Semua Bab 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Bab 31 - Bab 40

100 Bab

第31話

西戸市のお正月は、どこもかしこも華やいだ空気に包まれていた。窓の隙間からは人々の絶え間ない笑い声が流れ込み、遠くからは除夜の鐘の重々しい音が響いては消え、また静寂を震わせるように夜の底に沈んでいく。しかし、三久の部屋だけはまるで別世界だった。厚いカーテンに閉ざされた薄暗い室内には、寒々しい静寂だけが淀んでいる。あの電話が、彼女の眠気をすっかり奪い去っていた。胸の奥を刺すような鋭い痛みが、冷たい波のように押し寄せては引いていく。三久は身をすくめ、布団の奥深くへと潜り込んだ。まどろみの淵を漂っては目を覚まし、また重い倦怠感へと引きずり込まれる。そうして、長い時間をただ虚ろに過ごした。やがて、どうしようもない空腹に急かされるようにして、ようやく完全に目を覚ました。重い体を起こしたとたん、梨々香からビデオ通話の着信があった。「ちょっと、施設にいないじゃないの」画面の向こうで、自宅にいる三久を見て梨々香は丸い目をさらに見開いた。「また浅野さんに嫌味を言われたんでしょ」「違うよ。昨日、急に用事ができちゃって戻ってきただけ」そう平静を装って答えたものの、三久の心の中からは、もう児童養護施設へ戻るという選択肢は消え失せていた。「次は一人で帰らないでよね。いつもいじめられてるじゃない」気の強い梨々香を前にすれば、さすがの温子も口を噤む。だが、おとなしい三久が相手となると、とことん利用しようとしてくるのだ。三久は自嘲気味に微笑んだ。「これからは一人で行く機会もなくなるよ。仕事を辞めたら、ずっと一緒にいられるから」「そうそう、ちょうどいい物件を見つけたのよ。ほら、早く着替えてきなさい。ヘルパーさんも帰っちゃったところだし、蒼汰(そうた)と一緒に年越ししましょ」梨々香はもともと、三久を自分の家に招いて年越しをするつもりだったのだ。一方の三久は、児童養護施設に戻って温子の手伝いをするつもりでいた。それは温子のためというより、あそこにいる子供たちのために、少しでも力になりたかったからだ。でもまさか、あんなことになろうとは――部屋には見事なまでに食材がなく、近所のスーパーもシャッターを下ろしている。となれば、梨々香のところへ行くよりほかに選択肢はなかった。三久は買い置きのパンをお腹に詰め込むと、梨々香の家へと向か
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第32話

由樹の言葉に、三久は返す言葉を失った。これ以上辞めると言い張れば、まるで転職先を決めておきながら百栄を裏切ろうとしているかのようだ。かといって、ここで引き下がるわけにもいかない。由樹はその場に冷然と立ち尽くし、底の見えない瞳で三久を射抜きながら、彼女の答えを待っていた。「社長、本当に誤解です。私が退職を希望しているのは、あくまで個人的な事情によるものですので……」三久はやむなく、プライベートな理由を盾にしてはぐらかそうとした。由樹の整った眉が、ほんのわずかに動いた。ひりつくような沈黙が少しだけ場を支配した後、彼は静かに口を開いた。「ならば俺も、個人的な理由で、その退職願は受け取らない」言い捨てるや否や、彼は踵を返し、足早に社長室へと消えていった。三久はその広い背中を横目で見送りながら、眉間に深く皺を寄せた。以前のようにうやむやにされたわけではない。今回は、あまりにも明確な意思表示だった――退職の拒否。理由は取ってつけたような子どもじみた言い訳にしか聞こえなかったが、とにかく退職は認められなかったのだ。由樹がこれほど意固地な判断を下すとは、三久にとっては完全に想定外だった。彼自身が言った通り、百栄という巨大な組織は誰が欠けても回っていくはずなのに。どうしても諦めきれず、三久は由樹の後を追って社長室へと踏み込んだ。「社長、会社の雇用契約書には明記されています。正当な理由なく、一方が申し出た契約解除を拒否することはできない、と」由樹は上着を脱いで革張りの椅子に深く腰を下ろすと、骨ばった指でネクタイの結び目を軽く緩めた。そして眉根を寄せ、ひどく冷え切った声で告げた。「うちにはこれまで、契約期間満了前に退職した者は一人もいない」その態度は、鉄壁のようだった――辞めたければ、契約満了の日まで待て、と。三久はそっと血の気が引く唇を噛みしめた。裾を固く握りしめる手の甲には、青白い血管がくっきりと浮かび上がっている。その強張った姿は、由樹の底知れない暗い瞳に余すところなく映り込んでいた。息の詰まるような長い沈黙の末、ついに三久が折れた。社長室を逃げるように後にして自分のデスクに戻ると、震える指で百栄との電子契約書を画面に呼び出す。契約満了まで、あと五か月。そして、このお腹の膨らみを衣服で隠しきれな
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第33話

