All Chapters of 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します: Chapter 31 - Chapter 40

100 Chapters

第31話 真尋さんのためにも、これ以上お話を大きくしない方がいいでしょう

 実家の前でタクシーを降りた時、胸の奥が少しだけ縮んだ。  久しぶりに見る門扉は、記憶より小さかった。御門家の重たい門に慣れすぎたせいかもしれない。けれど、庭の隅に置かれた古い鉢植えも、玄関先の少し色あせた表札も、私の知っているままだった。  チャイムを押す前に、深呼吸をした。帰る場所のはずなのに、帰ってきたと言うには少し勇気がいる。結婚してから、私はここを頼らない場所にしていた。頼らないことで、大人になったつもりでいた。  ドアを開けたのは父だった。 「真尋」  父は驚いた顔をした。けれど、責める声ではなかった。ただ、私の顔色と鞄を見て、何かを察したように眉を寄せた。 「入れ。寒かっただろう」  その一言で、少しだけ泣きそうになった。  だけど泣かなかった。玄関で泣くには、私はまだ意地が残っていた。  リビングに通され、私は鞄を足元に置いた。 「御門さんには」 「連絡していません」  父の表情が、わずかに硬くなった。けれど、責める言葉は出てこなかった。 「……そうか。まず座れ」  父は台所へ行き、湯呑みに温かいお茶を入れて戻ってくる。父の手は、昔から大きい。電卓を叩く時も、申告書をめくる時も、必要以上に音を立てない手だった。 「何があった」  聞き方は短い。  でも、急かしてはいなかった。  私はどこから話せばいいのかわからず、湯呑みを両手で包んだ。ホテルのこと。城戸さんのこと。朔弥さんの電話のこと。澄麗のメッセージのこと。  話すべきことが多すぎて、何ひとつ言葉にならない。  それでも、一番先に言わなければならないことは決まっていた。 「離婚の話が出ています」  父は、驚かなかった。  ただ、目を伏せて、低く息を吐いた。 「……やはりそうか」 「知っていたんですか」 「知っていたわけじゃない。だが、数日前に御門ホールディングスから妙な照会があった。今朝、事務所に書類も届いた。高瀬は先代のころから、御門の帳簿を見てきた家だ。お前の口から聞くまでは決めつけなかったが、風向きが妙だとは思っていた」  私は湯呑みを握りしめた。  離婚を求められていること。一条澄麗のこと。会社での立場が、少しずつ私のものではなくなっていること。  簡単に話したつもりでも、口に出すたびに、胸の奥が重くなった。 「御門家には、戻り
Read more

第32話 お前がやっていないなら、それでいい

 義母の声が、耳の奥に残っていた。  ーー真尋さんのためにも、これ以上お話を大きくしない方がいいでしょう。  実際に、今そう言われたわけではない。けれど、あの人ならきっと、少しも声を荒げずにそう言う。私を責めているのではなく、心配しているだけです、という顔で。  父が「確認することがある」と言って押さえた書類を、私はもう一度見た。  私の名前は、直接は大きく書かれていない。  けれど、誰が読んでも私を指しているとわかる作りだった。  愛されず、離婚を告げられた妻が、腹いせに社内情報を外へ流した。そして男を乗り換えて、御門ブライダルの提携先である城戸さんに御門を売ろうとしている。  そう読ませるための書類だ。  ここまでするのか。 「私、こんなもの」 「わかってる」  父の声は早かった。 「これは、うちの書式じゃない」  父は書類の一枚を指で押さえた。 「余白が違う。うちの財務メモは、右上に案件番号を入れる。これは入っていない。印影も古い。もう三年前に変えたものだ」  私は息を止めた。  父の目が、仕事の顔になる。 「文章もおかしい。うちでは『当該』をこんな使い方はしない」  私は、父の事務所名義にされた財務メモへ目を落とした。冒頭に、参照資料名と日付が記されている。 「……この日付も変です」  声が掠れた。 「この日に、この数字はまだ出ていません。少なくとも、私が確認した資料には載っていませんでした」  事実に見える点だけを拾って、勝手に物語にしている。  声が震えた。  怖さもあった。けれど、それだけではなかった。  父は、私の言葉を疑うより先に、書類の嘘を見抜いてくれていた。  そのことに気づいた途端、足元の力が抜けそうになった。 「ただ、偽造だとわかっても、証明するのは簡単じゃない」  父は書類から目を離さずに言った。 「裁判になれば、時間も金もかかる。どちらの名前も傷つく。だが最後に負けるのは、資金の少ないうちだ。相手はそれもわかっているんだろう」  勝つためだけの書類ではない。  黙らせるための書類だ。  父は書類を見つめたまま、低く息を吐いた。 「相手は御門家だ。こんなものが来ている時点で、何かあったとわかる」  胸が刺されたみたいに痛んだ。  それから、遅れて腹の底が怒りで熱くなっ
Read more

