All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

弘樹も、続けて何杯も酒を飲み干した。充の愚痴を聞きながら、弘樹はどうにもやりきれない気持ちだった。充といえば、以前は4人の中で最も成熟し、大人びた存在に見えたものだ。弘樹も拓也も、前は充にちょっとした憧れがあった。心から尊敬していたし、投資や事業で迷ったときは、必ず彼に相談していた……ほかはともかく、投資や事業での戦略的な考え方と目利きは、文句なしだった。だが、今の充を見ていると人間誰しも弱点はあるものだと痛感させられる。この頭の固い振る舞いには、仕事での目利きまで疑いたくなるほどだ。仁哉があそこまではっきり言ったのに、充は本当に分かっていないのか、それとも分からないふりをしているのか?確かに世話を頼まれた。でも、それは充を信じてのことだ。なのに24時間つきっきりで、人の奥さんの産後の世話をするなんて……これは、やりすぎに決まってる。充はまだ自分を正当化している。「今日の配信、見てただろう?確かに母さんたちが奈緒を責めたのは悪いことだった。でも、母さんたちは奈緒の芝居にうまく乗せられたんだ。奈緒が被害者を装って、わざわざドローンで全編生配信するよう仕向けたんだぞ。それに、報復と言わんばかりに母さんたちに倍返しで平手打ちを食らわせたんだ。今、母さんたち全員が病院で寝込んでいる。それなのに俺は奈緒を責めずに、なんとか関係を修復しようと駆け回った。娘にだって高いピンクダイヤモンドの指輪を贈ったんだ!それなのに、指輪は受け取るくせに、俺を許そうとはしないんだぞ!」拓也は唖然とした。これが仕事の話しかせず、プライベートの愚痴など聞いたことのない、いつもの充か?なんだか今の彼は、同じ愚痴を延々と繰り返すおばさんみたいだ。拓也の中にあった尊敬の念は崩れていく。いっそ今すぐ、透明人間になって消えてしまいたかった。こんなこじれた家庭のいざこざに巻き込まれたくない。でも今、席を立つのも気まずい。だから彼は、いつも以上にせっせと酒を注いだ。弘樹も、とうとう我慢できずに鼻で笑った。「いいか?奈緒はお前の奥さんだぞ。お前のお母さんたちが何でこんなに無防備に、堂々と嫌がらせに行けたか考えたことあるのか?結局のところ、お前が奈緒のことを軽視していたせいじゃないのか?あの配信は、奈緒にとっての防衛手段だったんだ。もしやり返
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第112話

病院へ向かう車の中で、充は仁哉の先ほどの言葉を頭の中で反芻していた。彼は仁哉に何度も電話をかけたが、どれも電源が切れているというアナウンスだった。仁哉は睡眠にこだわる男で、夜は必ずスマホの電源を切る。その習慣を、充もよく知っている。妻が入院している状況で、よく眠れるものだ……仁哉だって、そう言えるほど完璧な夫ではないが。充は思わず馬鹿にした。でも、奈緒と美紀の夫への態度を比べると、急に情けなくなった。美紀はあざといところがあるし、泣き叫んだりもするが、あくまで女の可愛いわがままだ。対する奈緒は、世間を騒がせてまであそこまで攻撃してくるのだ。もしかすると、こちらから歩み寄るのは間違いだったのか?奈緒には、もっと強硬な手段に出るべきなのかもしれない。しかし、奈緒は既に退職し、水鏡ヶ丘の家からも出ていき、娘にも会わせてくれない。強引に家に閉じ込めようとしても、奈緒は迷わず放火を仕掛けてくるような人間だ。奈緒が、自分の手からどんどん離れていく。今の自分に、奈緒を屈服させる手段などあるのか?充は焦燥感と熱っぽさに苛まれていた。病院の屋上など、正直行きたくもなかった。美紀は患者用の服を着て、屋上の柵に座って風に当たっていた。その横で、翠が彼女の腕を必死に掴んでいる。充の姿を見た途端、翠が叫んだ。「充!早く!美紀を止めてやって!思い詰めないで、死んだりしたら駄目よ、裕弥くんもまだこんなに小さいんだから!」充は駆け寄り、美紀に手を差し出した。