我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚 のすべてのチャプター: チャプター 171 - チャプター 180

254 チャプター

第171話

充は照明をつけた。淡いオレンジ色の光が、彼の目の下に刻まれた痛々しい隈を映し出し、その疲労しやつれた姿を浮き彫りにする。「焦らなくていい。何も変なことはしていないから。病院の付き添い用のベッドじゃ硬くて寝にくいだろうと思って、俺の家に連れ帰ってきたんだ」家?奈緒は困惑した。見慣れない空間だったが、そのあちこちには、どこか意図的に演出されたような温かみが漂っている。充は急いで弁解した。「新しく買った家なんだ。水鏡ヶ丘の家は改装中だから。あ、それと、ここは奈緒のマンションの上の階なんだ。近ければ、黎の世話も一緒にできると思ってさ」奈緒は少し目を細め、値踏みするように充を見た。「充、どうやって私をここまで連れてきたの?」充が低い声で答える。「抱えてきたんだ。お前は深く眠っていて、途中も起きなかったから」奈緒は唖然とした。充に連れ去られるほど深く眠り込んでいたとは思いもよらず、奈緒は自分の無防備さに言葉を失った。いや、正確には少し意識はあった。うつらうつらとした意識の中で、温かく分厚い腕に包まれているような感覚。それに加え、ずっと慣れ親しんだ、心を解かす安心感が鼻先をくすぐり、深い眠りへと沈んでいかざるを得なかったのだ。充は欠伸をして、腕を広げた。その表情には、繊細でどこか探るような色がある。「おいで。もう一度、抱き合いながら一緒に寝ないか?何もしない。ただ……ただ一緒にぐっすり眠りたいだけなんだ。奈緒もこのところ疲れてるんだろ?それに、俺の隣でこんなに深い眠りに就けるのは、ここがどこよりも安らげる場所だと、思ってるってことじゃないのか?」奈緒は口をつぐんだ。否定したかったが、充の言うことも一理あると認めざるを得なかった。ここ5年間、奈緒が仕事にこれほど打ち込めたのも、毎晩の睡眠が充実していたおかげなのだ。充との間に愛なんてものは残っていなくとも、このベッドの上の睡眠の相性だけは確かに充が一番だった。二人はともに仕事熱心で、脳をフル回転させるタイプであり、何より質の高い睡眠に人一倍こだわっていた。それにかつての二人は、生活のペースが完璧なまでに一致していた。夕方5時に退勤して6時に夕食。7時から8時は奈緒がヨガをして充がジムに通う。8時以降はゆっくりとお風呂に浸かり、夜9時に
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第172話

この5年で、充と奈緒は夫婦という枠組みを超え、血肉を分け合う存在になっていた。無理やり引き剥がそうとすれば、すべてが切り刻まれてしまうような苦しみを伴うはずだ。昼間は平静を装えても、深夜という時間には、人の弱さが露わになる。向かい合って座る充の姿は、以前と何ら変わりないし、彼が差し出す腕も昔のまま。充から漂うウッディ系の香りが、優しく絡みつく網のように奈緒を包み込んだ。ほんの少し歩み寄れば、以前のように充の胸の中で呼吸を合わせ、二人で同じ朝を迎える日々に戻れるのかもしれない。しばらくの間、黙っていた奈緒だったが、その瞳から鋭さが少しだけ消えていった。「奈緒、おいで」充の低い声は、あふれんばかりの情愛を含み、まるで魔法の呪文のように耳に溶けていく。奈緒が抵抗する間もなく、充は力強く奈緒を抱き上げると、再びベッドへと連れ戻した。そして布団を引き上げ、二人を毛布の中へと閉じ込める。「俺のことを、少しは可哀想に思ってくれよ。この2ヶ月、ろくに眠れていないんだ。俺が睡眠にこだわりがあるって、お前も知ってるだろ?これ以上こんな状態が続いたら、本当にこのまま倒れてしまうかもしれない。それに、今はまだ朝の5時だ。もうひと眠りしよう。奈緒も疲れているだろ?お前も眠れていないって、俺は知ってるよ。俺を抱き枕か催眠術師だと思ってくれ。余計なことは考えず、一緒に横になるだけでいい。目を覚ましたら、どんなに冷たく突き放しても、離婚の話を持ち出しても、俺は受け入れる。な?それでいいだろ?」充は、胸の奥に隠していた弱さをすべてさらけ出していた。その言葉の一つひとつには、懇願するような響きが込められている。まるで彼が求めているものは、ただ奈緒と一緒に眠ること、それだけであるかのようだった。奈緒は彼の腕の中に強く抱きしめられていた。鼻先には、落ち着いたウッディ系の香りが漂っている。それは、かつて奈緒が最も好きだった香り。過去5年間、奈緒が心を支えるために頼っていた「睡眠薬」のような存在だった。身体は本能的に休息状態に入り、久しぶりの温もりに、もう一度身を委ねたいと思ってしまう。だが、まぶたが閉じようとしたその一瞬、脳裏を稲妻のような記憶が貫いた。あの、分娩室の外の冷たい廊下の記憶。奈緒が死ぬ思いで黎を出産した後、うつ
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第173話