理紗は納得がいかない様子で、秘書室へと戻っていった。由樹と千歳の婚約の噂は世間を大いに賑わせていたが、具体的な日取りについてはいまだ公式な発表がなかった。とはいえ、先ほどの千歳の有頂天になっている様子を見れば、それも時間の問題なのだろう。千歳は口では三久が会社に残ることを気にしていない素振りを見せていたが、そんなはずはない。三久は、固く閉ざされた社長室のドアを静かに一瞥した。自分より焦っている人間が確実にいる――それなら、私がそこまで急いで身を引く必要もないかもしれない。そう割り切ると、三久は再び目の前の業務へと意識を戻した。三十分後、上層部の定例会議が始まった。由樹が社長室から現れ、会議室へと歩を進める。その視界の端に、ノートパソコンを抱えて自分の後を追ってくる三久の姿が映り込んだ。いつの間にか、彼の眉間に深く刻まれていた皺が、すっと解けていく。在職している以上、三久の仕事に対する姿勢は常に完璧で誠実だった。退職を無下に却下されたあとも、投げやりな素振りなど微塵も見せず、昨日も今日も変わらずにプロフェッショナルとして職務をこなしている。由樹もまた、退職の件に自ら触れることはなく、業務上必要なやりとり以外で、二人の間に特別な変化は見受けられなかった。ただ一つ意外だったのは、由樹がこれまで哲朗が担っていた業務の大半を三久に回してきたことだ。哲朗の役割が各部署の統括へとスライドしたことで、三久はより密接に由樹の動向を把握し、連携を担う立場になってしまった。二晩続けて、三久は由樹の接待に同席することになった。次々とグラスが空けられる賑やかな席で、哲朗がいない今、帰りの運転手を務める三久は一滴のアルコールも口にできない。由樹はかなりの量の酒を飲んでいたが、年末のあの夜――理性を失い、強引に三久の唇を奪ったあの夜のように羽目を外すようなことはなかった。夜の十一時を回った頃、黒塗りのマイバッハが蘭景邸の前に滑り込むように停車した。エンジンを切るより早く、邸宅のドアが開き、ひとつの影が小走りで近づいてきた。三久が運転席から降りてドアを開けようとしたそのときには、すでに千歳が後部座席のドアに手をかけていた。「由樹さん、こんなに遅くまでどこで飲んでたの?」千歳は由樹の腕に両手を絡ませながら、運転席の三久へ向け
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第34話