第33話 離婚の腹いせに会社を売った女

 その通知を見た瞬間、胸の奥が静かに冷えた。  高瀬真尋氏に関する確認事項。  転送元には、御門ホールディングスの共有アドレスが入っていた。朔弥さんの本文は、短かった。 〈反応するな。保存だけしてくれ〉  それだけ。  説明はない。謝罪もない。けれど、添付されたファイル名を見た瞬間、指先が冷たくなった。 〈高瀬真尋氏および城戸圭介氏に関する関係性確認〉  私は、画面を開いた。  最初に出てきたのは時系列表だった。  ホテルに入った時間。  城戸さんが支配人との打ち合わせで来た時間。  ロビーで会話した時間。  朔弥さんがホテルに来た時間。  数行読んだだけで、胃の奥が冷えた。  これは、父にも見せなければならない。  私は何も言わず、スマートフォンを父の前に差し出した。  父は一度だけ私の顔を見て、それから画面を受け取った。  しばらく、何も言わなかった。  指先だけが、静かに画面を送っていく。  やがて父は、スマートフォンを私に返した。 「城戸圭介というのは」 「御門ブライダル案件の提携先です。ホテル側の責任者で、前から仕事でやり取りがありました」  そこで、言葉を切った。 「……古くからの友人で、相談に乗ってもらっていました」  父が一瞬、探るように私を見た。 「そうか」  父に返された画面を、もう一度開く。 「ホテルでの時系列と、写真が並べられています。でも、城戸さんが私の部屋に来た記録はありません」  その次に、写真が二枚、添えられていた。  父は画面を覗き込み、目を細めた。 「客室階のエレベーター履歴らしきものもあるな」 「はい。でも、城戸さんが私の部屋に来たとは書かれていません」  その次に、写真が二枚、添えられていた。 「一枚目は、ホテルのロビーです。城戸さんと向かい合っている私」  切り取られた角度のせいだろう。城戸さんはやわらかく笑って見えたし、私も少しだけ顔を上げていた。事情を知らない誰かが見れば、親密そうに話しているように見える写真だった。 「二枚目は、以前の食事の席です」  テーブル越しに身を乗り出す城戸さんと、それを見ている私。光の当たり方まで都合がよかった。楽しそうに笑い合っているように見える。あの日、何を話していたかなんて、写真の中には残らない。 「はっきりした
Read more