その一撃には、何年も積み重ねてきた悔しさと怒りのすべてが込められていた。完全に不意を突かれた充は、低くうめき声を漏らし、身体ごと後ろへよろめき、そのままベッドの背もたれに強くぶつかった。次の瞬間、奈緒は転がり落ちるようにベッドを飛び出した。靴を履く余裕すらなく、裸足でコート掛けまで走ると、自分の服を乱暴に引っ掴み、震える手で慌ただしく身につけた。先ほどの一撃で、ぼんやりしていた充の頭は完全に覚醒し、腹部を押さえながら立ち上がる。彼は震える奈緒の背中を見つめ、もう一度抱きしめようと手を伸ばした。「奈緒、拒まないでくれ。夫婦なら、どんな喧嘩だって……」パシッ!充の言葉が終わるよりも先に、乾いた音が響き渡った。その平手打ちには、奈緒が持てる全ての力が込められていた。充の顔は横へ弾かれ、頬には熱い痛みが走る。腕の力も抜け、充はよろめきながら数歩下がり、信じられないものを見るように、奈緒を見つめた。空気が一瞬で凍りついた。奈緒はその場に立ったまま、激しく上下する胸を押さえる。瞳は冷たい刃のようで、両手は固く握り締められ、指先は白くなるほど力が入っていた。「充、あなたは自分の不眠症がそんなに可哀想なことだと思ってるの?」奈緒の声が震える。「私が耐えてきた苦しみに比べたら、たった2ヶ月の不眠なんて、どうってことないでしょ!被害者ぶって、私に少し優しくすれば昔みたいに戻れるなんて思わないで。全てを水に流そう?甘すぎる。そんなのありえないから!私の心は、黎を産んだあの日に、もう完全に死んだの。私が命懸けで黎を産んだ時のこと、あなたは知ってる?私が必死で産んだ子を、看護師さんが一度外に連れて行って、そして戻ってきた時……『分娩室の外には誰もいませんでした』って言われた私の気持ちが分かるかな?私の大切な子。私が命を削って産んだ子なのに、その誕生を喜んでくれる家族は、誰一人いなかった。待っていてくれる人も、祝ってくれる人もいなかった。それからの1ヶ月間、私は誰かがこの子を見にきてくれるんじゃないかってずっと待ってた。でも、青木家の人たちは誰も会いにきてくれなかった。それどころか、美紀の子供ばかりちやほやするんだから。だからね、今さらあなたが何をしても、何を言っても、私はもう許せない。許してほしいなら、青木家
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第174話

