も心配しておりましたの」  城戸さんの視線が、わずかに動いた。 「検査、ですか」  その声から、仕事の温度が一瞬だけ消え
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第17話 私を正しく見たのは、夫ではなかった

 澄麗はすぐに表情を切り替え、笑みを戻した。 「もちろん、収益を軽視するという意味ではございません。ただ、城戸様のように審美眼のある方なら、数字に表れない価値もご理解いただけるかと」  城戸さんは、彼女をまっすぐ見た。 「私個人の審美眼ではなく、提携条件の話をしています」  澄麗の笑顔が、薄く固まる。 「数字に表れない価値を否定しているわけではありません。ただし、収益前提の確認前にそれを御社の方針のように語られると、こちらは条件を変えざるを得ません」  会議室が静まり返った。  順番を変えれば、意味が変わる。  赤字見込みの前に夢を語れば、リスクは「未来への投資」に見えてしまう。 「申し訳ありません。本来の進行と異なっています。収益前提の確認を先に行う予定でした」  一度、画面のコンセプトスライドへ視線を戻す。 「それ以前に、いま提示されたブランド戦略と、私が作成した収益計画の数字に齟齬があります。社内調整が不十分でした。私の責任です」  言葉にした瞬間、胃の奥が冷えた。  私は正しいことを言っている。  けれど、正しいからこそ、自分の責任も消えない。 「真尋」  朔弥さんの声が低く響いた。  会議室の入口に、彼が立っていた。  いつから聞いていたのかはわからない。 「これはお前の会議だろう」  喉の奥がひどく乾いた。 「はい」 「なぜ事前に止めなかった」  当然の指摘だった。  昨日、検査で半日抜けた。  仕事は山積みだった。  夜には、香澄さんの部屋を見てしまった。  けれど、それは理由にはなっても、免責にはならない。 「確認が不足していました。申し訳ありません」  言葉を返しながら、指先が冷えていく。  澄麗が困ったように目を伏せた。 「申し訳ありません。真尋さんがお忙しそうでしたので、少しでも場を華やかにできればと思いましたの」  その声は、かばう形をしていた。  けれど実際には、私が忙しく、疲れていて、確認できていなかったことだけを、丁寧に会議室へ置いていく。 「それに、真尋さんの資料はとても正確ですけれど、少し重く見えてしまいますでしょう? 先方とはまず、大きな目標や未来の方向性を共有することが大切かと」  善意の形をしている。  でも、私の仕事は「重いもの」として切り分けられ、彼女
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第18話 甘えないでください、社長

 城戸さんたちが会議室を出たあとも、空気は冷えたままだった。  画面にはまだ、澄麗が出したコンセプトスライドが映っている。  御門ブライダル、新しい記憶のかたち。  綺麗な言葉だった。  綺麗すぎて、腹が立った。 「社長」  私は資料を閉じた。 「一条さんを、この案件から外してください」  澄麗が息をのむ。  朔弥さんは、すぐには答えなかった。 「今ここで決める話ではない」 「今ここで決める話です」  声は、思ったより冷静だった。 「収益前提の確認前に、未調整のブランド方針を対外的に提示しました。今後同じことが起きれば、提携条件そのものが崩れます」 「真尋」 「私が責任者として残るなら、権限のない方を同じ会議体には入れられません」  仕事の話だった。  感情ではない。  少なくとも、そう聞こえるように言った。  けれど朔弥さんの目が、そこでわずかに細くなる。 「……城戸には、何を話した」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。 「何を、とは」 「あいつが、あそこまで踏み込んだ。お前が何か話したんじゃないのか」  言った直後、朔弥さんの顔がかすかに強張った。  自分でも、今の言葉が仕事のものではないとわかったのだと思う。  けれど、もう遅かった。  胸の奥が、すっと冷える。 「私が城戸さんに言わせたと?」 「そうは言っていない」 「言っています」  声は思ったより静かだった。 「私が仕事上の判断をすると、あなたはいつも、私自身の判断だとは扱わないんですね」  朔弥さんの喉が、わずかに動く。 「違う」 「違いません。私が怒れば感情的だと言われる。私が異議を唱えれば、誰かに吹き込まれたことになる。私が外せと言えば、城戸さんに言わせたのかと疑われる」  言葉にするほど、胸の奥にあったものが形を持っていく。 「あなたにとって、私の判断はいつも、私のものじゃないんです」  朔弥さんの顔色が変わった。  怒りではない。  傷ついたような顔だった。  どうして、そこであなたが傷つくのだろう。 「……今のは、言うべきことじゃなかった」  低い声だった。  謝罪に近かった。  けれど、謝罪そのものではなかった。 「では、なぜ言ったんですか」  朔弥さんは答えない。  答えないくせに、視線だ
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第19話 この人の裂け目を見てしまった