美紀は目を赤く潤ませ、泣きそうな顔で……頬がパンパンに腫れており、滑稽にも見えた。彼女は本当に死にたいわけじゃない。ただ、充に会いたかっただけだ。この手が効くと分かっていた。充が優しく引くと、美紀は柵から降り、そのまま彼の胸に飛び込んでシクシクと泣き始めた。翠が充に目を向ける。「充、いいから早くどうにかして!奈緒のやりたい放題は、いつまで続くの?もううちの家もぐちゃぐちゃよ!」充はとっさに美紀を引き離そうとしたが、美紀が激しく震えているのに気がついた。充は眉をひそめる。「美紀、どうした?寒いのか?」美紀は歯をガタガタと鳴らした。「充さん、急に体が寒くなって、すごく辛い……熱でもあるのかしら?」充が美紀の額に手を当てる。「額がかなり熱いぞ。いい
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第113話

病院の廊下の非常階段で。翠は充の父親・青木麟太郎(あおき りんたろう)と電話をしていた。麟太郎はいつも東都にいて、そっちの仕事を見ている。深津市の仕事は、全部充に任せていた。普段はめったに深津市へは戻らず、翠とは冷え切った関係だ。麟太郎には東都で愛人がいることは翠も薄々気づいていたが、見て見ぬふりを決め込んでいた。長年連れ添った二人は、もはや愛情などなく、利益を共有するだけの仮面夫婦となっていた。仕事上の方向性は一致していても、日常生活では互いに干渉しない。翠は毎月決まった額の金さえ振り込まれれば、相手が何をしていようと興味はなかった。今回は生配信騒動が大きくなり、青木グループの株価が急落したことで、麟太郎が激怒して翠に状況を問い詰めてきたのだ。翠は不満の矛先をどこに向けていいか分からず、充も頼りにならないため、最近起きたこと全てを、自分に都合のいいように書き換えて麟太郎にまくし立てた。「あなた、一度戻ってきて。直接奈緒に話して、さっさと青木家から追い出して。もしあの女が素直に離婚届にサインしないなら、強硬手段に出ればいい。充ときたら、甘いせいでズルズルと離婚を引き延ばしているのよ。なんとかしてよ。あの女を消さない限り、青木グループはずっと安らげないわ」翠は電話越しにせっつき続けた。麟太郎の低く落ち着いた声が返ってきた。怒気が混じっている。「女一人片づけられんとは?充はどうしてあんなに優柔不断になったんだ?青木家の利益に反する女など、絶対に必要ない!あの女については、俺も人を見る目がなかったな。こんな風に変わってしまうなんて!」翠は必死に調子を合わせた。「本当にその通りよ。あの女が嫁ぐ時、私は必死で反対したのに、結局あなたが首を縦に振ったんじゃない?人は見かけによらないものよ。最初の5年間あんなに大人しかったのは、今日この日のためだったのよ!子供を盾にして、やりたい放題だわ!」麟太郎は冷たく言い放った。「分かった。俺が近いうちに顔を出して、片を付けてやる」翠は喜び、頷いた。「ええ、頼りにしてるわ。さすがね!」……泣き面に蜂とはこのことか。最近の気温の変化のせいか、黎が風邪を引いてしまった。真夜中に突然高熱を出し、香織が部屋のドアを叩いて起こしに来た。話を聞いた奈緒は、もう眠れなかった
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第114話

電話をかけてきたのは、母の蘭だ。奈緒は涙を拭うと、すぐに応答ボタンを押した。「お母さん?」蘭のかすれたが、はっきりとした声が聞こえてきた。「今、東都空港に着いたところ、これから乗り継いで深津市に向かうんだけど。奈緒、今どこにいるの?」奈緒は驚いた。「お母さん、私がS国まで迎えに行くって言ったじゃない?どうして一人で来ちゃったのよ?」蘭は淡々と言った。「子連れじゃ大変でしょ。大丈夫よ、私一人でなんとかなるから。奈緒は家で待っていなさい」奈緒のこの性格は、母親譲りだ。何でも自分で解決したがるし、人に頼ることをひどく嫌う。奈緒は罪悪感で胸が締め付けられ、泣き出しそうな声で言った。