そこまで言って、充は自分を殴りつけたいほど後悔した。あの頃の自分は、奈緒があまりにも聞き分けがよく、何でも一人でできる人間だと思い込んでいた。それに、家族がそこまで彼女を傷つけていたなんて。それどころか、出産の日、母親が女の子だと知った瞬間に帰り、その後一度も奈緒を訪ねなかったことも知らなかった。母が裏で奈緒にどれほどひどいことをしていたのかも、つい最近知ったばかりだ。この5年間、奈緒は一人でこれほど多くの事を抱えていたらしい。賢くて自立していると思っていた彼女の陰には、決して語られなかった痛みが隠れていたのだ。今思うと、自分はあまりにも身勝手だった。当時の自分は、ただ美紀のことばかり考えていた。海外で孤独に暮らし、頼れる家族もいない。それに、昔から弱く、誰かが支えてあげなければならない存在の美紀。だからこそ……罪悪感で胸が締め付けられ、充はうつむいた。反射的に奈緒の手に触れようとしたが、彼女がすっと一歩下がり、充の指先は虚空を掴んだ。「奈緒。そんなにつらかったなら、どうして一度も俺に言ってくれなかったんだ?」「言って何になるの?あなたはいつも私に、しっかりしろ、理解しろ、家族を優先しろって言っていたじゃない。私が少しでも愚痴をこぼせば、もっと大人になれって責めたよね?この5年間、あなたは私の立場に立って考えてくれたことがあった?もしあなたが私を完全に無視せず、見ないふりをしてこなかったら……あなたの家族が、私にあんな態度を取ることもなかったんだよ?」充は、返す言葉を失った。奈緒は彼を冷ややかに見つめ、氷のように冷めた目で言い放つ。「黎のお披露目パーティーの時、私、あなたに電話したよね?その時、自分が何て言ったか覚えてる?予定があって、忙しいって。でも、あなたの予定って何だった?美紀の子どものためにはあれだけ盛大なお祝いをしたのに、私と娘には運転手を寄こして家へ帰らせただけ。胸に手を当てて考えてみてよ。美紀が現れてから、あなたの中に、私や黎の存在が少しでもあった?」充は押し黙った。美紀の名が出てくると、充の胸には言いようのない不快感がこみ上げた。本当は、奈緒が考えているような関係ではないのに……充は荒い呼吸でこう答えた。「これからは美紀と距離を置くし、世話も焼かない。だから、もうこのことは水
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第175話

充は目の前が真っ暗になり、怒りで胸を押さえ、それ以上は何も言えなくなった。奈緒は充を冷ややかな目で見つめた。ここまでになっても、彼は美紀に責任を取らせようとせず、身を挺して庇い続けている。これが自分が一生の相手として選び、長い間想い続けてきた男だなんて!奈緒は、そんな男に恋をしたかつての自分の目を、今すぐに抉り出したかった。「充、いつも私のことを大切に思ってるって言ってくれてたよね?それって今のこの状況でも同じこと言える?美紀に向けていた優しさの3分の1でも私に向けてくれていたら、私たちはこんな風にならなかったんじゃないかな?」充ははっと息を呑んだ。「どうしてお前はいつも美紀と比べるんだ?美紀は……幼い頃からずっと体が弱いんだ。それに対して……」「ふっ……」奈緒の口から乾いた笑いが漏れる。もう分かった。充の中にある身勝手な理屈。美紀は体が弱いから、甘やかされるのが当たり前。一方の自分は、昔から野草のように強く生きてきたから、何でも自分ひとりでこなして当たり前。誰かに愛されることも、気遣われることも必要ない。なんと馬鹿げた考え。そして、なんてろくでもない男なのだろう。疲れ果てた奈緒は、もうこれ以上会話を続ける気にもなれなかった。「充、離婚して」「またそれか?何でもかんでもすぐ離婚、離婚って……」充は大きな衝撃を受けたように首を振る。離婚だけは絶対に受け入れられなかった。「離婚する気なんてない。それにお前がさっき言ったことは、うちの家族もちゃんと分かってるから。俺の家族みんな……俺たちがやり直すことを願っているんだ。黎も青木家に迎えて、大切に育てたいんだよ。奈緒、俺たちにチャンスをくれ。とにかく、絶対に離婚は認めないから、そのつもりでいろ!」充は強い意志を口にした。奈緒に不満を全部吐き出させた以上、まだやり直せるはずだと考えていたのだ。これから家族たち、特に翠に、奈緒と黎への接し方を厳しく叩き込む。黎に家族というものを与え、奈緒への埋め合わせをする。そのために何があっても離婚だけはしない。何と言われてもそれは揺るがない。充は一度決めたら絶対に考えを曲げないのだ。奈緒の表情は完全に冷え切っていた。ここまで言っても、充が離婚を拒絶するとは予想もしていなかったのだ。奈緒
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第176話

