All Chapters of 三人の「ペテン師」に愛されて。〜詐欺師とイカサマ師とスリ師に身も心も奪われる私〜: Chapter 11 - Chapter 20

56 Chapters

新たなトラブル

 大盛況のまま閉店時間を迎え、最後のお客さんを送り出す。心地よい疲労感と、まだ肌に残るスポットライトの熱。私は上気した顔のまま、カウンターで祝杯をあげる三人の元へ駆け寄った。「皆さん、最高でした! 練習の時はどうなることかと思ったけど、あんなに感動的なショーになるなんて。特に圭さん、あのお客さんの持病まで言い当てるなんて、やっぱり本物のコールドリーディングは凄いんですね……!」 興奮気味に身を乗り出すと、圭さんは琥珀色のウイスキーをゆっくりと揺らし、整った唇に微かな笑みを浮かべた。その瞳は獲物を愛でるように甘く、それでいて鋭い。「結さん。マジシャンなら、タネのない奇跡なんて信じちゃいけないよ」「えっ?」 圭さんの声が、やけに低く鼓膜を揺らす。彼は隣に座るレンくんに、視線だけで合図を送った。レンくんは、私の隣でポテトチップスを無邪気に齧りながら、悪びれる様子もなく言葉を継ぐ。「……あのね、結ちゃん。僕、ショーが始まる前、あのお客さんがコートを脱ぐのを手伝った時に、ちょっとだけ『資料』を借りてたんだ」「資料……?」 嫌な予感が背筋を走る。レンくんは、その細くしなやかな指先で、ポケットから小さな薬の袋を摘まみ出してみせた。そこには、さっきの女性客の名前と、循環器系の処方薬の名称がはっきりと記されている。「あの方が席に着くまでの、ほんの数秒だよ。……はい、これは写し。本物はもう、お帰りの際にお返ししてあるから」「な、……っ!」 絶句する私に、圭さんが身を乗り出し、私の顎を指先で軽く持ち上げた。逃げようのない至近距離。彼の纏う、洗練されたビターな香水の香りに眩暈がする。「これは『ホットリーディング』。事前に得た確実な情報を、あたかもその場で読み取ったかのように演出する……欺き(コン)の基本だよ、結さん。コールドリーディングだけで勝負するのはリスクが高い。僕が求めているのは、百パーセントの成功(コントロール)だけだ」
last updateLast Updated : 2026-04-17
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作戦会議

 権藤の話を要約すれば、それは使い古された、けれどそれゆえに酷く惨めな悲劇だった。 たった一人の肉親である妹が、「光の導き」を自称する霊媒師に心酔しているのだという。亡くなった両親の遺産から、権藤が地上げという汚い仕事で稼いできた金まで、すべてを「お布施」という名のブラックホールに吸い込まれているらしい。「『イチ』に命令されてこの店を潰そうとしたのは本当にすみません……でも、他にこういった話を頼れるところもなくて。妹を、あんなインチキ野郎から助けてやってください!」 額を床に擦り付けんばかりの権藤の姿を、私は複雑な思いで見つめていた。数日前までこの店を壊そうとしていた男が、今はなりふり構わず助けを求めている。「……インチキ霊媒師、ね」 カウンターの端で、圭さんが面白そうにグラスの底を指先でなぞった。その視線がふいに私を捉える。すべてを見透かすような、深く、熱を帯びた瞳。「俺のような詐欺師の同業者というわけか」「助けてやる義理はねぇな」 鉄さんが冷たく突き放す。その低い声が店内の空気を震わせた。けれど、圭さんは静かに手を挙げてそれを制した。その仕草一つに、逆らえない支配的な色気が宿る。「権藤さん。俺たちはボランティアはできない。……あなたを助ける代わりに、条件がある」「……な、なんですか……」「『イチ』の情報だ。少し調べたがマジシャンとしての活動が地味すぎる。裏ではどんなことをしているか、知っていることを話してもらうのと、こちらの言う通りに調べてもらう。……いいかな、結さん?」 圭さんが私に微笑みかける。その慈愛に満ちた聖者のような、けれど奥底に冷徹な計算を秘めた笑顔に、私の心臓が小さく跳ねた。「……はい。お願いします、圭さん」 権藤は一瞬躊躇したが、すぐに覚悟を決めたように深く頷いた。「……分かりました。
last updateLast Updated : 2026-04-18
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霊媒師

