All Chapters of 三人の「ペテン師」に愛されて。〜詐欺師とイカサマ師とスリ師に身も心も奪われる私〜: Chapter 31 - Chapter 40

56 Chapters

準備完了

 新宿の演芸場跡地へ向かう準備を整え、私たちは『orange』の重い扉に鍵をかけようとしていた。 父が遺したハートのジャックのカードは、私の胸ポケットの中で微かな重みを持って収まっている。これから踏み込む場所が、父の死の真相に繋がっている。その緊張感で、私の指先は、不揃いに貼られた絆創膏の上からでも分かるほど強張っていた。 その時だった。 カラン、と。クローズの札を下げたはずの扉が、外側から静かに押し開けられた。 入り込んできたのは、夜の闇をそのまま引きずってきたような、深い灰色のスーツを着た男だった。五十代半ばだろうか。整えられた白髪と、縁のない眼鏡。一見すれば温厚な初老の紳士に見えるが、その瞳は、すべてを値踏みするような冷徹な光を湛えている。「……あいにくだが、店はもう閉まった。帰ってくれ」 鉄さんが一歩前に出た。その巨大な体躯が男を威圧するが、男は動じる風もなく、懐から一枚の名刺を取り出した。「おやおや、手荒な歓迎だ。……私は市川様の代理として、こちらのお嬢様にお見舞いを申し上げに来ただけなのですが」 市川。 その名を聞いた瞬間、店内の空気が一変した。 圭さんがグラスを拭いていた手を止め、レンくんが梁の上から音もなく床へ降り立つ。三人の怪物の瞳から、日常の体温が完全に消え失せた。「……市川の使い、ですか」 私は震える声を押し殺して、男を真っ向から見据えた。 男は薄く笑うと、店内の調度品をゆっくりと眺め回した。その視線が、父が愛用していた古いシルクハットに止まる。「結さん……あなたの御父上は、実に見事なマジシャンでした。……そして、それ以上に優秀な裏切り者でもあった」「裏切り者……? 何を言って……」「彼は市川様の右腕として、多くの帳簿を管理していた。だが、彼は最後に欲を出した。組織の機密を盗み出し、それを盾に市川様を強請ろうとしたのです。……あなたが今持っているそのカード、それがその扉を開ける鍵であることを、我々は承知しています」 男の言葉に、私は目眩を覚えた。お父さんが、誰かを強請る? そんなはずがない。彼はいつだって、マジックで人を幸せにすることだけを考えていた。「嘘よ。お父さんはそんなこと……」「嘘か真実か、それを決めるのは常に勝者です。……なあ、そうだろう? 加納くん」 男の視線が、私の隣に立つ圭さんへと向けら
last updateLast Updated : 2026-05-07
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新宿事変

 新宿。眩いネオンの洪水の影に潜む、腐りかけた沈黙。  私たちは、地図の指し示す雑居ビルの地下へと足を踏み入れた。かつて演芸場だったというそこは、湿ったカビの匂いと、過去の歓声が澱んだままの重苦しい空気に満ちていた。  だが、隠し扉の向こう側は、別世界だった。豪奢なシャンデリアが揺れ、タキシード姿の男たちが無表情に歩き回る、闇のカジノ。  その最奥、ステージを見下ろす特等席に、男はいた。  市川。  父の弟子でありながら、その才能を組織に売り渡し、父を死に追いやった張本人。  彼は白ワインを揺らしながら、私たちの姿を認めると、不快なほど艶やかな声を上げた。 「――おやおや。懐かしい顔ぶれじゃないか。氷の詐欺師、壊れたイカサマ師、そして透明な小僧。……それに、師匠の忘れ形見か」「市川。……お前に、預けていたものを返しに来た」  圭さんが一歩前に出る。その瞳は、いつもの完璧な微笑を完全に捨て去り、ただ相手を凍りつかせるためだけの絶対零度を湛えていた。 「ほう。預けていたもの? 加納くん、君が私に返すべきは、組織から持ち出した機密と、君の忠誠心だろう?」「……忠誠など、一度も抱いたことはない。僕が返すのは、君が積み上げてきた『嘘』の結末だ」  一触即発の空気。周囲の黒服たちが一斉に懐に手をやる。鉄さんが私の前に立ち、巨大な背中で盾となった。レンくんは既に、影の中にその姿を消している。 「……市川。俺の指を砕いた時の感触、まだ覚えてるか?」  鉄さんの低い声が、地下室の底を這う。 「あの時、お前は言ったな。マジシャンは絶望を見せる仕事だって。
last updateLast Updated : 2026-05-08
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箱庭の怪物たち