「ごめん、お母さん……今、病院に向かっているの。黎が急に高熱を出して。本当にごめん、空港まで迎えに行けなくて」蘭の声が急に高くなった。「何だって?黎ちゃんが熱を出したの?どこの病院?すぐに送って。着いたらすぐに行くから」「お母さん、でも……」「まずは家で休んで」と言いかける前に、電話は一方的に切られていた。奈緒はため息をついた。母は昔からこうだ。一度決めたら誰の意見も聞かない。奈緒は涙を引っ込めると、病院に到着するやいなや、黎を抱えて救急治療室へと駆け込んだ。黎の体温は異常なほど高く、病院に着く頃には40度近くまで達していた。生後2ヶ月の赤ん坊の高熱に、医師たちも顔色を変えた。簡単な診察の後、すぐさま黎は治療室へと運ばれていった。奈緒は膝から崩れ落ちそうになった。声にならない嗚咽が漏れ、立っていることさえままならない。深い海に投げ込まれたような感覚だった。周りは息苦しいほどの絶望で、不安が雑草のように心の底で広がっていった。昨夜、寝入ってしまって掛け布団を直してあげられなかったから?それともエアコンの設定温度が低すぎて、風邪を引かせたの?いや、お風呂の温度が低すぎたか、長く入れすぎたのかも……あんなに元気だったのに、どうして急にこんなことに?奈緒の恐怖に満ちた姿を見て、香織は自分がお世話を疎かにしたせいだと泣きながら何度も謝罪した。「どうかそんなにご自身を責めないでください」と。慌てふためく香織を見ても、奈緒は何も言えなかった。ただ隅っこにしゃがみこみ、自分の無力さをこれほどまでに憎んだ
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第115話

奈緒はかける言葉も見つからず、仁哉の肩をそっと叩いた。「気づいて本当によかったです。このままだったら、裕弥くんがどうなっていたか分かりません」仁哉はポケットに片手を突っ込み、奈緒を見つめた。その瞳には、胸が締め付けられるような憂いがあった。「今、医者が胃洗浄をしていて、少ししたら小児科で詳しく検査してもらうつもりです。この結婚はもう終わりにします。ただ、離婚はもう少し先になります」仁哉は、まるで奈緒を古くからの友人のように感じ、自然と本音を漏らしているかのようだった。しかし、二人はまだ3回会ったばかりで、個人的な話をしたこともほとんどないはずだ。似たような境遇が、二人の間に自然と共感を生んだのかもしれない。奈緒は小さく頷いた。「うん。辛いなら無理することはないですね。私も同じで、充が離婚に応じなくて困ってますけど」仁哉も頷き返す。「夜、充に会いに行きました。美紀と裕弥の生活のことはすべて整えたから、もう充が関わる必要はないと伝えたんだが、分かってくれるといいんですけど」奈緒は鼻で笑った。「彼にそれを理解させるのは、無理かもしれません」その真意を察した仁哉が、不思議そうに問いかける。奈緒はスマホを取り出し、美紀から送られてきた一枚の写真を仁哉に見せた。夜に充と会ったばかりの仁哉は、写真の端に写る人影が誰なのか、どんな状況で撮られたものなのかを一目で理解した。仁哉の顔から表情が消えた。いつもは穏やかで端整な顔が、今は怒りで張り詰めている。奈緒は、彼の拳が強く握られているのに気づき、急いでなだめた。「仁哉さん、人の心なんて、私たちがどうこうできるものじゃないです。間違ったことをして、境界線を越えて人を傷つけているのに、自分は正しいと信じ込んでいる人を変えるなんて……雲を掴むより難しいですよ。他人は変えられないから、自分を変えるのです。相手に傷つけられたなら、相手が嫌がることをしてやり返せばいいです。あの人は彼自身の過ちに一生気づかないかもしれないが、ビンタや拳を受けたら痛みは分かるでしょう。それで十分ですよ。私はそうしてますから、仁哉さんも試してみたら?心の傷が癒えるかは分からないけど、すごくスッキリするでしょう」奈緒はサバサバとした様子で微笑んだ。静かな夜の中で、その丸い瞳が
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第116話