今のはすべて三久の一方的な言い分にすぎない。何の証拠もないのだ。千歳は摩美の言葉で、ようやく焦燥から我に返った。「そうね、由樹さんがわざわざ三久を引き止めるわけないわ。あの女、本当に計算高くて嫌な奴だ。私、もう少しで由樹さんに怒鳴り込んで、また喧嘩になるところだったわ」摩美は電話の向こうで、我が子をなだめるように優しく言った。「千歳ちゃんはただ由樹との仲を深めることだけを考えていればいいのよ。三久の生意気な態度は私がきっちり対処するから、もう絶対に由樹と喧嘩なんてしないでちょうだい。あの子の気性の激しさ、あなたもよくわかっているでしょう……」由樹が仕事を放り出してまで千歳を追いかけ、人目も憚らずに機嫌を取りに行ったこと自体、彼にしては限界まで譲歩した行動だったのだ。千歳にもその事実は十分にわかっていた。だからこそ、あのときメッセージ一本で派手な喧嘩に発展してしまった一件は、最終的に千歳のほうが折れて頭を下げたのだ。一方、三久はバックミラー越しに、千歳がスマホを取り出す姿を確認してから、アクセルを踏み込んだ。深夜一時。熱いシャワーを浴びて冷えた体を温めてから、スマホを持ってベッドへ潜り込む。梨々香がビデオ通話をつなぎっぱなしにしてくれていた。画面越しの憔悴しきった三久の顔を見て、彼女は大きなため息をついた。「酒井のやつとの結婚騒ぎがなかったとしても、もう絶対に辞めるべきよ。あんなハードすぎる仕事、普通の人だってすぐ音を上げるのに、妊婦には絶対に良くないわ」三久はずっと悪阻に苦しめられていたが、無理やり薬で抑え込んでいた。吐き気はどうにか治まっていても、食欲はすっかり失せ、まともな食事がまったく摂れていない。現在、妊娠九週目。三久の体重は、妊娠前よりすでに四キロも落ちていた。「気をつけるわ」梨々香は大の字になってベッドに転がり、天井を睨みつけたまま叫んだ。「鳴瀬市!夏海市!六条市!ああ、一体いつになったらあたしたちは自由に行けるのよ!」三久の辞職願が却下されたと聞いて、梨々香のほうが死にそうなほど落ち込んでいた。三久は唇をそっと引いた。「きっと、すぐに行けるようになるわ」千歳と由樹の仲は、表向きは良好だ。しかし千歳は、由樹の心を完全には掌握しきれていないという焦りを抱えている。だから絶対に摩美に
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第35話

依果はさっぱりとした気性で、甘えや細やかな気配りとは無縁だった。だからこそ、摩美は愛嬌のある千歳を手元に置き、暇があればすぐ酒井家へ呼び寄せて可愛がっていたのだ。「あなたは由樹の婚約者も同然なのよ。酒井家の未来の嫁となる身が、一体何を恐れることがあるの?」摩美は千歳の手の甲を軽く叩いた。「これからは、好きなようにやりなさい。何かあったら、この私が後ろ盾になるから」その力強い言葉に、千歳は舞い上がるような心地になった。「さあ、早くこの書類を片付けてしまいなさい。私は婚約の準備に行ってくるわ。今夜はご両親と大事な食事の約束があるから、そこで日取りをきっちり決めましょう。由樹と一緒に、遅れないように来るのよ」矢継ぎ早にそう言い残すと、摩美は足早に去っていった。会社の業務をまったく知らない千歳にとって、どうすれば由樹に怪しまれずにサインさせられるかが、最大の難題だった。あっという間に半日が過ぎた。由樹と三久は息をつく暇もなく、社内外を慌ただしく駆け回っていた。千歳は何度か業務に絡めて話を振ろうと試みたが、口を挟む隙がなかなかつかめない。夕方、退社間際になってあるプロジェクトで突発的なトラブルが起き、由樹はそのまま会議室に籠もりきりになってしまった。千歳が焦りを募らせているのは、三久の目からも明らかだった。何度か話に割り込もうと動いていたものの、千歳は業務のことをまったく理解していないため、結局どうにもならなかったのだ。夜七時を回り、ようやく長い会議が終わった。三久は立ち上がって手早く資料をまとめ、由樹の背中を追って会議室を出る。会議室を出るなり、待ち構えていた千歳が飛び出してきた。由樹のすぐそばにいた三久を、あからさまに押しのけて二人の間に割り込む。「由樹さん、うちの両親はもうレストランに着いてるって。早く行かなきゃ、待たせちゃ悪いわ」由樹は腕時計に視線を落とし、手元の書類を三久へ差し出した。「俺のオフィスに置いておいてくれ」三久は頷いて書類を受け取り、千歳が由樹の腕を引いて歩き出す二人の後ろ姿を見送った。廊下の先から、千歳の弾んだ声がまだ聞こえてくる。「おばさんが、今日こそ婚約の日取りを決めようって言ってたわ。由樹さんは何か希望はある?」「ねえ、社長と村上さんが婚約するらしいわよ!」「
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第36話