 港区の一等地、雑居ビルの最上階。重厚な扉の向こうに広がっていたのは、吐き気を催すほど濃密な、金と欲が混じり合った「祈り」の空間だった。 室内には高価な香炉から立ち上る、神経を逆撫でするような甘ったるい煙が充満している。白装束に身を包み、虚ろな目で床に伏す信者たち。その数は三十人ほど。この中に、権藤さんの妹さんも囚われているはずだ。(……ねえ、本当に大丈夫なの、これ) 私は、圭さんに無理やり着せられた漆黒のベルベットローブの重みに、心細さを噛み締めていた。サイズが大きく、動くたびに圭さんの纏うビターな香水の香りが鼻腔をくすぐる。それは守られているような、あるいは彼に所有されているような、奇妙に甘美な束縛感だった。 手には、昨日まで店の棚でホコリを被っていた特注のガラス玉。重々しく抱えているけれど、結局はただのガラスの塊だ。 そんな私の不安を嘲笑うように、金ピカの袈裟を纏った「大光明」とかいう教祖が現れた。「さあ、迷える子らよ。今こそ罪を浄化し、光の御許へ……」「――その光は、少々色が褪せているようだな」 静寂を切り裂くように、低い、けれど驚くほど透き通った声が響いた。 重厚な扉が悠然と開き、室内の空気を一変させて入ってきたのは、漆黒のローブを翻した圭さんだった。(圭さん、ノリノリすぎる……!) その優雅な歩き方、昨夜鏡の前で三時間も練習していたものだ。まるで宝塚のトップスターか、あるいは闇を支配する若き王のような圧倒的なオーラ。詐欺師としての彼の「役作り」は、本物を凌駕する狂気を孕んでいる。「何奴だ!」 教祖が顔を真っ赤にして叫ぶが、圭さんは眉ひとつ動かさない。彼は跪く信者たちの間を割って進み、祭壇の前で立ち止まった。そして、私の方へと熱を帯びた視線を向ける。「私は『黄昏の審判』より遣わされた使者。大光明よ。君の薄っぺらな奇跡では、この者たちの乾いた魂は救えない。救えるのは――こちらの大預言者様だけだ」 恭しく跪き、私の手を取る圭さん。冷たい
last updateLast Updated : 2026-04-19
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事件後

(……圭さん、完全に悦に入ってる。その慈愛に満ちた聖者のポーズ、昨日お店の裏で動画サイトを貪るように見ながら、指先の角度一つまで練習していたやつだ。詐欺師の役作りが本気すぎて、少し引くのを通り越して、見惚れてしまいそうな自分が一番怖い)「偽物め……! この光の御力を疑う者は、永遠の闇に堕ちるぞ!」 祭壇の上で、教祖こと大光明様が震える手で懐をまさぐった。おそらく最後の切り札、目くらましの煙幕か何かをぶち撒けるつもりだろう。けれど、その手は滑稽なほど虚しく空を切った。「……探し物はこれかな?」 圭さんが、漆黒のローブの袖からスッと一冊のメモ帳を取り出した。それを見た教祖の顔から、一気に血の気が引いていく。「このメモ帳には、君が救ってきた『子ら』のリスト……ではなく、どの信者からいくら巻き上げたかの醜悪な帳簿。こっちの書類には君の本名が『田中紘一』で、前職が不動産の営業マンだったことが詳しく記されている。……君の言う『光』とは、金貨の輝きのことだったらしいね」 圭さんが朗々と、そのバリトンボイスで罪状を読み上げるたびに、信者たちの間には祈りではなく、毒々しいどよめきが広がっていく。「な、なぜ、それを……!」「私はすべてを見通す。君が祭壇の下に隠している、今月分の『お布施』という名の脱税資金の隠し場所もね」 圭さんが祭壇の端にある特定の装飾をトントンと叩くと、カチリと乾いた音がして隠し扉が開いた。中からは、聖なる教典ではなく、生々しい万札の束がぎっしり詰まったボストンバッグが転がり落ちてくる。「嘘だ……大光明様が、私たちのために光の世界を作ってくれるんじゃ……」 呆然と立ち尽くす信者たちの中に、権藤さんの妹さんの姿があった。彼女は震える手で、大切そうに握っていた教団のメダルを床に落とした。その瞳から、光が消えようとしていた。「……
last updateLast Updated : 2026-04-20
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秘密のレッスン

