All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 でも、もう遅い。

 離婚はしない。  真尋の体は、御門のものじゃない。  聞きたかった言葉だった。  本当にうれしいと思ってしまった。  でも、もう遅い。  昨日までの沈黙も、離婚届を渡された日の痛みも、今さらなかったことにはできない。  義母が、ゆっくりと笑った。 「ずいぶん、真尋さんの味方をするのね」  怒鳴るより、ずっと冷たい声だった。 「あなた、香澄の時のことを覚えているから、そんなふうに言うの?」  その名前が出た瞬間、食卓の温度が変わった。  香澄さん。  妊娠して、何かが起こり、この家の表から消えた朔弥さんの姉。  澄麗だけが、不思議そうに目を瞬かせていた。  香澄さんの名前が落ちた時の沈黙だけは、まだ知らないのだ。 「香澄は弱かったのよ。子どもを失ってから、ずっとおかしくなった」  息が止まった。  子どもを失ってから。  あの淡い黄色の母子手帳ケースが、胸の奥で開いた気がした。 「違う」  朔弥さんが言った。  聞いたことがないくらい、低い声だった。 「姉さんが弱かったんじゃない」 「では、何が悪かったと言うの」  朔弥さんは一度だけ息を吸った。 「この家だ」  食卓から、音が消えた。  義母の顔から、完全に表情が消える。  昨夜、私の問いに答えられなかった人が、母親の前で、香澄さんを壊したのはこの家だと言った。  けれど、その言葉が出たからといって、この家が安全になるわけではない。  義母は静かにカップを持ち上げた。 「精密検査の結果は、いつ出るのかしら」  あまりに自然に、話題が戻った。  いや、戻ったのではない。  この人の中では、香澄さんのことも、私の検査結果も、同じ棚に置かれている。  御門家に必要かどうかを判断するための、材料として。  私は席を立った。 「結果は私が確認します。誰にも開示しません」 「御門の嫁でしょう」 「違います」  声は、すぐに出た。 「私の体です」  義母の目が細くなる。 「失礼します。病院に行く時間ですので」 「真尋」  朔弥さんが呼んだ。 「結果を、俺に話す必要はない。話したいと思った時だけでいい」  胸の奥が、また揺れた。 「……行ってきます」  私は食卓を離れた。 ***  病院では、誰も私を御門の嫁とは呼ばない。  た
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第22話 今夜、帰らない

『大丈夫ですか』  たったそれだけだった。  検査のことを知っているはずはない。  香澄さんのことも、義母が結果を知ろうとしていることも、今朝の食卓で何があったかも、城戸さんは知らない。  それでも、その短い言葉は、こちらの呼吸の乱れだけを正確に見ているみたいだった。  私はしばらく画面を見つめる。 『大丈夫です』  そう打って、送信する前に消した。  大丈夫。  そう書く時ほど、大丈夫ではないことを、城戸さんは知っている気がした。  少し迷って、打ち直す。 『少し疲れました。でも、大丈夫です』  送信すると、すぐに既読がついた。 『大丈夫と言う時ほど、無理をしている顔をする人ですよね』  胸の奥が、ふっと揺れた。  昔から知っているような言い方だった。  実際、城戸さんは知っているのだろう。  私が疲れている時ほど、声を平らにして、資料を完璧に揃えて、何もない顔をすることを。 『仕事の件で負担を増やしたくありません。必要なら、こちらは待てます』  仕事の言葉だった。  でも、仕事だけではないと、もうわかってしまう。  指が、画面の上で止まる。  女医の言葉が、まだ胸に残っていた。  まずは、高瀬さん自身が壊れない環境を考えてください。  壊れない環境。  その言葉を、私はまだうまく飲み込めずにいた。 『少し、環境を変えた方がいいと言われました』  送ってから、しまったと思った。  弱音みたいだった。  助けてほしいと言っているみたいだった。  すぐに既読がつく。  