充は放心状態だった。顔を力任せに殴られ、両頬がヒリヒリと痛む。その場に立ち尽くしていた充は、美紀を見下ろした。その瞳は地獄のように冷え切っている。よりによってこんな時に現れるなんて、美紀は一体何を考えているんだ?これ以上、自分の状況をめちゃくちゃにしたいのだろうか?「充さん、痛い?」充の顔に浮き上がる手のひらの跡を見て、美紀は思わず歩み寄り、無意識にその顔に触れようとした。しかし、充はその手を力強く振り払うと、素早く後ずさった。「なぜここに住んでいるって知っているんだ?それに、どうやって入ってきた?」突き飛ばされてふらついた美紀は、体勢を立て直すと、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。「電話しても出ないし、メッセージも返してくれないから……心配したんだよ?ここは執事さんに聞いたの。そうしたら、充さんがここに住んでるって教えてくれて……」美紀はそう言いながら、照れたように頬を赤らめた。「暗証番号、すぐ分かったよ。だって、昔と変わらず、私の誕生日を使ってくれてたから……へへっ」充は言葉を失った。玄関の暗証番号が、美紀の誕生日?言われてみれば、確かにそうだった。若い頃からありとあらゆるパスワードに美紀の誕生日を使っていた。長年使い続けたせいで、もう何も考えなくても指が勝手に動くほど習慣化していたらしい。何でもかんでもその番号にしていたからこそ、いつの間にか美紀の誕生日だということすら忘れていた。奈緒に見つかっていなくてよかった……しかし、充は本能的に罪悪感を感じる。充は冷ややかな目で美紀を睨んだ。「そうだとしても、ノックもせずに入るのは非常識だろ。最低限の礼儀も分からないのか?」美紀が上目遣いで答える。「だって、一刻も早く会いたかったんだもん。まだ離婚を強要されてるの?だったら、もうさっさと別れちゃえばいいじゃん。このままじゃ、奈緒さんのせいで私たちみんなが終わっちゃうよ……」実は扉の外で、美紀は二人のやり取りを全て聞いていた。充が一人ですべての損害を背負おうとしていることが分かり、美紀は心の中でほくそ笑んでいたのだった。それに、奈緒がここまで離婚に固執している状況も、美紀にとっては願ったり叶ったり。1日も早くこの二人を別れさせたかった。しかし、充が纏う空気は澱み、周囲を凍
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第177話

翠は自宅で静養していた。リビングのソファで目を閉じてくつろいでいると、険しい表情の胡桃が帰ってきて、怒りながら2階へ上がろうとしていた。翠は冷ややかな視線を投げかけ、思わず嫌味を放つ。「あら、奈緒との仲直りはどうだったの?その様子を見るに、また門前払いでも食らったのかしら?」胡桃は足を止め、翠を睨み返した。「どれもこれも全部お母さんのせいよ。あの時、もう少し奈緒さんに優しくしていれば、こんな事にはならなかったのに。充の結婚生活も終わりみたいね。そろそろ離婚届でも出されるんじゃない?どう?これで満足?」翠は鼻で笑い、得意げに言った。「だから言ったじゃない。奈緒なんてろくでもない女だって。それなのに、あなたがあの女を擁護するから!あの女の本性が分かったでしょ?もう味方なんてしないわよね?」胡桃は奈緒と蛍に完膚なきまでにやり込められたことを思い出し、腹を立てて座り込んだ。「本当に女って甘やかすとすぐつけ上がるんだから!奈緒さんは話の分かる人だと思ってたから取りなそうとしたのに、あっちが最初から喧嘩腰だったの。お母さん、私はもう充と奈緒さんの離婚に賛成する。ただ、子供は……」やっと自分の思っていた通りの言葉を聞けた翠は、勢いよく胡桃の肩を叩いた。「分かったでしょ?あんな女を家に迎えたら、うちがめちゃくちゃにされるだけ。それに、あんな母親から生まれた子供だって同じ。血は争えないの。あんな子ども、いてもいなくても一緒なんだから!あなたたち三姉妹は友達が多いんだから、その中から充に合いそうな女性を探そう。奈緒よりいい子なんて、腐るほどいるんだから!それに、今子供を抱えていたら、今後に響くからね。離婚したら、子供はあっちにやっちゃった方がいい」翠の頭にはもう、充と奈緒を今すぐ離婚させることしかなかった。黎についても、生まれた時から興味などなかったため、孫として可愛がる気もなく、どうなろうと翠の知ったことではない。胡桃は呆れて、ため息をついた。「お母さん、そんなあからさまな男尊女卑は良くないと思うよ。それに、周りからなんて言われるかわかんないし。お母さんがどう言おうと、青木家の長男に生まれた最初の子なのだから。周りへの体裁もあるし、青木家の子として迎え入れなかったら、冷たい家族だって思われるじゃない?
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第178話