 カルト教団の事件から数日。マジックバー『orange』は、皮肉にもあの事件で「本物の奇跡が起きる場所」としてネットで噂になり、連日満員御礼の賑わいを見せていた。 けれど、ステージの袖で三人の完璧なパフォーマンスを見るたびに、私の胸には誇らしさよりも、焦燥感が募っていく。 三人は、裏社会で培った本物の技術をエンターテインメントに昇華させている。それに比べて、私はどうだろう。父から教わった基礎はあるけれど、彼らの「毒」や「熱」に比べれば、あまりに子供騙しに見えてしまう。「……三人に、稽古をつけてもらおう」 閉店後の静まり返った店内で、私はそう切り出した。 カウンターに並んで座る三人の怪物は、一瞬だけ意外そうに顔を見合わせた後、獲物を品定めするような、熱を帯びた瞳で私を見た。  最初の講師は、鉄さんだった。「……カードが泣いてるぞ、嬢ちゃん」 カウンターの中で、鉄さんが私の背後に立つ。逃げ場のない密室。彼の大きな体が放つ威圧感と、タバコと微かな鉄の匂いが、私の感覚を一気に麻痺させる。「力が入りすぎだ。指先は鋼のように鋭く、けれど羽毛のように柔らかく扱え」 そう言うと、鉄さんは私の背中から覆いかぶさるようにして、両手を重ねてきた。「っ……」 ごつごつとした、驚くほど熱い掌。私の小さな手を包み込む彼の指は、想像を絶するほど繊細に動く。私の指の間に彼の指が入り込み、トランプの感覚を強制的に覚え込ませていく。「ここだ。カードの角が、親指の付け根に一瞬だけ触れる……その『感覚』を逃すな」 耳元で響く、低く掠れた声。彼の胸板が私の背中に触れるたび、心臓が痛いほどに脈打つ。「鉄さん、近い、です……」「……稽古だと言ったのはお前だろ。集中しろ。それとも、俺の手に意識を奪われてるのか?」 鉄さんが唇の端を吊り上げ、私の首筋に
last updateLast Updated : 2026-04-21
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硝子越しの仮面

 稽古の日々が過ぎ、マジックバー『orange』は以前にも増して奇妙な「熱」を帯びるようになっていた。 三人の怪物は、表向きは完璧なバーテンダーやマジシャンを演じている。けれど、客が途絶えた瞬間に彼らが向ける視線は、もはや「講師」としてのそれではない。 指先に触れる熱、耳元で響く吐息、そして私のすべてを暴こうとする瞳。私は彼らの嘘に守られながら、同時に彼らの欲望という名の網に捕らわれ始めていた。  マジックバーの運営には、華やかなステージの裏で地道な業務が欠かせない。その一つが、酒類や備品の買い出しだ。うちでは現在、私と三人の「怪物」たちによる週替わりの当番制を採用している。 今週のパートナーは、圭さんだった。「このヴィンテージのラム、仕入れ値もう少しなんとかなりませんか? うちの店主はこれじゃないと納得しなくて。彼女のこだわりには、僕も手を焼いているんですよ」 都内にある会員制の高級酒販店。お酒にこだわりのあった父の代からお世話になっているお店だ。 圭さんは困ったような、それでいて愛おしげな微笑みを浮かべ、頑固で有名な店主に話しかけていた。 彼の言葉は、まるで上質な音楽のように流麗だ。相手の表情の微かな変化、視線の動き、呼吸の間隔――。圭さんはそれらすべてを瞬時に読み取り、店主がこの男なら信頼できると錯覚するような理想の客を完璧に演じている。「……はは、お兄さんも大変だな。わかった、特別だぞ」 結局、他店では門前払いされるような希少なボトルを、破格の条件で手に入れた。店を出て、夕闇に染まり始めた街を二人で歩く。 初めはたくさんの荷物を抱えていた圭さんだったが、軽そうな荷物をいくつか手渡してきた。「ちょっとこれ持ってくれる?」「あ、はい」「と、いう感じで。信用を得るには相手に何かをしてもらうというのが重要だ。なにかをしてあげるんじゃなく、してもらう。よくあるのが結婚詐欺の時とかに、水取ってくれる? とか、そんなことでいいから」「そういう知識は教えてくれなくても大丈夫です」「メンタルマ
last updateLast Updated : 2026-04-22
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圭の過去