けれど返事は、思ったより落ち着いていた。 『でしたら、今夜だけでも外で休んだ方がいいかもしれません』  私は画面を見つめた。 『うちのグループで、静かに過ごせるホテルがあります。必要なら紹介します』  続けて、もう一通。 『もちろん、高瀬さんがお一人で過ごす部屋です。私が伺うことはありません』  そこまで言わなくても、と思った。  けれど、言ってくれたから安心できるのだとも思った。  城戸さんは、踏み込む。  でも、踏み込んだ場所に、自分の影を残さない。  逃げ道だけを置いて、私が選ぶ余地を残してくれる。  優しい人だと思った。  たぶん、この人のそばにいれば、私はもっと楽に息ができる。  仕事で必要以上に傷つけられ
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第23話 これまで傷つけられてきた事実が消えるわけではない

 病院を出たあと、私は会社へ戻った。  何もなかった顔でメールを返し、資料を直し、会議予定を調整した。  仕事をしている間だけは、呼吸の仕方を間違えずに済む。  けれど、画面の端に城戸さんから届いたホテルの名前が残っている。  今夜だけでも外で休む。  その選択肢は、消えなかった。  城戸さんからの最後のメッセージを、もう一度見る。 『予約名は高瀬さんで取ります。部屋は一名です』  少し間を置いて、もう一通。 『行くかどうかは、あなたが決めてください』  その一文を見て、私はしばらく動けなかった。  誰かに連れ出されるのではない。  誰かに捨てられるのでもない。  私が、選ぶ。  今夜、御門家に帰らないという選択を。  夕方、私は一度だけ御門家へ戻った。  帰るためではない。  出ていくためだった。  部屋に入ると、空気がいつもより重く感じた。  クローゼットを開け、鞄を床に置く。  着替えを一組。  充電器。  仕事用のノートパソコン。  税理士関係の資料が入った薄いファイル。  それだけで十分なはずなのに、手は何度も止まった。  本当に出ていくのだと思うと、胸の奥が変に冷える。  逃げるのではない。  そう言い聞かせる。  女医に言われたからでもない。城戸さんに勧められたからでもない。義母に傷つけられたからだけでもない。  私が、今夜ここにいたくない。  それだけだ。  その時、スマートフォンが震えた。  ベッドの上に伏せていた画面が、淡く光る。  城戸圭介。 『ホテルの予約が取れました。フロントには話を通してあります』  表示された文字を見つめる。  これで、本当に行けてしまう。  そう思った瞬間、背後で小さく床が鳴った。  振り返る。  扉のところに、朔弥さんが立っていた。  いつからいたのか、わからない。  彼の視線が、ベッドの上のスマートフォンをかすめた気がした。  胸が、小さく跳ねる。  けれど、朔弥さんは何も言わなかった。  なら、見えていなかったのだろう。  画面は、すぐに暗くなった。 「……出ていくのか」  低い声だった。 「今夜は、戻りません」  朔弥さんは黙った。  何かを言いかけたように見えた。  けれど、言わなかった。 「必要なものを取
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第24話 誰の妻でもない夜

 ホテルに着いたのは、金曜の夜だった。  都心の少し奥まった場所にある、小さなホテルだった。  大きな看板も、派手なシャンデリアもない。  けれど、エントランスに足を踏み入れた瞬間、外の音がすっと遠ざかった。  フロントで名前を告げると、スタッフは静かに頷いた。 「高瀬真尋様でいらっしゃいますね。お部屋をご用意しております。城戸より、ご滞在中にご不便のないよう承っております」  高瀬真尋。  それだけだった。  御門の嫁でも、朔弥さんの妻でも、御門家の人間でもない。  ただ、自分の名前で呼ばれた。  たったそれだけのことなのに、胸が軽くなる。  部屋は、思っていたよりずっと上質だった。  大きな窓。  深い青のカーペット。  