胡桃が家に帰ってくる道中、その胸の内は腹立たしさで溢れていた。何度も今日のやり取りが思い出され、考えれば考えるほど、納得がいかなかったのだ。この5年、自分は奈緒に特別優しくしてきたわけではないが、冷たくしてきたわけでもない。それに、充と奈緒がうまくいかなくなってからは、奈緒の味方をするような発言だってしてきた。黎への贈り物を返されたあとも、何も言わずに黎のために高額の保険を用意するなど、叔母としては十分に歩み寄ったつもりだ。だから、奈緒も歩み寄ってくれるものと期待していた。ここでお互いに顔を立てて、仲良くやり直せるはずだと。それなのに、奈緒は自分の顔を立ててくれなかっただけでなく、わざわざ友人を呼んで、自分たちを罵倒してきたのだ。生まれてこの方、あそこまで面と向かって罵られたことなど一度もなかった胡桃は、怒りで胸が張り裂けそうだった。考えれば考えるほど、このところ奈緒のために動いてきた自分が馬鹿らしく思えてくる。奈緒のためにこれまで費やしてきた苦労が、まったくの無駄だったのではないか。娘を産んだから何だというのだ?だったら、自分が思い知らせてやる。黎は結局、青木家の血筋。青木家が認めさえすれば、奈緒ごときに連れ去る権利なんてないんだから。利害と体裁を考えれば、やはり胡桃が優先するのは青木家の体裁だ。奈緒は何度も青木家の面目を潰してきた。だから、今度という今度は徹底的に黎を使って追い詰めてやる。この青木家の力を思い知らせてやるのだ。そんなことを考えていた矢先、リビングに入ってきた美紀の姿が目に入った。美紀を見るなり、胡桃は目を見開き、あからさまに嫌悪を露わにする。「何しに来たの?あなたたち親子は本当にすごいわね。うちのお母さんをたぶらかした挙句、怒りで入院までさせたんだから。美紀、私たちが親切にしてあげたのに、これがあなたたちの恩返し?」美紀はその場に立ち尽くし、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。「胡桃さん、今日……私たちは謝りに来たの。翠さんは少し良くなりましたか?私のせいで、本当にごめんなさい。わ、私……この場で土下座して謝罪します!」そう言った美紀は、翠の足元に駆け寄り、跪こうとした。驚いた翠は、そんな美紀の様子を見て怒りも半減し、あわてて引き止めた。「美紀ちゃん、そんなことしなく
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第179話