 新宿での決戦を経て、市川という巨大な壁は崩れ去った。父が遺した謎の断片を手に、私たちはマジックバー『orange』へと帰還した。  だが、平穏が戻ると思っていた私の予想は、引越業者のトラックが店の前に並んだ瞬間に打ち砕かれた。 「お前の安全を確保するためだ。反対はさせねぇぞ、嬢ちゃん」  鉄さんの強引な号令のもと、物置同然だった店の二階は、わずか数日で洗練された居住スペースへと作り変えられた。 「護衛」という名目のもと、三人の怪物たちとの共同生活。それは、外敵のいなくなった檻の中で、より濃密で逃げ場のない「愛の包囲網」に絡め取られる日々の始まりだった。  朝、最初に耳に届くのは、重厚な足音と包丁がまな板を叩く規則正しい音だ。キッチンへ向かうと、エプロンもせずにフライパンを振る鉄さんの広い背中があった。 「起きたか、嬢ちゃん。……さっさと座れ。朝飯だ」  差し出されたのは、栄養バランスが完璧に計算された朝食。カードを配るために鍛え上げられたその指先は、今や私の健康を守るためだけに、繊細な火加減を操っている。 「……鉄さん、毎日悪いですよ。自分の分くらい自分で……」「ガタガタ言うな。お前は指先をいたわるのが仕事だろ。……ほら、手を出せ」  鉄さんは私の手を乱暴に引き寄せると、昨日マジックの練習でついた微かな擦り傷をじっと見つめた。そして、無骨な手つきで新しい絆創膏を貼り直してくれる。 「……汚ねぇ傷を増やすなと言ったはずだ。お前の手は、俺たちが守る魔法の源なんだからよ」  至近距離で響く低い声。彼の体温が絆創膏越しに伝わってくる。かつてイカサマ師としてすべてを捨てた男の、不器用すぎるほど真っ直ぐな献身。それは、重たい鎖のように私の自由を優しく縛り付けていた。
last updateLast Updated : 2026-05-09
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守護者の沈黙

「……おい、嬢ちゃん。ネクタイが曲がってるぞ」  カウンターの奥で、氷を削っていた鉄さんが手を止めた。彼は無造作にピックを置くと、大きな体で私の前に立ちふさがる。  逃げる間もなく、太い指が私の首元へ伸びた。 「あ、自分でやります……」「じっとしてろ。……マジシャンが身なりを疎かにしてどうする」  鉄さんの大きな掌が、私の喉仏のすぐ近くに触れる。荒っぽく見える指先だが、ネクタイを整える動きは驚くほど繊細だ。至近距離で浴びせられる、煙草と石鹸の混じった彼の匂い。 彼は整え終わっても、すぐには手を離さなかった。親指の腹で、私の顎をグイと持ち上げる。 「今夜は変な客がついた。……俺の視界から外れるなよ。分かったか」  それは命令に近い、重苦しい独占欲の表明だった。かつてイカサマ師として数々の修羅場を潜り抜けてきた彼の目は、冗談を言っているようには見えなかった。   客席の間を縫うように歩いていると、ふいに背筋に冷たい感覚が走った。視線を向けても、そこには誰もいない。だが、右側のポケットに違和感がある。 「……お姉さん、これ、忘れてたでしょ」  耳元で、風が鳴るような微かな声。 いつの間にか隣に並んでいたレンくんが、私の手の中に『スペードのA』を滑り込ませた。今夜の最初の一刺しに使うはずのカードだ。 「え、いつの間に……。ありがとう、レンくん」「……お礼はいらないよ。その代わり、今夜のショーが終わるまで、そのカードに僕の体温を残しておいて」  レンくんは私の燕尾服の
last updateLast Updated : 2026-05-10
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出張の影