グレージュのソファ。  広いベッドには、白いリネンがきれいに張られている。  逃げ込む場所だと思っていた。  でも、誰かに見つからないためではなく、今夜ここで休むための部屋だった。  私は鞄を床に置き、しばらくその場に立っていた。  何をしていいのか、わからなかった。  自由というものは、いざ渡されると、扱い方が難しい。  とりあえず靴を脱いだ。  それから、スマートフォンをベッドに伏せた。  見ない。  今夜だけは、見ない。  そう決めて、シャワーを浴びた。  温かい湯が肩に落ちると、体の奥から疲れがほどけていく。  泣くつもりはなかった。  けれど、目を閉じたら、少しだけ涙が出た。  悲しいのか、安心したのか、自分でもわからなかった。  その夜は、何も考えずに眠った。  目が覚めた時、部屋は静かだった。  土曜日の朝。  カーテンの隙間から、淡い光が差している。  スマートフォンを見ても、御門家からの連絡はなかった。  ほっとした。  少しだけ、寂しいとも思った。  面倒な心だと思う。  追いかけてこないでほしい。  でも、追いかけてこないことにも傷つく。  朝食は、ホテルのラウンジで取った。  卵料理と、温かいスープと、焼きたてのパン。  誰にも急かされない朝食だった。  食べる順番も、飲むタイミングも、自分で決めていい。  それだけで、少し呼吸が深くなった。  食後、館内案内を見ていると、ブティックとスパの案内が目に入った。  見るだけ。  そ
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第25話 俺も、あの家に戻れなくなった

 約束の時間が近づいて、私は部屋を出た。  城戸さんは、支配人との打ち合わせでこのホテルに来ると言っていた。  さすがに客室を訪ねてくることはないだろうし、会うならロビーかラウンジだろうと思った。  エレベーターで一階へ降りるあいだ、胸の奥が少しだけ落ち着かない。  仕事の延長のはずなのに、御門家の外で誰かと会うだけで、まだ少し身構えてしまう。 「高瀬さん」  声に顔を上げると、城戸さんが立っていた。  こちらを見る目だけが少しやわらかい。 「支配人との打ち合わせは終わりました。このあと移動します」  城戸さんは椅子の横に立ったまま私を見る。 「少し、顔色が戻りましたね」 「そんなにひどかったですか」 「前に会った時は、かなり。  その服、よく似合っています」 「ホテルのブティックで買いました」 「休めましたか」 「少しだけ。ありがとうございました」 「礼を言われるほどのことはしていません。場所を紹介しただけです」  ラウンジの入口の空気が、ふっと変わった。  顔を上げる前に、誰が来たのかわかった気がした。  朔弥さんだった。  黒いコートを着たまま、入口に立っていた。  視線が、まず城戸さんへ向く。  それから、私へ。  新しいニット、整えた髪、昨日より少し血色の戻った顔。  そのすべてを見て、朔弥さんの目が細くなる。 「……城戸に会うために、そんな格好を?」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。  わかった瞬間、胸の奥が冷えた。  この服を選んだ時間。  鏡の前で、少しだけ自分の顔を悪くないと思えたこと。  それを、そんなふうに言われたくなかった。 「違います」  私は静かに言った。 「私のためです」  朔弥さんが、言葉を失った。  城戸さんが、低く息を吐く。 「御門社長。高瀬さんが少し休めたことを、まず喜ぶべきではありませんか」  朔弥さんの視線が、城戸さんへ移る。 「あなたには関係ない」 「ええ。本来は」  城戸さんは一歩も引かなかった。 「ただ、今の言い方は高瀬さんを傷つけるものです」 「お前に何がわかる」  朔弥さんが一歩、城戸さんへ近づく。  その手が、城戸さんの襟元へ伸びかける。 「朔弥さん」  呼ぶと、その指が止まった。  掴まなかった。  けれど
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第26話 好きだった、で終わらせるな

