夕方。由樹が夜の接待に向かうため、千歳を連れて社長室から出てきた。彼の手には、マイバッハの車の鍵が握られている。「今夜の会議は三十分遅らせておいてくれ。戻ってから始める」通りすがりに三久へと言い置く。三久は静かに立ち上がり、機械的に頷いた。「承知いたしました」「由樹さんは先に行ってて。私、早坂さんにちょっと話があるの」千歳はひどく甘えた声で、自分のバッグを由樹に押しつけた。「一階のエントランスで待ち合わせしましょ、いい?」由樹は腕時計に目を落とした。「何を言うんだ、今言えばいいだろう」「もう、由樹さんの前じゃ言いにくい話なのよ。早坂さんをいじめたりしないから、早く先に行ってて」千歳は強引に由樹の背中を押し、エレベーターへと押し込んだ。由樹は眉根を寄せ、どこか諦めたような顔をしながら、エレベーターの扉が閉まる直前に三久を鋭く一瞥した。その警告めいた視線は、「余計なことを言うな」という意味が痛いほど伝わってきた。しかし、エレベーターの扉が完全に閉まるや否や、千歳はたちまちその甘い表情を消し去った。三久のデスクのそばに戻ると、勝ち誇ったようにわずかに顎を上げる。「由樹さんがあの退職合意を認めないのはね、私と喧嘩して、ただ意地になってあなたを引き止めているだけよ!」三久の胸の奥が、ずきりと痛んだ。今さらながらに気づかされる――これこそが、由樹という男の本性なのだ。彼は誰かに支配されることを何よりも嫌う。千歳が三久を追い出そうと裏で手を回せば回すほど、由樹は意地でもその思い通りにはさせないのだ。「あなたは賢い女なんだから、逃げるチャンスが来たらさっさと出ていくのが一番よ。もし私たちに本当に亀裂が入ったら……由樹さんは私が悲しむのを見たくないはずだから、結局あなたが困るだけよ」千歳は午後ずっとオフィスにいて、三久が言っていた言葉を思い出していた――「九洲グループへ移れば、自分のキャリアに致命的な傷がつく」という部分。だが、そんなことは千歳にはどうでもいい。三久を洲人のところへ追いやるための脅しとしてその言葉を吐き捨てると、千歳は踵を返し、さっさと去っていった。三久は無言でデスクに戻り、夜の会議の準備を進めた。およそ一時間後、由樹が慌ただしく戻ってきた。西戸市の夜の冷気を、その身にひんやり
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