「お子さんの熱ですが、少し下がって現在38度前後です。まだ小さいので、念のため入院をお勧めしております。ご了承いただけるのであれば、こちらで手続きをお願いいたします」「入院」という言葉を聞いて、奈緒は思わず足がすくんだ。「そんな……重症なのでしょうか?今、その子の状態は……大丈夫なんですか?」奈緒の不安そうな様子を見て、看護師は穏やかに微笑んだ。「そこまで心配はいりませんよ。最近はウイルス性の風邪で発熱を繰り返す子が多いんです。入院はあくまで経過観察のためですので、どうか安心してください」奈緒は額の冷や汗を拭い、すぐに入院の手続きを進めた。看護師についていく途中、奈緒はどうも腑に落ちなかった。黎がまだ幼いため、この前買い物に連れ出した以外は、ほとんど外に出したことがない。せいぜい天気の良い日に、香織がベビーカーを押して下で散歩させるくらいだ。奈緒は衛生面には細心の注意を払っており、帰宅後は必ず消毒をしてから黎を抱くようにしていた。それなのに、どこでウイルスに感染したというのだろうか?胸に小さな疑念が湧いたが、今はそれどころではなく、すぐに入院手続きを済ませた。その後、香織と一緒に病棟へ向かった。黎の健康を最優先に考え、VIP個室を希望した。黎は少しうとうとしていたが、熱が下がると少し機嫌も良くなり、ミルクを飲んだ後には大人に向かって、「あーあー」と声を出すまでになった。奈緒はようやく少し安心したのも束の間、看護師が検温に来て再び熱が上がっていることが分かり、奈緒の心臓が冷たく締め付けられた。この夜、奈緒は一睡もできなかった。黎の熱は、下がったと思えばまた上がり、37.5度前後をずっと行ったり来たりしていた。奈緒はこれほどまでに、誰かを案じて怖くなったことはなかった。検査報告書を受け取り、ウイルス感染が確定した瞬間、奈緒の頭の中は真っ白になった。部屋の中を行ったり来たりしながら、どこで目を離したのか、外出もほとんどしていない黎がどうして感染したのかと、自分を責め続けた。奈緒は気が狂いそうだった。苦しみを代わってあげられるなら、いっそ自分の方がいいとさえ思った。ただ、黎が健やかに、無事に育ってくれることだけを願っていた。香織は初め、ずっと自分を責めて涙を流していて、何も言えずにいた。
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第117話

奈緒は深く息を吸い込み、どうにか自分を保とうとした。ベッドの縁に座り、シーツを握りしめて、静かに目を閉じた。「あの日、出かけた時のことについて詳しく聞かせて」香織は奈緒が自分を強く責めるつもりはないと察してか、少しだけ落ち着きを取り戻し、不安そうに服の裾を握りしめた。「旦那様たちは家に伺いたいと言ったのですが、奥様からの言いつけで住んでる場所は教えられないと伝えたので、それ以上は踏み込んできませんでした。結局、近くのショッピングモールで落ち合ったんです。旦那様が黎様を見て、すごく可愛がって……すぐに抱きかかえて、何度も何度も頬にキスをしたんです。その後、黎様がおしっこして泣き出したので、ようやく返してもらえました。短時間の出来事でしたし、軽く食事をしただけで、あとはすぐに黎様を連れて帰りました」香織は、あの日のことを一気に話し終えた。奈緒は心臓が跳ねる思いがした。最近、充は毎日のように病院へ出入りしている。それに前に会った時、充が何度も咳をしているのを耳にした。もし彼が既にウイルスに感染していて、それを黎に移してしまったとしたら?奈緒が冷静に考えてみると、香織の言葉には矛盾があった。彼女は香織にボディーガードを付けていたのだ。なぜ真司は、香織が独断で充たちと会ったことについて自分に報告しなかったのか?奈緒は問い質した。「外出する時は、いつもボディーガードが一緒だったはずよね?なぜ彼らは、このことについて私に何も言ってくれなかったの?」香織の目が泳いだ。「ボディーガードには嘘をつきました。