第34話 朔弥さんに嫌われるような形で、消えてください

 会うべきではないと思った。  けれど、無視していい相手でもなかった。  義母の動きを知っている。朔弥さんのそばにいる。父の事務所にまで話が及んでいることを、もう知っていてもおかしくない女。  そういう人が「早い方がいい」と言う時、たいていろくな話ではない。  待ち合わせに指定されたのは、駅前のホテルラウンジだった。人目はある。でも、騒ぎにはならない場所。澄麗らしい。  先に来ていた彼女は、淡いグレーのワンピースを着ていた。会釈する姿まできれいで、何も知らなければ感じのいい人にしか見えない。 「お呼び立てして申し訳ありません」  声も穏やかだった。 「少しだけ、お時間をいただけますか」  私は座ったが、コーヒーには手をつけなかった。 「用件を聞きます」  澄麗は微笑んだ。 「単刀直入に申し上げます。真尋さん、朔弥さんに嫌われるような形で、消えてください」  息が止まる。  静かすぎて、最初は意味が入ってこなかった。 「会社は辞めてください。御門家のことも、今回の件も、外では何もお話しにならないでください。  それだけでは足りません」  澄麗は、指先でカップの縁をなぞるようにして言った。 「城戸様のことも、誤解では済まないと思わせる形で、朔弥さんから離れてください。世間は、わかりやすい話を好みますから」 「……それで?」  自分でも驚くほど、声は冷えていた。 「その前に、聞かせてください」  澄麗が、わずかに首を傾ける。 「あなた、どこまでご存じなんですか」  数秒、沈黙が落ちた。  けれど澄麗は、視線を逸らさなかった。 「お義母様が、城戸様のホテルの件も、お父様の事務所へ届いた書類も使って、離婚の理由を真尋さん側に置こうとしていること。そこまでは知っています。朔弥さんが、それを止めきれていないことも」  首筋が、ひやりと冷えた。  澄麗は、知っていた。 「それで、お義母様の動きは私が止めます」  澄麗は、当然の手順みたいに言った。 「お父様の事務所に届いたものも、これ以上広がらないようにできます。城戸様の会社にも、余計な火の粉は飛ばさずに済むと思います。真尋さんが、ご自分から静かに離れてくだされば」 「それを、信用できると? どうして、そんなことまで言い切れるんですか」 「私が約束を破れば、一条の名前
Read more

第35話 私の仕事が侵食されていく

 週明けの月曜、私はいつもより少し早く会社へ向かった。  父の言葉と、澄麗の条件は、昨日からずっと頭の中でぶつかっていた。何も知らないふりで一日をやり過ごす方が、よほど落ち着かなかった。  ビルのエントランスをくぐると、朝の足音と空調の音が耳に入る。見慣れたはずの景色なのに、少しだけ遠く見えた。  受付の前で顔見知りの社員に会い、反射的に会釈した。 「おはようございます」  返ってきたのは、困ったような笑みだけだった。視線が私の顔から外れ、そのまま横を通り過ぎていく。  背中の方で、声を落とした会話が始まった。  呼吸が浅くなった。それでも背筋を伸ばして歩いた。  自席に戻ると、隣の島の声が一瞬だけ止まった。すぐに誰かが資料の話を続けたけれど、その不自然な間は消えなかった。  パソコンを立ち上げ、社内チャットを開く。  まず状況を確認しようと、御門ブライダルの案件名で検索をかけた。  未読がいくつも並んでいた。案件の共有、会議室の変更、確認依頼。いつもの仕事の流れの中に、ひとつだけ、私の名前が入ったスレッドが見えた。  息が止まった。  見るつもりはなかった。  でも、通知欄に出ていた短い文面だけで、十分だった。 〈高瀬さん、御門ブライダルを城戸に売ろうとしたって本当?〉 〈離婚が進んでるって聞いたけど〉 〈じゃあ、案件も外れるのかな? てか、退職?〉  指先も、そのまま動かなくなる。  誰が書いたのかまでは見なかった。見たくなかった。けれど、もう会社の中にも流れている。  売ろうとしたの。  離婚が進んでいるの。  そんな言葉に、私の仕事が侵食されていく。  五年近くかけて、少しずつ直してきた仕事だった。  赤字の部門に手を入れ、取引先に頭を下げ、誰も触りたがらなかった数字を拾い直した。  御門ブライダルだって、私が逃げずに積み上げてきた仕事のひとつだった。  それが今は、私が城戸さんに売却しようとしているという筋書きにされている。  画面の端に、今日中に返す予定だった確認依頼が残っていた。  取引先からの質問。  修正した見積もり。  午後の打ち合わせで使うはずだった資料。  どれも、昨日までなら迷わず開いていた。  けれど今は、ひとつ触るだけで、また誰かに何かを言われる気がした。  仕事をする
Read more