会社における三久の地位は、まさに由樹直属の不可欠なポジションだ。奈緒は自分がその後釜に座れるなどと、これまで夢にも思っていなかった。しかし後ろ盾が千歳であり、しかも未来の社長夫人ともなれば話は別だ。「村上さん、どうかご安心ください。これからは何があっても村上さんの言う通りに動きます。社長のそばに変な女が近づかないようしっかり見張りますから――いえ、社長のお心には、もともと村上さんしかいらっしゃいませんよね。他の女がすり寄っても眼中にないはずですが、目障りなことには変わりありません。私が社長の周囲の鬱陶しい虫をすべて追い払って、お二人が過ごす時間をもっと増やしてみせます」その見え透いたお世辞も、今の千歳の虚栄心を心地よく満たした。千歳は退職合意書を奈緒に託した。「ふふ、じゃあこれからあなたは私の味方よ。明日、三久が出社したらこれを突きつけて、さっさとサインさせて追い出してちょうだい」「お任せください!」奈緒は恭しく書類を受け取り、勝利の朝が来るのを今か今かと待ちわびた。……西戸グランドホテル、最上階の豪奢な個室。由樹と千歳は、予定の時間を少し過ぎてから姿を現した。部屋に入るなり、待ちかねていた摩美が不満げに口を開いた。「村上さんご一家と大切な食事の約束があるとわかっているのに、なぜもっと早く来ないのよ」「若いうちは仕事が優先で当然ですよ。身内同士なのですから、どうかお気遣いなさらないでください」千歳の母・村上幸子(むらかみ さちこ)が、柔和な笑顔で取り成した。「それに、うちの千歳だって一緒に遅れてきたのに、あの子には何もおっしゃらないじゃないですか」「千歳ちゃんは由樹に合わせて一緒に来てくれたんですから、由樹の仕事の都合で遅れたに決まっていますわ」摩美はそう応じてから、厳しい視線で由樹に向き直った。「村上さんご夫妻が、あなたが来るまでずっとお食事もせずに待っていらしたのよ」「お気遣い痛み入ります」由樹は淡々と返し、椅子を引いて腰を下ろすついでに、隣の椅子も軽く引いてやった。千歳が嬉しそうにその隣に座り、摩美と隆に向かって愛想よく挨拶をした。「おじさん、おばさん、お待たせしてしまって」隆は威厳を保ったまま軽く頷き、返事の代わりとした。摩美は、隣に並ぶ千歳の姿を見れば見
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第37話

しかし摩美がどれだけ小言を並べ立てても、由樹は頑として口を開かなかった。そのまま重苦しい沈黙が車内を支配する中、車は酒井家の本家に到着した。由樹は車を降りると、足早に邸宅の中へと入っていった。「千歳ちゃんのことを、今さら見捨てるわけにはいかないでしょうに」摩美は彼の冷たい背中に向かってぼやいてから、すぐにスマホを取り出し、幸子に電話をかけた。「ええ、幸子さん。婚約パーティーは予定通り十日後にしましょう。由樹は仕事が立て込んでいて忙しいから、式場などの準備はすべて私たちに任せてちょうだい……」……退職の件が、鉛のように三久の心にずっとのしかかっていた。その夜、彼女は一晩中うなされるように夢を見た。ここから去ろうと必死にもがいているのに、目に見えない鎖に繋がれてどこにも行けない夢。だが、場面が切り替わると、今度は梨々香と一緒に無事、鳴瀬市に着いて笑い合っている夢だった。翌朝、枕元の目覚ましが二度鳴って、ようやく意識が現実へと引き戻された。慌てて最低限の身支度を済ませ、午前八時五十九分、始業時間ぎりぎりに滑り込むようにしてタイムカードを切る。朝食代わりのゆで卵を二個手にして自分のデスクへ向かうと――あろうことか、奈緒が三久の席にふんぞり返るように座り、キャスター付きの椅子をくるくると回しながら鼻持ちならない得意顔を浮かべていた。三久はゆで卵を静かにデスクの上に置き、氷のような視線で奈緒を見下ろした。「あら早坂さん、ようやく出社なさったんですか」奈緒の顔にわずかな居心地の悪さが走った。だが、得意げな表情をほんの少し引っ込めただけで、決して席を立とうとはしない。「もう九時を過ぎてますよ。当社の規則では、五分前には出社してタイムカードを切ることになっていますよね。これって完全に遅刻じゃないですか」三久は、そのあまりにも身の程知らずな言いぐさと態度に、思わず呆れ笑いを漏らした。「……それで?」奈緒はまだ試用期間の身であり、正式採用すらされていない。秘書室の中では一番下っ端の存在だ。それが三久の前で上司気取りで振る舞うなど、滑稽な道化師もいいところである。底知れぬ余裕を含んだ三久の微笑みで、奈緒はすっかり気圧され、ひどく居心地が悪そうに身じろぎした。「そ、それに、オフィスに朝食まで持ち込んで。早坂さ
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第38話