下の階へ黎様の散歩に行くと言って、出かけた時間は合計で1時間もありませんし、疑われるはずもないかと」「わかった、事情は把握したわ」奈緒は長く沈黙した後、ゆっくりと香織を見据えた。「昔、社員に対して指示への絶対服従を厳しく求めていたわ。勝手な判断は、私の一線を越えることと同じだった。黒崎さん、今回は一度きりにして。もし次また勝手に判断して隠し事をしたら、どんなに親しくとも、次は情けをかけられないから」香織は何度も頷いたが、それでも体は震えていた。「申し訳ございません。二度と、二度とあのようなことはいたしません」香織の様子を見ながら、奈緒は思わずため息をついた。実のところ、奈緒は芯が強そうに見えて
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第118話

「お母さん!」その呼びかけは、奈緒がここしばらくで一番、心の底からすっきりと呼べた言葉だった。「奈緒!」かすれていながらも、病室に響き渡る力強い返事。二人は駆け寄り、固く抱きしめ合った。まるで一度もけんかなんてしなかったみたいに。服ごしでも、抱き合ったとき、奈緒ははっきりと感じた。蘭の胸元が、まるで一部なくなっているようだった。途端に涙があふれ出した。奈緒はたまらず声を上げた。「お母さん……」奈緒は胸が張り裂けそうだった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。そんな奈緒をよそに、蘭はからっと笑い、くるりと回って見せた。「泣くことはないよ。私は元気だよ。ちょっと大きな試練を越えて帰ってきたんだからね。安心して。術後の経過もすごくいいし、予想以上に順調よ。だから予定より早く退院して、うちの孫の顔を早く見に来たの。黎ちゃん、おばあちゃんだよ。おいで、抱っこさせて!」蘭は奈緒を脇にどけて、待ちきれないようにベビーベッドへ向かった。ベッドの小さな子を目の当たりにすると、蘭は目を細めて笑みでいっぱいになって、手を伸ばそうとした。しかし、それを焦った様子で香織が制止した。「すみません!消毒してからじゃないと抱っこはできません」香織のまるで一大事みたいな様子に、蘭はきょとんとした。その様子を見て奈緒は思わず吹き出した。さっき一度言われたから、しっかり頭に入ったのね。やっぱり体験には勝てない。一回で覚えるんだから。「お母さん、今の黎はまだ免疫が弱いの。すごく注意しないと」奈緒は苦笑して頷いた。「そうね、気をつけるのが正解。この服、飛行機を何回も乗り継いできたから、着替えてくるわ。ちゃんと消毒してから、黎ちゃんを抱っこするわね」そう言うと、蘭はくるりと向きを変え、風のように洗面所へ駆け込んだ。そんな姿には、大手術を終えたばかりの弱々しさは微塵も感じられなかった。その様子を見守る香織は、思わず呟いた。「奥様の性格が誰譲りかようやく分かりました。帝王切開だと動けるようになるのに3ヶ月はかかる人たちがいる中で、半月で歩き回るだなんて。虫垂炎の手術でさえ、少し休んだだけでしたし」奈緒は微笑んだ。「母は、昔からスパルタ教育だったから。3歳で縄跳び、4歳からは毎日1キロずつ距離が伸びるラ
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第119話

廊下で物音がしたので、奈緒は病室のドアを開け、ひょっこりと顔を出した。そこでは美紀が、仁哉の後を追いかけていた。仁哉は一度も振り返ることなく、背を向けて去っていった。彼は美紀を一瞥もせず、そのまま無言でエレベーターに乗り込んだ。美紀は自分がこの世で一番不幸な人間だとでも言うように、床にへたり込み、声を上げて泣きじゃくった。その声に、VIP病棟中の患者や家族が驚いた。みんな次々と顔を出して、様子を見に来た。周囲の好奇の視線にさらされ、美紀はようやく我に返ったのか、よろよろと立ち上がった。涙を拭って必死に気持ちを立て直すと、深く被った帽子とマスクを目深に引き上げ、自分の惨めな姿を誰にも見られないと確かめてから、やっと安心して歩き出した。