「……大学の頃、僕は心理学を専攻していたんだ。子供の頃から他人への共感能力というか、協調性みたいなものがなかったから、それを知るために」 圭さんの声が、私の肩越しに低く響く。いつもの計算された艶っぽさや、余裕を含んだ調子ではない。「当時、付き合っていた女性がいたんだ。同じゼミで僕とは違い他人への興味というか、人のために何かをしようとする人だ。いつでも微笑んでいる、そんな人だった。……でもある日、彼女にすい臓がんが見つかった」「えっ……」 私の体がつい強張る。圭さんの腕に力がこもり、私の腰を引き寄せる。逃げ場を塞ぐように、彼の体温が背中から全身に伝わってきた。「日に日に痩せ細り、蒼白になっていく彼女を見て、僕は絶望した。心理学なんて、何の役にも立たないと思い知らされたからね。……病室で彼女の手を握っていても、僕が学んできた知識は、彼女の痛みを取り除く方法も、死への恐怖を拭い去る言葉も、一つも教えてはくれなかった。励ましの言葉は空々しく響き、同情の視線は彼女を傷つける。……とうとうある日、僕は自分自身の無力さに耐えきれなくなって、最悪の嘘を吐くことにしたんだ」「嘘、……ですか?」 私は震える声で問いかけた。圭さんは、私の首筋に顔を埋めたまま、深く、重い吐息を漏らす。「ああ。僕は病室の水道水を、適当な綺麗な瓶に詰めたんだ。そして、あたかもそれが世界に数本しかない奇跡の薬品であるかのような顔をして、彼女の枕元に置いた。……『これは、ある特別なルートで手に入れた、幸せになれる水だよ。飲めば細胞が活性化して、どんな病も浄化される』。……そう言って、彼女に差し出したんだ」 圭さんは自嘲気味に、鼻で短く笑った。その笑い声には、自分自身への激しい嫌悪が混じっている。「彼女は不思議そうな顔をしていたよ。当然だ。科学を学んでいた彼女が、そんな非科学的な話を信じるはずがない。……
last updateLast Updated : 2026-04-23
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帰宅後の騒動

 重たくなった買い物袋を提げ、私たちが『orange』の重い扉を開けた瞬間。店内に流れていた小洒落たジャズの音が、一瞬だけ物理的に止まったような気がした。 いや、止まったのは音楽ではなく、そこにいた二人の「怪物」たちの動きだ。 カウンターの端で、デックを無造作に弄んでいた鉄さんが、獲物を狙う猛獣のような低い声を出す。その視線は、私の少し乱れた髪と、私のすぐ後ろでこれ以上ないほどやり切ったという顔で微笑む圭さんの間で、激しく火花を散らしている。 「……遅かったな。買い出しっていうのは、ラム一本仕入れるのに陽が落ちるまでかかるような重労働だったか?」  鉄さんの声が低い。地鳴りか。あまりの威圧感に、袋の中のバゲットが震えている気がする。 「ああ、すまない。少し……込み入った話をしていてね。彼女の深い部分に触れるような、とても有意義な時間だったよ」  圭さんは、わざとらしく私の肩に手を置いた。その指先が、先ほどの告白の余韻を思い出させるように、僅かに私の鎖骨をなぞる。やめて。その「正解」の出し方は、今の私の心臓には劇物すぎる。 「お姉さん、いい匂いがする」  突然、耳元で吐息が聞こえた。 「ひゃうんっ!?」  変な声が出た。驚いて振り向くと、いつの間にか私の背後に音もなく立っていたレンくんが、私の首筋に鼻を寄せ、深く、深く息を吸い込んでいた。 「……圭さんの匂いだ。……ずるいよ。お姉さんを汚すのは僕の役目なのに、圭さんだけずるい」「汚すとか言うのやめて! あと、いつの間にそこにいたの!」「二分前から。お姉さんがお店の角を曲がった時から、ずっと見てたよ。ねえ、何してたの? 何をされて、そんなに顔を赤くしてるの? 僕、今すごく、すごく気分が悪い」  レンくんが、頬をこれでもかというほど膨らませて
last updateLast Updated : 2026-04-24
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消えた蝶ネクタイ