「……まだ帰っていなかったんですか」  声が少しだけ乾いていた。  城戸さんは私を見る。 「帰るところでした」  それから、手元のスマートフォンを一度見た。 「高瀬さん」 「はい」 「連絡先を交換したほうがいいと思って」  あまりにまっすぐな言い方で、一瞬、返事が遅れた。 「仕事のためですか」 「それもあります」  それも。  その言葉が、胸の奥に小さく残る。  会議室のほうから、澄麗の小さな泣き声がまだかすかに聞こえていた。それを宥める朔弥さんの低い声も。  城戸さんは、その方向を見なかった。 「高瀬さんは」  いつもの仕事の声より、少しだけ低かった。 「どうしてまだ、あの人のところへ戻るんですか」  息が止まった。 「離婚届は、もう出しているんでしょう」  その話を、食事の時にしたことを思い出す。  あの時は、ただ事実として口にしたつもりだった。  けれど今、その事実は城戸さんの言葉になって、私の前へ戻ってきた。 「逃げようと思えば、逃げられるはずです。少なくとも、仕事の場所なら作れる」  その言葉に、指先が小さく震えた。  逃げられる。  たぶん、そうなのだ。  城戸さんのところへ行けば、少なくとも仕事では私は判断者として扱われる。  御門家の食卓で、子どもの名前を勝手に決められることもない。  泣いている別の女を慰める朔弥さんの背中を、見なくて済む。  なのに。  それなのに、どうしてまだ。 「……わかりません」  正直な答えだった。  城戸さんは、責めなかった。  ただ静かに、私を見ていた。 「わからないなら、連絡先だけでもください」 「どういう理屈ですか」 「逃げる理由がわかった時に、連絡先がないのは不便です」  仕事の言い方だった。  なのに、仕事だけではないとわかってしまう。  私はスマホを取り出した。  会議室の中から、朔弥さんの低い声がまだ聞こえている。  その声より近い場所で、城戸さんの連絡先が画面に追加された。 ***  城戸さんのほうが、ずっとまともだ。  仕事では責任の範囲を正確に見てくれる。  踏み込む時も、踏み込みすぎたとわかれば、自分で線を引く。  あの人のそばにいれば、少なくとも息はできるのだと思う。  たぶん、楽だ。  楽なはずだ
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第20話 身を引くことも愛だなんて、誰が決めたの

 翌朝、食卓にはもう澄麗がいた。  この女、なんでこんなに図々しく他人の家に来るのだろう?  仕事からは外されたはずなのに、御門家の朝食の席では、昨日よりずっと守られた顔をしていた。  傷ついた人の形を、きれいに作っている。 「真尋さん、おはようございます」  義母は澄麗の隣に座っていた。  まるで、客人ではなく、家族のように。 「昨夜は大変だったわね」  義母は穏やかに言った。 「澄麗さんは、御門のためを思ってくれただけでしょう。少しやり方が合わなかっただけで、あんなふうに責めることではないと思うの」  私は黙って席についた。  正面には朔弥さんがいる。  昨夜、私の席まで来て、答えられなかった人。  この家が正しいと思っているのか。  その問いは、まだ宙に残っている。 「米国帰りのブランド戦略と、国内の税理士さんの数字の見方では、そもそも視点が違うのよ」  義母は続けた。 「比べるものではないわ」  比べているのは、義母のほうだった。 「もちろん、真尋さんのことも、お父様のことも評価しているのよ。お父様には昔から、御門家のかかりつけの税理士として助けていただいたもの」  かかりつけ。  その言葉が、妙に耳に残った。  要するに、雇われと言いたいのだろう。  どれだけ数字を見ても、どれだけ会社を支えても、御門家の側には入れない人間。  父も、私も、そういう場所に置かれている。 「澄麗さんのような方の感覚も、少しは学んだほうがいいのではないかしら」  澄麗は小さく首を振った。 「お義母様、私が至らなかっただけです。真尋さんのように、堅実に数字を積み上げる方のお考えを、もっと尊重すべきでした」  謝罪の形をしている。  けれど、その言葉は私を、華やかな未来を理解できない人間だと暗に非難している。 「数字は、家に仕えるためにあるわけではありません」  自分でも驚くほど、声は静かだった。 「未来を誤らないためにあります」  食卓の空気が、薄く張る。  義母の眉が、わずかに動いた。 「言い方がきついわね」 「事実です」  その時、澄麗がそっと目を伏せた。 「私、真尋さんを責めたいわけではありません。ただ、朔弥さんがおつらそうで」  嫌な予感がした。  澄麗は、こちらを見る。 「真尋さんが本当に
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