第36話 本当は、御門から自由になってほしい

 城戸さんは、十分ほどで来た。  いつものように隙のないスーツ姿で、けれど顔は少し険しかった。私を見つけると、すぐに歩み寄ってくる。 「大丈夫ですか」  最初の言葉が、それだった。  私は笑えなかった。 「大丈夫に見えますか」 「見えません」  城戸さんは、正直に言った。 「御門側から来た問い合わせは、ホテルでの会話、以前の食事、御門ブライダルの資料についてでした」 「すみません」 「謝らないでください。こちらは高瀬さんと正規のルートでしかやり取りしていません。記録もあります」  その言葉に、少しだけ息が入った。  でも、楽にはならなかった。 「城戸さんの会社にまで、迷惑がかかります」 「高瀬さんのせいではない」 「でも、私に関することです」  城戸さんは、黙った。  否定しきれない沈黙だった。  やがて、彼は言った。 「こちらで受けます。必要なら、当社として正式に回答します。高瀬さんとのやり取りは業務上のものだと」  そこで城戸さんは、いったん言葉を切った。私の反応を確かめるように、少しだけ目を伏せる。 「……ただ、ちょっと奇妙な気がします。踏み込み過ぎかもしれませんが、話してくれませんか。何が起きているのか知らないままでは、守ることもできません」  守ろうとしてくれている。  本当に。  迷った末に、私は口を開いた。  城戸さんにも、もう関係のない話ではなかった。 「……たぶん、話を作ろうとしているんです」 「話?」 「私が離婚を求められた腹いせに、城戸さんに情報を流して、御門ブライダルを売ろうとした。そういう話です」  城戸さんの表情から、すっと温度が消えた。 「御門家は、私が悪妻として消えることを望んでいます」  言葉にすると、思っていたより苦かった。 「高瀬さん」  低い声だった。  静かなのに、はっきり怒っていた。 「それは、許せません」  その一言で、胸の奥が少しだけ揺れた。 「怒ってくれるのは、うれしいです」  けれど、すぐに首を振った。 「でも、私に関わると、城戸さんにまで迷惑がかかります」 「構いません。こんな卑怯なやり方から、高瀬さんの名前を守りたい」  城戸さんはそこで一度、言葉を止めた。  言っていいことと、言うべきではないことを分けるみたいに、少しだけ視
Read more

第37話 私なら、すぐにお子も望めます

 通知を開くまで、数秒かかった。  差出人は、宮田さんだった。  父の事務所で、私が学生のころから働いている人だ。確定申告の時期になると、よく台所で母の代わりにお茶を淹れてくれた。私のことを、今でも真尋ちゃんと呼ぶ。 〈真尋ちゃん、大丈夫?〉 〈先生は何も言わないけど、今日また御門側から確認が来てる〉 〈職員の閲覧範囲まで聞かれて、みんな少しざわついてる〉  胸の奥が冷えた。  父は、きっと私には言わない。  私が気にするから。自分を責めるから。そうわかっているから、何も言わない。  だからこそ、宮田さんはこっそり知らせてくれたのだと思った。  もう、父の事務所にも圧がかかっている。  職員の閲覧範囲。  その言葉だけで、十分だった。  御門側は、私と父だけでなく、事務所の中で働く人たちまで、疑いの輪の中に入れようとしている。  私が残れば、広がる。  私が声を上げれば、もっと広がる。  そんなふうに思わせるための確認なのだ。  いや、確認というよりは圧力だ。  私だけのことなら、まだ耐えられた。  でも、父や事務所の人たち、城戸さんまで巻き込まれるのは、耐えられない。  ぽきり、と何かが心の中で折れる音がした。  スマートフォンが、もう一度震えた。  一条澄麗。 〈書面をご用意しました〉 〈本日中にご確認いただけますか〉  短い文面の下に、会社一階の来客ラウンジの名前が添えられていた。 ***  夕方、私は一階の来客ラウンジへ向かった。  澄麗は、先に来ていた。  淡い色のジャケットを着て、薄い封筒をテーブルの上に置いている。 「お忙しいところ、申し訳ありません」  声は、相変わらず穏やかだった。 「早い方が、皆様のためになりますので」  皆様。  その中に私は入っていないのだと、もうわかっていた。  封筒の中には、誓約書が入っていた。  会社を辞めること。  御門家について外部に話さないこと。  朔弥さんに、自分から離婚を求めること。  城戸さんとの関係について、御門側に不利益となる説明をしないこと。  その代わりに、一条側は御門側へ働きかけ、父の事務所と城戸さんの会社への追加確認をこれ以上広げないよう努めること。  今回の件を、お互いに外部へ漏らさないこと。  どれも、見た目だ
Read more