ところが、歩き出した途端、鋭く凍りつくような視線と真正面からぶつかった。美紀は思わず身震いした。後ずさろうとした瞬間、何かを思いついたように、目つきが急に鋭くなった。次の瞬間、暴走する牛のように、奈緒に向かって突進した。そう、突進したのだ。しかも、頭から。不意を突かれた奈緒だったが、素早く身を翻した。奈緒の腹部を狙ったはずの美紀の頭は空を切り、勢い余った体はドアの枠に激しく打ちつけられた。その音はかなり痛々しかった。奈緒は思わず目を閉じ、心の中で合掌した。でも同時に少しおかしくもなり、こらえきれずに笑ってしまった。美紀の人生で、これほどまで無様で惨めな瞬間はなかっただろう。彼女は一気に頭に血がのぼった。目を真っ赤にして、いきなり奈緒の髪をつかんだ。そして、ものすごい力で奈緒を床に引きずり倒した。「全部あんたのせいよ!私の人生、めちゃくちゃにされた!あの写真を送ったのは誰よ!どうして私の夫に見せたの?この悪女!私が幸せになるのがそんなに憎いの?」もはや正気を失った美紀は、暴れる獣のような怪力を発揮した。片手で奈緒の髪をつかんだまま、もう片方の手で奈緒の首をがっちり絞めた。その目には、ぞっとするような殺気がこもっていた。今、本当に奈緒を殺すつもりなのだ。自分の身に起きた不幸を、全部奈緒のせいにしていたのだ。彼女は子供のころ習ったテコンドーの技まで使い出した。奈緒を道連れにするつもりだった。奈緒は、自分が彼女を甘く見ていたと気づいた。か弱そうに見える彼女
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第120話

奈緒は、なんと言っていいか困ったような表情をした。母はどうしてS国に行っている間に、こんなに堂々と強気で、あんな辛辣な物言いをするようになったのだろう?まさか……思いがけない考えが胸をよぎったが、今はあえて尋ねるような時ではなかった。美紀のすさまじい泣き声に、病院の医者や看護師、警備員たちが集まってきた。その中には、美紀の母、静香もいた。静香は慌てふためいて走り寄り、床に座り込んで泣く美紀の姿を見た。隣り合って立っている奈緒と蘭を見ると、瞬時に目を赤く怒らせ、蘭に怒鳴った。「何してくれたのよ!私の娘に手を出したのはあんたよね?あんたたち親子、どこまで常識知らずなの?今夜のうちに警察に突き出してやるから!」「この病院の院長はどこですか?すぐ呼んで、この女を警察に渡してください!廊下に監視カメラがあるんだから、暴力沙汰で逃げ切れるはずないんですから!」そして、静香は蘭の鼻先に指を突きつけ、わめき散らした。静香は豪華な服を羽織り、派手なメイクをしていた。一方の蘭は病室に入ってからメイクを落とし、地味な部屋着に着替えていた。二人を見比べると、一方は着飾ったセレブ夫人で、もう一方はあまりにも質素に見えた。医師たちはVIPエリアでの騒ぎだと判断し、すぐに看護師長に院長へ報告するよう指示を出した。蘭は腕を組んだまま、騒ぐ静香を落ち着いた様子で見下ろした。「あらあら、あんたの娘がどうして人の家庭を壊して恥知らずな真似ができるのかと思ったら、なるほどね。どこの親子も似た者同士なのね」たった一言の冷ややかな返答に、静香の顔が真っ青になった。「あんた、何様のつもり!?あんたたち母娘こそ、同じように図々しくて傲慢な親子じゃないの!?うちの娘が嫁いだのは栗原家よ。いつ人の家庭を壊したっていうの?言いがかりはやめて!」蘭は鼻で笑った。「栗原家って?偉そうに。その名門のお嫁様が、自分の子を寝かしつけるための睡眠薬を飲ませてたの?さっき廊下で泣きわめいて、旦那さんに別れないでと言ってたのは、あなたの娘よね?なんて残酷な人でしょ。たった2ヶ月の赤ちゃんに、よくも睡眠薬なんて与えられたものね。もしかして、本当はその子がいらないとか?」蘭はこの数ヶ月S国で療養していたが、国内のゴシップや話題は全てチェックしていた。
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