 嵐が過ぎ去った後の凪のような、静かすぎる昼下がり。いつもなら誰かの視線が刺さり、誰かの低い声が空気を震わせているはずの『orange』の二階は、驚くほど平穏な空気に包まれていた。 「……じゃあ、行ってくるよ。結さん、留守番の間、あのアリに甘い顔をしないようにね」  圭さんが、仕立ての良いスーツの襟を整えながら、私にだけ聞こえる声で囁いた。  今日は珍しく、大規模な企業パーティーへの出張マジックショーの依頼が入ったのだ。本来なら三人の中から一人が随行すれば十分なはずだが、今回は格式高いパーティーでの心理誘導を求める圭さんと、大掛かりな舞台装置の設営を担う鉄さんの二人が指名された。 「分かってます。お仕事、頑張ってきてください」「……嬢ちゃん。変な奴が来たらすぐに俺の携帯に鳴らせ。……それから、レン。お前、分かってるな? 度を越した真似をしたら、帰ってから指の骨を一本ずつ教育してやるからな」  鉄さんが、カウンターの隅で欠伸をしていたレンくんを鋭く睨みつける。レンくんは 「はいはい、分かってるってば」  と、やる気のない返事を返しただけだった。  二人の怪物が、後ろ髪を引かれるような(正確には私を独占されることへの不満を隠しきれない)表情で店を出ていく。カチャン、と扉の鍵が閉まる音がした。  その瞬間。 室内の重力が、ふわりと軽くなったような気がした。 「……お姉さん」  背後から。耳元で、猫が喉を鳴らすような甘い声がした。振り返るよりも早く、私の腰に細い、けれどしなやかな腕が回される。 「レンくん、びっくりするじゃない」「あ
last updateLast Updated : 2026-05-11
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鳩と圭

 営業終了後の『orange』。 三人の怪物たちがそれぞれの部屋へ引き上げ、店内にようやく深い静寂が訪れるこの時間が、私は一番好きだ。 カウンターの片付けを終え、一度二階へ上がったものの、明日使う予定のシルクのハンカチをカウンターに忘れたことに気づいた。私は足音を立てないように、暗い階段をそっと下りていった。 月明かりが差し込む店内。そこには、予想外の光景が広がっていた。 カウンターの端、銀次の鳥籠の前。そこには、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を無造作に捲り上げた圭さんが立っていた。いつも完璧に整えられている髪が少しだけ乱れ、月光に照らされた彼の横顔は、人を惑わす詐欺師のそれではなく、どこか年相応の青年のようにも見える。 驚いたのは、その「行動」だ。彼は鳥籠の扉を開け、指先に銀次を止まらせていた。「……いいかい、銀次。今日の君の飛び出しは、コンマ五秒遅かった。僕の視線誘導が完璧だったから客にはバレなかったけれど、プロとしては反省すべき点だね」 圭さんの声は、私を口説く時の甘い響きとも、敵を追い詰める冷徹な響きとも違う。 まるで、幼い弟に言い聞かせるような、あるいは唯一の親友に愚痴をこぼすような、驚くほど柔らかいトーンだった。「クルッ?」 銀次が小首を傾げる。圭さんはそれを見て、ふっと口角を上げた。「……分かっているよ。君が一番の功労者だ。君がいなければ、あの傲慢な占い師のタネを奪うのはもっと苦労しただろう。……あぁ、そうだ。ご褒美に、明日は最高級の豆を仕入れておこう。鉄にバレたら無駄遣いだと怒鳴られるだろうが、あれは味覚の繊細さに欠けるから無視していい」 私は階段の途中で固まったまま、息を殺した。 あの一流詐欺師と恐れられた男が、鳩を相手にこれほど饒舌に、しかも楽しそうに喋り続けている。「……それからね、銀次。……結さんは最近、少しずつ上達している。だが、上達するにつれて、あのアリやネコが彼女に触れる口実が増えているのが問題だ。……君からも、彼女の肩に乗るふりをして、奴らを威嚇してくれないかな。……特にレンだ。あの子の手癖の悪さは、僕の計算を超えてくることがあるからね」 圭さんは銀次の頭を、細長い指先で優しく撫でた。 その手つきがあまりに慈愛に満ちていて、私は胸の奥がくすぐったくなるような、見てはいけないものを見てしまったような、複雑
last updateLast Updated : 2026-05-12
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平穏という名の戦場