「俺も、あの家に戻れなくなった」 朔弥さんの声は、低かった。 ラウンジの窓の外で、都心の灯りが滲んでいる。少し前まで、その光は私だけのものだった。「ホテルくらい、自分で取れるでしょう」「取れる」「では、そうしてください」 突き放したつもりだった。けれど朔弥さんは、怒らなかった。「そうする」 この人は、本当に変わろうとしている。 そう思ってしまうから、苦しい。「……話があるなら、ここでどうぞ」「ここでは、人がいる」「人がいる場所の方がいいです」 朔弥さんの顔が、少しだけ歪んだ。「そう思わせたのは、俺か」「否定はしません」「五分でいい。部屋に入れろとは言わない。廊下でもいい。話をさせてくれ」「……部屋の前までです」「わかった」 エレベーターの中で、私たちは何も話さなかった。鏡張りの壁に映る二人は、並んでいるのに遠かった。 部屋の前でカードキーを取り出すと、指が一瞬止まった。 朔弥さんは、その迷いを見ていた。「無理なら、ここでいい」 今さら、ちゃんと選ばせるような顔をする。 でも、私は選びたかった。自分で。「話をするだけです」 私はドアを開けた。「それ以上は、何もありません」「ああ」 部屋に入ると、朔弥さんは入口近くで足を止めた。 ベッドには近づかなかった。 しばらく迷うようにしてから、窓際の一人掛けの椅子に腰を下ろす。私はその向かいに立ったまま、鞄の持ち手を握っていた。 彼の視線が、広いベッド、一人分のカップ、買ったばかりの服の袋へ動く。 誰かがいた気配は、どこにもない。「……本当に、一人だったんだな」「まだ言いますか」「いや」 彼はすぐに首を振った。「悪かった」「城戸さんは、仕事で来ただけです」「わかってる」「わかっていませんでしたよね」「……わかっていなかった」 朔弥さんはしばらく黙っていた。 それから、私を見る。「その服」「はい」「似合ってる」 息が止まった。「今、言うことですか」「今言わないと、また言えなくなる」 ずるい。 遅すぎるくせに。 言葉にするのが下手なくせに。 今さらそんなふうに、言葉を絞り出さないでほしい。「ありがとうございます」 私はそれだけ返した。 朔弥さんは少しだけ頷き、膝の上で指を組む。「姉さんの時、何もできなかった」 低い
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第27話 近づいたのに、届かない

 目が覚めた時、最初に感じたのは、隣の体温だった。  ホテルの白いリネンの中に、自分以外の呼吸がある。不思議だった。昨夜、あれほど苦しく近かった人が、朝になるとただ眠っている。  朔弥さんは、少し髪を乱して、眉間の皺も消えた顔で眠っていた。こんな顔で眠る人だったのだと思う。御門の長男でも、社長でも、私に離婚届を渡した人でもなく。  ただ、疲れて眠っている男の人。  可愛い、と思ってしまった。思ってから、自分で少し驚く。可愛いなんて思うには、この人に傷つけられたことが多すぎる。それでも、思ってしまったことまでは消せなかった。  私が少し身じろぎすると、朔弥さんの睫毛が揺れた。目が合う。 「……起きていたのか」 「今、起きました」 「そうか」  それだけで、会話が止まった。昨夜のことが、ゆっくりと体の奥から戻ってくる。自分で手を伸ばした。自分で選んだ。その事実だけが、朝の光の中で妙にはっきりしていた。 「……後悔しているか」  朔弥さんが、低く聞いた。私はすぐには答えられなかった。 「わかりません」  正直に言った。 「でも、なかったことにしたいわけではありません」  朔弥さんの目が、少しだけ揺れた。 「そうか」 「それで御門家に戻るとは言っていません」 「ああ」  返事は早かった。 「戻れとは言わない」  そこまで言って、朔弥さんは少しだけ視線を伏せた。 「言いたくないわけじゃない」  胸が、少しだけ痛んだ。 「でも、言ったらまた同じになる」 「……そうですね」 「だから言わない」  不器用な宣言だった。けれど、たぶんこの人にとっては、精一杯の線引きなのだと思う。 