マジックで鳩が飛び出した瞬間、客席からは歓声が上がる。誰もがその鮮やかな奇跡に目を奪われるけれど、その鳩の餌代や、楽屋に撒き散らされる糞の始末にまで思いを馳せる客は一人もいない。 もしそんな「裏側」にまで目の届く奇特な人間がいるなら、今すぐうちのスタッフになってほしい。そして、私の代わりにこの銀鳩の糞を拭いてほしい。「……ねえ銀次。わかってる? 君のその一撃で、クリーニング代八千円が飛ぶんだよ。これ、特注品なんだからね」 相棒の銀次は、籠の中で「クルッ」と他人事のように鳴いた。ステージで奇跡を起こす数分間の裏には、二十三時間以上の『食欲旺盛な同居人』との泥臭い日常がある。私はウェットティッシュを使い、燕尾服の肩についた汚れを恨めしそうに拭き取った。上質な生地が指先に触れる。父が遺したこの服は、今の私には少しだけ肩幅が広すぎる気がした。 カウンターに置いたスマートフォンに手を伸ばす。画面を点灯させ、右手の親指をセンサーに押し当てた。『認証に失敗しました』 無機質な拒絶。今度は人差し指を試す。『認証に失敗しました。もう一度試してください』「……もう、これだもん」 私は大きく溜息をついた。マジシャン、特に私のように至近距離で見せるクロースアップも、華やかなステージもこなそうとする人間の指先は、過酷だ。絶え間ないシャッフルによる摩擦、トランプの縁で切れる皮膚、ギミックに使う薬品。私の指紋は削れ、最新の文明の利器は、私を「持ち主」だと認めてくれない。 荒れた指先をそっとなぞる。ささくれ、小さな切り傷、滑り止めの松ヤニで硬くなった皮膚。女の子らしい柔らかさなんて、とっくに捨てたつもりだった。けれど、こうして機械にまで拒まれると、自分がこの世界の誰とも繋がっていないような、奇妙な疎外感に襲われる。 結局、凍える指でパスコードを打ち込み、SNSを開く。 投稿するのは、昨日撮っておいた『映える』カクテルと、華やかなトランプの写真。現実は鳥の世話と絆創膏にまみれていても、画面の向こう側だけは、夢を売る聖域でなければならない。『今夜もorangeで奇跡が起こります。皆さまのご来店をお待ちしております!』 キラキラした絵文字を添えて送信。ふと視線を落とすと、カウンターの隅に一枚のコースターが放置されていた。 そこには汚い字で「タネを教えろ」という殴り書き。
Last Updated : 2026-04-09 Read more