 共同生活が始まって一週間。二階のリビングは、三人の『怪物』による領土争いの最前線と化していた。  一応は家事分担を決めようとしたのだが、彼らが効率や誠意を口にし始めた途端、話はあらぬ方向へと転がっていったのだ。 「結さん、今日のランチは低GIを意識したイタリアンにしてみたよ。パスタはあえて一度冷やして、レジスタントスターチを増やしてある。君の午後のパフォーマンスを落とさないためにね」  圭さんは、レストランのシェフも顔負けの鮮やかな手捌きで皿を並べた。  詐欺師としての彼は、ターゲットの生理現象までコントロールしようとする。料理の一つ一つに、私が美味しいと感じ、かつ彼に感謝するように計算された心理学的なスパイスが振りかけられていた。 「……圭さん、ただのパスタにそんなに理屈を詰め込まなくても」「おや、心外だな。君の細胞一つ一つを僕の味覚で支配したい……なんて言ったら、君はまた怖がるだろう?」  彼は優雅にワイングラス(中身はただの炭酸水だ)を傾け、私の反応を愉しむように目を細める。その完璧な微笑みの裏にある独占欲が、フォークを持つ私の指先をわずかに狂わせた。 「おい、そこを動くな。足元に埃が残ってる」  地鳴りのような声と共に、鉄さんが巨大な掃除機を手に現れた。彼の掃除は、もはや清掃の域を超えている。それは外敵の侵入を許さないための防衛線の構築だった。 「……鉄さん、そこさっきも拭いてませんでしたか?」「甘ぇ。隅のわずかな汚れが、いざという時の足滑りを作る。……嬢ちゃんはマジックだけしてりゃいい。この家の中に、お前の指先を汚すもんは一つだって残さねぇよ」  かつてイカサマ師として修羅場を潜ってきた彼は、空
last updateLast Updated : 2026-05-13
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休日プロデュース

 リビングのソファに陣取った三人の怪物が、私を品定めするように囲んでいる。窓から差し込むオレンジ色の夕闇が、彼らの影を長く、不気味に伸ばしていた。父が遺した謎を追う旅路は、いつの間にか、彼らの執着という名の底なし沼を歩く脱出不可能なマジックへと変貌を遂げていた。 「嬢ちゃん、次の休みは空けておけ。俺が最高の休養を教えてやる」  口火を切ったのは鉄さんだった。彼は分厚い手をテーブルに叩きつけるようにして、一枚のパンフレットを差し出した。郊外にある会員制のプライベートスパ。外敵を一切遮断した、完全なる防衛圏だという。 「お前の手は、俺たちが守る魔法の源だ。そんな絆創膏だらけの手じゃ、カードの滑りも悪くなるだろう。高級なパラフィンパックを無理やり予約にねじ込んでおいた。俺の前では、余計なことは考えず、ただ守られるだけの獲物でいろ」  力でねじ伏せるようなその献身は、重たいブランケットのように私を包み込み、自由を奪う。だが、その言葉が終わる前に、圭さんが冷ややかな笑みを漏らした。 「野蛮だね、鉄。君の考える休養なんて、結局は肉体の管理に過ぎない。結さんに今必要なのは、もっと精神的な充足だよ」  圭さんは優雅に足を組み、銀色に輝く招待状を私の目の前で揺らした。都心の最高級ホテル。その最上階を貸し切り、海外のレジェンドによるプライベート・マジックショーを観劇するというプランだ。 「君の視線と鼓動を、僕が完璧にエスコートしよう。喉が渇くタイミングも、驚きを欲する瞬間も、すべて僕が先読みしてある。結さん、君は何も考えなくていい。僕の描くシナリオ通りに笑っていれば、それが一番の幸せなんだから」  彼の言葉は、絹の糸で全身を縛り上げるようだ。心地よいはずなのに、気づいた時には掌の上から一歩も動けなくなっている……そんな恐怖が、甘美な香水のように漂っていた。 「…&he
last updateLast Updated : 2026-05-14
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高層階の迷宮