第38話 あなたは口だけなんです

 社長室へ向かう廊下は、ひどく長く感じた。  人事へ送った申し出は、もう朔弥さんのところへ届いているのだろう。御門ブライダル案件から外れる。城戸ホテルズとの対外窓口からも外れる。理由は、公正性に関する疑義が生じているため。  仕事の文面としては、間違っていない。  でも、そこには書かなかったことがある。  御門家には戻らない。  朔弥さんの妻でいることも、終わらせる。  社長室の前に立つと、手のひらが冷えていた。  ノックをすると、すぐに返事がある。 「入れ」  扉を開けた瞬間、夜の静けさが流れ込んできた。  社長室の照明は落とされていて、デスクの上だけが明るかった。窓の外には、まだ少しだけオフィス街の灯りが残っている。朔弥さんは上着を脱いだまま、デスクの前に立っていた。  社長の顔をしている。  そう思った。  けれど、私を見る目だけは、少しも仕事のものではなかった。 「人事への申し出を見た」 「はい」 「どういうつもりだ」  低い声だった。  私は、用意してきた言葉を思い出す。  嫌われるような形で、消えてください。  澄麗の声が、耳の奥で冷たく残っている。 「書いた通りです。御門ブライダル案件から外れます。城戸さんが関わる実務にも、対外窓口にも立ちません」  朔弥さんは、私から目を逸らさなかった。 「どうしてだ。この案件は、お前が一番力を入れていたことだろう」  低い声が、少しだけ揺れた。 「……何かあったんだな」  胸の奥が、ぎゅっと縮む。  私は答えなかった。  答えたら、ここに来た意味がなくなる。 「それだけじゃありません」  声は、思ったよりもまっすぐ出た。 「会社も辞めます。御門家にも戻りません」  朔弥さんの表情が、わずかに固まる。 「あなたの妻でいることも、終わらせます」  朔弥さんの表情が、はっきりと変わった。 「……御門の圧力か」  胸の奥が、ひゅっと狭くなる。  正解に近い場所へ、手を伸ばされている。  その手を取ってしまえば、全部崩れる。  ここからだ。  嫌われなければならない。  追ってこないように。  守ろうとしないように。  私の名前で作られた嘘を、これ以上広げないように。  私は一度だけ息を吸って、目を閉じた。  それから、ゆっくり開く。
Read more