青木家の面々の怒りがすっかり燃え上がったのを見て、美紀は胸の内でほくそ笑んだ。彼女はすぐさま再生ボタンを押し、奈緒と充の録音データをそのまま流す。録音を全て聞き終わった頃には、青木家の人々の顔色が一変し、麟太郎に至ってはどす黒い怒りのオーラに包まれていた。彼は両膝に手をつき、大きく溜め息を漏らした。「充は昔から何事も理性的にこなしてきたのに、なぜ嫁ごときを躾けられんのだ?それに、手を挙げられているのに、黙っているとは……」胡桃も目を細め、怒りを露わにする。「充が甘やかさなかったら、こんなことにはなっていなかったのに!充本人がなんとかしないなら、私たちがやるしかないみたいね。お父さん、今回ばかりは私たちも口を出して、奈緒さんを追い出さなきゃ!」麟太郎の瞳に鋭い光が走った。「奈緒の電話番号を教えろ。今すぐ直接文句を言ってやる。この俺が直々に出向けば、あいつだって反抗などできまい」奈緒と充が結婚して5年になるが、麟太郎が彼女と顔を合わせた回数は片手で数えるほどしかない。それでも奈緒は、麟太郎を怒らせないようにと、会うたびに氷の上を歩くかのように恐る恐る接していた。麟太郎自身、これまで奈緒について特に意見を述べることもなく、不満があっても黙って見過ごしてきた。心の中で、「息子の嫁ごときが自分に逆らえるはずがない」と高を括っていたのだ。なにせ、深津市で麟太郎に楯突く者は、誰一人としていないのだから。だから自ら電話をかけ、黎を連れて星影荘まで来いと命じることにした。拒絶するなど、あるはずがない。胡桃が奈緒の連絡先を探し出し、麟太郎の目の前に携帯を突き出す。麟太郎は相変わらず厳しい表情を浮かべたまま、奈緒へと電話をかけた。トゥルル……トゥルル……トゥルル……しばらく鳴ったあと、受話器の向こうから奈緒の淡々とした声が響いた。「もしもし、どちら様ですか?」麟太郎がその低い声で答える。「俺だ。麟太郎だ」その時の奈緒は、蘭と実家に戻り、庭先で黎をあやしていた。天気が良く、庭には色とりどりの花が咲き乱れている。黎と一緒に日に当たり、心地よい風に吹かれ、奈緒は穏やかな幸せに満たされていた。しかし、その突然の電話によって、その平和な時間が打ち砕かれた。5年間、顔すらまともに見たことの
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第180話

奈緒は鋭い視線で天を仰ぎ見ると、鼻で笑った。「娘を連れて来いって言われたら、私は大人しく従わなきゃいけないんですか?自分が王様か何かと勘違いしてませんか?なんで私がわざわざ娘を連れて会いに行かなきゃいけないんですか?それに20分以内に来いなんて……笑わせないでください。私をデリバリー配達員か何かだとでも思ってるんですか?たとえ出前を取るにしたって、最低限の礼儀くらいあると思いますけどね」奈緒は限界だった。青木家の人間も、その考え方も、すべてにうんざりしていた。この高慢な態度にだって、もうほとほと愛想が尽きている。もう我慢するつもりはないし、自分を少しでも犠牲にするつもりもない。それは、相手が誰であろうと関係なかった。だから、相手が麟太郎だろうと知ったことではない。昔、自分は誠意を持って接していた。でも彼は……私を人間として扱ってなどくれなかったのだから。今さら尊重すべき理由など、どこにもない。自分から連絡してやったというのに、奈緒からこんな態度が返ってくるとは、予想もしていなかった麟太郎だった。しかも通話はスピーカーにしてあったため、奈緒の一言一言が、まるで平手打ちのように彼の顔へ叩きつけられる。これまでどこへ行っても、人から敬われ、持ち上げられてきた麟太郎は、ここまで真正面から言い返されたことなど、一度もなかった。麟太郎の怒りが爆発した。額や首には青筋が浮き上がり、血圧が急上昇して、顔がみるみるうちに真っ赤になる。「奈緒!俺はお前の義父だぞ!義父に対してそんな態度をとるなんて……どれだけ品性のない女なんだ!こんな礼儀知らずに育つなんて、一体どんな教育を受けてきたんだ?まったく、親の顔が見てみたいぞ!」怒りが頂点に達していた麟太郎は、激しく咳き込んだ。奈緒が言い返そうとしたとき、隣にいた蘭が突然、電話を奪い取り、奈緒が止める間もなく、蘭は受話器に向かって吠え始めた。「よくもまあ、自分が義父だなんて言えたものね!奈緒が青木家に嫁いでいってから5年、そっちで奈緒を人間扱いしてくれた人が一人でもいたのかしら?奈緒の礼儀がなってない?あんたみたいな人間に礼儀を払う必要なんてないんだよ!奈緒がそっちに嫁いで5年も経つけど、結納は?結婚の段取りは?ちゃんと頭下げて迎えに来たかしら?嫁をもらう側として
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