 結局、私が選んだのは圭さんのプランだった。 新宿での一件以来、彼の過去に触れてしまった後ろめたさと、あの時守られたことへのお礼という言い訳を自分に言い聞かせて。 だが、その選択がさらなる檻への入り口だということに、私はその時のんきにも気づいていなかった。 日曜日の午後、私は都心の五つ星ホテル『エデン』の最上階にいた。 圭さんに用意されたのは、私の肌の色を一番綺麗に見せるという、深いネイビーのシルクドレス。鏡の中にいる女が自分だとは到底思えず、私は落ち着かない手でドレスの裾を握りしめていた。絆創膏だらけの指先だけが、辛うじて私がマジシャンであることを証明している。「……とても似合っているよ、結さん。僕の計算通り、いや、それ以上だ」 背後からかけられた声は、ベルベットのように滑らかだった。 圭さんは、完璧に仕立てられたスリーピースを纏い、ワイングラスを片手に微笑んでいる。彼がエスコートのために差し出した腕。私はそれを断る理由を見つけられず、震える指をそっと添えた。 案内されたのは、宿泊客でさえ立ち入りが制限されているという、完全貸し切りのプライベート・サロンだった。 大きな窓の外には、箱庭のような東京の街が広がっている。地上二百メートルの静寂。ここでは、昨夜の雨の匂いも、街の喧騒も、すべてが遮断されていた。「……圭さん。これ、本当に二人きりなんですか?」「あぁ。今この空間で、君の五感を支配する権利を持っているのは僕だけだ。……室温、照明の彩度、そしてこのアロマの配合。すべて君が幸福を感じるように調整してある」 圭さんは私をソファへ座らせると、自分もすぐ隣に腰を下ろした。近すぎる距離。彼の洗練された香水の香りが、思考を甘く痺れさせていく。「さあ、ショーの始まりだ」 彼が指を鳴らすと、正面の小さなステージに一人の老マジシャンが現れた。 かつて父が「世界で最も美しい指先を持つ」と称賛していた、伝説のマジシャン。今は隠居しているはずの彼を、圭さんはどうやって呼び出したのだろうか。 老マジシャンのマジックは、派手な仕掛けなど一切ない、純粋な技術の結晶だった。  コインが空中に溶け、カードが生き物のように指先を泳ぐ。私はその美しさに、瞬きすることさえ忘れて見入ってしまった。「……すごい」「君ならそう言うと思ったよ。……だが、結さん。君が今、彼
last updateLast Updated : 2026-05-15
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奪還のドライブ

「昨日のありもしねぇ空想のショーなんてのは、休養でも何でもねぇ。ただの時間の浪費だ」  鉄さんが、私の首根っこを掴むようにして強引に立ち上がらせた。その手には、昨日の騒動でくしゃくしゃになったはずの、会員制プライベートスパのチケットが握りしめられている。 「おい、行くぞ。……鉄、さん? ちょっと、引っ張らないで!」「黙ってついてこい。お前の手のコンディションは、俺が管理すると決めたんだ」  鉄さんは私の返事も待たず、巨大な手のひらで私の肩を抱き込み、そのまま店の裏に停めてあった黒塗りの四駆へと押し込んだ。かつてイカサマ師として地下世界を渡り歩いてきた彼の運転は、驚くほど静かで、それでいて迷いがない。彼は鏡越しに私を一瞥し、低く、地鳴りのような声を出した。 「……嬢ちゃん。俺は圭みたいに、耳障りのいい言葉は並べられねぇ。だがな、お前のその手がボロボロなのを黙って見てるほど、俺の肝は太くねぇんだよ」  鉄さんの視線は、私の膝の上で所在なげに動く、絆創膏だらけの指先に向けられていた。 それは「護衛」という言葉の枠を遥かに超えた、剥き出しの独占欲だった。   辿り着いたのは、奥多摩の深い森にひっそりと佇む、石造りのスパだった。 鉄さんの言った通り、そこは外敵を一切遮断した、完全なる防衛圏。高い塀に囲まれ、受付のスタッフでさえも必要最低限の言葉しか発しない。  案内されたのは、森を見渡せる半露天のプライベート・ルームだ。鉄さんは慣れた手つきでテラスの椅子に腰を下ろすと、サイドテーブルに置かれた保湿用のオイルと、温められたパラフィンの入った容器を引き寄せた。 「……鉄さん? スタッフの方は?」「俺がやる。……他人に、お前の指先をベタベタ触らせる趣味はねぇ」&n
last updateLast Updated : 2026-05-16
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