「朔弥さんって」 「なんだ」 「言葉にするのが下手ですよね」  朔弥さんは少しだけ眉を寄せた。 「そうか?」  本当にわかっていない顔だった。 「そうです」 「仕事では、そう言われたことはない」 「仕事の話ではありません」  朔弥さんが黙る。 「感情の話です」  そこでようやく、彼の視線が少しだけ揺れた。 「……そうか」 「たぶん、怖いとか、寂しいとか、欲しいとか、そういうものを、全部まとめて怒りにしてしまうんだと思います」 「そこまでひどいか」 「かなり」  思わず、そう答えていた。朔弥さんは少しだけ目を伏せる。 「
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第28話 見えてしまったもの

 しばらく、動けなかった。 扉が閉まったあとも、部屋には朔弥さんの体温だけが残っていた。 昨夜から今朝にかけて、私はこの場所で少しだけ息を吹き返したはずだった。誰の妻でも、誰の嫁でも、誰の責任者でもなく、高瀬真尋として、ここにいた。 なのに今は、その自由の形まで、誰かに触れられた気がする。 家に戻ってくれ。 優しい声だった。だから余計に、わからなくなる。私のためなのか。家のためなのか。それとも、一条澄麗からの電話に従っただけなのか。 考えても答えは出ない。答えをくれる人は、何も言わずに出ていった。私はベッドの端に座ったまま、膝の上で指を握った。大丈夫だと思い込もうとして、また左の耳たぶに触れそうになる。昨夜の熱が、まだシーツに残っている。それが苦しかった。 もう、この部屋にはいられない。 立ち上がると、体の奥が少し重かった。それでも、床に落ちていた服を拾い、新しく買ったニットの袖を整える。鏡の中の私は、昨日より少し顔色が戻っているはずなのに、ひどく頼りなく見えた。 チェックアウトしよう。 御門家に戻るべきなのか、戻らない方がいいのか、それすらまだ決められない。でも、この部屋に一人で残って、彼からの連絡を待つのも嫌だった。 鞄に荷物を詰める。スマートフォンを入れようとして、画面を見た。 新しい通知はない。 それだけのことに、胸がまた少し冷えた。 私はコートを羽織り、部屋を出た。廊下は静かだった。エレベーターの鏡に映る自分は、いつもの私より少しだけ弱く見える。 嫌だな、と思った。 弱っているところを見せたくない。でも、もう強い顔だけで自分を支えるのにも疲れていた。 一階に着く。ロビーには朝の光が差し込んでいた。磨かれた床に淡い光が伸び、フロントのスタッフが控えめに会釈する。このホテルに来た時、私は少しだけ自由になった気がした。誰の家にも属さない場所で、自分の名前だけで鍵を受け取った。その場所を出ていくことまで、誰かの都合に見えてしまうのが悔しかった。 チェックアウトを告げようとして、ふと外へ目を向けた。 エントランスの向こうに、黒い車が停まっていた。 そのそばに、朔弥さんがいた。 息が止まる。 隣に立っていたのは、一条澄麗だった。 淡い色のコートを羽織り、朝の光の中で、彼女だけが妙にきれいに整って見える。遠い。ガラス越しで
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第29話 御門には、私がおりますので

 ロビーに戻ったあと、チェックアウトをするつもりだったことを思い出すまで、少し時間がかかった。  フロントのスタッフに声をかけられ、私は曖昧に笑って首を振った。すぐに出ていくこともできなかった。だからといって、このままロビーに立っているのも嫌だった。自分の足元だけが、急に他人のものみたいに頼りない。  黒い車は、もう見えない。  ただ、見えてしまったものだけが残っていた。朔弥さんが何も説明せずに出ていったこと。一条澄麗が落ち着いた顔で彼の隣に立っていたこと。そして二人が、同じ車に乗ったこと。  事情があるのかもしれない。  そう思おうとした。  でも、事情があるなら、なぜ私には言えないのだろう。  澄麗は、何を知っているのだろう。私が知らないことを、彼女はどこまで知っているのだろう。