由樹の声を聞いた瞬間、三久は頭の芯が痺れるような感覚に陥った。彼女は反射的に手元の退職合意書を隠そうとした。しかし由樹はすでに、奈緒の言葉に足を止めていた。鋭い視線が、三久の席でふんぞり返っている奈緒を射抜いた。三久が振り返り、由樹の探るような視線が絡んだ。口を開こうとした瞬間――「社長、早坂さんはもうすぐ退職手続きに入ります。以後は私が引き継ぎますので、会議の準備も私がいたします!」奈緒は三久に口を挟む隙すら与えずに言い放った。その言葉に、三久は息を呑んだ。「万事休す」という言葉が脳裏をよぎる――終わった。「……誰が辞めるだと?」由樹が危険なほど目を細めた。「早坂さんです」奈緒は迷わず言い切った。「彼女がサインすれば、すぐにでも退社できます」由樹の視線が、三久がサインしかけていた退職合意書に注がれた。彼の表情がたちまち曇り、その場の空気が真冬のように凍りついた。特に紙面に記された自分のサインを目にしたとき、刃のように鋭い視線が三久の顔を射抜いた。三久は微かに眉を寄せた。サインを途中で見つかったという焦りこそあったが、そこに恐怖は微塵もなかった。むしろ激しく動揺していたのは奈緒のほうだった。今になってようやく気づいたのだ――昨日由樹がサインしたのは、休暇申請書だと騙してサインさせたものだった。つまり由樹は、三久が退職しようとしていることなど、まったく知らなかったのだと。奈緒の顔が一瞬にして血の気を失う。「こ、これは……っ!村上さんに言われてやったんです!」「中に入れ」由樹は低くそれだけを言い捨て、大股で社長室へと入っていった。三久は唇をぎゅっと噛みしめてから、素早く退職合意書に自分の名前を書き込み、社長室へ入った。奈緒も震えながら後に続く。社長室の中で、由樹は一言も発しなかった。そのひどく険しい顔つきが、室内の空気をじわじわと重く、息苦しくしていく。由樹は三久を一瞥した。今日の彼女は、上品なモカブラウンのノーカラーコートに、センタープレスの利いた黒のワイドパンツ、足元は上品なフラットパンプス。すらりと細い体型は、どんな服を着ても様になる。白く整った顔立ちは、着るものによってまた違う表情を見せていた。そこに立つ姿は柔らかな印象で、一見するとおとなしい
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第39話