「……ちょっと、レンくん。どこ? 出てきてってば」  私はバックヤードの入り口で、半ば泣きそうになりながら虚空に向かって呼びかけた。先ほどから、私の衣装の小道具が次々と消えている。最初は予備のトランプ、次は胸元のラペルピン、そして今は、本番用の蝶ネクタイがない。 「やだ。お姉さんが圭さんとお買い物デートしてた間、僕は一人でお店のお掃除してたんだよ。蝶ネクタイ一本くらい、僕が持っててもいいでしょ」  声は、天井の梁の上から降ってきた。見上げると、レンくんが器用に梁に腰掛け、私の蝶ネクタイを指先でくるくると回している。その瞳は、暗闇の中で光る猫のように鋭く、そしてひどく拗ねている。 「お買い物デートじゃないって! 買い出し! お仕事!」「圭さんは深い部分に触れたって言ってたもん。僕には、お姉さんのそんな顔、見せてくれたことないのに。……今夜のショー、お姉さんが蝶ネクタイなしで恥ずかしそうにする姿、僕が独り占めするんだ」「変な性癖を晒さないで! 降りてきて!」「無理。お姉さんが『レンくんが一番かっこいい』って百回言わないと、これは僕のコレクションになっちゃうよ」  レンくんがふい、と顔を背ける。その頬はまだ子供のように膨らんでいる。本当に、この透明なスリ師が拗ねると、物理的に手が届かないから厄介だ。  その時、カウンターの方から、氷を握りつぶすような「バリッ」という不穏な音が響いた。 「……おい。ガキが梁の上で遊んでる間に、氷が全部砕けちまったぞ。予備を持ってこい」  鉄さんの声だ。見ると、彼はカウンターの中で、本来ならアイスピックで丁寧に割るはずの氷の塊を、素手で……文字通り握撃で粉砕していた。 「鉄さん! 氷は握りつぶすものじゃありま
last updateLast Updated : 2026-04-25
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鉄の過去

「……俺の親父は、ろくでもねぇ博打打ちだった」  鉄さんは、私の手を握ったまま、カウンターの椅子に腰を下ろした。まだ開店前。客席の騒めきが遠く感じるほど、私たちの周囲には濃密な静寂が降りてきた。 「親父は勝てば酒と女、負ければ俺を殴る。そんな毎日だった。……俺がガキの頃、最初に覚えたのは、算数じゃねぇ。トランプの裏面の、僅かな傷のパターンだ。……生きるために、親父の負けを帳消しにするために、俺は目と指先を鍛えなきゃならなかった」  鉄さんの指が、私の手のひらのささくれを、そっとなぞる。 「十歳の時だ。親父が、ある闇カジノで、とんでもねぇ額の借金を作った。……相手は、プロのイカサマ師を囲ってるヤクザのフロント企業。……親父は、俺をカタに入れたんだ。……『このガキの指は、黄金を産む。だから、借金の代わりにこの指を預ける』ってな」「そんな……自分の子供を……」  私は息を呑んだ。鉄さんの表情は、固い岩のように動かない。 「俺は、そのカジノで打ち子として働かされた。……朝から晩まで、カードを配り、客の目を盗んでAを送り込み、負けるべき奴を負かせる。……失敗すれば、指を一本ずつ折ると脅されながらな。……この傷は、その時に『教育』と称してつけられたものだ」  鉄さんが、左手の甲にある深い傷跡を示した。それは、フォークか何かを突き立てられたような、生々しい痕跡だった。 「……俺には、夢があった。……いつか、この技術を使って、真っ当なステージに立ちたい。…&h
last updateLast Updated : 2026-04-26
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