さっきの電話で、朔弥さんは何を聞いたのだろう。あの車はどこへ向かったのだろう。  考えても、答えは出ない。  ただ、見たものだけが答えみたいに胸に残る。私の部屋を出ていった人が、彼女の隣には立った。私には説明しなかった人が、彼女の言葉は黙って聞いていた。  そんなふうに受け取るのは、狭量なのかもしれない。けれど、狭量にならずにいられるほど、私はまだ強くなかった。  部屋に戻る前に、フロントでレイトチェックアウトを頼んだ。スタッフは丁寧に端末を確認し、「午後一時まででしたら」と静かに言った。私は礼を言った。自分でも、何のために時間を延ばしたのかわからなかった。ただ、今すぐどこかへ行けるほど、足に力が入らなかった。  部屋に戻ると、さっきより空気が冷たく感じた。シーツの乱れも、テーブルに置いたままの水のグラスも、すべてが少し前の自分を見せつけてくる。私は鞄を床に置き、窓際の椅子に座った。  ルームサービスのメニューを開いて、すぐ閉じた。ラウンジでお茶でも飲もうかと思って、立ち上がりかけて、また座る。人のいる場所に行けば落ち着くかもしれない。でも、誰かに顔を見られるのも嫌だった。  このあと、どうすればいいのだろう。  御門家へ戻れば、義母が待っている。何もなかった顔で、お茶を出し、私の体調を心配し、たぶん私の行き先も誰と会ったかも知りたがる。  会社へ行けば、私はまだ御門ホールディングスの人間だ。けれど、あの場所で私はもう、社長の妻でも、便利な実務担当でも、
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第30話 頼む。お前のためだ。城戸のホテルは出てくれ

 社長室の番号だった。  出るべきか迷った。でも、出ないまま待つのも、もっと嫌だった。 「……はい」 『真尋』  朔弥さんの声だった。  名前を呼ばれただけで、思わず昨夜のことを思い出してしまった。胸の奥が勝手に反応する。腹立たしいくらい、体はまだこの人の声を知っていた。 「休日なのに、会社の番号からですか」 『私用の携帯が使えない』 「そうですか」  それ以上は聞かなかった。聞けばまた、答えが返ってこない場所に触れる気がした。 『今どこにいる』 「ホテルです」 『まだ、そこにいるのか』  その言い方で、指先が冷えた。心配されたのではない。責められたように聞こえた。 「出ていった方がいいんですか」 『そうじゃない』 「じゃあ、何ですか」  短い沈黙が落ちた。電話越しの沈黙は、対面より冷たい。表情が見えないぶん、こちらの想像だけが勝手に傷を増やしていく。 『戻ってくれ』 「御門家に、ですか」 『そうだな……いや、違う』  違う、と言ったくせに、すぐには続かない。 『だが、せめて城戸のホテルはやめてくれ』  私は、思わず目を閉じた。  変な言い方だった。  私に戻ってほしいのではなく、城戸さんの場所にいることだけを嫌がっているように聞こえた。 「城戸さんのホテルだから、ですか」 『真尋』 「昨夜、城戸さんがここに来たのは仕事です。部屋にも来ていません。それは、あなたも聞いていたはずです」 『わかっている』 「わかっている人の言い方には聞こえません」  電話の向こうで、かすかに息をのむ気配がした。 『今は説明できない』 「またですか」  声が、思ったより静かに出た。 「あなたはいつも、私にだけ説明できないんですね」 『違う』 「何が違うんですか」  また、沈黙。  この人は、守ろうとしているのかもしれない。何か事情があるのかもしれない。けれど、言葉にされない事情は、私を傷つける形でしか届かない。 『そこにいると、よくない』 「私にとってですか。あなたにとってですか。御門家にとってですか」 『真尋』 「私はもう、名前を呼ばれるだけでは動けません」  自分で言って、胸の奥が少し痛んだ。前なら、動いていた。朔弥さんが低い声で名前を呼べば、それだけで、私は自分の怒りの置き場所を探してしまってい
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