摩美がひどく険しい顔で出てきた。目を真っ赤に腫らした千歳を連れている。摩美は三久のデスクのそばで立ち止まると、憎々しげに鋭く睨みつけた。「またあんたの仕業ね!」謂れのない非難を受けた三久の顔色も、決してよくはなかった。それでも感情を波立たせず、署名済みの退職合意書を摩美へと差し出す。「いくつか行き違いはございましたが、双方のサインはすでに済んでおります……」言い終わるより早く、摩美が退職合意書を引ったくり、三久の目の前で真っ二つに引き裂いた。「見え透いた芝居はやめなさい。これからも由樹のそばに居座るつもりなら、せいぜい大人しくしていることね!」言い捨てるなり、千歳の腕を引っ張って立ち去っていった。千歳は表向きは哀れを誘う泣き顔を作っていたが、その目の奥に黒々と渦巻く憎悪は、すでに抑えきれないほど三久へと向けられていた。三久は無残に引き裂かれた退職合意書の残骸を見つめ、胸の奥がすうっと冷え切っていくのを感じた。由樹は摩美に一体何を言ったのだろう。あんなに私を嫌悪している摩美に、由樹のそばに残ることを渋々認めさせたのだろうか。「ちょっと入れ」デスクの内線が鳴り、由樹の涼しい声が響いた。三久はしばらく考えを巡らせてから社長室へ入り、静かにドアを閉めた。「定例会議を三十分後にずらしてくれ」由樹は金縁の眼鏡を外し、デスクの脇に置いた。背もたれに深く体を預け、両手で組んだ指先をデスクの縁に当てながら三久を見据える。「社長」三久はデスクの前に立ち、背筋をまっすぐに伸ばして向き合った。「退職の件につきましては、今一度お考え直しください。私の存在のせいで、摩美さんや村上さんとの関係を損なうようなことは避けていただきたいのです」由樹の表情は読めない。先ほどの修羅場など何もなかったかのような冷静な顔をしている。しかしその低い口調には、かすかな危険の気配が滲んでいた。「そっちこそ、サインさえすれば勝手に辞められると思っていたのか」三久は小さく首を振った。由樹が本気で追及すれば、あの退職合意書のサインなど簡単に無効にされてしまう。しかし、たとえそうなったとしても、由樹がいつまでも自分を縛り続けることはないだろうと三久は思っていた。彼にとって大切なのは千歳のほうなのだから。今はただ、人前で騙
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第40話

三久にもまったく見当がつかなかった。深くため息をつき、黙り込む。「神崎社長があなたを引き抜こうとしたとき、素直に彼についていけばよかったのに」梨々香が悔しそうに続けた。「九洲グループも同じ西戸市にあるけど、酒井のそばで縛られているよりはずっとマシよ。五か月後にはお腹も大きくなって目立ってくるわ。万が一酒井に気づかれたら、それこそ逃げようにも逃げられなくなるわよ」由樹の目の届くところで子どもを産む、そんな危険な賭けに出ようなどと、三久はこれまで一度たりとも考えたことがなかった。口先だけで子どもの父親を言い繕い、絶対にバレないと高を括るなんて、あまりにもリスクが高すぎる。「……もう少し、考えてみるわ」「そうだ……!」梨々香が何かを閃いた。「神崎社長に連絡して、違約金を肩代わりしてくれるか聞いてみたらどう?同意してくれたら、そのまま九洲グループに移ればいいじゃない!」三久は考えるまでもなく、その提案を断った。「由樹の面目を潰すためなら、神崎社長は面白がって絶対に四千万を出してくれると思う。でも、そんな恩を着せられた立場で九洲グループに移っても、重用されるはずがないわ。おまけに百栄を裏切ったという汚名まで着ることになって、この業界でやっていくこと自体が難しくなる。それに今の私の状況、あなたもよく知ってるでしょ。このまま他社に入社するなんて、詐欺と変わらないわ。もし後になって九洲グループから追及されたら、違約金の賠償どころの話じゃ済まなくなる」妊娠を隠しての就労は、明らかな就業規則違反にあたる。三久は今、完全に進退窮まっていた。梨々香は長々とため息をつき、心底同情するように嘆いた。「本当に大変すぎるわ。百栄なんてもともと入るべきじゃなかったのよ。酒井のやつと出会ったせいで、あなたの人生めちゃくちゃじゃない。みくちゃんの魅力なら、もっとやさしい男と幸せになれないはずないのに」「もういいわ、仕事が残ってるから。夜、帰ったらまた話しましょ」会社で電話している以上、妊娠という言葉を不用意に口にするのも憚られた。三久は踵を返し、足早に自分のデスクへ戻った。薄暗い踊り場の扉がゆっくりと閉まり、最後の明かりが消えた頃、暗がりの中からひとつの影がそっとこちらへ上がってきた。千歳は踊り場の扉をほんのわずかに開け、三
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