第39話 城戸を言い訳にするな。俺から逃げるために

 廊下へ出ると、足元が少しだけ揺れた。 うまくいった。 そう思わなければ、歩けなかった。 朔弥さんは追ってこなかった。 社長室の扉は、私の背中の後ろで静かに閉まっている。 これでいい。 嫌われるような形で消える。 澄麗が望んだ通りに。 御門家が作った話に、私から最後の形を与える。 腹立たしかった。 悔しかった。 でも、父の事務所も、城戸さんの会社も、これ以上巻き込まれるよりはいい。 そう言い聞かせて、私はエレベーターへ向かった。 その時、扉が開く音がした。 同時に、低い声が、背中を止めた。「真尋」 振り返る前に、足が止まっていた。 ゆっくり振り返ると、朔弥さんが社長室の前に立っていた。「……まだ何か」「嫌だ」 あまりに短い言葉に、思考が一瞬止まった。「……はい?」「終わらせるのが嫌だ」 胸が跳ねた。 聞いてはだめだ。 そう思ったのに、口にしていた。「……なんで、嫌なんですか」 朔弥さんの表情が、わずかに崩れた。「お前が好きだからだ」 息が止まった。「手放したくない」 そんなことを、今さら言わないでほしかった。「……城戸さんの方が楽だったと言いました」「嫌だ」「私があなたをもう選ばないと言っても?」「それでも嫌だ」 声が、かすかに掠れていた。 そんなふうに言われたら、困る。 責めてほしかった。 怒ってほしかった。 それなら、私も最後まで演じられた。「朔弥さん」「お前から出された離婚届を、持っていた」 息が止まる。「あれを出せば、お前は御門から解放される。その方が幸せになるのかもしれない。母さんも納得する。会社も家も、表向きは片づく。そう思おうとした」 朔弥さんは、笑おうとして失敗したみたいな顔をした。「でも、出せなかった」 朔弥さんの指が、かすかに震えていた。 いつもなら感情を見せない人だった。 御門家の中でも、会社でも、正しい顔をして、正しい言葉だけを選ぶ人。 その人が今、廊下の真ん中で、何を失いたくないのかも隠せない顔をしている。 苦しそうで。 情けなくて。 それでも、目を逸らせなかった。「……どうして」「姉さんもいなくなって」 そこで、声が切れた。 朔弥さんは一度目を伏せ、息を押し殺すように吐いた。「お前まで、俺の前からいなくなったら」 続きは
Read more

第40話 泣いてすがる女になんて、なりたくなかった。それなのに

 喉が詰まった。  言い返せなかった。  たしかに、そうだった。  城戸さんは、私が距離を取ってもいいと言った。  それなのに私は、朔弥さんに嫌われるために、城戸さんの名前を使おうとしていた。 「……だって、どうしろって言うんですか」  ようやく出た声は、ひどく掠れていた。 「私が残れば、全部使われます。私が動けば、全部疑われます。父の事務所も、会社も、城戸さんも。あなたまで」 「だからって、お前が自分を捨てる必要はないだろ」  朔弥さんの言い方が、そこで少し荒くなった。  そんなふうに言うのは簡単だ。  私だって考えた。  何度も考えた。  自分を捨てずに済む道があるなら、選びたかった。  でも、考え抜いた先に残ったのが、これだった。  腹の底が、かっと熱くなる。 「じゃあ、どうやって止めるんですかっ」  思ったより大きな声が出た。  人気のない廊下に、自分の言葉が硬く跳ね返る。  朔弥さんが、少し驚いた顔をした。  それを見て、私も自分の声の大きさに気づいた。  でも、もう引っ込められなかった。 「何が起きているのか、あなたはまだ全部話してくれない。私を守ると言っても、何からどう守るのかも言わない。そんな状態で、どうやって信じればいいんですか」  朔弥さんは黙った。  また沈黙。  それだけで、胸が冷える。 「ほら」  私は笑おうとした。  うまくいかなかった。 「やっぱり、言えないじゃないですか」 「言えないことはある」  朔弥さんの返事にも、苛立ちが混じっていた。 「でも、言わないまま、お前を一人で引かせるつもりはない」  その言葉に、呼吸が止まる。 「俺は、まだ全部を話せない。そこは俺が悪い」  朔弥さんは、逃げなかった。 「でも、お前が嘘で俺から離れようとしていることだけはわかる」  目の奥が熱くなる。 「それは嫌だ」  今度の声は、ひどく静かだった。 「お前が俺を嫌いになったなら、それは受け止める。でも、俺に嫌われるために、お前が自分を汚すのは嫌だ」  もう、立っているのが苦しかった。 「……私だって」  声が震える。 「私だって、こんな形で終わりたくないです……」  言ってしまった。  だめだ。  ここで泣いたら、全部が無駄になる。  嫌われるために選ん
Read more
PREV
123456
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status